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4  文化祭


 あっという間に夏休みは終わりを告げ、二学期が始まった。

 そして、二学期が始まったかと思うと、早々に体育祭が終わってしまった。

 もともと体育祭には思い入れはないし、準備作業を手伝っていたわけでもない。騒がしかったという印象しか残っていない。

 それよりも問題なのは、体育祭の一月後に行われる文化祭だ。

「……文化祭か」

 この文化祭の主役となるのが我々吹奏楽部である。

 期間中は朝から夕方まで音楽室他、講堂や体育館など、転々と場所を変えて様々な曲を演奏するらしい。

 賞をもらえるわけでもないし、努力するだけ無駄だと思っている部員も多い。

 しかし、この文化祭でミスをせず完璧に演奏できれば、吹奏楽コンクールの出場メンバーに選ばれる可能性がかなり高いのだ。

 つまりこの文化祭は、賞をとるための第一歩になるわけだ。

「本腰入れて練習しないとね……」

「何ブツブツ言ってんだ?」

 近くから恭平の声がし、私は考え事をやめて視線を前に向ける。

 今私がいるのは美術室ではない。1年1組の教室だ。だというのに、目の前には恭平の姿があった。

 何の前触れもなく出現した恭平に驚き、理奈は思わず椅子に座ったまま後ずさる。

「い、いきなり何よ」

「すまんすまん。最近理奈の姿を見かけないなあと思ってな」

「……」

 ふと時計を見てみる。まだ昼休みが始まって10分と経っていない。

 教室内にいる殆どの生徒の視線は私と恭平に向けられており、かなり目立っていた。

「どうしたんだ理奈。美術室には顔出さねーし、それどころか早朝のランニングも……」

「恭平、ちょっと場所変えてもいい?」

 言葉を途中で遮り、理奈は席を離れる。

 恭平が何を言いたいのか、言われれるまでもなく理解しているつもりだ。

 ……私が美術室に顔を出さなくなったのは、単に気まずいからだ。他にも、吹奏楽部の練習で忙しいという理由もあったが、そんなのは些細な問題である。

 理奈は席を離れた後、クラスメイトの冷ややかな視線を感じつつも教室から出る。

 恭平も慌てて後から付いてきた。

 廊下に出ると、取り敢えず理奈は恭平に行き先を告げる。

「話したいことがあるなら、食堂で聞いてあげるわ」

「いや、せっかくだし美術室に行こうぜ。雪乃もお前と話したがってたぞ」

「雪乃が……」

 そう言えば、あれから雪乃とも話していない。

「とにかく話したいこともあるし、美術室行くぞ」

「……分かった」

 正直、雪乃と一緒にいると心が安らぐ。

 癒やしを得るためにも、理奈は恭平の提案を呑むことにした。



 久々に訪れた美術室は、以前と違って賑やかになっていた。

 別に人が大勢集まっているわけではない。作りかけの作品がこれでもかというほどズラリと並べられていたのだ。

 大きな絵画もあれば、何が何やらわからない木彫の彫刻もあり、果てはプラモデルまであった。

 所狭しと並べられている作品群を見ていると、室内から懐かしい声が聞こえてきた。

「理奈ちゃーん、久し振り!!」

 声と同時に真横から抱きついてきたのは雪乃だ。

 もう雪乃からは根暗な雰囲気は感じられず、むしろ綺麗で快活なイメージを受けた。

 端麗な顔やスタイルは勿論のこと、肌も白くて綺麗だし、長い髪からはいい匂いもする。マイナス要素だったメガネはアクセサリーと思えるほどよく似合っていた。

 女として勝っている部分が全く見当たらない。

(いや、視力だけは私の方が上か……)

 何だか虚しい気がするが、これだけ変わってくれると感慨深いものがある。

 それに、何のしこりもなく歓迎してくれたことも結構嬉しかった。

「……はいはい久し振り」

 メガネのレンズの向こうにある焦げ茶色の瞳を見つつ、理奈は抱きついてきた雪乃を引っぺがす。

 雪乃を適当にあしらった後、理奈はある人物の姿を探して再度美術室内を見渡す。

(阿賀谷先輩は……いないみたいね)

