日常と夢と宿題#1
掃除終了の基準となる時間を告げる鐘が、学校中に響き渡った。放課後の始まりだ。
初めての白い夜を体験して、あれから一週間ばかりが過ぎた。
あの惡夢の夜の次の日からというもの、俺はレイから世界についての説明と、毎日同じ練習メニューを繰り返す日常もとい非日常を送っていた。
最初は全然進歩する気配がなかったのだが、最近は、コツを掴みはじめて上手くいくようになってきた。
それこそ、毎日こなす『宿題』の賜物なのだろう。その宿題というのについては、あとで言及することにして。
俺は今、何をしているのか、だ。
もちろん、俺にとって放課後とは、部活の時間だ。一日でいちばん楽しみにしている時間だ。
よって今、俺は、
「ふ~んふ~んふっふふ~ん♪」
まっことうきうきしながら、活動場所に向かっているところだった。
ところで、相棒の尾原 健は今、隣にいない。あいつは今日は委員会活動だ。毎週水曜日活動、らしい。
ちなみに、健は保健委員会だ。そこにはもちろん、健が入った理由──譲葉 愛もいる。
まぁ、上手くやれよ、とそう思いながら俺はひとり廊下を歩くのだった。
目指す活動場所は、もちろんテニスコートだ。我々はソフトテニス部なのだから。コートがないと練習できない。
しかし、俺たちの使っているテニスコートは、学校の敷地内にはない。
近くに町が運営している運動競技場があり、その一角にあるテニスコートを毎日貸してもらっている。この町に高校は少ないため、地域に応援されやすいというのがありがたくて仕方がない。
なので、俺たちは、学校から少し歩いて活動場所に行くのだ。
玄関で靴を履き替え、外へ出る。
雲は多いが晴れている。ちょうどいい天気だ。
快晴は快晴で、日差しが鬱陶しいので、こういった天気のほうが、俺はかえってベストパフォーマンスをしやすいのだ。
指を組んで腕を伸ばして大きく背伸びをしてから、俺は出発した。
そのとき。
途端に、視界が真っ暗になった。俺は思わず、足を止めた。というより、身体全部を静止させた。
……何が起きた?
目の周りが暖かい……?
後ろに引っ張られている……?
ちょっと光が漏れて……柔らかい?
これは……手か。
一秒未満の思考時間で、俺は状況を把握した。というか、簡単だ。後ろに人の気配がある時点で確定なんだよ。
でも。声がないと誰だかわからん。
待つようにしばらく静止していると、やっと声が背後から聞こえてきた。お決まりの台詞で。
「だ~れだっ♪」
それは、活発そうな女の子の声だった。高校生というよりは、中学生みたいな、幼めな声。
……ふん。そんなの……。
「…………」
「…………?」
……………………………………………………………………………………………………………………………………!
誰だ!?
三点リーダ五十個分の思考時間をもってしても、心当たりがない。
いや、多分初対面だろこれ……?
「えぇ……と……?」
かつてない状況に、どう答えれば良いか分からず、俺は口どもってしまう。
当てずっぽうで答えるのはさすがに失礼だろ……?
もし知っている人だったら、とか。
先輩のうちの誰かだったらなおさらマズイし……。
同級生だとしても、女子ってこういうの外すと残念がるだろうし……。
だからってボケが通用する相手かどうかわからん……。
駄目だ……。
答えが見つからない……。
俺は、とうとうどうすることもできなくなり、考えるのを諦めた。
なので―――
つーか……。
女子からされてるってだけでドッキドキなんですけどおぉぉぉ!
息がうなじの辺りに当たったり、相手の身体が背中に当たりそうで当たってなくてぇ……!
ずっとこのままでもいいと思えるくらいのラッキーイベントなんですけどおぉぉぉ!
