第4階層、魔術の師匠は人外です。その1。逃げ出したはずが……。約8500文字。
ガンダキア迷宮というのは、僕が頭に思い描いていた迷宮とはだいぶ違う造りになっている。
大概の読み物で迷宮と言えば、『地下に向かって広がるアリの巣のような洞窟っぽい迷路』を想像するだろうけど、異世界ド・メルタに唯一あるこの迷宮は、そういうのとは全くの別物なのだ。
降り口が地下へと向かう構造であるため、便宜上、フリーダでは迷宮に潜るという表現を使っているが、なにも街の真下にアリの巣のようなダンジョンが広がっているわけではない。
まず正面大ホールにある地下への入り口を降りると、白く煙る鏡面のような、境界の曖昧な場所があって、そこへ踏み込むといわゆる『~階層』と呼ばれるダンジョンの基部、モンスターの出てくる場所へと到着するのだ。
なんでもこれはその昔、この世界で一番お偉い神さまが、人間がモンスターを倒しやすくなるようにと、ド・メルタのモンスター大量発生地域を、レベル順になるよう適正化して、空間同士をくっ付けたからとのこと。
要するに、あっちこっち行ったり来たりするのは面倒だから、調整しましたということなのだろう。面倒臭がりなあの神さまらしいといえばらしいが、まあこの世界の人々にすれば、こうやって稼ぎやすい形にしてもらえたことで大いに助かっていると思われる。
階段を下りてすぐ下なら、害獣駆除や兵役でもしていれば何とか潜れるような『大森林遺跡』があり、そこのモンスター発生区域外付近になると、また別の階層へ向かう境界の曖昧な白い霧がある。そんな具合に別地域同士が繋がっており、いまのところどれだけ階層があってどれだけ強いモンスターがいるかというのは、繋げた神のみぞ知るということらしい。
だから、地下に降りたはずなのに、陽の差す青々しい森が広がっているという矛盾が、こうして成り立っているのである。
――ともあれそれは、ガンダキア迷宮、迷宮深度5『大森林遺跡』で、草むしりに精を出していたときのことだ。
目当ての草は根っこまで引き抜いて、土を払ってまとめて丁寧に保管する~。という薬草取りの基本のフレーズを鼻歌混じりに歌いながら、むしっむしってむしっていると、それは姿を現した。
「へ?」
不自然な影がかかったのを怪訝に思い、見上げれば、醜悪で超怖い顔。ここガンダキア迷宮の強面ナンバーワンモンスター、泣く子も怖すぎて気絶してしまう『醜面悪鬼』さんがいた。
――え? 醜面悪鬼? なんで? なんで醜面悪鬼がこんな低階層に?
そんな疑問を口に出す暇もなかった。
「GUAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
「ぎゃあああああああああああああああああ!?」
前者の雄叫びは、くだんのオークのもので、後者の悲鳴はもちろん僕のものだ。比較的安全な場所で安心しきってむしりまくっていたところ、突然茂みの中から醜悪で恐ろしい顔面が現れ、巨大な雄叫びを上げだしたのだ。そりゃあ驚くのも無理ないでしょ。おしっこちびる。
「GUAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
「ちょっと! なんでぇ!? どうして!? どうして醜面悪鬼なんがここにいるのぉおおおおお! おかしい! おかしいでしょぉおおおおおおおおおお!!」
「GOGYAAAAAAAAAAAAAAA!!」
「うっぎゃぁああああああああ!! ちょ、ちょっと、追っかけてこないでぇえええ!!」
ものすごい俊敏さで追いかけてくる醜面悪鬼に対し、半泣きになりながら全速力でダッシュし逃げる。逃げまくる。半泣きなのはもちろんびっくりさせられたせいだ。心臓バクバクである。もともと臆病者なんだから仕方ない。僕の心臓はノミサイズ、材質はガラスなのだ。びっくりしたら反射的に逃げてしまう。
「くっそぅ……なんで、おかしいでしょ? なに? はぐれなの? はぐれてここまで上がって来たの? うそでしょマジありえないんですけどっ!」
