第9話 西暦1914(大正三)年 十一月 其の二
椿様はコホンと咳払いすると話を始めた。
「健次郎さん、現在欧州で大規模な戦争が行われていることはご存じですね?」
「はい、もちろんです」
今年の六月から始まった欧州大戦のことだろう。
イギリス、フランス、ロシアの協商を中心とした連合国とドイツ、オーストリアなどの同盟国に分かれての大戦争だ。
「今までの日清・日露のような一国同士の戦争ではないのが今回の戦争の最大の特徴です。欧州全土を巻き込み戦線が延び、お互いに決め手を欠いている状況です。少なくとも一、二年で終わるような展開にはならない、というのが暁銀行の統一見解です」
確かにこの戦争は収まるどころか世界中の国々が勝ち馬に乗ろうと参戦してきている。両陣営の同盟国は増加し続け、収拾がつかない状況になっている。
日本もそうだ。
この八月、日英同盟に則ってドイツに宣戦布告し青島に侵攻した。
「我が国の地図上の位置関係からみて、政府は積極的に欧州に兵士を送るのではなく、後方支援に徹する方針です。実際欧州ではあらゆる資材が戦争によって消費され、不足し始めています。それらを貨物船に積み込み現地へと運びこむ、そういった物資による支援が中心になります。今も鉱山資源、繊維、木材等が我が国から欧州へ向けてどんどん輸出されています」
この戦争は間違いなく日本に利するだろう。
流す血は最小限で済み、お金は手に入る。
味方している連合国側が勝てば、これからの国際社会で有利に動くことも可能だろう。卑怯だとは思うが国益を考えれば最高の展開だといえる。
「――そして政府の後押しでそれらを担うのが海運会社です。この流れに乗ろうと彼らは船を買い集め、それらに物資を載せ、欧州で売りさばき巨万の富を得始めています。そして今度は現地で珍しい品々を倉庫いっぱいに仕入れ、再び日本へと帰ってくるのです」
椿様はティーカップを軽く持ち上げた。
「例えばこのカップとか、茶葉もそうですね。……それらがこれから我が国では飛ぶように売れるようになるでしょう」
僕は椿様の視線を追いかけるように、この部屋に溢れている舶来品の数々を見渡した。街中でカフェや洋食屋さんが増えてきたのも、それらの影響が少なからずあるのだろう。
「これから一攫千金を目指して更に多くの野心家が大海原を駆け巡ることでしょう。……もちろん私たちも含めて、ですね。その結果、今この国で起きているのは圧倒的な船舶不足です。老朽船ですら高値で取引されている状況です。おかげで造船業界も活気が出てきました。新しい船の製作、修理のため船大工たちも不足しており、それらの確保が死活問題となっています」
男ならば一度は夢みる話だと思う。
こんな僕でもお金さえあれば是非参戦したいと思える程に。
ただの居候学生にはどうすることも出来ないのは承知の上だけれども。
「――そんな中で、最近その流れを更に加速させる大きな一手が打たれました」
椿様は小さく身動ぎして座り直す。
僕もそれに倣って姿勢を正した。
「現在稼働している大型貨物船の大多数が英国や米国で製造、輸入されたものです。高額ですが高品質、そして何より一度に大量の物資を運ぶことが出来る。……まだ我が国の造船業界にそれを建造できる程の技術は無い、そう思われていたのですが……」
椿様は小さく溜め息を一つ。
「我が国最大手の銀行、その傘下にある船舶会社が国産の大型貨物船の開発に成功したのです。……それならば我々にも出来るのではないかと、他の銀行や船舶会社も続こうとしました。……暁銀行もその中の一つです。もちろん一朝一夕にという簡単な話ではないというのことは重々承知しています。――それでもこの戦争はまだまだ続くのです。逆算して、あと数年のうちにメドが立てば、十分過ぎる程に還りはあると考えていたのですけれど――」
彼女の頭は遠く離れた欧州の状況の行く先までも見通せるのだろうか?
