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1  出会い


 朝。

 まだ日も昇らない静かな住宅街を一人の少女が走っていた。

 一定の間隔で刻まれる吐息は周囲に小さく響き、吐息に合わせてランニングシューズがアスファルトの地面を蹴る音も響く。

 ジャージ姿の彼女は走り慣れているようで、その綺麗なフォームは熟練のスポーツ選手を連想させた。髪型はショートカット、背もそれほど高くなく、ボディラインにはまだ幼さが残っているものの、活発という言葉がしっくりくる、そんな少女だった。

 端正な顔立ちをした彼女は、まっすぐと前を見据え、黙々とランニングを続ける。

(やっぱり、朝運動するのは気持ちいいわね……)

 このランニングを始めてからはや一年。

 始めた頃は色々とコースを変えていたが、今はもうお決まりのコースを走っている。

 住宅街を抜け、橋を渡り、近くの河川敷公園を一周して戻ってくる。単純なコースだが、それなりにアップダウンがある、中々良いコースだ。

 人がほとんどいないこの時間だけは、河川敷公園を独り占めできて気持ちよかったのだが、ここ最近はそうでもない。

 公園の隣の廃材置き場、大小様々なスクラップが置かれている場所に男がいるからだ。

 男と言っても、怪しい人間じゃない。制服をラフに着こなしている、男子高校生だ。

 制服から判断するに、同じ学校の生徒には違いないのだが、学年が違うらしく、顔も名前も分からない。

 毎朝廃材置き場で何をしているのか気になるが、彼を観察できるのはほんの十数秒だけなので全くわからない。

 今朝も、彼は廃材置き場の中にいた。

(何してるんだろ……)

 彼女は公園をぐるりと回りながら、彼の様子を窺う。

 今日の彼は、廃車のボンネットの上に乗っている大きなドラム缶を両腕で抱えていた。かなり重いようで、彼はドラム缶を支えたままぴくりとも動かない。

 それどころか、ぷるぷると身体を震わせていた。

(大丈夫かしら……)

 何やら大変な状態に陥っているみたいだ。

 少女は走る速度を落とし、彼の様子を注視する。

 その視線に気付いたのか、彼は初めてこちらに視線を向けた。

「……」

 その目は明らかに私に助けを求めていた。

 こんな目を向けられて、助けない訳にはいかないだろう。

 少女は急いで公園から出ると、開きっぱなしだった廃材置き場の入り口を抜け、十数秒と掛からずに彼の隣に到達する。

 そして、彼の隣に付いてドラム缶を押し返す。

 ドラム缶は軋みながら垂直になっていき、やがてボンネットの上で安定した。

「何してるのよ、全く」

「わりーわりー。意外と重くてな」

 彼は軽い感じで礼を言い、再び付近にあるスクラップに手を伸ばす。

 私はその手を無理やりつかみ、彼をスクラップから遠ざけた。

「ちょっと、危ないでしょ」

「……」

 急に手を掴んだことに驚いたのか、彼はきょとんとした顔で私を見る。

 この時、私は初めて彼を近くから観察することができた。

 髪は無造作感に溢れているが、彫りが深く均整のとれた顔立ちをしている。制服をだらしなく着崩しているので、ぱっと見不良学生にも見えるが、彼の手に嵌められたくたびれた軍手が、その雰囲気を和らげていた。

 軍手はサビの赤で汚れており、ここで長時間作業をしていることが窺い知れた。

 そんな彼に興味が湧いてしまい、思わず私は質問してしまう。

「ねえ、毎朝ここで何してるの?」

「いきなり現れて、お前こそ何だよ」

 呼吸も整わない、汗をかいたジャージ姿の女子高生に急に話しかけられれば、誰だって不信感を抱く。

 自分の身分を明らかにするため、彼女は常に持ち歩いている生徒手帳を彼に見せることにした。

「ほら、コレ見なさい。あんたと同じ学校の生徒よ」

 彼はこちらの手から生徒手帳を奪い、じっと見る。

「……1年1組『三瀬理奈』……。何だ、高校生だったのか。てっきり中学生かと……」

「うるさい。教えてあげたんだから、あんたもさっきの質問に答えなさいよ」

「おー怖い怖い」

 こちらがまくし立てると、彼は大袈裟に驚いて見せ、その場から離れていく。

 何も言わず去ろうとする彼に対し、彼女は……理奈は質問を変えて再度話しかける。

「待ちなさいよ!! 礼も言わないで行くつもり?」

「親切したのはそっちの勝手、礼を言わないのはこっちの勝手。あんまり親切を押し付けるなよ」

 彼はそれだけ言うと軽く手を振って廃材置き場から去っていった。

(何、あいつ……)

