3 夏休み
美術館の見学から3日経った。
雪乃はあの日の翌日から髪を上げ、次の日にはナチュラルメイクをし、今日はメガネも新しい物に変えていた。
自分を変えるというのは、かなりの勇気を要する。根暗な雪乃には、普通の人間以上に勇気が必要だったはずだ。
それでも雪乃は私のアドバイスに従い、変わってくれた。
(やる時はやる娘なのね……)
その効果は早速現れたようで、昨日はクラスのグループワーク中、数名が話しかけてきてくれたらしい。
今日の休み時間も、女子生徒と色々会話できたとも言っていた。
いい傾向だし、大きな進歩だ。
しかし、格好は変わっても中身や習慣までは変えられない。
今日も雪乃は美術室の中でろくろと向き合っていた。
「どう雪乃、変わった気分は」
理奈はろくろを挟んで反対側に座り、雪乃に話しかける。
雪乃は、ろくろの上で土の塊を捏ねながら答える。
「うん、何だか別世界にいるみたい。みんなも先生もまともに接してくれるし、自信が持てた気がする。……本当にありがとう」
嬉しげに礼を言う雪乃に対し、理奈は軽く応じる。
「礼なんかいいよ。ほら、土捏ねて土捏ねて」
「うん」
雪乃は私の言葉に素直に従い、土を捏ね続ける。
ぐにゃぐにゃと形を変形させていくその塊を眺めつつ、理奈は思ったことを率直に語る。
「雪乃と友達になれて本当に良かった」
「え……?」
「自己投影っていうのかしら。初めは根暗で孤独なあなたに単に同情していたんだけれど、それは大きな間違いだったみたい」
理奈は一旦言葉を区切り、美術室内をみる。
今日は私と雪乃以外誰もいない。これならいつも以上に惜しげなく本音を言えそうだ。
理奈は咳払いして姿勢を正し、真面目な表情で雪乃に話す。
「私、あなたの魅力に惹かれていたんだと思う」
「……」
雪乃は先ほどから作業の手を止め、私をじっと見ている。
言葉を理解しているのか、単に驚いているのか、どちらにしても私は自分の言葉を止められそうになかった。
「その魅力の中に可愛い容姿は勿論含まれるけど、やっぱり一番の魅力はその行動力かもしれないわ」
「……行動力?」
「そうよ」
雪乃から反応を得たことで、理奈は更に饒舌になっていく。
「人はそう簡単に変われるものじゃないわ。好転する可能性はそんなに高くない。失敗したら状況はより悪くなる。……でも、雪乃は一週間足らずでいじめられっ子から注目の的に変わったのよ。それって凄いことじゃない?」
「それは理奈ちゃんや先輩が助けてくれたからで……」
「違うわ」
理奈は雪乃の言葉を遮り、自身の思いを伝え続ける。
「私と恭平が助けたいって思ったのも、雪乃の持っている魅力のお陰だって言いたいのよ」
「駄目だよ理奈ちゃんそんなに褒めないで……」
「私は思ったことを言ってるだけ。お世辞なんて言うつもりはさらさらないわ」
多少は過剰かもしれないが、そんな事は誤差の範囲内だ。
雪乃は自分のことを過小評価しているのだし、こちらが過大評価するくらいで丁度いい。
そんな事を考えていると、急に雪乃が目を伏せた。
続けて、か弱い声で謝罪の言葉を述べる。
「ごめんなさい……」
ついでに嗚咽も漏らし始める。
なぜ急に謝り、そして泣いているのか。
全く理解できなかった理奈はその理由を本人に問いただす。
「急にどうしたのよ。あなた、私に謝るようなことしてないでしょ」
「ううん、謝らせて」
雪乃は両手を土の塊から離し、膝の上に置いた。
そんな動作を見たせいか、理奈も自然と背筋を伸ばしてしまう。
少しの沈黙の後、雪乃は泣きながら告白し始めた。
「……実は私、理奈ちゃんのこと凄く無神経でひどい人だって思ってた。平気で人が傷つくことを言って、楽しんでる人だと思ってた」
「そう……」
「でも本当は、自分の気持ちを偽らない純粋な人だって分かった。それに、相手のことをちゃんと見てる。誰よりも相手のことを思ってるから、本音を言わずにいられないんだよね……」
「ちょっと持ち上げ過ぎじゃない?」
私はそんな崇高な理念を持っているわけじゃない。
言いたいから言う。ただそれだけのことだ。
「……言い忘れていたけど、泣き顔は不細工だから人前で泣くのはやめときなさいよ」
「うぅ……そうする……」
雪乃は相変わらず泣き止まないが、その表情に笑顔が混じった。泣き笑いである。
「だから、泣かないでよ……」
これもまた不細工だったが、全く不快ではなかった。
「――あーあ、とうとう泣かせたか」
急に聞こえてきたのは恭平の無神経な声だった。
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? 今いい所だから」
「何がいい所だよ……」
恭平はこちらの言葉を無視して雪乃の隣で膝をつき、顔を覗き込む。
「……どうした雪乃、折角の可愛い顔が台無しだぞー?」
まるで子供をあやしているみたいだ。
しかし、第三者の登場によって雪乃は気分を落ち着けることができたらしい。
雪乃は何時になく真剣な表情で私を見て、告げる。
「私も……私も、信じられる人には本音でぶつかろうと思う。理奈ちゃんみたいになりたい」
(私みたいに……か)
この時の理奈は、雪乃の言葉の裏に隠された本当の意味を理解できていなかった。
――あれから2ヶ月半が過ぎた。
私は相変わらず美術室に通い続け、雪乃と親交を深めていった。
やはりというか何というか、この2ヶ月で雪乃はとても明るくなった。もうオドオドした話し方もしていないし、クラスメイトともうまくやっているらしい。私と話す時はまだ顔を赤くしたり、頼りない表情を見せる時もあるが、それはそれで可愛い。
同学年だというのに、彼女は私を姉か何かのように慕っている。私も妹とまではいかないが、雪乃とは仲良くしている。
そんな彼女とは対照的に、私はより一層集団から孤立していた。
クラスでは腫れ物のように扱われ、部活でも先輩からの風当たりが強い。
成績もいいし、演奏も上手いし、気も勝っているのでいじめは受けていないが、居心地が悪いのは事実だ。
ホルンで演奏したいがために部活に参加しているわけだが、ここまで居心地が悪いと、このままでいいのか悩んでしまう。
