5 本当の気持ち
――文化祭二日目。
校内はますます活気づいており、学生の他にも保護者や地元の人、果ては他校の生徒まで文化祭の出店や出し物を楽しんでいた。
一日目と同様、吹奏楽部の演奏も上々で、人前での演奏も結構慣れてきた。
誰の目に見ても文化祭は成功だったが、理奈はあることが気に掛かっていた。
(恭平、今日も休みなのね……)
暗い視聴覚室内にて、理奈はぼんやりと考え事をしていた。
視聴覚室では今まで写真部が記録した学校行事などのイベントの際の写真がスライドショー形式で発表されており、中にはモノクロの写真もあった。
映画を見られると聞いてやってきたというのに、何だかアテが外れたみたいだ。
しかし、これはこれでいい。ぼんやりと考え事をしながら体を休めるには最適な場所だ。
(明日は理奈が告白する予定なのに、学校に来ないことには話が始まらないわ……)
理奈は既に明日のことについて考えを巡らせていた。
別に明日に告白しないといけないという決まりはないが、先送りにするのはいい方法とは思えない。
一度先延ばしにしてしまうと、二回目、三回目もそうやって告白を先延ばしにし、最悪の場合告白すらできずに終わってしまう可能性もある。
雪乃のためにもそれだけは回避しなくてはならない。
(こうなったら、恭平を直接説得するしかないわね)
雪乃のためだ、多少無理をさせてでも学校に来てもらう必要がある。
私は携帯電話を持っていないため、直接先輩の家に見舞いに行くのが最適な方法だろう。
そんな事を考えているうちにスライドショーが終わり、室内が明るくなる。
理奈はいきなりの明暗の変化について行けず、思わず目元を手で覆う。それでも心地良いBGMは流れ続けており、次第に明るさにも慣れてきた。
視聴覚室から出た生徒たちはバラバラに散り、思い思いの場所へ移動していく。
理奈も一旦外に出ようと考えたが、時計を見るとまだ次の演奏まで時間があるようだった。
少し腰を浮かせて椅子に座り直すと、理奈は両腕を上げて背筋を伸ばす。
(それにしても、午前中は大変だったわ……)
今日はクラスの出し物が一斉に行われる日で、体育館と講堂は一日中使えなくなっている。そのため、吹奏楽部の演奏は屋外で行われたのだ。
午前中、一回目の演奏を終わらせたわけだが、やはり外と中では音の響きが全く違う。
客も少し立ち止まって聞く程度で、あんまり注目されていなかった。
そのせいでやる気を失う部員も多く、顧問からこっぴどく注意を受けていた。
(あんなので午後の演奏もうまくいくのかしら……)
かなり不安だ。しかし私は全く問題ないし、自信をもって演奏をやり遂げるつもりだ。
今日はまだ雪乃や阿賀谷先輩とも会っていない。二人共クラスの出し物で忙しいのだろう。
(阿賀谷先輩か……)
結局、昨日は演奏していた時間以外は先輩に連れ回された。
全ては雪乃の取り計らいのお陰である。私の事を気遣ってくれての事だろうが、余計なお世話と言わざるをえない。
しかし、それでも、一人でぼんやり過ごすよりかは有意義な時間になったように思う。
阿賀谷先輩は予想に反して面倒見がよく、一緒にいてストレスは感じなかった。
外見も申し分ないし、やはり彼氏にするならあんな男の人がベストなのかもしれない。
そんな事を考えていると、再び室内が暗くなり、同じ内容のスライドショーが最初から流れ始める。
少しの間だけでも疲労を回復させるべく、理奈は目を瞑り、仮眠をとることにした。
文化祭も二日目が終わり、生徒たちには疲労の色が強く見える。
この辺りから燃料切れを起こす生徒が続出し、三日目は異様なテンションに支配される生徒が大量に発生するそうだ。
吹奏楽部員にも既に数名ほど、テンションが異常な部員が出現している。
常に疲れた笑顔を見せている彼らは、傍から見るかなり不気味だ。
理奈は疲労に支配される中、何とか自我を保っていた。
(ここが……恭平の家……?)