 今すぐ追いかけてもっと言葉を浴びせてやりたかったが、あいにく彼が去った方向はランニングコースから大きく外れている。

 毎朝見かけていたのだし、どうせまた明日会える。

 理奈はそう考え、日課のランニングに戻ることにした。



 ――私立阿賀谷学園。

 地方中核都市の市街地に校舎を構えるこの学園は、小中高一貫の進学校だ。ついこの間20週年を迎えたばかりの若い学園だが、多くの優秀な学生を排出しているらしい。

 理奈は多くの学生と共にその学園の正門をくぐっていた。

(やっぱり、いつ見ても広い敷地よね……)

 校舎、校庭、グラウンドも合わせると500ヘクタールはあるらしい。先生曰く、大規模な総合大学並みの敷地面積とのことだ。

 私にとっては昔からここが学校なので、学校とはこういう場所だと当たり前のように思っていたが、世間一般からするととても広いらしい。

 それを自覚したのはつい最近のことだが、別に改めて驚くこともない。

 敷地内に足を踏み入れた理奈は高等部があるエリアへと一人で歩いて行く。

 エリアに近付くにつれ、小等部や中等部の生徒の数が減っていき、高等部の学生服が目立ってくる。

 今現在私も着ているこの学生服は、チェック柄を基調とした、かなり可愛らしい制服だ。

 阿賀谷学園高等部の制服はかなりデザインに優れていて、これを目当てに編入してくる学生も少なくない。

 本当はこんな制服など着ないで、ジャージ姿でランニングしながら登校したいのだが、登下校時は制服を着用しなければならないという校則のせいで無理だ。

 暫く歩いていると大きな校舎が見えてきた。

 デザイン性に優れた制服とは違い、三階建ての校舎は至極普通の形状をしている。目立つオブジェもないし、落ち着いた雰囲気を放っている。

 しかし、校舎の周囲には至る所に木や花が植えられており、春ということもあってか、かなり華やかな印象を受けた。

(っと、ぼんやり眺めてる場合じゃなかったわ……)

 先程まで歩いていた学生たちも、いつの間にか小走りになっている。もう朝礼の時間が近いのだろう。

 理奈も手に下げていた学生カバンを脇に抱え、走ることにした。



(もう昼休みか……)

 4限目が終わると、1時間の昼休みに入る。

 この昼休みが終われば5限、6限、場合によっては7限まで続き、それでようやく部活に行ける。

 4限目の終了と同時に教室内は騒がしくなり、各々が昼食を取り始める。

 高等部には学食があるのだが、殆どの学生は惣菜パンや弁当を食べている。

 学食を利用しているのは先生や学校事務の人、そして編入組くらいなものだ。

(さて、今日のおかずはなんだろう)

 理奈はかばんから弁当箱を取り出し、机の上に並べる。

 一つ、二つ、三つと。

 2段の弁当箱を三つ並べ終えると、理奈は左から順番に蓋を開けていく。

 中には、これでもかというほど肉料理やおにぎりが詰め込まれていた。

 特に大飯食らいという訳ではないが、昔からこのくらい食べないと満足できないのだから仕方がない。

 ミートボールにフォークを突き刺そうとしたその時、正面から誰かが声を掛けてきた。

「あの、三瀬さん、私達と一緒に食べない?」

「……?」

 話しかけてきたのはクラスメイトの女子だった。

 彼女の背後には4人組の女子生徒がいて、こちらを興味深そうに見ている。

 大方、私を迎え入れるようにこの女子に指示したのだろう。

 理奈はすぐにその提案を却下した。

「何で一緒に食べなくちゃならないの? お昼くらい一人で食べさせて欲しいわ」

 私のこの言葉はクラス中に聞こえたようで、教室内を飛び交っていた楽しげな会話が一瞬だけ途切れた。

 一瞬の沈黙に動揺したのか、女子は慌てた様子で同じ言葉を繰り返す。

「でも、あの、みんなで食べると美味しいし。なんだか、仲間はずれにされてるみたいで可哀相というか……」

「お気遣いどうも。何人で食べようが料理の味は変わらないし、仲間外れにされたって構わないわ」

 これ以上話すことはない。

 理奈は改めてミートボールにフォークを突き立て、口に運ぶ。

 彼女の話を無視して食事を開始すると、周囲がざわつき始めた。

 彼女はどうしていいのか分からないようで、私の机の前でオロオロしている。

 物々しい雰囲気の中、一人で黙々と弁当を食べていると、四人組のうちの一人が席から離れ、私に突っかかってきた。

「いいからこっちの机に来なさいよ。……一人で食べてるのを見ると、なんだかこっちの気分が悪くなるの。もう高等部に上がってから一月も経つんだし、一緒に食べる友達くらい作ったらどう?」