 室内にいたのは雪乃一人だけだった。

 阿賀谷先輩にどう声を掛けるべきか悩んでいたので、一気に肩の荷が下りた気分だ。

 緊張が解れた所で理奈は近くに置いてあった椅子に腰掛ける。

 雪乃はまだ興奮冷め止まぬようで、主人にじゃれつく犬のごとく纏わり付いてきた。

「ねえ理奈ちゃん、どうして最近美術室に来なかったの?」

「気まずかったからよ」

 正直にきっぱりと告げると、後から入ってきた恭平が呆れたふうに溜息をついた。

「おいおい、あの時のことまだ気にしてんのか」

 入口近くの壁に背を預け、腕を組む恭平に対し、理奈は言い返す。

「気にするわよ。胸ぐら掴んで恫喝するシーンを見て、気にしないって方が無理よ」

「だから、あれはお前のために……」

「二人共、もうこの話は終わりにしよう、ね?」

 雪乃は早々と仲裁に入ってきた。

 確かに、あれはもう終わったことだし、無理矢理掘り返す話題でもない。

「……」

 少しの間気まずい沈黙が流れたが、これも雪乃の話によって打開される。

「そう言えば、この作品の山を見るの初めてだよね?」

「そうね、どうしたのこれ」

 私から反応が得られてほっとしたのか、雪乃はぎこちない笑みを浮かべながらも話を続ける。

「これは全部美術部員の作品で、文化祭の時に学校中で展示する予定なの」

「へぇ……」

 最初見た時には“たくさんあるなあ”という印象を受けたが、学校中に配置するとなると些か数が少ない気がする。

 こういうのは一箇所にたくさん集まっているからこそ、意味があるように思えるのだが……。

 色々と作品を見ていると、雪乃は思い出したように告げる。

「あ、ちなみに恭平先輩の廃材アートも展示する予定なんだって」

「凄いじゃない」

「だろ、自分でも驚いてる」

 恭平先輩は自然と会話にまじり、勝手に事情を説明し始める。

「雪乃と話してた時に廃材アートのことが他の連中に知られてしまってな。おまけに、頼んでもねーのに雪乃が俺の作品をみんなに自慢して……こういう事になっちまったんだ」

「ごめんなさい先輩、でも、馬鹿にされてるのを見てどうしても我慢できなくて……」

「構わねーよ雪乃」

 恭平は壁際から離れ、雪乃の隣に移動する。そして、当たり前のように頭を撫でた。慣れている感じだし、日常的に行われてる行為なのだろう。

 雪乃は顔を真っ赤にしていたが、嫌がる様子もなくそれを受け入れていた。

 私の知らぬ間にも仲は進展していたようだ。

 恭平は暫く頭をなでた後、雪乃のきめ細かい髪を指先でいじり始める。

 これも無意識で行っているのか、恭平は廃材アートの話題を続ける。

「しかし、こうやって人前に出すのは初めてだからな……。意外と緊張するな」

「初めてじゃないでしょ。私と雪乃はどうなのよ」

「あー、そういやそうだったな」

 先輩はここでようやく雪乃の頭から手を離し、こちらを見る。

 雪乃は物足りなさげに恭平を見上げていたが、恭平がその事に気づく気配はなかった。

「……ところで、文化祭中はお前も演奏するんだろ。見に行ってやろうか?」

 急に吹奏楽部の事に触れられ、理奈は咄嗟に提案を拒否してしまう。

「別にいいわよ。わざわざ見なくても校内にいれば嫌でも聞こえると思うわ」

「うーん、流石の俺でもお前のホルンの音を聞き分けられるほど耳は肥えてないなぁ。……そうだ、今度お前の演奏聞かせてくれよ。よく考えたらお前が楽器吹いてるとこ見たことねーや」