二日目が終わった日曜の夕方。
理奈は恭平の自宅の正面玄関に立っていた。
明日には雪乃の告白が迫っている。流石に明日は文化祭に出てきてもらわないと困る。
住所は阿賀谷先輩から聞いたのだが、その場所には中々立派な屋敷が建っていた。
門は硬そうな木で出来ており、屋敷の周りは瓦の乗った背の高い塀で覆われている。
塀の向こう側には松などが見え、広い庭が存在していることを示していた。
暫く理奈は屋敷の塀をぼんやり見上げながら突っ立っていたが、その際に表札の文字が見え、無意識のうちに読み上げてしまう。
「……玖保」
恭平の苗字と一緒だ。ここで間違いないだろう。
理奈は短い髪を手櫛で整え、スカートの折り目を整え、背筋を伸ばして姿勢を正すと門の脇のインターホンを鳴らした。
軽いチャイム音の後、即座にスピーカーから女性の声が返ってきた。
「はい、玖保です。何の御用でしょうか」
いきなり聞こえてきた凛とした声に萎縮してしまい、理奈はまともに返答できなかった。
「あの、私は三瀬理奈で……今日は恭平のお見舞いに来たというか……あの……」
「……」
話している途中でインターホンからブツッという切断音が聞こえ、通話中であることを示す緑のランプが消えた。
門前払いされたのだろうか。
「……何よ」
少しむかっときた理奈は木製の門を軽く蹴り、踵を返す。
すると、いきなり門の横の勝手口が開きエプロン姿の若い女性が現れた。
年齢は二十歳あたりだろうか。背筋はピンとしていて姿勢も良かったが、髪はボサボサで表情も眠たげだ。
ぼさぼさ髪の女性は足音も立てずに勝手口から出ると、軽く会釈をする。
「……こちらへどうぞ」
この声はインターホンから聞こえた声と同じだった。
何やら分からないが、この人は私を屋敷の中に招き入れてくれるらしい。
「何なのよ……」
頭が疲れていることもあってか、全くもって状況が理解できない。
それでも理奈は女性に招かれるがまま、屋敷の中に足を踏み入れた。
門を抜け、古風な庭園を抜け、広い玄関から廊下に上がった理奈は、屋敷の内部の光景に声が出ないほど驚いていた。
屋内は歴史物のドラマで見るような古風な雰囲気を醸し出している。まさに武家屋敷という言葉が似合う内装だった。
時代劇のセットのような廊下を抜けると、階段に差し掛かった。そのまま階段を上って二階に案内された理奈は、とある部屋の前に立たされる。
ぼさぼさ髪の女性は部屋の手前で膝をつき、ふすまを少し開けて中に声をかける。
「恭ちゃん、三瀬理奈って可愛い子が見舞いに来たよ」
「理奈が……?」
中から返ってきたのは間違いなく恭平の声だった。
その声に応じるように、ぼさぼさ髪の女性は誂いのセリフを返す。
「……もしかして、ガールフレンド?」
「うるさい。……入れてやってくれ」
「はいはい」
妙に馴れ馴れしく話しかけていた女性は、恭平の言葉に従ってふすまを開ける。
中には、布団の上に寝っ転がっている恭平の姿があった。
「ごゆっくりどうぞ」
女性に促され、理奈は遠慮なく室内に足を踏み入れる。
室内は意外にも狭く、12畳ほどの広さだった。……いや、屋敷の広さに比べたら狭いというだけで、実際は結構広い。錯覚というのは恐ろしいものだ。
理奈は布団の上にいる先輩に近付き、早速問いかける。
「恭平、あんた実はいいとこの坊っちゃんなの?」
「会って早々何言ってんだよ……」
恭平はそう答えながら上半身を起こし、あぐらをかく。
服装はジャージ姿で、髪にはひどい寝ぐせがついていた。しかし、顔色はいい。快方に向かっているみたいだ。
恭平の元気そうな顔つきに安堵しつつ、理奈は問い続ける。
「ねえ、恭平の家って実は金持ち? というか、そもそもこの屋敷古過ぎ、何時の時代から建ってるの? ……あ、それよりさっきの女の人誰? 恭ちゃんとか呼んでたし、もしかしてお姉さん?」
「うるせーなぁ……病人に向かって大声出すなよ」
先輩は面倒くさそうな表情を浮かべつつも、律儀に答えてくれた。
「単に古い家に住んでるだけで、金持ちってわけじゃねーよ。で、この家も明治に建てられた結構最近の屋敷だ。あと、さっきのは俺の姉貴だ」
「最後のは合ってるじゃない……」
そんな私の反論を無視し、恭平は私の持っている荷物に興味を示した。