 私にそんな友達はいない。

 それどころか、話し相手すらいない。中等部の頃からずっと私は一人だ。

 理奈は咀嚼中のおにぎりを急いで飲み込み、言い返す。

「余計なお世話よ」

 この言葉にカチンと来たのか、彼女は更に言葉を続ける。

「……前から言おうと思ってたけど、少しは空気を読んだらどう?」

「空気読めてないのはどっちなんだか……。と言うか、いつもこっちを見ながら食事してるわけ? もしそうだとしたら凄く気持ち悪いわね」

「……」

 思ったこと、考えたことをすぐに口にするこの性格のせいで、私は友だちをつくることができなかった。

 嘘をつけば円滑に平穏な日々を過ごせるのだろう。しかし、私はそんな生き方をしたくない。私は自分に素直であろうと心に決めているし、その信念を曲げるつもりもない。

 こちらが本心を言うと、間を置いて彼女は言い返してきた。

「毎日3つも弁当箱を広げて、それをあっという間に空にするんだから、嫌でも目に入るのよ」

「……わかったわかった、あなたの近くで食べなければいいんでしょう?」

 こうなっては仕方がない。

 今から食堂に行こう。あそこなら誰も文句は言わないはずだ。

 理奈は弁当箱の蓋を閉めると、返事を待たずして食堂へと向かった。



 食堂は閑散としていた。

 飾り気のないテーブルに、飾り気のない壁。料理も単純でバラエティに欠ける。

 しかし、こういう場所は一人で黙々と食事するのには最適な場所だ。

 理奈は入口に近い場所に陣取り、テーブルの上に弁当を広げる。

 すると、背後から急に話しかけられた。

「よう、一人で昼メシ?」

 そう言いながら隣に座ったのは男子生徒……今朝、廃材置き場で目撃した男だった。

「あ……」

 こんな場所で再会するとは思っておらず、理奈は上手く言葉を返せなかった。

 その失態を誤魔化す意味も込めて、理奈は「こほん」と咳払いをし、ショートカットの髪を手櫛で整え、気を取り直して返事をする。

「こんな所まで来て、私に何か用?」

「昼休みに食堂に来て悪いか?」

「悪くはないけれど、普通の生徒はこの食堂に来ないのよ」

「へー、そうなのかー。それは知らなかったなー」

 男子学生はわざとらしく答えた後、隣の席に座り、勝手に白状し始める。

「……ついさっき、お前に会うために教室に行ったんだが入れ違いだったようだな。場所を聞いて後を追ってきたってわけだ」

「今朝のことで何か文句でも?」

「別に文句はねーよ。ただ単にお前と話したいと思っただけだ」

「お前、って呼ばないでくれる? 何かムカつくんだけど。あと、そろそろ自己紹介してもいいんじゃない?」

「悪い悪い。忘れてた」

 男子生徒は体をこちらに向け、これ見よがしに名札を見せつけ、名乗る。

「俺は2年の玖保恭平だ。宜しくな、三瀬理奈さん」

「……何が宜しくよ」

 いきなり馴れ馴れしく話しかけてくるなんて、常識のない先輩だ。

 非常識といえば、彼はその格好も非常識極まりなかった。

 髪はダークブラウンに染められ、服装はだらしなく、制服のボタンは留められていない。と言うか、ボタンがない。

 極めつけは履いている靴だった。普通はスニーカーなのに、なぜか彼は重そうで頑丈そうなブーツを履いている。しかもファッション性は全くなく、安全靴と表現したほうがよさそうな靴だった。