文句をいくら垂れ流しても、醜面悪鬼が背中を追いかけてくる事実は変わりない。彼にとって僕は倒さなければいけない敵なのだ。個人的に恨まれるようなことは一切していないのだけど、人間は敵、殺害対象、ぜってーボコすというのがDNAレベルで刻み込まれているのだから、ほんと迷惑なことこの上ない。
――醜面悪鬼。それは迷宮深度30『赤鉄と歯車の採掘場』で徘徊する、いわゆるコモンの部類に入るモンスターだ。
オークとは呼ばれているが、ここに出てくるものは昨今よく連想されるPCゲームに出てくるような女性の天敵である豚鼻の怪物ではなく、指輪物語に出てくるオルクスのようなオークである。醜悪で恐ろしい顔面。毒さながらの臭い息。筋骨隆々とした身体と、その大きな体躯に似合わないほど俊敏な動き。巨大なこん棒で瞬く間に人間を叩き潰すマジ怖い悪鬼である。
『赤鉄と歯車の採掘場』ではコモンの通り普通扱いだが、もちろん低階層で活動する初心者冒険者には強モンスターとされ、出会えばまず助からないと言われている。無論、このレベルの低い階層である大森林遺跡では決して出てこない、出てきてはいけないモンスターさんだ。
「落ち着け、落ち着け僕……ちゃんと対処すれば大丈夫大丈夫……」
全力疾走中、醜面悪鬼からは逃げられなくてもなんとかパニックからは逃げおおせることに成功し、徐々に冷静な思考が戻って来る。
出会いがしらでびっくりさせられたが、もちろんレベル33の自分に倒せない相手ではないのだ。半泣きになったのも全力ダッシュで逃げたのも、全部醜面悪鬼の顔が恐ろしかったせいなのだ。もちろん僕はお化け屋敷大嫌いである。
ともあれ、追いかけっこの最中、ぶつぶつと呪文を唱える。
「魔術階梯第三位格! 雷迅疾走!」
発動した魔術は、迅雷の如き移動術、雷迅疾走。術者の速度を格段に引き上げる属性魔術だ。雷のような直角な動き、落雷がひらめいたときような速度、飛び散る火花。それをもって、瞬時に醜面悪鬼の背後へと回り込む。
ずざざざっと、靴裏で地面を掻いて、巻き上げる土煙の代わりにあふれんばかりの火花をまき散らし、背後を取った。
醜面悪鬼が気付いたときには、もう遅い。
「魔術階梯第二位格、浸透せし遠雷の顫え!」
無防備な醜面悪鬼の背中に、魔法陣が展開された掌底を撃ち込む。そこを起点に醜面悪鬼の身体の中に電流と震動が伝わり、稲妻と共に吹っ飛んで木にぶつかった。
木にものすごい速度で衝突した醜面悪鬼は、当然ピクリとも動かない。というか動くなし。止まれ。生命活動停止しろし。というかまず生物として手加減なしの電流が流れた時点で死ななきゃおかしいから。
「はぁー、はぁー、はぁー!!」
肩で荒々しく息をする。そして、
「ほんと勘弁してよ!! ここって初心者大歓迎の大森林遺跡だよ!? なんで採掘場のオークなんて出てくるのさ!! バカじゃないのびっくりして心臓とまりそうになったじゃないか!! こわっ!! ほんとこわっ!!」
肩を抱いてひとしきりどうしようもない事象に八つ当たりをかましたあと、何となく気になって証明書を見る。
――証明書。これまで手に入れた経験値と撃破したモンスターの数が数値化されて記載され、自分のレベルも載っているという不思議な金属板だ。大きさはカードゲームのカード程度のもので、黒く縁どられたちょっと洒落っ気のある作り。この世界の人間は、生まれたときに一人の例外もなくこの証明書を神様から贈られるらしい。どういうシステムなのかはちゃんと調べていないし神さまに訊いていないのでよくわからないけど、自分もこの世界に来る前に出会った神さまにこれをもらい、それとなくどういうものなのかを軽く説明してもらっている。
ちょっとゲーム的な感じだが、神様のおじさん――紫父神アメイシス曰く「人間、明確な数値が出た方がやる気出るでしょ? 僕たちも世界を持続させるためにモンスターは倒して欲しいしさ。これが一番かなーと思ってねー」だそうだ。ほんと軽い。
確かに、自分みたいなレベリング大好き、明確な数値の向上大大大好きな人間には、効果覿面だろう。この世界の人間にとっては日常化され過ぎて、そこまで意欲にはつながっていないらしいようにも思うが、まあそれは個人差だと思う。