「そう来たか……」

「こっちはさんざん作品見せてやったんだ。そっちも見せないと不公平だと思うぞ」

 意外にも恭平は私の演奏に興味があるみたいだ。

「そこまで聞きたいなら別にいいけれど……」

 理奈は適当に返事をしつつ、その提案について真剣に考えてみる。

 ……単に楽器を音楽準備室から持ち出し、先輩の前で披露すればいいだけだが、これが中々難しい。

 まず、準備室には鍵がかかっていて、楽器を勝手に持ち出せない。

 持ち出せても演奏できるのはパート練習と合同練習の時だけで、ひとりきりになれる時間は全くないのだ。

 となると、パート練習の時にこっそり教室に来てもらうしかない。

「じゃあ、部活中にホルンパートの教室に来てくれない? 思う存分聞けると思うわよ」

「それ、演奏じゃなくてただの練習だろ。それに、他の連中の音のせいで純粋にお前の音色を聞けないだろ」

「変な所で拘るのね……」

 こうなるともう他の手段がないような気がする。

 楽器レンタルでもすれば思う存分聞かせてやれるが、そこまでして恭平に尽くすつもりもない。

 どうしようかと悩んでいると、ふと雪乃が思いついたように呟いた。

「朝練は? たまに楽器の練習してる音が聞こえるような……」

「それよ!!」

 朝練を失念していた。

 朝の練習は、事前に顧問に伝えておけば、パートに縛られることなく個人で練習できる。

 今までは早朝ランニングのせいで全く参加していなかったため、思いつきもしなかったのだ。

「朝なら音楽室、講堂、体育館で勝手に練習できるわ。明日にでも披露できるわよ?」

「おー、ナイスアドバイスだぞ雪乃」

 恭平は再び雪乃の頭を撫でる。

 雪乃は「えへへー……」などと声を漏らして満足気な表情をしていた。

 何やら面倒くさい方向に話が進んでいる気がしないでもないが、誰かに演奏を聞かせるのもまんざらではない。

「そうだ、何かリクエストはある? 準備しとくわよ」

「リクエストかぁ。特に思い浮かばねーし、理奈が得意なのでいいぞ」

「何よ、張り合いないわね」

「そう言うなよ」

 ……何だが、いつの間にか普通に会話できてる気がする。

 今まで美術室に来るのを自粛していたのが馬鹿みたいだ。

 雪乃と恭平を見ながらそんな事を考えていると、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。名残惜しいが、教室に戻らねばならない。

 チャイムを合図に理奈は美術室から出て行く。

「それじゃ、明日、講堂で」

「おう。明日な」

 恭平の返事を確認すると、理奈は美術室に背中を向ける。

 何故か足取りは軽かった。



「遅い……遅すぎるわ」

 早朝の講堂。

 主に朝礼や記念行事が行われるこの講堂は体育館とほぼ同じ位の面積がある。

 二階部分にもそれなりのスペースがあるため、床面積だけなら体育館よりだいぶ広い。

 早朝の講堂内は静まり返っており、外からは登校中の生徒たちの賑やかな声が聞こえていた。

 ……誰もいない静かな講堂内。

 理奈は一人ホルン片手に壇上で立ち尽くしていた。

(もしかして恭平、約束を忘れてたりしてないわよね……)

 日課のランニングをサボってきたというのに、一体どういうつもりなのだろうか。

 もしかして、いつものように廃材置き場で作業しているのではないだろうか。

 ……まあ、ああ見えて根は真面目なやつだ。来ると信じて練習でもしていよう。

(私の演奏聞いてどう思うだろうなぁ)

 私はそれなりに上手いほうだと思っている。それは顧問も認めてくれているし、そう思えるだけの練習は積んできたつもりだ。

 でも、それは演奏している側の評価であって、音楽に慣れていない人がどう思うかはまた別問題だ。

 やはり、演奏を聞かせる以上は上手いと思って欲しい。

 不安に思いながら適当にホルンを吹いていると、講堂の扉が開き、中に人が入ってきた。

 ……長い髪に白い肌、そしてキラリと光る眼鏡。

 理奈はその人物が誰なのか、すぐに判断することができた。

「あれ? 雪乃じゃない」

「おはよう理奈ちゃん」

 講堂にこっそりと入ってきたのは雪乃だった。

 雪乃は学生カバンを入口付近に置き、乱れた長髪を手櫛で整えながら壇上まで小走りで近付いてくる。

(やっぱり来たわね……)