 玖保先輩はそのブーツをももの上に載せるように足を組み、話を続ける。

「しかし、うわさ通りの一年生だな」

「うわさ?」

「一年に超毒舌女がいるってうわさだ。噂に疎い俺でも知ってるくらいだから、相当に有名だと思うぞ」

「……」

 まさか、噂になっているとは思っていなかった。

 だからと言ってどうというわけでもないが、理奈は気丈に振る舞う。

「別にいいじゃない。思ったことをそのまま口にしてるだけよ。正直者だって言って欲しいくらいよ」

 こちらの反論に対し、玖保先輩はおかしそうに笑う。

「待て待て、別に俺は悪いとは言ってないぞ?」

「じゃあ、どう思ってるのよ」

「うーん、変なやつだなぁって思ってる」

「余計悪いわよ……。と言うか、朝っぱらから廃材を漁ってる先輩に言われたくないわ」

 どちらかと言うと、玖保先輩のほうが変人である。

「別に漁ってねーよ」

「じゃあ、今朝は何してたの?」

 今朝のことに触れると、先輩は急に携帯電話を取り出し、その画面に写真を表示させた。

「こいつを作ってたんだ」

 画面を覗きこむと、そこには廃材の集合体が写っていた。

 一見するとガラクタの山に見えたが、よく観察してみると何かを形作っているように見える。

 理奈はその形が何なのか、玖保に確認する。

「もしかしてこれ、熊?」

「逆に聞くが、熊以外に見えるか?」

「やっぱり熊なのね……」

 俗にいう廃材アートというものだろうか。

 画面の中の熊は躍動感に溢れており、大きく開いた口には小さく尖った部品で鋭い牙まで再現されている。一点一点を見ればただの金属ゴミなのだが、広い視点で見るともう熊にしか見えない。

「なにこれ、もしかして全部あそこの廃材で作ったの?」

「そうそう。最適な形の廃材を見つけるのが大変なんだが、それが中々楽しくてな……」

「……」

 なんだか不思議な気分だ。

 その感情は、感動の言葉となって口から漏れてしまう。

「すごく……綺麗な作品ね……」

 これも、本心から出た素直な感想だった。

 パーツの数は数百をくだらないだろうし、製作にも相当な時間がかかったはずだ。

 こちらの言葉に玖保先輩は驚いたのか、呆気にとられた表情を浮かべていた。

「これが綺麗って、本気で言ってくれてんのか?」

「本気よ。どこかの木彫りのクマよりも熊っぽいし、動物園に置かれてても違和感ないくらい。それに嘘じゃないわよ。私は思ったことをそのまま口にする毒舌女なんだから」

「そうか、そうだよな……はは」

 どうやら先輩は作品を褒められて嬉しいらしい。口元が緩んでいる。

 こんな作品がこの先輩から生み出されるなんて、本当に不思議なことがあるものだ。

「今まで色々と作ってきたが、不気味だの気味悪いだの言われてた。綺麗なんて言われたの、初めてだな」

「その連中、見る目がないのね」

 なおも理奈は素直な感想を述べていたが、玖保の言葉から気になるワードを耳にし、咄嗟に訊き返す。

「……待って、今まで色々作ってたってことは……他にも作品があるの?」

「ああ、鹿とか虎とか兎とか。主に動物を作ってる。あ、サメとかザリガニも作ったな」

 あの熊だけかと思ったが、他にも色々とあるみたいだ。

 玖保先輩は携帯を操作して別の作品の写真を表示させていく。

 どれもこれも熊と変わらぬクオリティで作られており、躍動感に満ちている。大きさも実物並みに大きいし、迫力がありそうだ。

 理奈は携帯の画面から目を離して玖保に言う。

「それ、実物見てみたんだけど、見せてくれない?」

 こうやって人に頼み事をするのは久々かもしれない。

 そんな事を思っていると、玖保先輩から良い返事が返ってきた。

「そんなに見たいのなら別に構わないぞ。じゃあ、放課後校門で待ってるからな」

 玖保先輩はそう言うと席を立ち、食堂から出て行く。

 理奈はその背中に声を掛ける。

「放課後は無理。朝にして」

「無理って、何か用でもあるのか?」

「部活。私吹奏楽部に入ってるから」

「あー、部活、部活ね……」

 玖保先輩は立ち止まり、頭を抱える。そんなに悩むことなのだろうか。

 どうやら朝は都合が悪いらしく、玖保先輩は代替案を提示した。

「明日の放課後も無理なのか?」

「無理」

「……なら、次の日曜日はどうだ?」

「いいよ」

 こちらが了承すると、先輩は「よし」と言って小さくガッツポーズした。

 続いて先輩は携帯を操作し、先ほどとは違う画面を表示させ、こちらに見せる。そこにはメールアドレスが表示されていた。

「これ、俺のアドレス。空メールでいいから送っといてくれ」

「……空メール?」 

「アドレス交換しようってことだよ。そっちのほうが連絡とりやすいだろ」

「なるほどね」

 確かに、合理的な判断である。しかし、私はアドレス交換ができない。何故なら……

「でもごめん、私ケータイ持ってないから」

「……え?」

「ほら、お金の無駄だし、連絡するような友達も……いないし」

 気まずそうに言うと、玖保先輩は携帯をポケットに仕舞い、小さくため息を付いた。

「……明日また話せるか?」

「うん」

「なら、詳しいことは明日話すぞ。その時に他の作品の写真も持ってきてやるよ。……楽しみにしてろよ」

「楽しみにしてる」

 他の作品も見れるのかと思うと、自然と笑顔になってしまった。

 玖保はこの理奈の笑顔から慌てて目を逸らし、食堂から出て行く。

 ふと時計に目を向けると、昼休みは残り10分を切っていた。

(うわ、いつの間に……)