───そんなことを考えていると。
「!? にゃんか思考が不純ににゃってきてるっ!?」
突然、驚き怯えるような声を発して背後の女子が飛び退いた。
俺は、残念そうな顔を、相手に気づかれないよう角度に気を付けて浮かべてから、普通の顔に戻して振り向いた。
そこに立っていたのは、声から推測される予想通りの幼さをもった少女だった。
同じ高校の女子の制服であるから、高校生であるのは確実。
黒髪のショートヘアだと思ったら、よく見ると後ろは結んでいた。ミニサイズのポニーテールだ。
顔はとても小さく、目はくりくりとしていてそれでも意志がこもっている。なんか『やればできる子』感がすごい。
体格は結構な幼児体型で、身長も俺の胸辺りまでの高さしかない。多分……いや絶対、背伸びしないと俺の目に手が届かなかっただろう。
とにかく、迫力のはの字も見当たらない、ちっこさだった。
その姿をひと通り眺め見るなり思い出した俺は、気づいたころにはもう口を開いていた。
「藍ちゃん後輩……!」
「お! にゃっと思い出してくれた」
俺が名前を言うと、少女は青ざめた表情から、パッと笑顔になりるんるんと上機嫌で再び俺に近づいてきた。
「忘れられたかと思いましたよ~」
ほっとしたような息づかいで、彼女はわざとらしく胸を撫でおろした。
「忘れたりなんかしないよ。かわいい後輩なんだから」
「わおっ♪ かわいいだにゃんて~♪ いにゃん♪」
少女の名前は、美咲 藍。
俺の中学時代の後輩だ。いや、ここにいるということは今も後輩ということになるのか。
そしてこの後輩、なんと……
「ところで、氷室先輩。お姉ちゃんとは上手くいっていますか?」
俺の気になっている先輩の妹なのだ。
……しまった!
重要人物の先輩より先に、その妹である後輩を先に登場させてしまった!
これは大きなミスだ。いまさら修正なんか効かないし……。
「先輩、にゃんか変なことを考えていませんか?」
「あ、いや、気にするな。ところで、なんで先輩とのことを訊くんだ?」
「え?だって先輩、お姉ちゃんのこと好きにゃんですよね?」
……何故知っている?
このことは、健にしか話したことがないはずだが……?
「あたしは先輩のことにゃらにゃんでも知っていますよ♪」
藍は軽快な口調ではきはきと言った。
ちなみに、さっきから文面の、藍の台詞の『にゃ』が気になっていること間違いないだろうと思うが、これは、藍が猫言葉で話しているとかではない。藍の『な』『や』は、どうしても自然に『にゃ』の発音に聞こえてしまうのだ。俺も全く慣れない。凄く気になっている。
「悪く言い替えれば……ストーカーですから♪」
「さぁ、警察を呼ぼうか」
「えっ!? あたし先輩たちに、まだにゃにも危害は加えていませんよ!?」
「『まだ』ってなんだ」
「まあ、ゆくゆくはそんなこともアリかと」
「え……? いや、止めて……?」
「かわいい少女のストーカーって萌えません? ニャンデレみたいで」
「ひとりで燃えてろ!」
ニャンデレって!
……なんかそれ、興味あるぞ? 津々だぞ?
猫真似でデレてくるのだろうか。「ごろごろ......」って感じで。
その脳内ビジョンには、なぜかレイが出てきた。レイに猫耳……。白猫……。
やばいやばいやばい! いつか買ってこよう! そうしよう!
「先輩? せーんぱいっっ!」
藍が両肩を掴んで揺らしてきているが、妄想リミッターが解除されてしまっている俺には、そんなの効果なし。
「せーんぱンチ!!」
「ぐはっ!?」
拳で現実に戻された。しかも、結構なお手前で……!