私としては演奏さえできればいいのだし、部活をやめてどこかで勝手に練習してもいいかもしれない。今は学校以外にもジュニア吹奏楽団だとか、少年少女吹奏楽団もあるわけだし、そっちに行っても問題ない。
(でも、そうなると楽器を借りられないのよね……)
今私が使っているのは学校が所有しているものだ。マウスピースは何とか買えるレベルだが、楽器本体となると手が出ない。
バイトでもしようか。
そう思っていた矢先、ふとあることを思い出した。
(そう言えば、廃材置き場に色々楽器捨てられてたわね……)
以前、恭平の作業風景を見学した時、廃材の山に金管楽器を見た気がする。殆どが錆びたりへこんだりしていたが、ちょっと直せば使えるのではないだろうか。
この2ヶ月でかなりの回数恭平の作業を見ているし、気のおけない会話をできるくらいには仲良くなった。
ちょっと頼めば楽器の一つや二つ、修理してくれるかもしれない。
(でも、流石に楽器の修理は無理だろうなぁ……)
道具は使えるだろうが、直せるかどうかはまた別問題だ。
そういう意味なら、手先が器用そうな阿賀谷先輩に頼んだほうがいいかもしれない。
(阿賀谷先輩……)
最近知ったのだが、彼はこの阿賀谷学園の学園長の孫らしい。
苗字を聞いた時点で気づくべきだったかもしれないが、それよりのあの甘いマスクに注意が行ってしまい、苗字のことをすっかり失念していたのだ。
阿賀谷先輩にはたまに話しかけられる。特に、美術室で二人きりになった時は必ず話しかけられる。
私に興味を持ってくれるのはありがたいことだが、常に無表情で何を考えているのか分からないので結構不気味だ。鉄面皮とでもいうのだろうか。
色々と考えていると、遠くから恭平の声が聞こえてきた。
「――おーい、さっきの器械運び終わったかー?」
「ちょっと待ってー……」
……現在、私は恭平先輩と廃材置き場にいる。
遊びに連れて行ってくれるというので、昼まで作業を手伝う約束をしたのだが、この分だと遊ぶ気力を失ってしまいそうだ。
なけなしの気力を使い、理奈は抗議の声を上げる。
「ねえ恭平、いつまで手伝わせるつもり? もう疲れたんだけど」
「作業を手伝いたいって言ったのはそっちだぞ。文句言わずにキリキリ働け」
「手伝うとはいったけど、まさか、夏休み初日からこんなことをさせられるなんて……」
「嫌なら帰ってもいいんだぞ」
「……」
真上から照りつける太陽光は確実に私の体力を奪っており、作業の手を鈍らせていた。
理奈は廃材アートに使うであろう金属の塊を運びつつ、文句を続ける。
「それにしたって、女子に力仕事はないんじゃない?」
「そのくらいで文句言うなよ。今日の食事代から旅費交通費、全部俺が持つって約束させられたんだ。このくらいの苦労は……」
「うわ、お金のことでグチグチ言うなんて情けない。そんなんじゃ絶対モテないよ」
「余計なお世話だっての」
しかし、まあ、何から何まで奢ってくれるというのなら、このくらいの労働は対価としては妥当かもしれない。
作業を再開すべく腰に力を入れると、ほぼ同じタイミングで付近からか細い声が聞こえてきた。
「理奈ちゃん、それは言い過ぎだと思う。……先輩はちょっとはモテると思います」
額の汗を軍手の甲で拭いながら現れたのは雪乃だった。
雪乃は、学校支給のジャージを着用しており、おまけに日除けのための帽子も被っていた。長い黒髪は今は後頭部で纏められ、ポニーテールになっている。
ノースリーブのシャツにホットパンツ、ショートカットの私とは大違いである。
「ちょっとだけしかモテないのか……」
先輩は雪乃の言葉に少々引っかかりを覚えたようで、悩ましい表情を浮かべていた。
(雪乃、頑張ってるなぁ……)
雪乃も私と同じく恭平に労働を強要された者だ。
昨日までは“タダで遊びに行ける”と一緒に喜んでいたのに、蓋を開けてみればこのザマである。雪乃には本当に申し訳ないことをしてしまった。
「折角の休みなのにごめん。 嫌なら嫌って言っていいのよ?」
「……大丈夫。というか、この作業も案外楽しかったり……」
体はフラフラで足元も覚束ないが、口調だけははっきりしている。それに、何時になく目に力も感じられる。
(そう言えば、雪乃がここに来るの初めてだったっけ)
恭平の作品は写真で何度も見たことがあるらしいが、実際に見るのは初めてに違いない。
一応彼女も美術部員なのだし、こういうアートに何か感じる所でもあるのだろう。
「でも、やっぱり凄いね恭平先輩」
「そう?」
「だって、設計図も構造図も無しに、ぶっつけ本番であれだけの作品を作れるんだよ? もしも材料が廃材じゃなくてちゃんとした物だったら、自由に加工できるわけだから、もっと凄いことになると思う」
「そうかなぁ……」
雪乃は私以上に恭平の才能を評価しているみたいだ。
その後も作業の手を休めて雪乃と話していると、先輩から呑気な言葉が飛んできた。
「おいお前らー、それが終わったら出かけるぞー」
「やった!!」
「ようやくです……」
時間も11時を少し過ぎた頃だし、いい塩梅だ。
理奈と雪乃は何を言うでもなくハイタッチし、恭平の元へ向かうことにした。
作業も終わり、お昼時。
理奈、恭平、雪乃の三名は、近場のコンビニのベンチに仲良く並んで座っていた。
ポジションは右端から私、雪乃、恭平の順だ。
私は相変わらずラフで涼しい格好をしていたが、雪乃はジャージからフリルの付いたワンピースに着替えていた。
ワンピースはスカート部分がボーダー柄になっていて、袖や襟元は白のフリルで統一されている。その白は、肩口で結ばれている黒い髪とマッチしていた。
恭平は作業していた事もあって、薄いTシャツにカーゴパンツという何とも適当な格好をしている。しかし、意外と様になっているので文句はない。
全員の手にはスティックアイスが握られていたが、日影からはみ出ている恭平の物だけどろどろに溶けていた。
そのドロドロのアイスを一気に口の中に突っ込み、恭平は呟く。
「――取り敢えず海かな」
どうやら行き先を提案しているみたいだ。
「海より山がいい」
「私も山がいいです」