「それは……楽器ケースか?」
恭平の視線の先、私の左手には楽器ケースが握られている。
疲れのせいか、持って歩いてたことをすっかり忘れていた。
理奈は気づくやいなや楽器ケースをその場に置き、説明する。
「そのとおりよ。文化祭中は基本的に楽器をずっと持ち出してるし、曲目によって演奏する部員もバラバラだから、学校を出る時間もまばらなのよ。だから、この3日間だけは自宅に持って帰れるってわけ」
自分で言って、理奈はあることに気がつく。
「せっかくだし、演奏聞かせてあげようか?」
「今思いついたように言うなよ。てっきり俺はそのつもりで来たんだと思ってたぞ……」
「ごめんごめん。そんなに私の演奏楽しみにしてたんだ?」
「約束してたのにこの有り様だからな。悪いとは思ってるんだよ」
「どうだか……」
理奈は軽く会話を交わしつつ、ケースを開けてホルンの準備を開始する。
準備と言ってもマウスピースを嵌めるだけだが、その短い準備時間の間に恭平はあぐらを解いて正座になり、興味深そうにこちらの手元を眺めていた。
ここまで期待されると相手が恭平でも緊張してしまう。
「じゃ、いくわよ」
理奈も正座してホルンを抱えると、マウスピースを口元にあてがう。
程よい緊張感の中、理奈はホルンに息を吹き込んだ。
理奈の吹いた息はマウスピースを経由してホルンの管の空気を震わせ、音となって外へ開放される。
瞬間、綺麗な音色が室内に響く。
ボリュームを下げようかと思ったが、家も広いのだし、近所迷惑にはならないだろう。
恭平も特に注意してこないし、このまま続けよう。
理奈は適当にフレーズを試した後、本格的に演奏を始めた。
……演奏するのは、先輩が知っているであろうドラマのメインテーマ曲だ。
刑事物なので緊迫したメロディーが続くが、軽快でいて飽きさせない、中々いい曲である。
いつもはメインのメロディーは他のパートが担当していて演奏できないので、一人で主要なフレーズを吹けるのは結構気持ちいい。
畳は程よく高音を吸収し、室内にマイルドな音を反響させる。
理奈の指先は滑らかに動き、その指によって押されたレバーはバルブを滑らかに開閉させ、綺麗な音色を、心地の良いメロディーを生み出していく。
恭平は目を閉じ演奏に耳を傾けている。私も、自分の発する音に手応えを感じていた。
いつまでもここで恭平に音を聞かせてあげていたい。演奏をしていて、これほど幸せな気持ちになったことはない。
しかし、そんな幸せな時間も長くは続かない。
……およそ6分の演奏が終わると、理奈はホルンを畳においた。
「――どう?」
意見を求めるべく問いかけると、恭平は悩ましい表情を浮かべていた。
その口から出てきたのは、演奏とは関係ない感想だった。
「うーん、頭がガンガンする」
「何よその感想は……って、恭平!?」
頭痛を訴えたかと思うと、恭平は足を崩して布団に倒れこんだ。
至近距離で金管楽器からでる音を受けたのだ。風邪気味じゃなくても悪影響が出ても不思議ではない。
「そういうのは早く言いなさいよ。ほら、寝かしてあげるから」
「わりぃ……」
理奈は足元でくしゃくしゃになっている掛け布団を広げ、恭平の体に掛ける。
そして、布団から落ちていた枕を恭平の頭の下に滑りこませる。
恭平は本当に参っているようで、呼吸は浅く、目も虚ろだった。
「……恭平、真面目に風邪引いてるわね」
「真面目って何だよ、真面目って……」
それでも私と話せるだけの余裕はあるらしい。
恭平は横になった状態で私との会話を続ける。
「なあ理奈。まだあの時のこと気にしてるのか」
「あの時って?」
「ほら、俺が阿賀谷先輩の胸ぐらを掴んだ時のことだよ……」
「ああ、あれね。確かに驚いたけど、私のために怒ってくれたんだと思うと、逆に申し訳ない気がしてきて……」
確かに気になっているが、恐がっているわけでも軽蔑しているわけでもない。むしろ逆だ。
そのことを伝えると、恭平は安心したように呟いた。
「何だ、別に怖がってたわけじゃないんだな」
「怖がる? 私が恭平を? 冗談でも笑えないわ」
理奈は口調を強めて言い、腕を組む。
そんな私の言動が可笑しかったのか、恭平は小さく笑う。
「ホント、お前って勝ち気な性格だよな。ま、そういう所も含めて好きなんだけどな」
(……ん?)