 雪乃が来ることもある程度は予想していた。

 恭平のことを好きだと私に教えてくれたのだし、恭平を女子生徒と二人きりにするわけがない。例えそれが私であろうとも。

 むしろ、私だからこそ講堂に現れたとも考えられるが、そこは深く考えないでおこう。

 理奈は恭平の行方を聞こうと考えていたが、それよりも先に雪乃の口から恭平に関する情報が飛び出てきた。

「今日は恭平先輩は来ないよ」

 雪乃は壇上に上がり、私の目をまっすぐ見据える。

 その目からは確信のようなものが感じられた。先輩に直接確認したのは間違いなさそうだ。と言うか、雪乃が恭平に来ないように指示した可能性もある。

「どういうこと……?」

 理奈は詳しい事情を知るため、遠慮無く雪乃に質問する。

 すると、雪乃は無言で携帯電話を取り出し、その画面をこちらに向けた。

 画面にはメールが表示されており、理奈は遠慮なくその一文を読み上げる。

「えーと、“ごめん風邪ひいた。理奈によろしく。”か……」

「一応、電話でも確認したんだけれど、咳も酷かったよ……」

 夏風邪にしては時期が遅いが、雪乃がそういうのなら本当なのだろう。

 恭平が来ない事を知り、理奈は怒りを覚えると同時に安堵していた。

 あいつが来なかったのは風邪のせいであり、決して約束を忘れていたわけではない。約束をすっぽかしたのは事実だが、こうやって雪乃に伝言を頼んでくれたわけだし、許してやろうではないか。