理奈と雪乃は恭平の言葉を即座に否定した。
しかし、恭平は負けじと海を推し続ける。
「山って水がないよな? 海は水があるよな? つまり、海のほうが涼しいってことだ」
変な理論で説得しようとする恭平に、理奈は言い返す。
「砂浜は熱いわよ? それに、山にも川の一つや二つあるわよ。水浴びくらいできると思うわ」
「川か……かなり遠そうだな。プールじゃ駄目か?」
「私、ごみごみした場所は嫌いなの」
「……」
少し不満げな恭平に対し、理奈は体を乗り出して雪乃越しに言う。
「とにかく、恭平は私達の水着が見たいだけなんでしょ? 川でも問題無いと思うわよ」
「べ……別にそういうわけじゃねーよ」
恭平は狼狽えながらも反論してきた。
「そんな事言って、実はお前も俺の裸を見たいんだろ?」
どうしてこういう考えに至るのだろうか。頭の中を少しでもいいから覗いてみたい気分だ。
それでも理奈はこの質問に正直に答える。
「……ほんのちょっとくらいは見てみたいわね」
私も年頃の女子高生だ。興味が無いわけでもない。
そんな私の言葉に便乗し、雪乃もか細い声で呟く。
「わ、私も結構見てみたいかも……です」
この答えは意外だったのか、恭平はため息混じりに首を左右に振る。
「お前ら、そういうのは正直に言わなくていいんだよ……。冗談で流せよ」
「いや、でも、腕を見た感じだと、結構筋肉ありそうですし」
「だから、もうその話は止めろって」
恭平は雪乃の言葉を無理矢理遮ると、カバンを持ってベンチから立ち上がり、勝手に何処かへ歩き始める。
「よし、山にしよう。取り敢えず駅前のバスターミナルまで行くぞ」
「ん、わかった」
理奈はスティックアイスを口の中に突っ込むと、脇においていたショルダーバッグを取り、恭平の後を追う。
「二人とも、まって……」
最後に雪乃が立ち上がり、一行は徒歩でバス停に向かうこととなった。
コンビニを出発してから1時間半。
理奈一行は山中にある幅の狭い川に到着していた。
河原には大きな石や岩がゴロゴロと並んでおり、小石は殆ど見られない。この分だと走ったりするのはムリだろうが、大きな岩は椅子やテーブルの代わりになるので意外と便利そうだ。
周囲を見渡してみても人影は全くなく、まさに貸切状態だった。
理奈は慎重に足を運んで川に近付き、指で水面に触れる。
すると、刺すような冷たさが指先を襲い、思わず鳥肌が立ってしまった。
「わぁ、冷たい」
私の言葉に感化されてか、雪乃も真似をするように手を水の中に突っ込む。
「本当に冷たい……。一時間近くバスに揺られたかいがあったね」
余程暑いのか、雪乃は水に手を突っ込んだ状態で、暫く冷たさに浸っている様子だった。
腕を突っ込むだけでこれだけ気持ちいいのだ。水の中に入ればもっともっと快適に過ごせることだろう。
冷たい水を全身で感じるべく、理奈は恭平に重要な事を伝える。
「それじゃ、水着に着替えるから、ここから50mくらい離れてくれない?」
「ん? 50mでいいのか」
「その言い方だと、50mくらいなら余裕で覗けるって言ってるみたいね」
「何でお前はいつも俺を貶める方向に解釈するかなぁ……」
先輩は全てを諦めたような表情を浮かべ、肩を落とす。
……まあ、予め駅前のトイレで水着を着込んでいるし、着替えると言っても上に着てる服を脱ぐだけだ。覗かれた所でどうということはない。
「ほら、雪乃も着替えに行くわよ」
「え、でも、更衣室は……?」
「そんなのあるわけ無いでしょ。あっちの岩陰で着替えましょ」
理奈は戸惑う雪乃の手を引き、恭平を放置して更に上流へ向かう。
その際、理奈はダメ押しで恭平に釘を差しておくことにした。
「……恭平、本当に見ないでよ」
「見せるほどの物もないのに、偉そうに……」
先輩は肩をすくめ、皮肉っぽく笑う。
そんな笑みを無視し、理奈は雪乃と共に岩陰へ向かった。
凹凸の激しい道を進んで岩陰に到達すると、理奈は溜息をつく。やはり、川の近くは涼しいとはいえ、暑いものは暑い。
さっさと着替えて水に浸かろう。
理奈は、特に何を言うでもなく早速服を脱ぎ始める。
ノースリーブのシャツを脱ぐと明るいオレンジ色の生地が現れ、ホットパンツを脱ぐとトップスと同じデザインのパンツ部分が露わになった。
理奈が着ているのはセパレートタイプの水着で、トップスは丈の短いタンクトップビキニで、パンツ部分もローライズ仕様のボックスショーツとなっている。
可愛いというよりは、アスリートが着用するような感じの水着だった。
服を脱ぎ終えると、理奈はそのままショルダーバッグに服を突っ込み、一息つく。その後、ズレている部分が無いかチェックし終えると、雪乃をちらりと見た。
雪乃のスリーサイズを確認するために一瞬だけ見るつもりだったのだが、その雪乃はワンピースの裾に手を掛けたまま恥ずかしげに俯いていた。
どうやら、私の前で着替えることを躊躇しているみたいだ。
「ねえ雪乃、着替えないの?」
声をかけると、雪乃は体をびくっとさせ、顔を上げてこちらを見る。
雪乃はしばしの間不安げな顔でこちらの顔を見ていたが、やがてその視線は私の体に向けられた。
「理奈ちゃんすごい。……ウエストは引き締まってるし、おしりも小さい。いいなぁ」
「そんな事言って、雪乃も結構凄いんでしょ?」
理奈は冗談のつもりで雪乃のワンピースを掴み、脱がす素振りを見せる。
すると、雪乃は「やめてよー」などと笑いながら後ろに退いた。……かと思うと、足場が悪かったせいか、バランスを崩して後ろ向きに倒れてしまった。
倒れた先は川であり、雪乃声にならない悲鳴を上げつつ水の中に豪快に落ちた。
「雪乃!?」
理奈はすかさず後を追うように水の中に飛び込み、水中で雪乃を捕まえる。
雪乃は少し混乱しているのか、暫くは水面を叩いて暴れていたが、こちらが背中から抱きつくとすぐに暴れるのをやめた。
「あ、理奈ちゃん、ありがと……」
「もう、何してるのよ。……って、私のせいか」
足場の悪い所でふざけた事を反省しつつ、理奈は雪乃から離れる。
ここはそこそこ水深があるようで、二人共立泳ぎをしていた。
