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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

譲って、先取れ 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 ああ、起きていたのかい? やけに部屋が明るかったら、てっきり明かりをつけっぱなしで寝ちゃったのかと思ったよ。

 今、午前の四時過ぎだよ。「もう四時」なのか「まだ四時」なのかは、そっちの判断に任せるけど。もし後者だったら、お年寄り一直線だねえ。

 お年寄りが早く起きちゃう理由って色々あるみたいだけど、必要な睡眠時間が少なくなるうえに、眠りが浅くなるのが大きいと聞いたよ。

 我々なんて、出勤という起床時間強制のイベントがあるからねえ。ずるずる起きていると、睡眠の少ないご老人と同じになるというわけだ。しかも日中眠くなる。

 よくあるだろう? バスとか車とか電車とかで揺られると、ついついまぶたが重くなって、うつらうつらしちゃうことが。お年寄りに席を譲れと言われたって、こちらも眠いんだから一方的に責められてもなあ、と思う。

 ところがね。老人に席を譲れという言葉、実は長く生きた人を労わる以外にも意味が存在したんだ。

 ちょっとそれに関する、風変わりな事件をお伝えしようか。


 発端は一九六〇年代の半ば。あちらこちらで、バスが主要な交通手段になっていたころ。

 ある日の未明。ベッドタウンのはずれで、ひとりの浮浪者の死体が発見された。外傷は喉元に開けられた、硬貨ほどの大きさの穴のみ。検死が行われたところ、この傷は喉の奥の頸椎にまで及んでおり、そのダメージによるものと考えられたんだ。

 何か長いもので、喉を一突きされた。素人目にもそう判断できたものの、手掛かりが少なすぎて、犯人を捕らえるまでには至らなかったらしい。


 そのことがあってから、よく似た殺人事件が一ヶ月に一回という頻度で、その町近辺で起こることになる。被害者は子供から大人まで、区別がなかった。そして同じように硬貨が一枚、すっぽりと入ってしまうような大きさの外傷と、そこから流したと思しき出血を残して、生き残った者の頭を悩ませるんだ。

 凶器の類もなかなか断定できない。傷口はその縁を見る限り、不ぞろいで不細工に円がゆがんでいる。鋭利なものではないのでは、という検討はついたが、決め手がなかなか出てこない。

 しかし、地図を広げながら事件のあった場所を見直していた巡査のひとりが、ある共通点に気がついた。

 この町の中にはバス停が五つあるのだが、今までの事件の現場は、そのいずれかのバス停から半径二百メートル以内。

 更に死亡推定時刻に関して確認してみたところ、バス停がバスに到着してから、いずれも五分以内。このあたりのバスは、およそニ十分に一本と、そこまで頻繁にやってくる本数ではない。

 犯人は、バスに乗って移動しているのではないか。それが思い浮かんだ、一つの仮説だった。

 

 それからほぼ毎日。ローテーションで私服姿の警官がバスの中に乗り込み、不審人物などがいないか確かめるようになった。パトロールの一環、という名目だったらしい。

 昼夜を問わずに乗り込んだが、ベッドタウンという性質上か、朝と夕方は労働者と思しき男たちがすし詰めになっているが、それ以外の時間だと割と閑散としていることが多く、まばらに客が乗り込んできて、思い思いに降りていく。そんな平々凡々とした運行に居合わせることが、大半だったらしい。

 起こる事件の頻度はさほど変わっておらず、バスが実は関係ないのではないかという説も出始めた。バスに乗るよりもバス停近辺を巡回し、どうにかして犯行現場を押さえることの方が大事だ、と。

 それでも言い出しっぺの巡査は、できる限りバスに乗り続けた。運賃に関しては自腹を切りながら。

 きっと自分の推論は合っている。そう信じて、通常の勤務をこなしつつも、朝早くから夜遅くまでほぼ毎日、何本もバスに乗り続けた彼は、二ヶ月が経つ頃にはもうくたくたになっていた。


 朝の四時過ぎ。薄暗い電灯が照らすちゃぶ台の上に置かれた、おにぎりをもしゃもしゃと頬張る巡査の息子に対して、母親が声を掛けた。

 すでに還暦を過ぎていて、髪の中にずいぶんと白いものが目立ち始めている。


「あんた、最近バスによく乗っているんだろ? 席がいっぱいになることはないかい?」


「まあ、ときどき」

「そんな時には、ちゃんとお年寄りに席を譲ってあげるんだよ。長く生きているんだから、いたわってあげなきゃ。つかれやすいからね」


「分かってるよ。秩序の番人。警察官、なめるなって」


 ウソだ。

 最近は疲れが溜まると、どうしても席でぐったりしてうたた寝をしてしまう。車内が混んできたとしても、その様子を見ることなく、眠りに身を任せがちだ。

 俺は疲れている。それが何にも勝る正当な理由であり、免罪符。

 席を譲ってもらえて当然、という態度を取る傲慢なご老人を何人か見かけたことがあって、「調子に乗ってるんじゃない」と内心で腹が立ったことも一因だった。

 