何か、とんでもない事を言われた気がする。
その真偽を定かにするため、理奈は訊き返す。
「恭平、今なんて?」
「……何だ? 俺、何か言ったのか?」
恭平はこちらの質問に対して虚ろな表情で応える。意図して惚けているわけではないようだ。
顔は赤く、瞼も半分閉じかかっている。
理奈は恭平の額に手を当て、熱を確かめる。
(……熱い)
私が余計な事をしたせいで悪化したのだろうか。お見舞いに来て患者を悪化させるなんてひどい話だ。
「また熱が出てるわね」
「……みたいだな。頭がぼーっとする」
そう言ったかと思うと、恭平はとうとう目を閉じてしまった。
このままだと明日の最終日にも登校できないかもしれない。
雪乃には告白をまたの機会に持ち越して貰うよりほかない。
(帰りましょうか……)
これ以上ここにいても邪魔になるだけだし、何より風邪を移されかねない。
「じゃあ、帰るわね。明日もゆっくり休んで治すことに専念するといいわ」
理奈は別れを告げ、ホルンを楽器ケースに仕舞っていく。
その途中、急に恭平がこちらの腕を掴んできた。
握力は全く感じられなかったが、離したくないという気持ちが肌を通して伝わってくる。
病人の手を無理やり振り払うわけにもいかず、理奈は掴まれたまま動きを止めた。
この状況をどうしたものかと考えていると、恭平から話しかけてきた。
「待ってくれ。もう暫くいてくれないか」
「いつまで? まさか、一晩中横にいろなんて言わないわよね」
「そうお願いしたいのは山々だが、あと10分くらいでいい。10分あれば眠れそうだ……」
絶え絶えにいう恭平に対し、理奈はふと思ったことを問う。
「雪乃もお見舞いに来たわよね?」
「それがどうかしたか」
「まさか、雪乃にも同じようなこと言ったんじゃないでしょうね」
あの雪乃の事だ。弱った恭平の頼みを断れるわけもない。
もし雪乃に迷惑を掛けたようなら注意するつもりだったが、恭平は枕に頭を乗せた状態で力なく頭を左右に振る。
「いいや。……お前だからお願いしてんだよ」
「……そう」
恭平のセリフを受け、胸が不意に高鳴る。
同時に顔面も熱くなってきた。
(やばい……)
不覚にも私は恭平のセリフにときめいてしまっていたようだ。
この異変を感じ取ったのか、恭平は目をうっすらと開けて問いかけてくる。
「どうした」
「何でもない。……それより、雪乃の事はどう思ってる?」
少しテンパっていたせいか、思わず雪乃の名前が出てきてしまった。
「どう思ってるって……好きかどうかってことか?」
ここまで話して今さら話題を変えるわけにもいかない。
意を決した理奈は雪乃の気持ちを暴露する。
「雪乃は、あんたのこと好きみたいよ」
「知ってる」
「え? 知ってる!?」
当たり前のように言い放つ恭平に、理奈は声が裏返ってしまった。
こちらが驚いている間にも、恭平は雪乃について語る。
「あんだけベタベタされたら嫌でもわかる。しかし、迷惑なんだよな……。正直鬱陶しい」
「いいじゃない、あんな可愛い後輩に好かれて幸せでしょ」
「確かに可愛くなったが、本質的には何も変わっちゃいねーよ」
外見も性格も良くなったように思えるのだが、恭平にはいまいちらしい。あの雪乃で満足できないなんて、何とも贅沢な野郎である。
もしそうだとしても、一応明日のことは伝えておいたほうがいいだろう。
「雪乃、明日あんたに告白するつもりよ」
「マジか……」
恭平は熱い溜息をつき、目元を手で覆う。
困っているのが一目で分かった。
「断るにしても、雪乃が傷つかないようなセリフ考えときなさい」
「いやいや、鬱陶しいとは言ったけど、誰も付き合わないとは言ってねーよ。取り敢えず2ヶ月かそこら適当に遊んで……」
口の端を持ち上げながら話す恭平に、理奈は一喝する。