「ま、待てっ! それは先輩である俺の技であるはずだ!」
「こーうはいキック!」
「ごはっっ!?」
謎の抗議もむなしく、今度は蹴りをもらった。ハイキックと抜かしているわりには、俺の尻までしか足があがっていなかった。かえって痛い。
「しょ~りゅ~───
「待てってば! ……お前、そんなキャラだったか!? というか、そんな声だったか? そんな喋り方だったか? 『にゃ』とか言ってたっけか!? ……?」
……あれ? 疑問に思うことが多すぎる。
俺は首を傾げた。直感でというかなんというか。
そもそも、最初に戻って考えてみると……何で俺は目を手で覆われたときに、声で藍だと気付かなかった? 今こんなに仲良く話しているのに、こんなに特徴的な声なのに……なんでだ?
訊くと、彼女はこう言った。
「だってあたし、先輩と話すの初めてだもん♪」
「…………」
いきなり馴染み過ぎだろっっっ!!
──────
それから俺は結局、そのまま藍と共にテニスコートへと向かった。
いつもは健をお供にコートへ向かい、途中で他愛ない会話をずっと続けていたのだが、今日の話のお供は藍だ。
何を話せばいいのか、少々悩むところだったのだが、そんな心配はどうやら要らなかったようだ。
藍がしきりに話題を振ってくれる。それも、どうでもいいこと中心で。
いやもう、会話の内容が全然頭に残らないくらい、テキトーでどうでもいい会話だった。
テニスコートが目前に迫ってきた今現在も、藍はにゃんにゃん言いながら、俺の知らない昔のテレビ番組のことを語っていた。DVDをレンタルして観るのにハマっているらしい。
そしてひととおり話が終わると、藍はまた話題を変えてきた。
「そういえば、尾原先輩は?」
「ああ、あいつは委員会活動のほうに行ってるよ」
そうにゃんですか、と藍は残念そうにうつむいた。
やっぱりそこは、アイステールの追っかけ。両方そろっての姿を見たいのだろう。
俺もその気持ちはわかる。大好きなグループが、グループ全体でそろっていないとなんだか寂しい気持ちになるものだ。満足がいかないのだろう。
藍は正面に向き直るとしばらく黙った。どうしたのだろうか?
俺は彼女の顔を覗き込もうとする。
すると突然、
「そうそう! 委員会といえば!」
と声を上げた。
驚いて一気に身を引く俺をよそに、彼女はまた話し始めた。表情も明るい調子に戻っている。
「この間、放送委員会に所属している友達が、先生に『次はステージにバミる作業をしてくれ』って言われていたんですけど、『バミる』って、どういう意味にゃんですかね?」
いきなり業界用語の話か。こいつは本当に話題があっちこっちに行きすぎる。
「ちにゃみに私は『バーミキュライトする』の略だと思っていました」
「どうやったらバーミキュライトが動詞になるんだよ。っていうか、ステージでそれを使う状況すら思い付かないぞ」
発想が斬新を越えて意味不明になっているよ!
ちなみにバーミキュライトは、農業や園芸に使われる土壌改良用の土だ。めっちゃ軽くて、保水力抜群なのが特徴。
「バミるは『場見る』。舞台の立ち位置とかをビニールテープとかでマークすることだ」
ほぇ~、と藍は感心したような声をもらした。
「氷室先輩って、この間ツ○ヤでDVDの借り方間違って注意されていた割には、結構物知りだったりですか?」
「そんな情報まで持ってるんだっ!」
「まさか中身を抜かずに丸ごとレジに持っていくとは」
「恥ずかしいからヤメテッ!!」
怖いね、最近のストーカーって。人の弱みさえ握るんだねっ。
こいつは本当にあの先輩の妹なのだろうか……? 性格があまりにも違い過ぎだ。
俺はおもいっきり舌を巻いて、テニスコートに向かって足を進めるのだった。
──────
我がソフトテニス部は、部活の始まる四時半までに準備体操とランニングを済ませるのが、きまりになっている。
それを早く済ませた後は、時間まで、みんな各々に乱打なりサーブ練習なり、自由に自主練習をしているのだ。
俺もランニングを終えて、息を整えていた。このあとは仲間と自主練習……といきたいのだが。
しかし、俺はちょっと厄介事を抱えている。絶対に避けられない、ゲームのストーリーイベントのような厄介事を、強いられているのだ。
「ひぃ~むぅ~ろぉ~♪」
バッグのファスナーを開け、ラケットを取り出していた俺の背後から、悪意に満ちた声が襲いかかってきた。
タイミングばっちし。来やがったな!