カードを見ると、ちょうど数値が更新されるタイミングだったらしく、撃破数が増えていた。
「ま、まあ僕の経験値になってくれたから、良しとしようじゃないか、ふふふ」
経験値が増えて明確に数字となって出て来れば、それは嬉しい。僕は現金なのだ。しかたない。だって人間だもの。
それよりも、いまは気にしないといけないことがある。
「誰か醜面悪鬼にやられてないよね……」
そんな不安を口にしながら、辺りを見回す。ここは低階層。初心者や低レベルの冒険者もまだまだ多くいるガンダキア迷宮でも比較的安全な場所だ。醜面悪鬼なんかと接触すれば、まず命はない相手は死ぬ。だが幸い醜面悪鬼が出てきた場所へ戻っても、自分みたいなお気の毒な被害者はいなかった。
ともかく受付にでも報告しに行かなければと、オークの身体の一部を切り取り、『大森林遺跡』から脱出するため、曖昧の境界な白い霧の鏡面……もとい境界の曖昧な鏡面のような白い霧へ向かい、受付窓口を目指す。
低階層の森の中で平和そうに採取したり和気あいあいと冒険したりしている人たちに切り取った耳を見せて回っては驚かしつつ注意を促し、ダッシュダッシュダッシュ。キックはしないでひたすらダッシュ。レベルが33もあれば、どれだけ全力疾走しても大概へっちゃらだ。ド・メルタに来る前は考えられなかったような話。きっとこのままこつこつレベルを上げればサッカーはおろかオリンピックで優勝できるだろう。
ここはド・メルタ、筋トレとか体力づくりとかをしなくても、敵を倒すだけで強くなるという超理不尽な世界なのだ。なんでも倒した相手の力が、因果の糸によって自分に注がれるとかいうよくわからない現象のせいで強くなるらしい。もちろん筋トレや体力づくりをしていればその分強くなるのだが、僕は魔法使いなのであまりそういったものとは相性が悪い。魔法使いという性質上、そんなことをするなら魔力を上げて、魔術でドーピングすればいいんだよバーカとか言われたし。師匠に。ひどい。
とまれ、五キロ近く走っても疲れ知らずで余裕で冒険者ギルド正面ホールへ到着。過度に広い正面ホールはいつものように賑やかで、ちょうどお昼時でもあったためか、二百席以上あるテーブル席はすでに満席だった。
酒を飲んだり、マズい食事を無理やり腹に入れたり、無事迷宮から戻って来て宴会したりと、みんなそれぞれやっている中、窓口へと向かう。
「アシュレイさーん! 超激ヤバ情報でーす!」
「あら、どうしたのクドーくん。さっき潜ったばっかりじゃない」
「ちょっとこれ見てよこれ、奥さんどう思います?」
そう言って、ちょうど手すきで暇そうにしていたアシュレイさんに、例のブツを見せる。
「……? オークの耳よねこれ? これがどうしたの?」
「いまさっき大森林遺跡で倒してきました」
「それ、マジ……?」
「マジマジ、ちょうマジ。じゃなきゃこんなのここにあるはずないし」
「そ、そうよね……」
アシュレイさんの表情がみるみるお険しくなる。そりゃあ低階層にこんなモンスが出て来ればただ事ではない。冒険者が死ぬ確率がグンと増える。
「ねぇクドーくん、他にはいなかった? 一体だけ?」
「僕が見たのはこれだけです。たぶんただのはぐれなんだと思いますけど……一応、報告だけはと」
「ありがとう。見つけたのがクドーくんで良かったわ」
「よくないですよ。心臓止まりかけましたですよほんと」
自分のびっくり加減を伝えようとしたけれど、何故かアシュレイさんにはうまく伝わってなくて、
「どうして? 倒せる相手なのに怖いの?」
「倒せる倒せないとか問題じゃないんです。顔が怖すぎるんですよオークって」
そう言って、どこかのお笑い芸人よろしく鬼瓦をやって見せる。事実、オークの見かけたとき、ととても情けない声を上げてしまったくらい、出会いがしらは怖かった。我ながら臆病をこじらせすぎていると思う次第であるが、怖いものは怖いのだからしょうがない。略して怖しょである。
しかし、アシュレイさんはいまいちピンと来てないらしく、
「そういうもの?」
「一度アシュレイさんも採掘場行ってみればいいんですよ。あいつら怖い顔してうろついてますから」
