中編
十分な睡眠時間は、やはり人間の活力になるらしい。
目覚めた時にはユミコは今まで通り……ではないにしても、昨晩よりは明らかに元気を取り戻していた。
何よりユミコに必要だったのは、「世界の全てが敵なワケじゃない」という実感だったんだろう。
「アヤちゃん。本当にありがとね、わたし今日は大学行ってくるね!」
扉を開け、光の中へ笑顔で駆けていくユミコを見送ってから、私も食事に出かけることにした。軽くシャワーを浴びて着替え、財布とスマホと鍵だけを握って、部屋を出た。
行きつけのカフェ、いつものテラス席が空いていたので、ランチセットを頼んでから、ぐぃっと伸びをする。
平日の午前中、座席には空きが目立つ。
それでも適度に人は座っていて、それなりにわいわいと声が聞こえるこの場所が、私は好きだった。
先に運ばれてきたコーヒーを啜りながら、のぼりかけた太陽の光を浴びていると、何もかもが馬鹿らしく思えてくる。
昨日、あんなに泣いていたユミコの姿も、ネットなんて実体のないものに対して憤りを覚えた自分も。
「……あ、そう言えば」
昨晩から、自分のHOMEを確認していなかった。
あれだけ上から目線で書きこんだんだから、きっと私のHOMEは大変なことになってるだろう。
見て楽しいものじゃないけど、放っておいても後から面倒になるだけだ。
この明るい陽の下なら、平気で見れそうな気もするし。
「……よし、見てみるか」
気合を入れなおすように息を吐いてから、ポケットからスマホを引っ張り出した。
ボタンを押して画面をいじり、いつものイラストサイトへとログインする。
「うわぁ……『新着コメント233件』……」
これが全部、昨日みたいな悪口雑言だと思うと、がっくりくる。
全てのコメントが先週上げたばっかりのイラストに付いてることを確認して、昨日のユミコの件で思い通りに私のところに例の『不明』さんが来てるんだ、と確信した。
「ほんっと暇人だよね……」
怒りと言うより脱力がハンパないまま、新着コメントを開いたところで――ぞわり、と寒気がした。
「……何、これ……?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:02:14 不明
このイラストの構図、どっかで見たことあるんだけど
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:05:12 カヤマ
ん? 良くある構図だと思うよ
まあ、強いて言うなら、コレに似てるかも
http://####################01.jpg
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:05:52 不明
見に行った
そっくりだった
これ、トレスじゃね?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「トレス……だって……!?」
私だって、ヘタクソとは言え、ずっとイラスト描いてるんだ。
そういう単語には敏感になる。
トレスっていうのは、元のイラストを上からなぞって描くこと。
なぞること自体が問題なワケじゃないんだけど、権利所有者が「トレスOK」「改変OK」と宣言してないものを、一部でもシルエットでもなぞって公開すれば、著作権法に違反することになる。
今、私に対してついてるコメントは、それを疑うものだ。
勿論自分では、そんなことしてないと分かっている。
分かりきっているけれど、その疑惑を受けている苦しさをどうしても抑えられない。
思わず書き込みされたURLをクリックして、「トレス元」とされてるイラストを見に行ってしまった。
何度も何度も確認した。
私のイラストより3ヶ月前に同じサイトに投稿されているそれ、は。
確かに良く似た構図ではあった。
大きな木の下で、お互いの身体に手を回す男女2人の姿。
見つめ合う視線、傾けた首の角度。
小道具に置かれた、背後の樹木の位置
似てる――だけど。
私の、数倍は綺麗に引かれたそのライン。陽の光に輝く肌のみずみずしさ。
あからさまに、向こうの方が数段上だ。上手い。
日時からして、向こうがトレスしてることは考えられない。
そして私は自分がそんなことをしていないのは知っている。
描いた人間だけに分かる微妙な違いも、すぐに気付いた。
向こうと私のイラストをダウンロードして重ねれば、確実にズレが出てくるだろう。
なら、すぐに疑いは晴れるはず。
そもそも、幾ら上手な人の作品で、総合トップの上位に上がってきているからって、今初めて見た作品をトレスしたなんて言われても、ね。
だけど、そんな理屈とは無関係に胸が苦しくなった。
『トレス元』と言われてる人が自分よりも遥かに上手だったことに対する、単純な嫉妬。
それに、上手な人の作品に対してであったとしても、そんな汚い疑惑をかけられたということに。
自分は何も悪いことをしていないにも関わらず、ばくばくと心臓が鳴る。
何も悪いことはしてない、自分じゃない。
それなのに――嫌疑をかけられている。
それも、トレスしたものをさも自分のイラストのように公開した、なんていうイラスト描きとして最悪の嫌疑を。
ただそのことだけで、どんどん呼吸が苦しくなっていくようだった。
再びコメントに戻って、先を確認する。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:35:29 不明
トレスしたものを自分の作品だって公開するなんて最低だな
死ねよ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:37:38 たのやま
トレス……かな?