このまま冷たい水の中にいようか、それとも一旦上がろうか。考えていると、雪乃に動きがあった。
雪乃は濡れたメガネをおでこの上に載せ、足側からワンピースを脱ぎ去る。
すると、白い生地に黒いラインが入った水着が露わになった。
雪乃の水着は私と同じセパレートタイプだったが、雪乃の方はお腹まで隠れている、少し肩紐が細いタイプの物だった。胸元は大きくVの字に開かれおり、胸の上の部分がよく見える。
水のせいでよく確認できないが、下は短めのキュロットスカートで、スカートから伸びる白い足はいつも以上にしなやかで、艶かしい感じだった。
雪乃は笑みを保ったまま濡れたワンピースを岩陰に投げ捨て、一人で泳ぎ始める。
私も後を追おうとしたが、恭平先輩の声のせいで止められてしまう。
「おい、二人共どこだ? 大丈夫か!?」
先輩は急いで走ってきたかと思うと、そのまま川の中に飛び込んだ。
既に先輩は上半身裸で、私達を探しているようだった。
「理奈!!、雪乃!?」
その叫び声に、雪乃と私は落ち着いた口調で応じる。
「どうかしたんですか、先輩?」
「何よ、溺れてるとでも思ったの? それとも、助けるふりして着替えを覗き見ようとしたんじゃない?」
上流から声を掛けると、先輩はこちらを見て安堵の表情を浮かべる。そして、続けざまに残念そうに項垂れた。
「うわ……ズボンびしょ濡れだわ……」
恭平先輩はすぐに川から上がり、丁度いい高さの岩に腰掛ける。そして、ポケットの中に手を入れたりしていた。
カーゴパンツからは止めどなく水が溢れ出ており、簡単に乾きそうにはなかった。
「はぁ……マジか……」
濡れたことがショックなのか、先輩は服も着ないで重い溜息をついていた。
こんなのを見せられて楽しく泳げというのは無理だ。
理奈は仕方なく川から上がり、恭平の隣に腰を下ろす。
「どうしたの恭平」
体を寄せ、顔を覗き込むと、こちらが想像した以上に先輩は深刻な表情を浮かべていた。
これはもうただ事ではない。川に何かトラウマでもあるのだろうか。
「あー、実に言いにくんだが……」
先輩は前置きをし、再度ポケットに手を突っ込んで呟く。
「財布、落としたかも」
「え……」
理奈は瞬時に川のほうを見る。
先輩が飛び込んだ辺りは中々流れが激しい場所で、水面に浮かぶ小枝や葉の動きからも財布が流されたのは簡単に予想できた。
一応下流の方にも注意を向けたが、その先は岩が連なって段差になっており、もし引っ掛かっていたとしても探すのは不可能に思えた。
「ご愁傷様」
「はぁ……」
先輩はさらに肩を落とす。
そんな姿がなぜかちょっぴり可愛く思え、理奈は無意識のうちに恭平の頭を手の平でポンポンと叩く。
「ドンマイドンマイ」
恭平先輩は嫌がるでもなく、呆れた顔をこちらに向けた。
「お前、人事みたいに言ってるが、交通費その他もろもろ俺が出してるってこと忘れてないよな?」
「そうだった……」
理奈は恭平の頭に載せていた手を耳に移動させ、上に引っ張る。
「今からでも遅くないわ。さっさと下流に探しに行きなさいよ。私、財布なんて持ってきてないんだから」
「イテテテ、探す、探すに決まってんだろ。さっさとその手離せよ」
恭平はそのまま耳の動きに合わせて立ち上がり、悪態をつく。
「痛ってーな。人様の耳を何だと思ってやがる……」
「何を探すんですか? 先輩」
質問をしながら川から出てきたのは雪乃だった。
雪乃は髪を絞りながら近寄ってきて、ごく自然に私と恭平の間に割って入る。
結果、私の手は恭平の耳から離れてしまった。
赤くなった耳たぶを撫でながら、恭平は雪乃に応じる。
「財布だ財布。さっき飛び込んだ時に川の中に落としたみたいでな」
「そうですか……それは残念でした」
雪乃は端から財布を探す気など無いようだ。
泳ぎ終えた後でテンションが少し高いのか、雪乃は隣にいる私の手を取り、持ち上げたり指を絡めたりと、手遊びを繰り返していた。
理奈はその手を適当にあやしつつ、今後の行動について言及する。
「交通費がなくなるのは痛いし、取り敢えず探すだけ探してみる?」
「おう、もしかしたら運良く岸に打ち上げられてるかもしれないしな」
前向きな発言をした後、恭平は一人立ち上がる。
「少しだけ探しましょうか」
「私も、手伝います」
理奈と雪乃も立ち上がり、恭平の財布の捜索が始まった。
歩くこと30分。
一行は川を注視しながら慎重に下流へ向かっていた。
しかし、財布らしきものは全く見当たらず、一向に成果を上げられないでいた。
たまに川にも入っているが、これは川底を探すためではなく、火照った体を冷やすための行動だ。
時間が経つに連れて水の中に入る時間も長くなり、既に理奈と雪乃は財布探しを諦めて、川遊びに興じていた。
理奈は水中から、川岸を歩く恭平に声をかける。
「どうなの恭平、財布見つかりそう?」
「うーん、正直言って無理だな。でも、ある程度探しとかねーと、諦めがつかねーんだよなぁ……」
見つけられたらラッキー、程度の認識で捜索を続けているようだ。
そんな時、雪乃が話しかけてきた。
「ねえ理奈ちゃん、あれ何だとおもう?」
雪乃はある一点を指さしてその先をじっと見ていた。理奈も指が向けられている方へ視線を向ける。すると、雑木林と岩場の中間に古い家が見えた。
「いい感じに古びてるわね」
家というよりは倉庫と言ったほうがいいのだろうか。古びているのは確かだが、壁はコンクリートで出来ているし、そこまで昔に建てられたものでも無さそうだ。
ただ、窓ガラスは勿論、外壁も一部が壊れていて、不気味な雰囲気を漂わせていた。
いつのも私なら近寄りたくもない場所だったが、究極に暇だった私にとって、その不気味な家屋は魅力的に感じられた。
このまま闇雲に探した所で財布も見つかりそうにないし、ここで一つ気分転換でもしようではないか。
「恭平、あれって何の建物か知ってる?」
私の言葉に反応し、先輩は川に向けていた目を建物に向ける。
暫く考えた後、先輩は答えを出す。
「分かるわけねーだろ」
「だよね……」
「あんなのはいいから、真面目に財布探してくれよ」
「勿論探してるわよ。……でも、ちょっとだけ見に行かない? 気分転換も兼ねて」