 巡査が調査で乗る路線の始発バスは、たいてい終点まで席がいくつか空いているのだけど、その日は全行程の半分を過ぎた時には、すでに席がすべて埋まってしまっていたんだ。

 巡査の彼は右前輪のすぐ後ろにある、一人掛けの座席に腰を下ろしていた。連日の遅寝早起きの賜物で、腕を組みながら、半分居眠りをしていた。

 そして終点の三つ前。バスが停まり、新しい乗客が乗り込んできたんだ。彼は身体を動かさず、薄目を開けてその姿を確かめる。

 登山帽にリュックサックを背負って、背中が半分近いところで曲がっている老婆。母親よりもお歳を召している印象だった。彼女はバスが動き始めても留まることなく、手すりやつり革を支えにしながら、後ろの席から前の席。前まで行ったらまた後ろ、とよたよたしながら往復し始めたんだ。

「席を譲っていただけませんか」。暗にそう訴えていた。だが、何度も繰り返されれば、それはお願いではなく催促だ。いい気分はしてこない。

 彼は相変わらず、狸寝入りを続ける。他に居合わせた全員も同じような魂胆なのか、眠る以外にも本を読んだり、相方とおしゃべりをし続けたりして、できる限り、よたよたと車内を歩き回る老婆と、目が合わないようにしていた。


 そして、バスはいよいよ終点へ。

 結局、老婆は席に座れることなく、立ちんぼ。運賃箱の近くに陣取ることになった。その地域では、運賃は後払いだったんだ。

 終点が近づくにつれて、他の客たちも降り支度をゆったりと始める。あたかも、その老婆の存在を、まったく認識していなかったかのように。

 やがてバスは、完全にその動きを止める。プシューンと音を立ててドアが開き、椅子に座っていた乗客たちが、ぞろぞろと動き始めた。今度は、先頭を切ることになるであろう老婆を、急かすかのごとく。

 かの巡査も、さすがに悪いことをしたかと思い始めた矢先、ふっと視界を何かが横切った。

 とっさに判断がつかなかった。蚊やハエくらいだったかもしれないし、ピンポン玉くらいだったかもしれない。

 それが、車両全部の出口に向かって飛んでいったんだ。ちょうど、お金を払い終わった老婆が、地面に降り立ったのとほぼ同じタイミングで。

 老婆の曲がっていた腰が、ピンと伸びた。そしてバスを振り返ることなく、真っすぐに走っていったんだ。ロータリーを突っ切り、駅とは反対方向に広がる通りに向かって。

 その足は、先ほどまで車内をよたよたとさまよっていたご老体とは思えないほど、しっかりとしたものだった。

 乗客の一部は、その変わりように、足を止めてその背中を見送る。けれども、自分たちにも用事があるのだ。

 停滞したのは、わずかな間だけ。巡査も含めて、みんなは方々へと散っていった。

 

 ほどなく巡査の彼の元に急報が入る。

 被害者が出た。だが今回は、現行犯を押さえようと巡回していた別の巡査が、たまたま現場に居合わせたんだ。

 下手人は、老婆。登山帽にリュックサックを背負っていて、向かいから歩いてきた通行人の一人が、彼女とすれ違おうとした時。

 老婆の親指が、通行人の喉を突いていた。その瞬間を遠目に見た巡査も、何が起こったのか、一瞬分からなかったらしい。それほどの早業だった。

 被害者は声ひとつあげることができないまま、その場に崩れ落ちる。そして老婆は巡査の発する制止の言葉に耳を貸さず、地面からその脇のブロック塀。ブロック塀から家の屋根と、次々に身軽に飛び移り、あっという間に見えなくなってしまったとのこと。

 すぐに救急車が呼ばれ、すでに被害者は病院に運び込まれている。詳しいことを聞くため、今はその経過待ちだった。

 後日、一命をとりとめた被害者から話を聞いたが、あの老婆に今まで会ったことはなく、誰だか分からないという。最終的に、同じバスに乗っていた彼の証言に基づいて、人相書きが作られて手配されたものの、その尻尾を掴むことはできなかった。

 

 かの事件を聞き、巡査の母親は顔を曇らせる。


「あんた。もしかして、そのバスで席を譲らなかったね」


 巡査が苦々しげに顔を背けると、母親はため息をついた。


「言ったろう。歳をとると、みんなつかれやすいんだ。あらゆることに対してね。一番手には、色々なものがつきまとう。危険と、時には、それ以上に恐ろしいものが。だから若い者が先陣を切らねばいけないんだ。若いもんの命は、強い。席を譲れっていうのは、あんたが先に動けるようにさ。それが結局は、あんたを守るんだ」


 それから巡査は、極力、席をご老人に譲るようにし、乗り物からは真っ先に降りるようにしたらしい。

 彼は今となってはもはや現役を退いたけど、それまでの数十年の間。降りようとする自分の頭に、「こつん、こつん」と何かがぶつかる感触を、何度か覚えたらしいね。

 そして今は、彼が後輩たちに道を譲っているという話だ。何より、自分と彼らを守るためにね。



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