そう思わせる程の断言だった。
「それにしても、まさかこういう形で舞いこんでくるとは、私自身、正直なところ考えてもいませんでしたね。聞けば社長の御子息の頭の中にはまだ設計図の内容がしっかりと残っているとのこと。最悪、足りない部分は私たち側の技術者と知恵を出し合えばいいだけの話です。……この一件は私たちにとって、まさに『渡りに船』といった感じでしょうか?」
「――もしかして、それで気の利いた事を言ったつもりなのでスカ? ……寒いですヨ、お嬢サマ」
沈黙を続けていたアンジュが僕の代わりに言いにくいことを言ってくれた。
それを受けて椿様は少々気まずそうに顔を伏せていたが、そのうち目の前のカステラを親の敵かのように見つめ、大きな塊ごと口に放り込み、紅茶で無理矢理流し込んだ。
そしてアンジュのツッコミなど無かったかのように笑顔で続ける。
「……一応ですが、抑えとして各新聞社に大正ねずみ小僧は大型船の設計図も盗んでいたこと、それが実は英国の最先端技術であること、もしウチが造った新型貨物船とよく似た船を発表した会社があれば、そこは大正ねずみ小僧と繋がっている可能性が高い、――という記事を書かせるよう手配しておきました」
椿様はご機嫌でフォークを振りながら一つ一つ確認するように話す。
さながら交響楽の指揮者に見えなくもない。
「懸念されていた船大工は造船所ごと確保できました。更に遅れをとっていた新型の大型貨物船の開発の手間も省けました。私たちにとって本当にこれ以上ない理想的な展開です」
彼女の目が輝いている。
ただ僕としては、急過ぎる展開についていけないというのが正直な感想だった。
「……なんか、あまりにも上手く話が行き過ぎていますね」
やっとのことでその一言だけ絞り出した。
たまたま盗みに入った先の造船所に大型船の設計図があったので、嵩張るのは承知の上でそれも一緒に盗み出した。そして実はその設計図は英国の最先端のモノで、これから莫大な富を生み出す金の卵だった、と。
そんな都合のいい話なんてあるはずがない。
初めからその設計図が狙い、そう考える方が自然だった。
椿様はそんな僕を横目でちらりと見つめ、いたずらっ子の笑みを浮かべた。
「そうですね。おそらくこれこそが大正ねずみ小僧のカラクリでしょうね」
「やはり、これは全て仕組まれたことなのですね?」
溜め息をつく僕に対し椿様は衝撃的な言葉を続けた。
「……いいえ、全てではありません。とりあえず、これで半分です」
紅茶のお替わりを淹れてきますね、と席を立った椿様は今台所にいる。
ご機嫌なのか鼻歌まで聞こえた。
そして目の前には、一点をジッと見つめているアンジュ。
どうやら僕のカステラを狙っているらしい。
仕方なく自分の皿をアンジュの目の前に滑らせた。
「おっ、気が利くようになっタナ!」
アンジュは満面の笑みでカステラを貪る。
そんな彼女に僕は問いかけた。
「なんか、僕、いまいち理解出来ていないのだけれど、要するに大正ねずみ小僧がこれだけのことを考えて盗みに入ったってことだよね?」
「……あー、少し違うカナ。これを考えた人物、もしくは組織が、大正ねずみ小僧を生み出したってことだダヨ」
アンジュがフォークを咥えながら訂正した。
「正直なところ、コレ、お嬢サマが仕組んだ話じゃナイ? って感じなんだケドネ」
とんでもないことを言い出すアンジュ。
僕は目で滅多な事を言うなとクギを刺すのだが、どこ吹く風だ。
「もちろん、そんなことないって分ってルヨ。自分の考えた犯罪を自分で暴くとか理解不能ダシ。……でもね、コレ、椿姫好みの筋書きなんだヨネ。あの人たちなら本当にやりかねナイ」
アンジュはそう呟くと、どこか冷めた目でチラリと台所の方を見るのだった。