「何よ……。それならそうと昨日に連絡してきなさいよね……」

 もうこれ以上待っている理由はない。

 理奈はホルンからマウスピースを抜き取り、手早く楽器ケースに仕舞っていく。

 すると、作業中に雪乃が別件で話しかけてきた。

「理奈ちゃん、ちょっと相談したいことがあるんだけど……」

 雪乃は自分の胸元に手をやり不安げに周囲を見ている。どうやら、人に聞かれたくない話をしたいみたいだ。

「ちょっと待って」

 理奈は短く応えると、テキパキと楽器を仕舞う。

 十数秒ほどで片付けは完了し、理奈は雪乃の相談とやらに乗ることにした。

「はいお待たせ。相談って何の相談かしら」

「うん、恭平先輩に関する相談なんだけど……」

 この時点で雪乃は既に頬を赤らめており、両手の指同士を合わせてもじもじしていた。

 この姿を見た理奈は、次のセリフを簡単に予想することができた。

「……私、文化祭の最終日に先輩に告白しようと思う」

「そう……」

 昨日の昼休みの美術室での様子を見る限りでは、既に雪乃と恭平はスキンシップを取れるくらいの仲になっている。

 告白すれば絶対にOKを貰えるはずだ。

 と言うか、雪乃ほどの女子に告白されれば、同性の私でもOKしてしまいそうだ。

 雪乃はメガネをしきりに弄りながら言葉を続ける。

「……でも、私一人じゃ多分うまく告白できないと思う。だから理奈ちゃんに手伝って欲しいの」

「勿論いいわよ」

 理奈は二つ返事で雪乃のお願いを聞き入れる。

 しかしこの時、理奈は胸が締め付けられるような感覚に陥った。

「……ッ!?」

 不意に訪れた感覚に戸惑い、理奈は思わず自分の胸を押さえてしまう。

 一瞬鼓動が不安定になったような、立ちくらみに近い感覚。

 しかしそれもほんの一瞬のことで、理奈はすぐに気を取り直すことができた。

「どうしたの理奈ちゃん?」

「……何でもない。それより、告白するならシチュエーションを考えないとね」

 なるべく、静かで二人きりになれる場所の方がいい。

 文化祭中は空き教室も使われるし、そういう場所を探すのは難しそうだ。

「シチュエーション……。やっぱり、屋上とか?」

「定番だけれど、屋上は立入禁止だから無理よ」

「だよね……」

「場所はどうとでもなるわ。……それより先に、何を言うか考えておいたほうがいいわね。単に“好きです”って言っても伝わらない可能性もあるわけだし」

「伝わらないって、どういうこと?」

「答えをはぐらかされる可能性もあるってことよ。付き合うか付き合わないかの二択を迫ったほうが、後々後腐れなくていいと思うわ」

「なるほど……流石は理奈ちゃんだ」

「まあ、恭平は雪乃のことを気に入ってるみたいだし、悩むこともないと思うわ。内定してるも同然だと思うし」

「うん、そうだといいんだけれど……」

 そんな事を話しているうちに、講堂内のスピーカーからチャイムが聞こえてきた。

 これは朝の予鈴だ。時計を見ると、ホームルームまであと5分足らずだった。

「もうこんな時間……。早く教室に行くわよ」

 雪乃は小さくうなずき、先ほど走ってきた道を引き返していく。

 その際、はにかみながらお礼を言ってきた。

「理奈ちゃん、ありがと」

「このくらいでお礼を言わないで。でも、告白が成功したあかつきには死ぬほど感謝してもらうわよ」

「……うん」

 冗談のつもりで返事をしたのだが、雪乃は真剣な表情で、それでいて嬉しそうに首を縦に振った。

 その後、理奈と雪乃は小走りで講堂から出て、それぞれ自分の教室へ向かっていく。

 廊下を走りながら、理奈は先ほど胸に生じた不思議な感覚について考えていた。



 ――文化祭。

 阿賀谷学園の文化祭は高等部主体で行われ、期間中は小等部や中等部からも生徒が集まってくる。

 私も、小等部の頃は何度か文化祭に行った記憶がある。

 文化祭は土・日・祝日を通して三日間行われ、色んな部活が演奏やダンスや劇などを披露し、クラスごとにちょっとした出し物もある。

 また、OBなども参加し、かなり賑やかになるらしい。

 3日間もあるので、スケジュールはそれほどきつくなく、合間の時間を使えば全ての展示や発表を見ることも可能だ。

 その点では、比較的まったりとした文化祭と言えるだろう。

 初日の今日、理奈は他の吹奏楽部員と共に体育館内でスタンバイの作業を行っていた。

(結局、恭平に演奏聞かせてあげられなかったな……)

 雪乃の話では、恭平はあれからずっと風邪で寝込んでいるらしい。

 チャンスと思ってお見舞いにも行ったらしいが、結構症状が重いようで、雑談すらできなかったと話していた。

 今日あたり、体調も良くなっていると思うのだが、正直どうなっているのか分からない。

 まあ、死ぬようなことでもないし、最終日に来てくれたらそれでいい。

 ホルンをケースから出して状態を確認していると、近くから耳触りの良いテノールボイスが聞こえてきた。

「準備、忙しそうだな。三瀬」

 私のことを苗字で呼び捨てにするのは今のところ二種類の人間しかいない。

 一人は教師で、もう一人は……

「阿賀谷先輩……?」

 声がした方に顔を向けると、体育館のステージ脇に阿賀谷先輩の姿を見つけた。

 先輩は相変わらず格好良く、暗がりなのに眼鏡がキラリと光っていた。

 どうやら先輩は私に話があるらしい、こちらに手招きしている。

 理奈は一旦楽器をパイプ椅子の上に置き、阿賀谷の元に移動した。

「なんですか先輩。今準備で忙しいんですが?」

「そうか、なら単刀直入に言う。……オレと一緒に出店を回らないか」

「はい……?」

 急な申し出に、理奈は一瞬頭が真っ白になってしまった。

 聞き間違いかもしれないと思い、理奈は確認の意味を込めてもう一度聞き直す。

「先輩、今なんて?」

 阿賀谷先輩はこちらから目を逸らし、先程より早口で言う。

「だから、文化祭の期間中、オレと一緒に行動しないかと言っているんだ」

(……もしかして私、誘われてる?)

