序 とある名誉教授の遺品整理で出てきた雑記帳より
今回はミステリに挑戦です。
完全新作という訳ではなく、以前友人に見せる為だけに書いたものをリメイクしてみました。
――何故こんなことになってしまったのか?
佐伯一久は目の前の少年に気付かれないよう、こっそりと溜め息を吐いた。
もちろん誰に聞くまでもなく、彼はその問いに対する答えを知っていた。
そもそもの原因は十数年前『あの青年』を教え子に持ってしまったことにあるのだと。
彼はそれを理解していながらも、年齢の割に白髪が多くなった髪をかき上げつつ、内心で盛大に愚痴らずにはいられなかったのだ。
家柄教養容姿といった、どれか一つでも恵まれればありがたいと神に感謝するであろう要素をことごとく手にしつつ、それでもまだ満足する気配を見せないあの青年。笑みを絶やすことなく、それでいて人をこき使うことを躊躇わない。
たとえ相手が恩師である佐伯であっても、容赦はしなかった。
ことあるごとにサロンとやらに引っ張り出されては「何か面白い話はありませんか?」と上流階級の人間の前で話すことを要求する。
そんな青年のおかげで栄えある帝大の教授の席に座ることが出来たことは彼も認めていた。――それも異例の若さで。
潤沢な研究資金も手に入れることが出来た。
周りの者がいいパトロンを捕まえたものだと陰口をたたいていることも知っている。あの青年がそんな出自の者だと知っていたならば、自分が熱心に教えたものを、と。
佐伯教授は間違いなく恵まれた環境にあった。
それでも彼は何度目かの溜め息を吐かざるを得なかったのだ。
――全くあの青年に関わるとロクなことにはならない。
「……先生、どうか助けてください」
――私も、半分涙目になりながら平身低頭で嘆願するこの少年も。
聞けば今まで格安の下宿先で厄介になっていたものの、立ち退きになってしまったのだと。
現在帝都では恐ろしい速さで区画整理がなされており、古い建物などはどんどん壊され建て替えられている。
この東京は近代国家大日本帝国の首都として衣を新調しつつあった。
彼の住んでいた場所もそれに巻き込まれたということらしい。
実家の仕送りでやっていけるような家はそこしかなく、いろいろ伝手を頼ってみたが、どうも芳しくない。
こうなれば最後は上野公園の住人になるかと覚悟を決めたのだが、仮にも帝国大学の人間がそれではいけないと友人に諭されたそうだ。
何より雨露をしのげないと彼の唯一の財産とも言える本が傷む。
いよいよ本格的に頼る相手がいなくなってきて、授業で世話になっているという程度の伝手でも藁にも縋る思いで佐伯を訪ねてきたのだと言う。
「だから泣くなと言うに! それでも大和男児か!」
思わず彼は怒鳴ってしまう。
まだあどけない顔つきの少年は驚いてビクリと身体を跳ねさせると、唇を噛みしめ涙をこらえる。
自分は嗜虐的な性癖は持っていないが、その筋の人間からすればたまらないのかもしれない。
だからこそあの青年――橘征之に目を付けられたのだろう。
佐伯はすでに知っていた。
これは全てあの青年によって仕組まれた話なのだと。
区画整理の件からして、そもそも彼が意図して動かした話なのだと。
彼によってこの生徒は佐伯の元へと誘導されたのだ。
ヒトをおもちゃにすることが好きな、あの青年らしい余興なのかもしれない。
その割には随分と悪質で大掛かりだし、何より青年自身の命よりも大切にしている『彼女』を巻き込んでいることにも違和感がある。
――おそらくこの国の裏の世界では何かが動いているのだろう。
しかしながら帝大教授ごときの末端である自分には知る由もないと、彼は何度目かになる溜め息を吐くのだった。
佐伯が溜め息を吐く度、生徒が身を竦ませた。
もちろんこの少年自身が彼を苛立たせている訳ではないのだが。
そんな姿を見て居たたまれなくなった彼は、普段は使わない筋肉を使って慣れない笑みを浮かべながら少年に告げる。
「理解はした。もうこの私しかこういうことで頼れる人間がいないということもね。――その割にはここにくるまで時間がかかったものだ」
その問いかけに対して少年はまっすぐな目で佐伯を見つめる。
意志の強さを感じさせる表情に佐伯は少しばかり驚いた。
か弱いだけの人間かと思っていたが意外と芯の強さがあるものだ、と。
「申し訳ございません。今までずっと帝都中の物件を見て回って家賃交渉をしていました。自分で出来るだけの手を打ってから最後の最後で先生を頼らせて頂こうかと。……最初から誰かの助けを求めるのは恥ずべきことだと親から教育を受けておりますので」
「……あぁ。……君のそういうところは美徳だね。立派に育ててくれたご両親に感謝するといい。――だけどこれ以上私の胃痛のタネを増やさないで頂けると助かるな。ヤキモキさせないでくれるとありがたい」