 一人残された理奈は、急いで弁当を食べることにした。



 5限、6限と授業が終わって放課後。

 放課後になると運動部がウォーミングアップをし始めるため、校内に元気な掛け声が飛び交う。

 活気があっていいことだとは思うが、私にとってこの掛け声はただの騒音だ。

(毎日毎日、何でこうも大声で叫ぶのかしら……)

 そんな騒音を遮断するために教室の窓を閉めると、室内からお礼の言葉が飛んできた。

「ありがとう三瀬さん。早速練習始めましょ」

「はーい」

 私が所属している吹奏楽部は、放課後になると各パートごとに教室に分かれて練習をしている。

 私のパートはホルンだ。ホルンは全員で6名いるのだが、私は小等部時代から演奏しているので、自分で言うのも何だがこの中では一番上手い。

 数ある金管楽器の中からホルンを選んだ理由はとても単純なものだった。

 丸っこい形が気に入ったから。

 あの円の中に管が絡み合っている感じがいい。それに、ベルの部分……大きく口が開いている部分もとんがり帽子を逆さにしたみたいでかわいらしい。

 外見も魅力的だが、何より魅力的なのはその音色だ。

 優しい音色から力強い音色まで自在に出すことができるホルンは、どんな曲にも対応できるし、金管楽器のオールラウンダーと言っても過言ではない。

 私はホルン以外はリコーダーとか鍵盤ハーモニカにしか触ったことがないので何とも言えないが、ホルンは最高の金管楽器だと思っている。

 そんなホルンの音色を邪魔する騒音は本当に許されない存在なのだ。

「まだ聞こえるわね……」

 窓越しに聞こえる掛け声に苛ついていると、先輩方から注意されてしまった。

「三瀬さん、ちょっと気にし過ぎじゃない?」

 注意されたことにもイラッとしてしまい、理奈は思わず言い返してしまう。

「先輩こそ、毎日毎日あんな掛け声を聞かされて何とも思わないんですか」

「そりゃあ、うるさいとは思うけれど、仕方がないじゃない。お互い様よ」

 先輩は二年生が2人だけで、一年生は私以外に3人いる。一年生は全員が吹奏楽部は初めてで、マウスピースを口元に当ててひたすら練習していた。

 実はこの音も結構不愉快なのだが、運動部に比べれば何てことはない。

「お互い様って……。こっちは音を出す部活なんだから音が出て当たり前です。でも、運動部はあんなに叫ぶ必要ないと思いません?」

「まあ、そう言われるとそうだけど……」

「もっとグラウンドから離れた教室で練習しましょうよ」

「でも、割り振りは先生が決めてるし、勝手に移動するとまずいよ」

 曖昧でいい加減な態度を取り続ける先輩に対し、とうとう理奈はきつい言葉を浴びせてしまう。

「そんなのだからいつまでたっても上手くならないんです」

「……」

 教室内の空気が一瞬で凍りつく。

 先程までマウスピースで練習していた同学年の部員も練習を中断していた。

 それでも理奈は言葉を止めない。

「大体、先輩方肺活量足りてないですよ。ちゃんと運動してます?」

「してるわよ。部活前に校舎一周してるじゃない。と言うか、先輩にその言い草はないんじゃない?」

「あんなのは運動とはいわないんです。大体、練習だっていい加減だし、一年への指導も私に丸投げだし、技術も私以下だし……。こんなので先輩面されたくないわ」

「あなたは確かに上手いわよ。でも、ここでは私が先輩であなたは後輩なの。不満があるなら退部しなさいよ」

「退部するわけないじゃないですか。先輩が退部してくださいよ」

「なっ!! いい加減にしなさい!!」

 理奈の生意気な態度に我慢できなかったのか、二年生の部員のうち片方がこちらの胸ぐらを掴んできた。

「おーい、練習してるかー?」

「!!」

 空気が悪くなった瞬間、タイミングよく教室内に入ってきたのは顧問の男性教師だった。

 男性教師が現れた途端に先輩はこちらの胸ぐらから手を離し、何もなかったように装う。

 だが、顧問ははっきりとこのシーンを見ていたようで、先輩に注意をする。

「今回は見逃す。次はないからな」

「はい……」

 この四十代半ばの顧問は音楽教師なのに中々怖い先生で、睨まれただけで泣き出してしまう生徒もいるくらいだ。

 顧問は先輩に続いて私にも注意を促す。

「おい、また何か言ったんだろう。まだ入部して3週間と経ってないのに、これで何回目だ?」

「……5回目です」