俺は右口角をくんと上げて、嫌そうな顔を演出して振り返った。
そこには、先ほどの悪意の本体であることを象徴しているかのような、凶悪な笑顔があった。
「水城……」
水城 優癒という名の魔女が夕陽の後光を纏い、腕を組んで佇んでいた。
「毎日恒例のひと勝負の時間だぞ~♪」
軽快に言う水城の顔は、俺を馬鹿にしているようだった。俺はつい挑発にのり、語気を荒らげる。
「今日こそ、勝つ! ぜってぇ勝つ!! 勝って自由になってやるっ!」
それを聞いた水城は、さらに俺を嘲笑をするような笑い声を上げた。
「まぁ、今日もアタシに白星がつくだろうけどな♪先に下で待ってるから、早くこいよ~。……逃げたら殺すわよ?」
……今日こそ。……今度こそ!!
怒りやら悔しさやらで興奮して、拳に力が入り小刻みに震える。これはもう『冷静さを失わせる』という、水城の策に嵌まってしまっているようなものだが、いかんせん自分では止められない。
血液と同じく、勢いよく流れる感情の奔流は、自分では塞き止められないのだ。
と、そのとき。突然誰かが、その流れを塞き止めてきた。背後の、石段のひとつ上から両肩に置かれた手で体重を乗せられたのだ。
何だか落ち着く匂いと気配がする。小さい頃に母に抱き締められていたときのような……。
そして、頭のてっぺん辺りから、確かな息づかいが聞こえてきた。
「ダメダメ。そんなんじゃあ。しっかり肩の力を抜いて。いつも通りの力を出せなきゃ、水城さんにはいつになっても勝てませんよ?」
落ち着いた柔らかな声が、俺の聴覚を満たした。肩が軽くなったところで、ようやく後ろを振り返り、見上げる。
「……舞先輩」
そこには、少女……と呼ぶのはなんだか失礼なような、大人びた女子生徒がひとり立っていた。
色白で整った顔立ちに細い鼻筋。それに乗っかる、細く赤いフレームの眼鏡が似合う美人。その奥に潜める瞳は、まるでビー玉のように、漆黒でありながら光を放っている。見つめていると見透かされそうだ。考えていることや……思っていることが……。
前で手を組んで佇む背の高い彼女に、一陣の風が吹き、腰まである艶やかな黒髪が大きくなびいた。横髪を上げて耳に掛ける仕草の美しさに、俺はつい見とれてしまう。
パッと見た印象はまさに『清楚』だ。
「はい、深呼吸~。リラックス、リラックス~」
はっと我に返る俺。言われた通りに深呼吸をし、全身の力を抜く。まるで自分を空気にして、自然と一体になるかのように……以前テレビで有名な俳優が言っていたことを実践してみる。
思っていたより効果は高く、非常に落ち着いた。
「ありがとうございます。おかげで落ち着きました」
俺は立ち上がり、笑顔を向ける。彼女も、こちらに微笑みを返してくれた。
いつもながら、綺麗な微笑みだ……。
魅力的過ぎてドキッとした俺は思わず、目を泳がせてしまっていた。
彼女は美咲 舞先輩。
先ほどまでの追っかけ少女、藍の姉であり、俺の部活の先輩だ。
後輩にも丁寧語で接するほど礼儀正しく、しとやかで面倒見のよい性格の先輩は、男女問わず最も後輩からの人気が高い。まぁ、男子からは先輩としてではなく、異性として魅力的であるから人気があるのだと思うが……俺もそうだし?