これだけ探しても見つからないのだ。今後、財布を発見できる可能性はゼロに等しい。
それならば、早々に注意を逸らして適当に遊んだほうが時間を有効に使えるというものだ。
「気分転換か……。確かに、珍しいモン落ちてそうだし、行くだけ行ってみるか」
断られるかとも思ったが、意外にこの案は良かったらしい。
恭平に加えて雪乃も賛成してくれた。
「確かに面白そう。ちょっと怖そうだけど、まだ昼間だし何も出ないよね」
虫や小動物は住み着いていそうだが、流石に霊的な物はいないだろう。
反対意見も出なかったので、3名は川から一旦離れて雑木林へ足先を向ける。
遠くから見た時は側面が雑木林に隠れて小さく見えていたが、近付いてみると意外と大きいことに気がついた。
壁は蔦で覆われており、壊れた窓から内部に向かって伸びている。
入口付近にはゴミが散乱していた。私達の他にもこの場所で遊んだ人がいたみたいだ。
「誰もいねーみたいだし、取り敢えず中入ってみるか」
恭平はこういうのが好きらしい。迷うことなく建物の中へ足を踏み入れる。
恭平の後に続いて私も建物内に入ろうとしたが、雪乃に呼び止められてしまった。
「理奈ちゃん、ちょっといい?」
雪乃はそう言いつつこちらに近寄り、腕を掴んで身を寄せる。
未知の場所に入るのだ。怖くて当然だというのは理解できる。だが、水着のままで体をくっつけられるのはちょっとヤバい。
(あ、柔らかい……)
しかしそれでも、私を頼ってくれるのは嬉しい。
もしこれが恭平先輩なら危なかった所だ。
理奈と雪乃の二人は、先行する恭平の後ろ姿を眺めつつ、屋内へ入っていく。
すると、恭平が急に走りだした。
「ちょっと、恭平!?」
慌てて理奈も走りだす。が、雪乃のせいで思うように走れない。
走るのを諦めてゆっくりと後を追うと、やがて暗い部屋に辿り着いた。
恭平はその暗がりの中で不気味な声を出して笑っていた。
「うへへ……すげぇ、なんだこれ、こんな古い器械見たことないぞ」
暗さに目が慣れてくると、室内が金属製の器械で埋め尽くされていることに気付いた。
先輩は錆も気にしないで室内にある物をベタベタと触って物色しており、かなり興奮している様子だった。
部屋の入口から恭平の様子を眺めつつ、理奈は呟く。
「私にはゴミの山にしか見えないけど、あいつには宝の山みたいね」
「そうみたいだね……」
雪乃はまだ暗い場所に慣れないのか、身を縮こませて私に必死にしがみついている。
このままだと腕に雪乃の手跡が残ってしまいそうだ。
財布探索から注意も逸らせたことだし、雪乃のためにも川まで戻ろう。
理奈はこの廃屋から出ることを決め、Uターンする。
来た道を戻り外に出ると、淀んだ空気から開放され、マイナスイオンたっぷりの新鮮な空気が肺に入ってきた。
理奈は深呼吸してその空気を胸いっぱいにため、ため息をつく。
すると、雪乃も同じように深呼吸し、付近にあった岩に腰掛けた。
「ごめん理奈ちゃん、邪魔だった?」
「どちらかと言えば邪魔だったわ。でも、そんな事を気にする仲でもないでしょ」
「……ありがと」
雪乃は小さく礼を言うと、しきりに私の方をちらちらと見てきた。
何か私に言いたいことでもあるのだろうか、気付かぬふりをして言葉を待っていると、すぐに雪乃から突拍子もない質問が飛んできた。
「ねえ、理奈ちゃんって……恭平先輩のこと好きだったりする……?」
(うわ、恋話だ……)
慣れない質問に若干戸惑いつつも、理奈は本心を告げる。
「恭平のことは結構気に入ってるわ。でも、好きかと聞かれると微妙な感じね」
「そうなんだ……」
こちらの言葉に過剰に反応し、雪乃は頬に手を当て恥ずかしげに俯く。
こんなに恥ずかしいのなら話を振らなければいいのに、難儀な娘だ。
雪乃は暫くの間俯き、何か考え事をしている様子だった。
その思考も十数秒で終わり、雪乃はとんでもない事実を暴露する。
「実は私、先輩のこと、好きだったり……」
雪乃は唯でさえ赤い顔をさらに赤に染め、明後日の方向に視線を向ける。
聞き間違いかと思った理奈は、もう一度言葉を訊くべく問いただす。
「それってつまり、あいつと付き合いたいってこと?」
「声が大きいよ、理奈ちゃん……」
雪乃はこちらの口元を手で押さえ、しきりに廃屋に視線を向ける。
理奈は雪乃の手をやさしく振り払い、普通に会話を続ける。
「いいじゃない。応援してあげるわよ」
「本当に? でも、そっちも先輩のことが好きなんじゃ……」
「気に入ってるってだけ。彼氏にするなら阿賀谷先輩くらいのイケメンのほうがいいわ……」
「面食いなんだね、理奈ちゃん」
「悪い?」
「ううん。とにかくありがと……はぁ……」
雪乃はこちらに礼を言うと、気が抜けたように息を漏らす。
理奈はそんな雪乃の隣に座り、何をするでもなく笑みを向ける。
すると、雪乃も笑みを返してくれた。
「勇気出して言ってみてよかった。もし理奈ちゃんが先輩のことを狙ってたなら、諦めるつもりだった」
「どうして?」
「だって、理奈ちゃん相手だと勝ち目なさそうだもん」
雪乃は私をどういう人間だと思っているのだろうか。
恭平の好み的には雪乃の方にアドバンテージがあるように思える。しかし、取り合いとなったら私はどんなえげつないことでもしてしまいそうだし、相手を倒すという意味では私のほうが有利なのかもしれない。
(ま、有り得ない話だけれどね……)
私が誰かを好きになるなんて、考えたこともないし、想像もつかない。
私が考えごとをしている間、雪乃は勝手に恭平について語り始める。
「そもそも、美術部に入ったのは先輩と話すきっかけが欲しかったからで、陶芸の練習は二の次なんだ」
「へー、そんなに前から狙ってたのね」
「うん、中等部の頃から。あの頃は問題児で有名だったけれど、私には自由な男子に見えたというか、どことなくワイルドな感じがするというか……」
「ワイルド、ねぇ……」
私にはただのだらしない男子にしか見えないが、雪乃の羨望に突っ込みをいれるほど無神経ではない。
恭平に関する他愛のない話を続けていると、廃屋から本人が出てきた。
私と雪乃はすぐに会話を止め、じっと恭平の顔を見つめる。