「私冒険者じゃないから無理よ。迷宮になんて降りれるわけないでしょ? というかそれよりも……」
アシュレイさんはそう言って、備え付けの大きなベルを鳴らす。頭がガンガンするくらい強烈な警告音が冒険者ギルド正面ホールに鳴り響いた。
「迷宮深度5『大森林遺跡』でオーク発見の情報です! 低レベル冒険者は安全が確認されるまで迷宮潜行を控えてください!」
さて、これで良しである。ギルドの対応は早いから、すぐに手すきの高ランク冒険者が集められ、捜索に出され、安全が確保されるだろう。
「ねー、クド―くんにも偵察の協力して欲しいん……あれ?」
アシュレイさんは猫撫で声を出して振り向くが、そこにはすでに僕の姿はないのである。
「あ~の~子~は~!」
九藤晶。危険なことは大嫌い。モットーは安全第一。
●
時間は夕方。学校帰りに迷宮に来て、潜って、醜面悪鬼と出くわしてだから、それほど時間は経ってない。
冒険者ギルドを逃げ出してきて、いまは大通りを歩いている。折角楽しみに来てるのに哨戒で時間を潰されるのは、正直不本意極まりない。遊びに来ているのだから遊ばせろという感覚だ。その間に人のためになりそうなことをするのは全然構わないけど、積極的に人のためになることをしていたらまず身が持たないし。
とまれ脱出した先、迷宮入口へと続く大通りはいつも通り賑やかだった。冒険者向けにいつも屋台が出ているため、呼び込みやらなにやらもあって基本毎日大盛況。ほとんど二十四時間、どこかしらの店が開いているため、冒険者にとても優しい。
そんなところを歩きながら、
「――あーやだやだやだやだー。なんで迷宮深度30強のところに出てくるモンスターの哨戒に出なきゃいけないのさ。そういうのはそこに出てくるモンスターを片手で捻り殺せるくらいのむっちゃ強い冒険者さんたちにお願いしてよほんと」
正直な話、レベルの高いモンスターとは用意もなしに戦いたくはない。迷宮探索で最も重要なのは準備だ。事前の準備あってこそ、安全に潜れるのである。それが僕の迷宮探索における持論であり、単独冒険者が思い付きで潜るなんてそれこそ愚の骨頂。
迷宮とは、日本で、ド・メルタで、アイテムをしこたまかき集めて初めて、潜っていい場所なのだ。
「うーん、でも今日はどうしようかなぁ。出鼻挫かれたし、家帰ろうかなー」
そう言いながら路地へ入り、日本への転移ポイントである紫父神アメイシスの像のある場所へ行こうと思った矢先だった。
背後に濃密な魔力の気配を覚え、そろーりと振り返る。すると、西日に照らされて伸びあがった自分の影が突然動き出したのが見えた。
「うえぇ……」
思わず呻いてしまう。
動き出した影は、女性のシルエットへと変化し始めた。腰まである長髪、細面の輪郭、身体は艶めかしい丸みを帯び、最後に全体が黒い靄に包まれた。そしてそのまま立ち上がる。
……嫌な予感がビンビンだった。いや、予感も何もこれが現れると確実に大変ことがある。
「今日はほんと厄日だよう……」
慄きながらボヤいていると、靄をまとった立体的な影という不可思議な存在は、赤い片目を光らせて、少女の声を響かせる。
「おいアキラ。元気か?」
「あ、晶って誰ですかね? 僕はフリーダの善良な市民であるクドーというもので……えへへ」
ミゲルに似合わないとか大根とかこき下ろされた揉み手をしながらスライド移動で去ろうとするが、当然効果はない。黒い影は呆れた様子で、
「そんな話で煙に巻けると本当に思っているのか? 相変わらず不意打ちに弱いなぁおまえ」
「うう、師匠……」
そう、いま目の前にいる影こそが、異世界ド・メルタに来た自分に魔術の使い方を教えてくれた、魔術の師匠なのである。年若い女性――というよりは少女に近い声を持つ、黒い靄をまとった影であり、モンスターなのか、悪魔なのかは全く分からない不思議な存在。だけどその実力は折り紙付きで、あまり戦っているところは見たことはないけれど、これまで遭遇したどんなモンスターでも一瞬で倒してしまっているとかいう超人外、僕の知る限りド・メルタにおける最強キャラの一人である。