 まさかあの阿賀谷先輩から誘いを受けるとは思っていなかった。

 この場合、どう返事するのが正解なのだろうか。

 ……黙ったまま返事を考えていると、この沈黙を拒否と受け取ったのか、阿賀谷先輩は再度問いかけてくる。

「空き時間はたっぷりあるだろう。それとも何だ、予定でもあるのか?」

 予定という言葉を耳にし、理奈は改めて自分のスケジュールを確認する。

 吹奏楽部の演奏はそこまで忙しくないし、空き時間は結構ある。しかし、その時間を先輩とずっと一緒に過ごすのは気が引ける。

 どちらかと言うと雪乃と一緒に行動したい。

 ……そもそも、恭平への告白の準備もあることだし、阿賀谷先輩と遊んでいる暇はないのだ。

 正当な理由を見つけた理奈は、阿賀谷の申し出を断ることにした。

「そう、予定があるの。文化祭の間は雪乃と一緒にいるつもりだから……」

「そうか、それなら仕方ないな。しかし、困ったな……」

 阿賀谷先輩はあっさり身を引き、珍しく困った表情を見せる。あの阿賀谷先輩が困るとなると、相当に深刻な事態かもしれない。

 気になった理奈は、事情だけでも聞いてみることにした。

「何か問題でもあるの?」

「実はだな、その雪乃から、お前と一緒に行動するようにお願いされたんだ」

「んん? 意味がわからないんだけど」

 本当に意味がわからない。

 自分の耳がおかしくなったのではないかと思っていると、阿賀谷先輩も同じようなセリフを言う。

「オレも意味がわからない。とにかく雪乃から手紙を預かっている。これを読めばわかるだろう」

 阿賀谷先輩はそう言うと、内ポケットから青色の封筒を取り出した。

 封筒には陶器のイラストが描かれており、雪乃のものだとすぐに確信が持てた。

 理奈は封筒を受け取り、中の手紙を取り出す。

 手紙には小さな文字で短い文章が書かれていた。

(“恭平先輩のこと相談に乗ってくれてありがとう。理奈ちゃんも阿賀谷先輩と頑張って。”)

 一瞬何のことか理解できなかったが、2回3回と読むうちに雪乃の考えが読めてきた。

(雪乃、私が阿賀谷先輩に気があると勘違いしてるんじゃ……?)

 この文面から察するに、雪乃は私と阿賀谷先輩を二人きりにしたい様子だ。自分の告白もままならないのに、他人におせっかいを焼いている場合ではない。

 このまま断るのは簡単だが、そうすると阿賀谷先輩に失礼というものだ。

(仕方ないわね……)

 雪乃も悪気でやったわけじゃない。ここは友達として責任を負うことにしよう。

「分かった。文化祭中、よろしくお願いするわ」

「こちらこそ宜しく頼む」

 阿賀谷先輩は芝居がかったお辞儀をし、微笑する。

 ふざけてやっているのか、それとも真剣にやっているのか……。分からないのが質が悪い。

 どちらにせよ、様になっているのはまごうことなき事実だった。

 そんな先輩を冷ややかな目で見つつ、理奈は根本的な事を質問する。

「それにしても阿賀谷先輩、どうして雪乃のお願いを聞いてあげたの?」

「あの雪乃に涙目で懇願されてみろ。何がどうあっても断れないぞ」

「……」

「それは冗談として、演奏が終わったら迎えに来る。南側の出入口で待っていてくれ」

 阿賀谷先輩はそれだけ言うと、さっさとステージの袖から離れていく。

 まだまだ疑問点はたくさんあったが、今はそんな事を考えている場合じゃない。

 理奈は演奏に集中するべく、ステージ上に戻ることにした。



 ――約2時間にも及ぶ演奏の後、無事に役目を果たした理奈は体育館の裏で独り、地べたに座って休憩していた。

(疲れた……)

 ずっと吹きっぱなしという訳ではないが、それでもやはり疲れるものは疲れる。

 これが場所を替えて後何回もあるかと思うと少し気が滅入る。

 しかし、演奏自体は中々盛況で、お客さんの数も多かった。

 クラシックなどを演奏していた時は反応が薄かったのだが、ポップソングのアレンジ曲や一昔前のヒットソングなどを演奏すると、拍手の大きさも全然違っていた。

 やはり、クラシックを普段聞かない人には、こういう曲のほうが受け入れやすいし、聞いていて楽しいのだろう。

 私自体もそこまでクラシックに造詣が深いわけでもないので、お客さんの気持ちもわからないでもなかった。

(さて、そろそろ南の出入口に行こうかな)