ただ……先輩は男子が苦手だ。面と向かって話をするとカチンコチンに固まってしまうほどに。
先輩は、俺と健と同じ中学校の卒業生だ。部活も同じだった。そのおかげで俺たちとは打ち解けている(反応が面白かったので必要以上に話しかけていた)ため、比較的気楽に話ができるほうである。先輩も「慣れれば話せます」と言っていた。
ところで、俺の周りにはずいぶんと綺麗とか可愛いって女子ばかりだなと思った方もいるかもしれないが……そういうシーンだけをピックアップしているだけというのをお忘れなく! ちゃんと(失礼かもしれないが)普通な女子とも普段から話してるからな! 分け隔てなく接してるからな! 誤解するなよ?
「氷室くん……いくら慣れてるとは言っても……そんなに見つめられると恥ずかしいです……」
「あ……すんません」
両頬に手を当ててそわそわしている舞先輩……。わぁ……かわえぇ。
なんかもう……この距離でその仕草をされると……抱き締めたくなってくる!
「ぐおっ!!」
ドカッ、と。
罰があたった。
右側頭部に強い衝撃を受けた俺は、体を横にふっ飛ばされた。
「あら、藍じゃない。どうしたの?」
「失礼しました先輩。にゃんかお姉ちゃんに危険が迫っていた気がしたもので……」
「い、いや……大丈夫だ。お前の判断は正しい。止めてくれてありがとう……!」
跳び蹴りから着地した藍に向かって、俺は倒れたまま涙目で礼を言った。
舞先輩はそれを「?」と首を傾げて見ているだけだった。
心配してくれないところがまた……先輩らしい……。俺の扱い方が経験で分かっているようだった。
「あ、そろそろ行かないとまずいんじゃないですか? 水城さん怒りますよ?」
「はい……」
急ぎましょうそうしましょう……。
俺は先輩が取ってくれたラケットを手に、石段を降りていった。
すっかりリラックス出来たし、今日はなんだか調子がいい気がしてきたぞ!
右側頭部以外は!
コートに入ると、水城がネットの向こう側で欠伸をしながら待っていた。学校指定のものである紺色のジャージの長袖とハーフパンツ、そしてメタルブルーが光るラケットは、なかなか様になっていた。というか、足がなげぇ〜。綺麗だし。
水城はこちらに気づくと、口を尖らせて文句を言ってきた。
「遅ぇぞ! あと十分もないじゃねえかよ~」
「だったら別に俺じゃなくてもいいだろうがよ」
言い返す。効果がないのは分かっているが……。
「え……い、いや、お前じゃないとダメなんだよ……」
変に裏返った声が返ってきた。コートは広く、端から端までは距離があるため、表情が読み取りにくい。ん、最近視力も落ちてきたのかな。携帯電話の画面の見すぎだろうか。
「と、とにかく! さっさと始めるぞっ!」
水城は咳払いと共にそう言うと、ポンポンとボールを地面に打ち付けて、跳ね返ってきたのを再び手に戻した。
毎日恒例のひと勝負。
なぜ俺は友達との乱打の時間を奪われてまで、毎日こんなことをしなければならないのか。
事の発端は、入部して初めて水城と試合をしたときのことだ。
学生のソフトテニスの試合は、ほぼダブルスのみなので、俺いつも通り健と組んで相手をした。ほとんどワンマンプレー状態の水城に対し、俺らはコンビネーション。圧倒して勝利した。
しかし、これがまずかった。
俺は水城に目をつけられてしまったのだ。
その次の日、水城は俺に、条件を出して一対一のストローク勝負を申し込んできた。
条件とは……。
「アタシが勝ったら、毎日この時間帯に、お前に勝負をしてもらう。アタシが負けるまで毎日よ」
俺の部活前の自由練習を奪い、自分の練習の為に使うというものだった。
俺が勝ったときの条件は覚えていない(何かを奢ってもらうとかだったかな)が、俺は気前良く受けて立った。ダブルスでの勝利が、俺の気持ちに余裕をつくっていたのだ。
……しかし、俺は知らなかった。
水城の後衛としての本来の実力に。
ダブルスだったからこそ。水城が慣れない人間と組んでいて、俺たちがいつものペアだったからこそ、勝てたということに。
……個人の実力に、ここまでの差があったということに。
もちろん、水城の方が上であることを表す『差』である。
―――コテンパンにされた。
完膚無きまでに叩きのめされた。
というか、むしろ遊ばれた。
俺、多分ちょっと泣いてたと思う。
水城が、有名なプレーヤーだということを知ったのは、この後のことだ。
それからというもの、俺は下僕のように毎日のように水城の相手をさせられ、黒星を刻み続けているのだ。
ちなみに、毎日の勝負にも条件があり、負けた後は案の定、乱打の相手をさせられたり、パシリにされたりした。
よって俺は、水城に勝たない限り、部活前の自由な時間が本当にないのだった。
でも、それも今日で終わりにするんだ。ここで勝って、水城を越えて、俺は自由になる!