それだけなら……そう、それだけなら、すごくいい人なのだが、
「……あの、今日はどうしたんですか? またイジメですか? もう僕は自分のレベルに合わない階層には行きたくないんですけど……」
「いじめとは心外だな。わたしはお前のためにやっているんだぞ? ん?」
「嘘つき。全部自分のためじゃないですか……」
「くくく」
影の口元が愉快そうに引き裂かれる。
「それになにをいまさら嫌がってるんだ? 私が魔術のいろはを教える代わりに、お前は私の頼みを聞く。そういう契約だったじゃないか?」
「そんな契約してませんし! いつそんな話になったんですか!?」
「でもちゃんと魔術の使い方を教えてるだろ?」
「確かにそうですけど……っていうかそんなの詐欺でしょ!? 最初はあんなヤバい階層に降ろされてヤバい戦いを強要されるなんて思わなかったし!」
「かもしれないな。だが、それならそれで、お前もわたしのことを師匠って呼ぶ必要はないはずだぞ?」
「…………ま、まあそうですけど」
いま師匠が言った通りである。魔術の使い方を教えてもらう代わりに、師匠からは高深度の階層に出てくるモンスターの核石を求められるのだ。ギブアンドテイクと言えば聞こえはいいけど、いつも自分よりもずっと強いモンスターばかりで、時折ボス級のものというのだから、不公平極まりない。ブラックである。
だがそれゆえに、ド・メルタに来て半年でそこそこ魔術が使えるようになっているのも事実。そういったところは、感謝している。そのおかげで、いまこうして異世界生活をエンジョイできているのだから、あまり文句を言える筋合いではないのかもしれないが――
(うう……でもやっぱきついのには変わりないんだよなぁ……)
基本安全第一であるため、自分より強い相手とは戦わないようにしている。もとはただの高校生だし、何か武術とか習ってたわけじゃないし、度胸なんてそれこそあるわけないのだから、自分より強い相手と戦うなんてやりたくないのだ。僕はヒーローじゃない。精神的にも肉体的にも雑魚のパンピーっていうのは自分がよくわかっている。身の丈に合った行動をとっているのが一番いいのである。
だからか、いまは不気味な笑い声を響かせる師匠が悪魔に見える。いや、やっぱり本気で悪魔なのかもしれない。
「……あのー、ちなみに、ほんとちなみになんですけど、今日はどこに行かせるつもりなんですか?」
「今日は『屎泥の泥浴場』の奥だ」
「ゲェッ!? むむむ無理です! あそこの敵は僕の手には負えませんって!」
主に視覚的、嗅覚的な意味でだけど。
「相変わらずヘタレで臆病者だなお前は。半年経ってそこそこは戦えるようにもなったんだろ? ちょっとは男気を出せるようになれよ」
そう言いながら師匠は抱き着くようにくっ付いてきて、耳元に囁きかけてくる。
「ひゅっ!?」
「じゃあさ、誰かだまくらかして連れていったらどうだ? いつもお前とよく絡む酒飲みの男なんかいいと思うが? なぁ?」
「はわわ、はわわ……」
口から舌らしきものを出して、ぺろりと頬を舐め上げてくる師匠。その艶めかしさと性を感じさせる所作に、ゾクリと来るが――悪魔のような囁きでプラマイゼロである。
「み、ミゲルは自分のチームを率いてるからダメですよ! 二日ぐらい前からチームで長期で潜るとか言ってたから、まず予定が合いません!」
「じゃあ他には?」
「ええと、ほかは……」
咄嗟には出てこない。
「…………友達少ないなー、お前なー、残念な子だなー」
「余計なお世話ですよ!」
「ま、となるとだ。一人で潜るしかないぞ?」
「もう潜るの決定事項なんですね……」
「そう言うなって。もしわたしの要望に応えられる成果を出せたら、また新しい魔術の技を教えてやるからさ……」
そう言って師匠は、くくく……と不気味な忍び笑いを漏らす。それを聞くと、ほんと不安なことこの上ない。だが、
「新しい技……」
「そうだ。どうする? もし断るなら、もう教えてやらないかもしれないぞ?」
「う……」
そんな風に脅しかけられれば、頷くしかない。結局、折れてしまった。新しい技というのは、なんだかんだやっぱり魅力的なのだ。