 演奏が終わって10分経ったことだし、阿賀谷先輩もそろそろ来ている頃だろう。

 理奈はその場で立ち上がり、スカートに付いた土埃を手で払う。

 スカートの汚れはこれで綺麗に落ちたが、今度はその土が手についてしまった。

 運動場のような乾いた砂なら簡単にはたき落とせるのだが、こう湿った土だと水で流さない限り綺麗になりそうにない。

 一旦トイレに行ったほうがいいかもしれない。

 そう考えた理奈は体育館から離れるように歩き始めたが、動き出してすぐに呼び止められてしまった。

「ここにいたのか。三瀬」

「あ、先輩」

 落ち着いた様子で歩いてきたのは阿賀谷先輩だった。

 先輩は別に私を咎めるでもなく、無言で私の隣に立つ。

「さて、それでは案内してもらおうか」

「あれ? 先輩が案内してくれるんじゃ……?」

「行きたい場所はないのか。そこに付いていくつもりだったんだが」

「こういう場合は男の人がエスコートするべきだと思う」

 こちらの進言に対し、阿賀谷先輩はこめかみあたりを指で掻きながら暫く考える。

 目立つのは嫌だし、なるべく人がいない場所のほうがいいなと思っていると、ようやく阿賀谷が行き先を提案してきた。

「それなら、まず手始めに美術部の展示でも見て回るか。恭平の作品も見てみたいだろう?」

 中々良い提案だ。

 理奈はその気持ちを正直に伝える。

「いいと思う。でも、先にトイレに行っていい?」

「……分かった。その間コースを考えておこう」

「お願いね」

 手を洗うだけなのでそんなに時間は掛からないだろう。

 理奈は阿賀谷を待たせぬよう、急いでトイレに向かうことにした。



 阿賀谷先輩に案内されること一時間とちょっと。

 理奈は案内されるがまま校内を練り歩き、今は校舎裏にある庭園を訪れていた。

 この庭園には小さな木や色とりどりの花が植えられているのだが、万年日影なのであまり華やかな印象はない。それでもちゃんと花を咲かせているのだから、植物というのは逞しい。

 そんなパッとしない庭園の中央あたり。

 そこに大きな鷲のオブジェが飾られていた。

 鷲のオブジェは全てが廃材などで構成されていたが、翼を広げたその姿はとても神々しく見えた。

「これが恭平の作品……」

「どうだ凄いだろう」

「うん、熊とか他にも色々見てきたけど、これは一番の出来だと思う」

 恭平の廃材を用いたオブジェは、華がない植物たちによって四方を囲まれていた。

 もっと日の当たる場所に置いてやったほうが光を反射して映えると思うのだが、大きさ的にここしか設置場所がなかったのだろう。

(ほんと、無駄に大きいわね……)

 大きさは実物の鷹の何倍も大きい。高さは2メートルを軽く越しており、迫力も十分だった。これだけ大きいと重さも相当なものだろう。

 理奈は庭園に足を踏み入れ、もっと近付いて観察してみる。

 鷲の鋭い目はまるで本物の鷹から繰り抜いたようにいきいきとしている。

 また、羽の部分は鉄琴の部品で構成されてて、重量感を持ちながらも、軽やかな雰囲気を醸し出していた。

 阿賀谷先輩は鷲のオブジェのまわりをぐるりと回りつつ、手元の冊子にチェックをいれる。

「取り敢えずこれで半分は回ったかな」

「まだ半分なのね……」

 冊子は美術部が作成した物で、そこには作品のリストと場所が記されたマップが載っている。学内に散りばめられた作品を見て回ろうという企画らしいが、少しばらけ過ぎな気がする。ある程度は美術室内にまとめて展示したほうが良かったのではなかろうか。

 設置するのも、片付けるのも面倒そうだ。

 理奈も阿賀谷と同様に鷲を見上げながら、他の作品についても触れる。

「……ところで、阿賀谷先輩の作品はないんですか」

 これまで絵画を始め色んな作品を見せられたが、阿賀谷先輩の名前は見当たらなかった。

 理奈の質問に対し、阿賀谷は肩をすくめる。

「あるにはあるが、あれは科学部の展示の方に持って行かれてしまってな」

「持って行かれたって……それでいいの?」

「まあ、アレは創作というより、工作に近い作品だったからな」

「……?」

 よく分からないが、先輩の作品は科学部で展示されているらしい。

「取り敢えず見てみたいわ。案内してよ」

「はいはい、仰せのままに」

 阿賀谷はこちらの要求を承諾し、再び校舎へと戻っていく。

 理奈は鷲のオブジェから離れ、その後を追った。


 ……移動し始めて5分後、理奈と阿賀谷は化学室の中にいた。

(やっぱり、いつ来ても薬品くさいわね)