水城が高い位置からボールを落とした。ラケットを後方に軽く引き、地面から跳ねたボールが最高点に達して、運動の向きが下に変わって落ち始めた瞬間、ラケットを振ってインパクトした。
ボールは綺麗な放物線を描いて、こちらに向かってくる。一度目の前で弾んだときには、俺は距離感を掴んでベストポジションにつき、テイクバックを済ませていた。
ちょうど良い位置に来たボールを、流れるようなフォームで打ち返す。こちらも放物線を描くコースで。
さぁ、前置きは終わり。
いよいよ始まるぞ。
「よぉーし。それじゃあいくぞ、氷室」
「……こいっ」
ワンバウンド。水城にボールが届く。俺はすぐさま、ラケットを前に構える。
水城はいつもながら美しいフォームを見せて、そこからストロークを―――シュートボールを放った。
「!!」
瞬時加速して、ネットすれすれを通過してきたボールを、俺は高速で反応し打ち返す。こちらもシュートで。水城もまた、俺のシュートをシュートで返す。それを俺はまたシュートで返す。
目にはネット付近を往復し続けるシュートの連打が。耳には心地良い衝撃音のみが入ってくる。
俺の集中が、どんどんと鋭くなっていく。水城もきっと同じようになっているだろう。
しかし、鋭くなる感覚と同時に、ゾクゾクと……何かに飲み込まれるような感じを覚える。
水城だ。水城の放つ存在感というか、プレッシャーのようなものが、徐々に強く感じるようになってきているのだ。
だが、初めてではない。こんなの毎日受けている。俺はとっくに慣れている。
まだまだ負けてはいない!
俺はボールに、強い順回転──ドライブを掛けた。
「……んっ!」
水城は、俺のスイングの違いに気付いたのか、少し立ち位置を後方にずらした。
ドライブは、進む方向に向かっての強い回転であるため、バウンドによる地面との接触時に低く急加速する。通常のストロークよりも相手を詰まらせるのに有効だ。しかし、その反面、掛けすぎると球足が伸びてバックアウトになりやすい、簡単に出来るが加減が難しい技でもある。多少余裕があるときでないと使えない。
なんとか良いタイミングを見つけて、無理矢理打ち込んだが、案外上手くいった。
水城が一瞬慌てたような気がして、俺は少し調子付いた。
「───シッ!」
返された球は先ほどまでより簡単に捌ける弾道だったので、このチャンスをしっかりと活かして、キレのあるシュートを叩き込む。
「…………!
水城が焦りの表情を浮かべ始めたように思えた。
返球に余裕がなさそうで、シュートを打ち込み易いバウンドが目立ってくる。
これは……久しぶりの優勢パターンだ!
……キテる!
今日はいけるかもしれない!
あの水城に勝てるかもしれない!
そう思ったそのとき───!