 私自身、喧嘩をする気はないのだが、元来の勝ち気な性格と遠慮のない物言いのせいで、どうしてもこうなってしまう。

 顧問もとうとう我慢できなかったようで、私に一言告げる。

「……もう今日は帰れ」

「嫌です。まだまだ練習したいです」

 またしても本心を言うと、顧問は困った表情を浮かべる。

「お前の実力もその異貪欲さも買うが、これ以上は他の部員に迷惑がかかる。頼むから今日は帰ってくれないか……」

 先生も先生なりに色々と困っているみたいだ。

 このまま練習を強行してもいいが、流石に先生の懇願を断るわけにもいかない。

「……わかりました」

 理奈はホルンが仕舞われたままのケースを持ち、挨拶もしないで教室を後にした。



 翌日。

 昨日の小さな喧嘩は早速噂になっていたようで、午前中はクラスメイトからの視線を痛いほどに感じていた。

 この視線にも慣れっこだが、気分が悪いことに変わりない。

 理奈は昼休みになるまでこの視線を耐え抜き、今は食堂に来ていた。

 食堂内にはラフな格好の玖保先輩がいて、学食のうどんを食べていた。

「あ、いた」

 今日は昨日の約束通り、廃材アートの写真を見せてもらうつもりだ。

 理奈は早速彼に近付き、何も言わずに隣に座る。

「先輩、お疲れ様。写真、ちゃんと持ってきた?」

 写真の件で話しかけると、先輩は迷惑そうな表情を浮かべた。

「ちょっと待て、そんなに急かすなよ、今うどん食ってんだ」

「見れば分かる。……写真渡すくらいすぐでしょ。ちょっとお箸置いてこっちに渡してよ」

 こちらが急かすと、玖保先輩は懐から小さくて薄いカードを取り出し、それをテーブルの上に置いた。

「写真っつっても写真データが入ったメモリーカードを持ってきただけだ。ここじゃ見られないぞ」

「ちゃんとプリントアウトしておいてよ」

「500枚近くあるんだぞ? 全部印刷できるわけねーだろ」

「500枚も……」

 見るのが楽しみだ。

 先輩はメモリーカードをポケットに仕舞い、再びうどんを啜り始める。

「とにかく、そういうことだから、食い終わったら美術室に行くぞ。あそこならパソコンがある」

「美術室って……勝手に入っていいの?」

「問題ねーよ。俺は美術部員だからな」

 短く答えると玖保先輩は食器の乗ったトレイを持ち、カウンターヘ向かう。そこで食器を返却するとこちらに戻ってきた。

「それじゃあ行くか。あそこは静かだし、リラックスできると思うぞ」

 まさか、二人きりで誰もいない部室に行くつもりなのだろうか。

 理奈は思ったことを言ってしまう。

「先輩、変なことしないでよ」

「……そういうセリフは鏡を見てから言え」

 呆れ口調で応じる先輩に対し、理奈は当然のように言い返す。

「え? 私結構かわいいでしょ。客観的に見ても」

 自分で言うのもなんだが、顔つきは凛々しくて整っているし、短い髪型もそんな自分に似合っている。胸部や臀部は貧相だが、毎日トレーニングをしているおかげでスタイルは中々のものだ。

 欠点があるとすれば、きつい目つきくらいなものだ。

 私の主張に対し、先輩は呆れ口調で応じる。

「確かにそうだが、自分で言うと可愛さ半減だなぁ……」

「……」

 理奈は怪訝な表情を浮かべ、玖保を見つめる。

 そのきつい視線に耐えられなかったのか、玖保はわざとらしく咳払いして話を進める。

「昼休みは最低でも3人は部員がいるから大丈夫だ。ほら、さっさと行くぞ」

 先輩は強引に話を進め、勝手に食堂から出て行く。

 まだ弁当も広げていなかったが、理奈は仕方なく玖保の後を追うことにした。



 美術室があるのは3階の一番奥、校舎の隅だ。

 美術室のすぐ隣には屋上へ続く階段があり、階段の踊場には室内に入りきらない美術道具や画材などが無造作に置かれていた。

 そんなものを目の隅に捉えながら足を進めていくと、すぐに美術室に到着した。

 教室の窓はすりガラスになっていて、中の様子は全く見えない。だが、明かりが点いていることと、中に人がいることだけは確認できた。

「うーす」

 玖保先輩は特に立ち止まることなく教室のドアを開け、中に入る。

「こんちわー」

 理奈も玖保に続いて美術室内に足を踏み入れる。

 入った瞬間、独特な臭いが鼻を刺激した。これは絵の具の臭いだろうか、とにかく慣れない臭いに理奈は顔をしかめてしまう。

(あれ、案外スッキリしてる……)