「あんたふざけてんの? 真面目に付き合うつもりがないなら、最初から断りなさいよ。もし雪乃に少しでも希望を持たせるような事言ったら、絶対に許さない」
こちらがまくし立てると、恭平は弁解するように力なく笑い、手の平を左右にひらひらと振る。
「冗談に決まってんだろ。怖いからその顔やめろって」
そんなに怖い顔をしていただろうか。
理奈は顔の筋肉をほぐすために眉間に指を当て、軽くこねくり回す。
「とにかく、あんたの気持ちが聞けてよかったわ。これで雪乃を慰める準備もできるってものよ」
「いや、雪乃の告白を止めさせろよ。そしたら誰も傷つかないで済むだろうに」
「甘いわね。恋愛は好きか好きじゃないかの二択よ。曖昧なのは許されないの」
「極論だなぁ……」
呆れた感じで呟きつつ、恭平はこちらから手を離した。そして、寝返りを打って布団を深く被る。
「ま、俺には他に好きな奴がいるし、そいつの事を言えば雪乃も納得するだろ」
「好きな人いたんだ。それって誰?」
「簡単に言えるかよ。……色々話してたら少し気分が良くなった。本気で寝て治すから、帰っていいぞ」
「絶対治しなさいよ」
こちらの言葉に恭平は布団の中で頷く。
その動きを見届けると、理奈は楽器ケースを持って部屋を後にした。
文化祭三日目の夜。
全てのイベントが終わり、広いグラウンドでは後夜祭が行われていた。
明るいライトに照らされたグラウンドには色んな物が散乱していたが、生徒たちは気にする様子もなくはしゃぎ合っている。
理奈はその様子を校舎三階の美術室の窓から眺めていた。
美術室内には理奈の他には雪乃しかおらず、グラウンドとは打って変わって静まり返っていた。
理奈は窓から離れ、雪乃に話しかける。
「よし、雪乃はここでスタンバイね。今からあいつ呼んでくるから。セリフ、噛まないようにしなさいよ」
「うん」
いよいよこれからこの場所で雪乃が恭平に告白する。
雪乃は既に緊張状態にあるのか、寒いわけでもないのに体が小刻みに震えている。
また、一点を見つめたままで表情も固かった。
果たしてこんな状態で成功するのだろうか……。
(いや、失敗は決まっているんだったわね……)
恭平は雪乃の事を気にしていないどころか、鬱陶しいとまで言った。
玉砕されるのは確実だが、それはそれでいい経験になるだろう。
「ほら、リラックスしなさい。そんなんじゃ全然駄目よ」
「だって……」
「だってじゃない。まだ時間はあるわ。ラジオ体操でもやってなさい」
「うん……」
「冗談よ。それじゃ、呼んでくるわね」
理奈は緊張状態の雪乃の肩をばしばしと叩き、美術室から出る。
廊下は暗く、チラシやゴミなどが散らかっていた。明日これを掃除しないといけないかと思うと気が重い。
足取りも重かった。
これからわざわざ雪乃を振らせるために恭平を呼びに行くのだ。
雪乃にも恭平にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
(恭平は……あそこよね)
連絡も何も取っていないが、恭平がいそうな場所はわかる。
理奈は校舎から出ると、廃材アートが飾られている庭園に向かうことにした。
……美術室を出て5分。
生徒達の黄色い声を周囲に遠くに聞きつつ、理奈は庭園まで移動していた。
庭園は相変わらず静かで、植物たちは上から差し込む月明かりによって仄かにその姿を浮かび上がらせている。
大きな鷲のオブジェもその控えめな明かりに照らされ、重厚感と存在感を放っていた。
鷲の翼は地面に大きな影を作っており、その影も何だか作品の一部のように思えてならなかった。
鷲のオブジェを眺めながら歩いて行くと、不意に前方から声を掛けられた。
「よ、やっときたか理奈」
「やっぱりここにいたわね」
恭平はすっかり風邪も治ったようで、元気な笑顔をこちらに向けていた。