最大の好機が巡ってきた!
立て続けに攻め立てられた水城が、とうとうラケットを詰まらせたのだ。無理な体勢で打った球の弾道は短く、バウンドが高い……!
───ここだっ!
俺は前進した。ラケットの面を上げて、高いバウンドの最高点でやや下向きに振り抜く『トップストローク』を、全力かつ正確に打ち放った。
ネットを越えたボールは、今日一番の速度と低さで、水城の足元深い位置にまるで矢の如く向かっていく。
これは……さすがに決まっただろうっ!
俺はニヤリと、会心の笑みを洩らした。
その刹那、水城の顔が目に入った。自分側のコートの半分まで前進していたため、はっきりと表情が窺えた……のだが……?
…………!?
(うそだろっっっ!!??)
俺はコンマ零数秒のうちに、己の目を疑った。
「───
水城の目はまだ……終焉を見てはいなかったのだ……!
殺意にも似たような、身の凍るほど『冷』静な目……!
そして、いつの間にかスローになっていた体感時間がリカバリーし、水城の動きが突如加速したように見えた。
───シッ!!」
水城は、膝を曲げ腰を落とし、最低限まで少なくしたテイクバックのフォームをつくっていた。
否、つくり終えていた。
最小の動き、最高速のスイングで水城はなんと……『ライジング』を放った。
ライジングとは、バウンドしたその瞬間に面でインパクトする難しい技術である。相手からの返球が、短い弾道のショートボールや、バウンド時に低く急加速するドライブなどであった場合に使用される技だ。
しかし、俺たちの知っているそれは、窮地をしのぐ場合で使われることが多いため、バウンドの高い球で返してしまうのがほとんどなので、水城の返球はまたチャンスボールになる。
……はずなのだが。
俺は、とんでもないものを目にした。
水城のライジングは、俺たちの知っているレベルのものではなかったのだ。
地面すれすれに振られたラケットから繰り出されたライジングは、あろうことか、低い弾道を見せつけ───前進していた俺の下腹部目掛けて飛び込んできたのだ!
「い゛ぎっっっ!!??」
そんなの、反応出来るかよっっっ!!
───俺は、負けを察すると同時に、ダイレクト(体の一部にボールが当たって相手に点が入る)という屈辱的な敗北を受けたのだった。
やっぱりあいつは本物のプレーヤーであることを、俺はまた再び思い知らされたのであった。
──────
練習が始まるまで残り三分程。
水城が、タオルで汗を拭きながら、声を掛けてきた。
「正直、かなり驚いたよ。最近いきなり急成長したんじゃないか?」
そう言って、目を見開いて迫り寄ってくる水城。女性……しかも美人の、運動後の火照った顔が予想以上に色っぽくて、俺はついドキッとしてしまった。よりによって水城に。
俺は口ごもりながらも、なんとか答えを返す。
「ち、ちょっと、な。練習に対しての考え方を変えただけだぜ? ……それが何だ?」
「別に……ただ率直な感想を述べただけなんだが……だ、駄目なのっ!?」
別に駄目じゃねえけど……。なんでムスッとするんだよ。
なんか、お前に褒められるとか、絶対悪い予感しかしないんだよなぁ……。結果的にけなされたりとかさ。
しかし、そんな訝しがる俺の予想とは裏腹に、水城は笑顔になってこう言った。
「その調子で頑張れよ♪」
……なんだろう。最近、水城が可愛く見えるようになってきた気がする。
まぁ、気がするだけだが。
すると、男子部長の集合を促す声が聞こえてきた。部活が始まる時間になったということだ。俺はタオルをバッグの上に放り投げると、駆け足で集合場所へ向かった。
「まぁ、アタシに勝つには、まだまだ足りないところだらけだけどな~♪」
隣には水城が、俺に足並みを揃えて、上機嫌な表情を浮かべていた。
……うん。やっぱり、可愛くはないかもしれない、と俺は思った。