 そんな臭いとは対照的に、室内は綺麗に片付いており、授業で使う机や椅子は全て教室の窓側にまとめられていた。

 続いて目に入ったのは、一人の男子学生と、一人の女子学生だった。

 その内の一人、眼鏡を掛けた男子学生は、私を見るなり刺のある声で威嚇してきた。

「何だそいつは。部員以外は立入禁止だ」

「まあまあ先輩。いいじゃないですか」

 玖保先輩は彼を宥めるように応じる。

「ちょっとパソコンを使わせてもらうだけですから。邪魔はしませんって」

「それならいい……」

 意外にも、眼鏡の男子生徒はあっさりと引いてくれた。

 改めて見てみると、髪は短めに整えられていて、顔立ちもスラっとしている。メガネの似合うインテリ系という感じだった。

「先輩の先輩ってことは、あの人三年生?」

「おう、おまけに美術部の部長だ」

 玖保先輩はこちらの言い分を認め、美術室の隅に置かれたノートパソコンを取り、それを教卓の上に載せる。

 閉じていた画面を開くと、画面にロゴマークが表示され、起動の準備に入った。

 パソコンが起動している間、玖保先輩は部長さんに関してさらに語る。

「阿賀谷先輩は、いつもああやって時計の部品を弄ってんだ」

「時計?」

 よく見ると、その男子生徒……阿賀谷先輩が掛けているメガネの部分にはレンズのような物が取り付けられており、何やら細かい作業を行っているようだった。

 手元にあるのは時計のパーツだろうか。

 その小さな金属のパーツをこれもまた小さな道具で加工していた。

「あれは……何してるの?」

「俺も詳しくは知らねーよ。毎日飽きもせず、取り憑かれたようにヤスリで磨き続けてる」

「ある意味変態ね……」

 私と玖保先輩が話題にあげているというのに、阿賀谷先輩は作業を中断する様子もない。多分、集中しすぎて声が聞こえていないのだろう。

「ついでに雪乃も紹介しとくか」

 玖保先輩が指さした先にいたのは、これもまたメガネ姿の女子生徒だった。

 しかし、こちらのメガネ女子は阿賀谷先輩とは違って実に地味で、幸の薄そうな顔をしている。前髪も目にかかるほど伸びていて、肌の色も白い。

 まさに、根暗という言葉がよく似合う感じの女子だった。

 その根暗な彼女は、腕を捲し上げて木の丸椅子に座り、足でろくろを回していた。

 ろくろの上には壺状の粘土のようなものがあり、彼女が指で押さえるたびに口が広がって、椀に近い形状へ変化していた。

「この学校の美術部、陶芸までやってるのね……。絵を描いてる人はいないの?」

 美術部といえば、大きなキャンパスに筆で絵を描いているイメージだ。それが一人もいないのは何だか寂しい。

 そんな私の言葉に、メガネの女子は小さな声で反論してきた。

「地味だなんて、酷いです……」

 視線はろくろに向けられ、作業の手を止めるつもりは無いようだが、反論できる余裕はあるみたいだ。

 この小さな抗議の声に謝罪したのは、理奈ではなく玖保だった。

「悪い悪い。……あいつの名前は巴雪乃。実家が焼き物屋で、小さいころから陶磁器を作り続けてるんだとさ」

 続けて彼女について簡単に説明され、私は地元の陶芸に関する情報を思い出す。

「確か、東のほうが陶器の伝統工芸で有名だったわね」

 私も一度体験授業か何かで絵付けを体験したことがある。しかし、それは完成された物に絵を描くだけのもので、実際に陶器の形を作ったりはしていない。

 ろくろを回すのはかなり難しそうだが、意外と楽しそうだ。

 根暗な女子生徒……雪乃は相変わらず素足でろくろを回していて、一定の回転スピードを維持している。

 泥はね防止のためか、彼女は分厚いエプロンを掛けており、エプロンはスカートを完全に覆い隠していた。

 そのせいか、エプロンから直接生足が伸びているようにも見えた。

 肌白のすらりとした素足が忙しなく動いている様を見て、理奈は生唾を飲む。

「何か……エロいわね」

「え……」

 台座の上で前後に動く足もそうだが、泥と水でヌメヌメになった椀を華奢な指先で広げていくのも、艶めかしい感じがしないでもない。

 私の意見に玖保先輩も激しく同意する。

「実は俺も前々からそう思ってた」

「えぇ……」

 雪乃は白い頬を真っ赤に染めながらも、作業の手を緩めない。