女子二人に見つめられてバツが悪かったのか、恭平は自ら話しかけてきた。
「二人共、何の話してたんだ?」
「秘密」
「言いたくないです」
雪乃と私は目を合わせた後、再度恭平を見つめてにまにまと笑う。
この笑みを煽りの表情と勘違いしたらしい。
恭平は苛立った口調で言い返してきた。
「お前ら、どうせ財布無くした俺を馬鹿にしてたんだろ」
「そんな分かり切ったことをわざわざ話すわけないじゃない。……さて、財布のことは忘れて遊びましょ。女子高生を二人も連れてるんだから、目一杯遊ばないと」
早速雪乃の恋路を応援する時が来たようだ。
理奈は雪乃の背中を押し、強引に恭平に接近させる。
「わ、理奈ちゃん何するの……」
雪乃に押される形で恭平も川へ向かっていく。
「おいおい、もう濡れるのはゴメンだぞ」
強気な口調で文句を言っているが、雪乃にくっつかれて動揺しているのが見え見えだ。
「だったら、恭平は見てるだけでいいわよ? 水着姿の女子高生が戯れる姿をね」
「何でそんなに偉そうなんだよ……」
恭平のツッコミを無視し、理奈はこれからの流れについて頭のなかでシミュレーションする。
水遊びの途中、適当なところで私が消えれば、雪乃は恭平と二人きりになれる。
誰もいない山の上流で水着姿の後輩と二人きり……。
流石の恭平も雪乃を意識せざるを得ないはずだ。
(完璧な作戦ね……)
……が、しかし、その完璧な作戦は初っ端から瓦解してしまう。
恭平はあっさりと踵を返し、川から離れたのだ。
「あー、悪い。俺はまた廃屋に戻るわ。後は二人で勝手に遊んでてくれ」
「は?」
「じゃあなー」
呑気な口調で言うと、恭平は私と雪乃を放置してそそくさと廃屋へと戻っていく。
やはりというか何というか、私達の水着よりも廃屋の中のスクラップのほうが魅力的なようだ。
「待って、恭平先輩……」
雪乃は情けない声を上げながら、廃屋へ入っていく恭平の後を追っていく。
一応二人きりになれるわけだし、これはこれで良しとしよう。
これ以上のお節介は野暮というものだ。
理奈は雪乃の後を追うことなく、一人で川へ向かった。
夏休みも半分を過ぎ、暑さもだいぶ和らいできた。
セミの鳴き声も控えめになり、暑さにうなされて夜中に起きることも殆ど無くなった。
夏休み中は何だかんだで忙しかったように思う。
宿題は毎日コツコツと進めているので苦しくはないが、吹奏楽部の練習は中々に大変だ。
パートごとの練習は勿論、全体練習も長時間行われていて、音楽室は毎度毎度熱気がこもってサウナのように暑い。
下手をすれば、運動部よりもカロリーを消費しているかもしれない。
(午前中で終わるのがせめてもの救いね……)
午後になると練習は終わりで、追加練習の必要がないパートは学校から開放される。
ホルンパートは特に可もなく不可もなく、顧問からもあんまり注意されないので追加練習させられたことは一度もない。
良いことなのか悪いことなのか判断に困るが、先輩とあまり仲が良くないので早く帰れるに越したことはない。
しかし、私はすぐに帰ることなく学校のとある場所で夕方になるまで時間を潰している。その場所とは、例によって校舎3階の端にある教室、美術室だった。
美術部は原則として、夏休みは活動していないのだが、教室だけは開放しているようで、おなじみの3人は毎日のように集まっていた。
阿賀谷先輩は小さなパーツをヤスリで磨き、雪乃はろくろを回して皿や椀や壺の形を整えている。しかし、ここ最近はろくろを回すよりも、恭平とお喋りしている時間が多くなっていた。
「あの、先輩、これどう思います?」
「中々いい曲線じゃないか。肌触りもすべすべだな」
「あ、駄目です先輩。そこはデリケートなんですから……」
「いいじゃないか。減るもんでもないんだし」
「減りはしませんけど、削れちゃいますので……」
「そうなのか」
雪乃の手には乾燥した陶器がのせられており、恭平はその陶器の表面を両手で触っていた。
今日も楽しそうに会話しているし、心なしか、二人の距離が近い気がする。
(仲良さそうね)
あの日以来……雪乃が恭平のことを好きだと暴露して以来、私はあまり恭平と関わらないようにしている。
朝のランニングのコースも変えたし、お喋りをする時もなるべく雪乃を交えて話すようにしている。
初めのうちは雪乃を応援しようと意気込んでいたわけだが、少し飽きてきたかもしれない。無理矢理告白させるという強攻策も考えはしたが、今のところ順調に仲を深めているようだし、もう少し様子を見てみよう。
……それにしても暇だ。
理奈は陶器を触り合っている二人を眺めつつ、黙々と作業している阿賀谷に話しかける。
「阿賀谷先輩、それ、削ってて楽しい?」
「話しかけないでくれないか。気が散る」
阿賀谷先輩は会話をする気など全くないようで、無愛想に言い放つ。
それでも、声を掛けた手前すごすごと黙るわけにもいかず、理奈は再度声を掛ける。
「確かそれって時計の部品なのよね? 毎日同じような部品削ってるけど、いつになったら完成するの?」
理奈は、椅子に座って作業している先輩に近付き、手元を覗きこむ。
阿賀谷先輩はすぐに作業の手を止め、こちらを睨んできた。
「……前々から言おうと思っていたんだが、ここでは静かにしてくれないか。他の連中と会話を楽しむのは構わないが、オレには関わらないでくれ」
「ごめんなさい。そんなにうるさかった?」
理奈はすぐに机から離れ、先輩から距離を取る。
それでも作業の様子を眺めていると、今度は阿賀谷先輩から話しかけてきた。
「……悪い。言い過ぎたな。時計に興味があるのか?」
先輩は作業道具を机の上に置き、メガネに取り付けられたルーペも外す。
どうやら会話に応じてくれるみたいだ。
「時計にはあんまり興味はないけど、先輩には興味あるかも」
理奈は近くに置いてあった椅子を手に取り、何の断りもなく先輩の隣に座る。
先輩は足を組みながら姿勢を変え、肘を机の上につき、こちらに体の正面を向けた。
「ほう、オレに興味があるのか」
「阿賀谷先輩って学園長の孫なのよね? どのくらいお金持ちなのかなって」