 内部にはあまり人はおらず、何かの実験装置がズラリと並べられている。

 実験装置の手前には説明文らしき物が書かれていたが、どれもこれも数式やよくわからない記号が書き連ねられており、理解の範疇を超えていた。

 そんな中、理奈は見慣れた物を見つける。

「あ、時計だ」

 化学室の中央、平たいテーブルの上に小さな文字盤を見つけた。

 しかし、小さいのは文字盤だけであり、時計本体はかなり大きく、重量感があった。内部の構造もよく見え、そこには無数の歯車や何らかの機構が見て取れた。

 段ボール箱ほどの大きさの時計の手前には、単に『機械式時計』とだけ書かれたプレートが置かれていた。

(昔の時計かしら……)

 その物珍しい時計をジロジロと見ていると、阿賀谷先輩が勝手に説明し始めた。

「それがオレの作品だ。シンプルでいいだろう」

「シンプル……?」

 どう見ても複雑だ。

 よく見ると文字盤の他にも針がたくさんあり、それぞれが違う時を刻んでいる。時間の他にも何かを示しているようだ。

「これ、本当に先輩が作ったの? あり得ないくらい凄いじゃない」

「凄くないさ。設計図通りに作っただけだ。最近のプラモデルのほうがよっぽど難しい」

「そんなものなのね……」

 もしそうだとしても、凄いものは凄い。

 無数の歯車がそれぞれのタイミングで動く様子は、見ていて飽きない物だった。

「恭平から聞いたんだけど、阿賀谷先輩って腕時計とか作ってるのよね? どうせならそっちの方を展示すれば良かったんじゃない?」

「確かに作ってはいるが、一人じゃ何もできないのが現実だ。手伝ってもらってようやくそれなりの物ができる程度だ」

「それなりでも何でもいいから、先輩が作った腕時計見てみたいなぁ」

 素直な感想を述べると、阿賀谷先輩は機械式時計の上に手を載せ、語り始める。

「……初めて腕時計を完成させたのは11歳の時だった。その時の腕時計は50万の値がついた」

「50万……!?」

 予想を超えた額に理奈は驚きを隠せない。

 こちらが呆然とている間にも、阿賀谷先輩は話を続ける。

「オレの伯父は日本じゃ結構名の知れた時計職人で、その時計は彼の仕事場で2年かけて作った。つまり、伯父のネームバリューで高値がついたようなものだ。でも、落札された時は本当に嬉しかった」

 語るに落ちた阿賀谷先輩は、とても懐かしげに語り続ける。

「金属の歯車の集合体が、それこそ宝石よりも高い値段で取引されている。職人の手が加わるだけで、薄くて小さな金属がとんでもなく価値のある物に変化する。……将来は俺もその担い手の一人に成りたいと思っている」

 そこまで言うと阿賀谷先輩は我に返ったのか、機械式時計から離れて咳払いをする。

 意図せず話してしまったらしいが、ここまではっきりとした目標を持っているのは素晴らしいし尊敬できる。

 無表情で何を考えているか分からない先輩だったが、少しだけ彼について理解できた気がする。

「はっきりとした夢があるのね。私なんてまだ何も……」

「安心しろ。普通の高校生はオレほど明確な目標を持っていない。ゆっくり見つければいいさ」

「そうね……」

 ここで一旦言葉を区切り、阿賀谷先輩は話題を変えた。

「さて、オレの作品はこれだけだ。美術部の展示に戻るぞ」

「まだ半分しか見てないのよね」

「その通り。次の演奏時刻までには見終わるだろう」

「そうだといいんだけれど……」

 会話をしている間に理奈は阿賀谷先輩と共に化学室から退室し、廊下に出る。

「次は職員室だ」

「そ、そんな所にまで展示してるの?」

「ああ、実はあそこの展示には結構自信がある」

「はいはい……」

 先輩は意気揚々と話し、またしても先行していく。

 理奈は再度科学室内にある機械式時計を見た後、阿賀谷の後を追いかけた。


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