 ここまで言われると普通は手を休めそうなものだが、彼女は違うようだ。身体が勝手に動くくらい経験を積んでいるのだろう。

「それにしても慣れた手つきね。焼き上がったらどんな感じになるの?」

 この問いに答えたのも、隣にいる玖保先輩だった。

 玖保先輩は起動したばかりのノートパソコンにメモリーカードを差し込みながら言う。

「駅前にツボのオブジェがあるだろ? あれ、こいつの作品なんだぜ」

「へぇ……凄いじゃない」

 玖保先輩の言うオブジェは、単に多種類の大きなツボを並べただけの捻りも何もない作品だ。でも、だからこそ私は結構気に入っている。

「あれ、全然華やかな感じしないけど、どっしり感というか、堂々と構えてる感じが良いなって思ってたのよ」

「そう……かな?」

 私のセリフに驚いたのか、雪乃は照れくさそうに笑う。

 先程まで何を言っても止まらなかったろくろだったが、褒めただけで呆気無く止まってしまった。

「へぇ、お前も褒めることがあるんだな」

「感じたことを言ってるだけよ」

 そうこうしているうちにようやく写真の準備が整ったらしい。画面に廃材を有効利用したアートが表示された。

「ほら、これだ」

「見せて見せて」

 画像は順々に表示されていき、そのたびに馬や羊、果ては恐竜まで実に見事な作品が画面に映し出される。相変わらずの見事な造形に、理奈は感動を禁じ得なかった。

 その後暫く大人しく玖保先輩の廃材アートを見ていると、不意にメガネが似合う二枚目……阿賀谷先輩がこちらに質問してきた。

「おい玖保。そろそろその女子を紹介してくれないか」

 この言葉をきっかけに、根暗な陶芸女子……雪乃も私に視線を向ける。

 私は一旦ノートパソコンの画面から目を離し、教卓から彼らを見返す。

 二名とも私に興味津々のようで、それぞれが手を休めてじっとこちらを見ていた。

 なにか言ったほうがいいかと思ったのだが、言葉を発するよりも先に玖保先輩の紹介が始まった。

「紹介が遅れて悪かった。こいつは一年の三瀬理奈。吹奏楽部に入ってる」

 名前が明かされると、いち早く雪乃が反応した。

「もしかしてその人……毒舌で有名な……」

「そうそう。昨日も部活の先輩と言い合いしたらしいぞ」

「凄いですね……」

 雪乃だけではない。阿賀谷先輩も物珍しそうに私を見ている。

 そんな視線に耐えられず、理奈は先程の言葉に応じる。

「別に凄くないわ。私はただ思ったことを正直に話してるだけよ」

「それが凄いって言ってるんだ。まあ、見習いたくはないけどな」

 玖保先輩は軽い口調で告げると、教卓から離れて雪乃のもとに向かう。

 阿賀谷先輩も道具を変えて台の上に固定された小さな部品を加工し始める。

 私も、玖保先輩の作品を見る作業に戻ることにした。

(なんかいいわね。この雰囲気……)

 各々が好きなことをしているだけなのに、何だか連帯感がある。

 上っ面じゃなくて、深い部分で部員同士が繋がってる感じ……。

 同じ空間にいるだけでこれほどの一体感が生まれるなんて、何だが不思議な気分だ。

 ……ここは居心地がいい。

 私もこの一体感の中に入りたい。

 その思いは理奈に言葉を発せさせる。

「なんか、いいわねこの場所」

 何気なく呟いた一言だったのだが、玖保先輩はいち早く食いついてきた。

「気に入ったのなら来ればいい」

「入部しろって?」

「いいや、暇つぶしに遊びに来ればいいって意味だ。放課後は無理だが、昼休みなら大丈夫だ。遠慮せずに来いよ」

「あ、普通の部員もいたのね。……と言うか、“普通の”って言ってる時点で自分たちが変人って認めてるようなものじゃない」

「そこはあんまり気にするなよ」

 昨日の件で休み時間は教室に居づらくなったし、この美術室で昼休みを過ごすのも悪くない。

「それじゃ、取り敢えず明日もお邪魔しようかな」

 セリフを告げると同時に休み時間の終了を知らせる予鈴が鳴り響く。

 すると、それぞれの部員が画材や道具などの片付けを始めた。

(あ、弁当忘れてた……)

 この時になってようやく、理奈は弁当に手を付けていないことを思い出した。

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