重ねても線とか合わない部分が多いし
あったとしても模写じゃね?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:37:50 不明
模写でも人の構図パクったらあかんやろ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 01:43:22 YASUもす
パクリとか、イラスト描きの風上にもおけない
最低な人間だな
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「――何をバカなこと……!」
1人きりで、他に誰も聞いてないと分かっているのに、声に出さずにはいられなかった。
何てことを!
構図を模写したなんて!
――そんなことしてるワケない!
ますます呼吸が苦しくなった。
最悪だ。
何が最悪って――これで、無実の証明が難しくなった……!
書き込みした「たのやま」さんが言った通り、トレスならば、重ねれば証明出来る。
重ねて線が同じならばトレス。違えば無罪。
だけど、構図のパクリなんて言われたら――どうやってそれは違うと証明すれば良い――?
私がこのイラストを描き出したのは1ケ月前。
「トレス元」とされているイラストの公開は3ヶ月前。
元々の構図だけを考えてたデータすら、サルベージしても「私の方が先」とは証明出来ない。
怖くて怖くて仕方ない。
「不明」さんだけじゃなかった。
どの書き込みも、私を追い込もうとしてるように見える。
「カヤマ」さんは「良くある構図」なんて言いながら、URLをのせてる。そのせいで、この後の全てのコメントはそれがトレス元だ、という意見を前提にすることになった。
「たのやま」さんは私がトレスしたということには懐疑的だけど、「模写」という言葉を上げた。そのせいで、私の無罪を示す証拠はどこにもなくなった。
「YASUもす」さんに至っては、私の罪を頭から信じ切っている。見も知らないあなたから「最低」なんて言われるような何を、私がしたと言うの!?
この人達は、悪意を持って私を追い込もうとしているのだろうか?
それともやっぱり「不明」さんだけがうまくコメントを操ってるのか?
そもそも「不明」さん以外の「カヤマ」さんや「たのやま」さんが書き込むことで、徐々にこの「私は構図パクリをしている」という主張に説得力が生まれているんじゃないか?
もう、誰の言葉も信じられない。
怒りと言うよりは恐怖のままに、私はスマホの電源を強制切断した。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
あれから3日。
毎日毎日、部屋から出ずに、ずっとパソコンを触っている。
怖くて仕方ない。
自分は絶対にやっていないのに。
大勢に囲まれて責められているような気がした。
晴らしようのない汚名。
日に日に増えていく、私への批判。
そんな全てが怖いのに、コメントをチェックせずにはいられない。
私が見ていない間に、どんな酷いことを言われているのか、怖くて……。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 02:48:30 不明
過去のイラストもあさったけど、コレとか
→http://####################02.jpg
コレのパクリじゃん
→http://####################03.jpg
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 03:11:33 YASUもす
え、何? この人の作品全部こうやってパクって回ってんのばっか?
こんないっぱいある作品、全部かよ……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 03:21:14 ナガレグマA009
1個1個は微妙なんだけど、こんだけたくさんあるとなぁ……
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
――何を言ってるんだ、この人達は!?
1個1個は微妙な疑惑だって分かっていて、なぜそれを黒と判断する!?
グレーを重ねれば濃くなるのは、色の三原色だけで良い。こんなんじゃ無理にでもこじつければ、そしてこじつけを重ねれば、誰だって罪が確定するってことか!?
ガリ、と変な音がして、初めて。
自分が机に爪を立てていたことに気付いた。
剥がれた中指の爪先から、赤い血が、ぽとり、と落ちた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 09:16:18 不明
卑劣だな
こんなことするヤツ晒しちまえよ
IP特定班マダー?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 09:29:15 不明
昨今は炎上のニュース多いからな
リアアカ見付けるの難しくないぞ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何度も何度もコメントを読み返しながら、何と反論しようか考えて。
考えた反論を書き込む前に、新しいコメントが誰かから届く。
本当に、イラストを掲載したパソコンのIPから、私の私生活は特定されてしまうんだろうか。
他のSNSはそんなに利用していなかったのが幸いだった。
全部アカウントごと削除して、誰にも見られないようにした。
当初は数分毎に書き込まれていたコメントは、10数分毎に変わっている。
それでも、私が1人で反応するには多すぎる数だ。
何か言った方が良い。分かっている。
だけど、ここまで疑惑が定着している中に、どんな言葉を投げれば良い――!?