「……ヤキモキですか?」
「いや、それはこっちの話だな。気にしないでくれ給え」
佐伯は咳払いし、まず、机の上にある葉巻に火を付けてからゆっくりとそれを味わう。これもあの青年の差し入れだ。
――何卒上手く取り計らって下さい、と一言添えて。
「さて、こんなこともあろうかと、君の為に下宿先を探して置いた」
「えッ? ……本当ですか!」
「あぁ、風の噂で君が困っていると聞いていていたからね。こんな私にも何か出来ることがないかと思っていたんだ」
感極まったような少年の真っ直ぐな眼差しに、佐伯の良心が痛む。
それでも彼は笑顔を崩さないまま、予め机の上に置いてあった書類と地図を少年に手渡した。
「かの宮原家が君を迎え入れてもいいと言ってくれてな」
……宮原家。
軍閥としては少しは名の知れた一族だ。
そしてあの青年、橘征之――旧姓宮原征之の生家でもある。
「……あの、その、大変ありがたいです。……ですけれど、あの一つだけ、確認させてもらってもよろしいですか?」
少年は喜びと不安をない交ぜにした表情で佐伯に問いかける。
佐伯自身、目の前の少年が何を聞きたがっているのか気付いていたが、敢えてとぼけてみせる。
「何かね? 構わないよ、何でも聞いてくれ給え」
少年は大きく息を吸うと、意を決したように尋ねる。
「その……本邸の方でしょうか?」
佐伯はふぅっと煙を吐き出す。そして今日一番の笑顔を見せた。
「いいや、離れの方だ」
宮原家の広大な敷地内に『椿荘』という名の一軒の洋風建築が建てられているのは帝都に住まう人間ならほとんどの者が知っているだろう。
――その屋敷の女主人の名前とともに。
その女性の名は椿。――宮原椿。通称椿姫だ。
宮原といえば『軍閥宮原家』ではなく、あの宮原椿の実家として有名だった。
彼女の悪名は帝都中に轟き、留まることを知らない。
曰く、素行不良が原因でわずか一年で嫁ぎ先から離縁状を叩きつけられた。
曰く、美しい容姿や恵まれた家柄、抜群の教養それらを兼ね備えておきながら、その全てを台無しにする程性格が醜い。
曰く、あまりの悪評のせいでどれだけ父親が持参金を積もうが、次の縁談が一向にまとまらず早十年の時が過ぎ去った。
曰く、屋敷の女中に無理難題を吹っかけて苛め抜いている。
曰く、椿荘に引きこもり会いたくないときは誰とも会わない。
最大の庇護者である実兄でさえも例外ではない、と。
――そう、彼女は橘征之の妹だった。
「君を書生として迎え入れてもいいと。暇つぶ――んッ、……相談相手を望んでいるそうだ」
佐伯は慌てて言葉を飲み込み、咳払いして誤魔化す。
それでも目の前の少年は何を言いかけたのか十分理解出来た様子で、さらに顔を青ざめさせていた。相談相手などという嘘くさい話は流石に信じられないだろう。
あれだけの悪評があろうとも、頭脳の明晰さだけは誰一人としてケチをつけられないのだ。かの宮原椿が帝大生とはいえ一介の書生に、何を相談したいことがあるというのか。
しかし、ここでこの話を流されてしまっては困る佐伯は、出来るだけ優しい表情を作って少年を宥めにかかる。
「いやいや、よく考えてくれ給え。君にとってこれ以上のいい条件の場所は他にはありえないだよ? 下宿の為の金は要らない。おまけに食事まで付いている。更に古今東西の書物が豊富に揃えられている書庫を自由に使ってもいいという話だ。……なぁ、最高の環境だろう?」
そもそも椿荘は書庫として建てられたものだった。
宮原椿の豊富な知識を下支えする為の。
佐伯本人も機会があれば是非お邪魔したいと思っていた程だ。
おそらくその機会は一生訪れないだろうが。
彼自身椿姫に関わるつもりはないし、彼女の方も他人を屋敷に立ち入るのを極端に嫌うという話だ。
兄である征之の紹介状でも手にしない限り玄関にも入れてもらえないだろう。
そんな伏魔殿に目の前の少年を迎え入れようとしているのだ。
宮原家――いや、あの『兄妹』にどんな心変わりがあったのか?
一方少年は迷っていた。
椿荘の住人か、それとも上野公園の住人か。
はたまた別の誰かに当たって世話をお願いするのか。
悩みに悩んだ末、少年は椿荘でお世話になることを決意し、それを告げる。
少年は俯いていたので見てはいなかったが、そのときの佐伯の笑顔はこの上なく清々しいものだった。
かつて教え子だった青年、橘征之が見ていたとしたら腹を抱えて笑っていたに違いない。
難題が解決したにも関わらず、しょんぼりと部屋を出ようとする彼の背中を見つめていた佐伯は、何かに耐え切れなくなったのか、思わず声をかけた。
「……何かあれば、必ず私が相談に乗るから、是非この部屋を訪ねてほしい。君の人生に幸多からんことを。――本庄健次郎君」
名前を呼ばれた少年は浮かない顔のままでも、世話になった彼に対して丁寧に一礼し部屋を後にした。