手には出店で買ったと思われるフランクフルトが握られている。日中は吹奏楽部の演奏が忙しくて構ってあげられなかったが、恭平も恭平なりに最終日を楽しんだようだ。
その食べかけのフランクフルトを手の中で器用に回しつつ、恭平はオブジェから離れてこちらに近付いてくる。
「今日の演奏も聞いたぞ。いい演奏だったじゃねーか」
「へー、善し悪しがわかるほどの耳を持っていたとは思ってなかったわ」
「相変わらず皮肉屋さんだなお前は……」
恭平は短く溜息を付き、本題に入る。
「それで、いつ雪乃は告白してくるんだ。今日中待ち構えてたせいで神経すり減ったぞ」
「今からよ。美術室に待機させてるから、さっさと行ってらっしゃい」
「よりによってあそこかよ。……ま、それはそれとして、先にやっておきたいことがあるんだが、いいか?」
「何? トイレ?」
「ちげーよ。きちんと雪乃を断るために、先に別の告白を済ませるんだよ」
「……?」
言っている意味がわからない。
言葉の内容を理解しかねていると、急に恭平はこちらの腕を掴み、強く引き寄せた。
「なっ……」
私はそのまま恭平に引っ張られ、鷲のオブジェが作る影に引き摺り込まれてしまう。
周囲は暗く、見えるのは目の前にある恭平の瞳だけだった。表情も真剣そのもので、冗談を言える雰囲気ではなかった。
恭平は一呼吸おき、小さく、とても小さく呟く。
「理奈、俺と付き合ってくれないか」
「……!!」
恭平は硬い表情のままこちらを見つめ、微動だにしない。
交際を求められた理奈だったが、思い当たる節がないわけではなかった。少なからず恭平はこちらに好意を持っていたし、昨日お見舞いに行った時にも恭平は私のことを好きだと口走っていた。
しかし、このタイミングで告白されるとは思わなかった。
「な、何のつもり?」
いきなりすぎる告白に、理奈はこんな言葉しか言い返せなかった。
恭平は腕を強く掴んだまま、再度告白をする。
「お前の事が好きだって言ってんだ。……お前は俺のこと、どう思ってるんだ。正直に言ってくれ」
少し動揺していたせいか、理奈はいつも通りの調子で本音を口にしてしまう。
「……好きよ。あんたといると落ち着くし、彼氏にしてもいいくらい」
出会った時から気が合うとは思っていたし、友達以上になれると予感はしていた。
これは私の本心だ。
本心を聞いた恭平は何故か勝ち誇ったような表情を浮かべる。
「よし、付き合っても問題ねーな」
「問題無いとは思うけれど、どうして今日言うのよ。もっとムードとか雰囲気とか大事にして欲しいわ」
「昨日、お見舞いに来て手を握ってくれた時、明日絶対に告ろうと決めてた」
遠い目で語る恭平に、理奈はつっこみを入れる。
「あの時はそっちが強引に握ってきたんでしょうが……。って言うか、今もドサクサに紛れてどこ触ってんのよ」
理奈は恭平の抱擁から逃れ、距離を取る。
続いて恭平を糾弾しようと思っていたが、理奈よりも先に恭平が口を開けた。
「それで、結局どうなんだ? 付き合うんだろう?」
「……」
一瞬、理奈は答えに詰まってしまう。
雪乃が告白する前に恭平の申し出を受け入れるのは、うまく言えないが裏切り行為に当たるのではないだろうか。
雪乃の立場を考えていると、恭平は再度話しかけてくる。
「どうした理奈、悩むことなんてないだろ」
……私は自分を偽らないと決めた。
自分の気持ちに正直に生き、たとえそれで不利益を被ろうとも、生き方を変えないと心に誓った。
私は恭平の事が好きだ。
だったら、その気持ちに従うだけのことだ。
「……そうね。付き合ってあげる」
私のOKの返事に対し、恭平は安堵したように笑う。
しかし、その笑顔もすぐに消え去ってしまう。
「さて、次は雪乃か……」
恭平は私を理由にして雪乃の告白を断るはずだ。
一体どうなるのだろうか……。
この時の理奈は、選択肢を間違ったように思えてならなかった。