「ずいぶんと俗物的な質問だな……」
何がおかしいのか、阿賀谷先輩は小さく笑い、机から肘を離して背伸びをする。
その時、半袖が肩口まで滑り落ち、肩周りの筋肉が見えた。いつもちまちまと作業しているのでガリガリな体型だと思い込んでいたのだが、意外と肉付きがいい。着痩せするタイプなのかもしれない。
短い背伸びの後、先輩は律儀に質問に答えてくれた。
「……正直なところ分からない。親ならともかく、祖父の資産まで把握している学生もいないだろう」
「それもそうね。変なこと聞いてごめんなさい。でも、何か話そうにも話題が全然無いし……」
先輩の隣で難しい表情を浮かべていると、またしても先輩から話を持ちかけて来た。
「そんなに話がしたいのなら、時計に関するうんちくでも垂れてやろうか」
「うーん……、そういう小難しいのはパスで」
「本当に素直な奴だな、お前は」
またしても阿賀谷は笑い、快活な笑顔をこちらに向ける。
いつも無表情で無愛想な分、こういう笑顔を見せられるとドキリとしてしまう。
(うわ、ヤバいかも……)
理奈は無理矢理阿賀谷から視線を逸し、何か話題はないかとあちらこちらに目をやる。
すると、作業台の上に乗っていた細々としたパーツが目に入った。
理奈はそのパーツに手を伸ばし、何気なくコメントする。
「それにしても本当にちっさいわね、このパーツ……」
これをきっかけに、適当に作業内容でも聞こうかと思っていたのだが、阿賀谷先輩は唐突に大声を上げた。
「勝手に触るな!!」
「ッ!?」
阿賀谷の鋭い声に驚き、理奈は思わずパーツから手を離す。
その動作とほぼ同じタイミングで、阿賀谷は理奈の肩を掴み、そのまま思い切り突き放した。
支えも何もない状態で突き飛ばされ、理奈は当然のようにバランスを崩す。
「わっ!?」
必死で体勢を立て直そうとするも、理奈はそのまま椅子から転げ落ちてしまい、床と激突する。
その際、体を強く打ち、うめき声が自然と漏れてしまった。おまけに、後から倒れてきた椅子も太ももに命中した。泣きっ面に蜂である。
椅子が床とぶつかると、美術室内にけたたましい音が響き、室内にいた二名の視線が自然と私に向けられた。
雪乃や恭平から注目される中、阿賀谷先輩はすぐに謝罪してくれた。
「……すまん、咄嗟に手が出て……」
阿賀谷先輩はオロオロしながらこちらに近寄り、手を差し伸べる。
しかし、その手は後からやってきた恭平によって退けられてしまう。
「大丈夫か、理奈!!」
恭平は殆どダッシュに近い速度で駆け寄ってくると、そのまま私の傍らで膝をつき、心配そうな表情でこちらの顔を覗きこんできた。
「大丈夫。……って言うか近すぎ」
理奈はその顔面を手の平で押さえて遠ざける。
普通に会話ができることに安心したのか、恭平は「良かった」とだけ呟き、立ち上がる。
そして、私を突き飛ばした阿賀谷先輩に対峙した。
「……先輩、何してくれてんですか」
その声は刺々しく、敵意に満ちていた。
三年生を相手に喧嘩腰で話す恭平に対し、阿賀谷先輩は飽くまで冷静に対応する。
「悪い。事故みたいなものだ」
「何だと!?」
簡素な謝罪が頭にきたのか、恭平はいきなり阿賀谷先輩の胸ぐらを掴んだ。
掴んだ際に結構な衝撃があったようで、阿賀谷先輩のメガネが顔から外れて床に落ちる。
そんなメガネを気にすることなく、恭平はドスの利いた声を阿賀谷先輩に浴びせる。
「女子押し飛ばしといて事故で済むかよ。ふざけてんのか!?」
「事故と言ったら事故だ。オレも押し飛ばしたくて押し飛ばしたわけじゃない。……いいから離せ」
「そんな屁理屈、認められるわけ……うわっ?」
阿賀谷先輩は恭平の手首を掴み返し、そのままくるりと内側に回転させる。
腕を捻られた恭平先輩は顔を歪め、すぐに胸元から手を離した。しかし、攻撃の姿勢は解かれていなかった。
「この野郎……ッ!!」
胸ぐらを掴めないと悟るやいなや、恭平は腕を大きく引いて、殴る体勢に入った。
……このままだと大変なことになる。
私のせいで暴力沙汰になるのだけはゴメンだ。
「待って、ストップ!!」
理奈は倒れた体勢のまま足を突き出し、恭平の脛を蹴り飛ばす。
この蹴りは見事に命中し、恭平はうめき声を上げその場に蹲った。
「……何すんだよ理奈」
「そっちこそ、何勝手にキレてんのよ」
「キレてねーよ……」
恭平は脛をさすりながら私を睨む。
誰がどう見ても興奮状態にあるのは明らかだった。
「ふーん、あれだけのことしてキレてないって言えるんだ?」
「それは……お前のことが心配で……」
「ご心配どうも」
「……」
飽くまで冷淡に対応していると、だんだん恭平も落ち着いてきた。
ばつが悪そうにしている恭平に対し、理奈は事の顛末を説明する。
「いい? 私が不容易に部品をさわろうとしたのは事実だし、阿賀谷先輩は悪くない。そもそも、あんたがキレる理由がわからないわ」
「俺も、よくわかんねーよ……」
「よく分からないのに阿賀谷先輩に突っかかって行ったの?」
「……」
恭平はこちらから目を逸らし、阿賀谷先輩を見上げる。
阿賀谷先輩は特に手を出すつもりも無いようで、床に落ちていたメガネを拾い上げ、そのレンズをハンカチで拭いていた。
「すんません、先輩。ついカッとなって……」
「気にするな。それにしても、お前が誰かのために逆上するなんて珍しい。もしかしてお前、三瀬のことを……」
「――あ、理奈ちゃん、足から血が出てる」
阿賀谷先輩の言葉の途中で割って入ってきたのは雪乃だった。
雪乃は恭平を避けるように大きな弧を描いて私に近寄り、その細い指を太ももの上に這わせる。
触られた瞬間はくすぐったい感触を覚えたが、それはすぐにチクリとした痛みに変わる。
見ると、雪乃が触っている辺り……太ももの側面に切り傷ができていた。
「うわ、ホントだ」
多分、倒れてきた椅子とぶつかった時、尖った部分と接触したのだろう。
そこまでひどい怪我ではないが、消毒くらいはしておこう。
理奈は床に手をついてゆっくりと立ち上がり、その場にいる全員に告げる。
「ちょっと保健室行ってくる」
「付き添ったほうがいい?」