誰も私の無実を知らない、誰にもそれを証明出来ない。
それなのに、誰が信じてくれると言うの!
夜も良く眠れないまま、起きればパソコンを立ち上げて、自分のHOMEに付いたコメントを1日中追い掛けた。
自分もコメントを書こうとメモ帳に言葉を綴ってから、画面をリロードしては新しくついたコメントを食い入るように見つめる。
そして、そのコメントを取り入れたコメントを書き直している内に、また新しいコメントが届く……これを繰り返しながら。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
私に好意的なコメントも、時にはあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 12:33:54 YUKIPOYU
何でみんなこんな決めつけてるの?
そんな似てるか?
証拠とかある?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だけど、それで少し喜んでも、その数分後にはそれを否定するようなコメントが連続でついて、必ず元の状況より私の疑惑は深まっているのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 12:42:12 不明
これだけ怪しい人間を庇うの?
あんたの存在がいちばん怪しいわ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 12:47:11 不明
あんた何なの? 本人なの?
本人以外にそんなフォロー入れる人いないよね?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 12:52:19 KAZAMIDORIアルファ
友達だか本人だか知らないけど、もう黙った方が良いよ
こうしてコメント入れるたびにこのイラストが総合トップにあがってくる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
XXXX/XX/XXXX 12:56:22 不明
それを狙ってんのか
清々しい程の汚さだな
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
――もう、いっそ。
私の肩を持つコメントなんかいらない。
沈黙したまま誰も反論をしなければ、この人達は諦めておとなしくなるんじゃないだろうか。
そんなこと考えても、ネットの人々は私を放っておいてはくれなかった。
私に味方する人も、私を批判する人も。
毎日どんどんコメントを入れていく。
食パンを生のまま齧りながら、片手でスマホの画面を何度もリロードした。
齧ったパンのパンくずが液晶画面に落ちて、荒々しくそれを払った。
――瞬間。
スマホがびりびりと震える。
びくりとして思わず液晶に指が触れた途端に、通話が繋がった。
『――アヤちゃん!』
スマホから流れてきたのは、荒々しい声――ユミコだ。
「……ユミコ……」
スマホに向かって呼びかけた自分の声が、弱々しくて驚いた。
ダメだ。ユミコの前では。
元気出さなきゃ! しゃんとしなきゃ。
気合を入れ直して、改めて落ち着いた声を出す。
「ユミコ。どうし――」
『――ねぇ! アヤちゃん、どういうことなの!?』
だけど、上擦った声がかぶさってきて、私の声は止まった。
焦りと怒りの入り混じった声が、汚れものの重なったダイニングに響く。
『私のイラストに、「パクリの友達がいて大変」って書き込まれてる! あれからもずっと変なコメントが続いてて、結局アヤちゃんの書き込みの後が一番ひどい言葉で……それに、今見たら、アヤちゃんのイラストに嫌なコメントがいっぱい――』
話が支離滅裂なのは興奮してるときのユミコの特徴だ。前後関係は分からなくても、何が言いたいのかは大体分かった。
私が書き込みした後も『炎上』は続いていて、ユミコはあれから数日間、ずっとそれで悩んでいたんだろう。
そして今日になって私について指摘するコメントを見て、私のイラストを確認し、慌てて電話してきたに違いない。
一瞬空気を吸ったユミコの息の音。
ただの呼吸音なのに、その冷たさだけで、もう。
次にくる言葉を聞きたくない、と思った。
『――ねぇ、アヤちゃん。本当に人の構図をパクって描いたの……!?』
ぷつり、と何かが切れた音がした。
スマホじゃない。私の中の何かが。
激情に任せて思い切りスマホを投げた。
がしゃーん、という音を立てて、スマホは食器棚のガラスを撒き散らしていった。
食器棚の奥の壁でワンバウンドして、高く跳ねながら床へ激突したスマホが、ギャリギャリとガラスの破片をすりながら、私の足元へと滑ってくる。
完全にヒビの入った液晶画面は、真っ黒になっていた。