「ありがと雪乃、一人で平気よ。……あと、私このまま帰るつもりだから、気にせず作業を続けてちょうだいね」
一方的に宣言すると、理奈は足早に美術室から出て行く。
美術室はいつも静かだが、特に今は恐ろしいほどに静まり返っていた。
保健室があるのは校舎の1階、正面玄関のすぐ隣の部屋だ。
玄関を挟んで向こう側には事務室があり、事務員さんが働いている様子がよく見える。休みの日だというのに大変だ。
そんな事務室と打ってかわり、保健室内には誰もいなかった。鍵も掛かっていないし、不用心にも程がある。
「失礼しまーす……」
保健室内にはベッドが二つあり、窓から入る光が真っ白なシーツを照らしていた。
壁際には大きな棚があり、ガーゼや薬瓶が無数に並べられていた。部屋の隅には身長計や体重計もあり、消毒液の匂いも充満している。まさに保健室といった感じだ。
一応消毒くらいは自分でもできるし、適当にやっておこう。
理奈は遠慮なく室内に足を踏み入れ、診察台脇にある台車のトレイから消毒液を取り出す。
消毒液は市販のスプレータイプの物で、側面に使用法が丁寧に記載されていた。
(えーと、患部から十分離して、2~3秒噴射か……)
理奈は説明書きを読みながら診察台の上に腰を下ろし、そのまま靴を脱いで足ごと上に上げる。続けて、診察台に肘をついて横に寝っ転がり、片足を抱え込むように曲げた。
こうすることで自然とスカート捲れ、太ももの側面が露わになる。同時に、怪我の様子もよく見えるようになった。
「うわ、結構ざっくりいってるかも……」
そこまで傷は深くないものの、赤い線が5センチほど太ももの表面を走っていた。
痕になるかならないか、判断に困る傷だ。
(線だけに、微妙なライン……ってね)
心のなかで寒い駄洒落をつぶやきつつ、理奈はさらにスカートを捲し上げて患部を露わにし、消毒スプレーを傷口に噴きかける。
瞬時に独特な臭いが周囲に広がり、理奈は息を止める。また、傷口に小さな痛みが生じた。
(意外と染みるわね……)
噴射を終えてもチクチクとした痛みが尾を引いていた。理奈はその痛みを少しでも和らげるべく、太もも辺りを揉むようにして撫でる。これでいくらか痛みが和らいだが、根本的な解決にはなっていなかった。
やはり、暫く痛みが引くまで時間がかかりそうだ。
「……はぁ」
あの程度のことで怪我をするなんて思ってもいなかった。
場所が場所だし、かさぶたになるまでずっとチクチク痛むかと思うと気が重い。
ひたすら無心に太ももを揉み続けていると、不意に保健室のドア越しに声が聞こえてきた。
「失礼します」
声は阿賀谷先輩の物だった。
その事実に気づいた瞬間、理奈は自分が置かれている状況を瞬時に再確認する。
私は今、診察台の上に寝っ転がり、太ももを露わにして、自分の脚を揉んでいる。
「あっ、ちょっと待っ……」
理奈は即座にスカートを下ろして脚を隠そうとしたが、既に手遅れだった。
阿賀谷先輩は返事も待たずに入室してきたのだ。
「あ……」
辛うじてスカートを手で押さえることはできたが、不運なことに腿の側面は露わになったままで、はしたない姿に変わりなかった。
「……」
混乱と恥ずかしさのせいで思考停止に陥りそうになるも、理奈はこの状況を打開するべく次の行動に移る。
(とにかく隠さないと……!!)
理奈は素早い動きで上半身を起こすと、診察台の上に腰掛ける。その結果、スカートは重力に従って床に垂れ、理奈の脚を完璧に覆い隠した。
「ふぅ……」
一時の安堵の後、理奈は気を取り直して診察台から降りる。
だが、焦りすぎたせいか、理奈は消毒スプレーの容器を床に落としてしまい、あろうことかそれを踏んづけてしまった。
「わっ……」
結果、理奈はバランスを失い、その場で盛大に尻もちをついてしまう。
もう、脚が露わになるとかそういうレベルではない。盛大にスカートが捲れ、丸見え状態になっていた。
「……」
阿賀谷先輩は保健室の入り口で暫く固まっていたかと思うと、そのままゆっくりと後退してドアを閉めた。
……どうやら見なかった事にしてくれるようだ。
その間、理奈は体勢を立て直し、丸椅子に座り直した。
踏んづけたスプレー缶の凹み具合を指先で確かめながら待っていると、ノックの音が聞こえてきた。
「三瀬、もう大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃないけれど、入ってきても問題ないわ……」
こちらが返事をすると、阿賀谷先輩は恐る恐る保健室内に入ってきた。
「……大丈夫みたいだな」
先輩は私のまともな姿を確認するやいなや大きく溜息をつき、いつものように堂々とした態度に戻った。
先輩は丸椅子に座る私の正面に立ち、先程のハプニングに言及することなく早々に謝罪する。
「さっきの美術室の一件、いきなり乱暴して悪かったな」
「私も悪かったわ。勝手に部品をさわろうとしてごめんなさい」
「怪我はもう大丈夫なのか?」
「うん、この通り消毒もして……」
理奈は無意識のうちに太ももを見せつけてしまう。
阿賀谷先輩はある程度この反応を予見していたのか、既にその視線は明後日の方向に逸らされ、微動だにしなかった。
こう見えて意外と硬派らしい。
そんな先輩の反応がおかしく思え、理奈は思わず吹き出してしまう。
「先輩、そんな思いっきりそっぽ向くことないじゃない」
「うるさい。どうでもいいからその脚を仕舞え」
「はいはい……」
硬派も硬派、ここまで来ると逆にかわいい。
……雪乃の水着姿を喜び勇んで眺めていた恭平とは大違いである。
理奈は阿賀谷の指示通り足を元の位置に戻した。が、阿賀谷は結局理奈と目を合わすことなく、保健室の外へと向かう。
「大怪我でなければそれでいいんだ。さっさとガーゼを巻くなり絆創膏を貼るなりしろ。じゃあな。気をつけて帰るんだぞ」
そう言い捨てると、阿賀谷先輩は保健室から出て行ってしまった。
あの人は一体何をしたかったのだろうか。
今すぐ追いかけて確かめてみたかったが、このまま帰宅すると宣言した手前、美術室に戻るのも気が引ける。
理奈は机の上に置かれていた幅広の絆創膏を適当に貼り、帰宅することにした。