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薄闇の眠りを  作者: 吉舎街
第三章
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始まりの鐘が鳴る

 ――――本当は、この靄がかかった頭を元通りにする方法なんて、とっくに見当がついていた。




 食べて、寝て、起きて、飲んで、寝て。起きて、飲んで、寝て、起きて、食べて飲んで、寝て。幾度それを繰り返したことだろう。

 いつ目を覚ましても部屋のどこかに黒い人が居たことは、もはや語るまでもない。いったいあの人はいつ寝ているのか。窓には常に布が吊るされていて、時計もないため正確な時間を認識してはいなかったが、多分真夜中に目を覚ましたこともあったように思うのに。


(……そもそも、この世界の人があんな時間に起きてて大丈夫なの?)


 ちらりと疑問が頭を掠めるも、食欲と睡眠欲に負けて聞きそびれていた。しかし、どれだけ身体が休息を求めていたにせよ、風呂と自然が呼んでいる時以外ずっと寝台の上で過ごしたなんて、我ながらひどい生活をしたものである。凝り固まった身体をほぐすべく、ひとりラジオ体操をしながら私は内心溜息を吐いた。

 え、黒い人? 扉の近くで、また奇妙なものを見るような目でこちらを凝視してますがなにか?



「それは……踊りか?」

「健康を保つための運動です」

「……」



 本当のラジオ体操より、かなり速度を落として身体を動かす。すこし伸びをするだけで、あちこちからぱき、こき、と嫌な音がした。これはラジオ体操だけでは足りないなと思い、私は床に座り込んで柔軟体操へ移る。

 いったい何を始める気だ、とでも言いたげな彼の視線が刺さったが、もちろん無視して前屈態勢に入った。はい、とても、痛いです。


(っ背骨が、腰が……。きつい……)


 寝たきり老人もかくや、という。柔軟ごときで息が上がる自分が情けない。休み休み身体をほぐしつつ、黒い人に表情を見られないよう注意しながら、私は、これからやろうとしていることに思いを馳せた。




 結局のところ、私は彼女をはじめとしたこの世界に住む彼ら全員の名前を思い出せなかった。正しくは、忘れ、かつ覚えられないと言うべきかもしれない。

 診察のために訪れた若白髪の名前だって思い出せなかったし、また、彼が口にした筈の黒い人のそれだって、耳にした数秒後に頭の中から消え失せた。どう考えたって異常である。たっぷり睡眠をとっても、思考にかかった靄は晴れない。


 とはいえ、とりあえずの目的は定まった。ぼやける思考の中で、私は既に、『決めていた』。どういう思考回路を経てその結論に辿り着いたのか、深く考えようとすると頭が重くなるので気にしないことにした。

 だから後は実行するのみ――と言いたいところだが、そうはいかないのも現実である。なにせ私には行動の自由がない。安定した衣食住の代わりに、それを差し出したのだから。

 ではどうすればいいのか。誰からそれを引き出すか。なんて難しそうに言っても、残念ながら、交渉相手の選択肢なんて初めから存在しないのだ。






「本当に大丈夫なんだな?」



 これが何度目の問い掛けか、数えるのも面倒だった。激しい運動をしなければ平気だと、私は少なくとも三回繰り返した。気にかけてくれているのは分かるので、今までは律儀に丁寧に返事をしていたが、……もういいよね。



「えー、外に出ない、騒がない、人の指示には大人しく従う。あとなんでしたっけ」


 いささか低くなった声で投げやりに放った返答にも、黒い人の表情は変わらず、少しいらっとする。


「むやみに暴れない、だ」

「だからなんですかそれ。人を野生の獣みたいに」



 失礼な、と吐き捨てればこれみよがしな溜息が降ってきた。まるで聞き分けのない子供を相手にするような態度である。非常に感じが悪い。

 ただ、まともにやり合うつもりも時間も体力もないため、私はそこでいったん言葉を切った。体操で温まった身体に、久しぶりに寝間着ではない服を着て、これから外に出るところなのだ。



「だいいち、私がそっちの指示を聞かなかったことって――」



 会話にする気はないと声の大きさで示しつつ、ある程度聞こえるように、はきはきと文句を言うに留めておいた。一応、彼のこの保護者めいた態度には理由がある。





 私が怠け者のように惰眠を貪ることをやめた今日、偶然にも――いや、恐らくは私が動けるようになるのを待っていた可能性が高い――黒い人が任務で私の傍を離れるからだ。他の護衛がつくと思いきや、私と面識のある数少ない騎士達も、どうしても今日の夕方までは都合がつかないという。

 それが真実かどうかはさておき、数日間この城から彼が居なくなるのは決定事項のようだった。で、その間私が自分の部屋で一人きりになるかというと……。



「身体の調子はどうですか? ああ、前と比べると随分、顔色がよくなりましたね」

「――はい、おかげさまで」



 あの寝台の上で目が覚めてから今まで、あなたに会った覚えはないんですが。そんな言葉を飲み込んで、私は勧められるまま部屋の隅にある椅子に腰を下ろした。机の周りは衝立のようなもので囲われており、部屋の主の視界には入るが、扉辺りからは見えないようになっている。特に真新しさはなかったため元々あったものか。


(これから夕方まで、この人と一緒とか……。……)


 特に嫌だとは思わなかった。むしろ、と言うべきかもしれない。私の前に淹れたてのお茶とお茶請けを置き、己の定位置に戻る彼の背中を見やった。騎士達と並べば比較的薄い身体だが、なよっとしているわけじゃない。力ずくでなら私を抑え込むことも容易いだろう。


 私達の唯一の協力者、もとい、共犯者である――――宰相補佐官その人は。


 私を一人きりにするわけにはいかない、しかし四六時中つけておける騎士は全員出払った。代わりといっても、事情を知る人間でなければ何が起こるかわからない。これ以上情報を広げるよりは、なんて、あながち間違ってはいないだろう仮説を組み立てる。

 彼の執務机の上に少なくない紙の束が積まれているところを見ると、まあ、暇には見えない。お気の毒に、と心にもない言葉が胸を過った。



 退屈でしょうから本でも読みますか? ここに、貴女でも読める簡単なものを置いておきますから。

親切だか嫌味だかよくわからない会話の後は、静寂が落ちた。時折、彼が書類をめくる微かな音が響くだけ。

 私は手持ち無沙汰になるのが嫌で、五冊ある本のうち、一番上のものを手に取った。読もうと思ったわけではなかった。


(やっぱり……)


 本を、開いて。写実的でお世辞にも可愛らしいとは言えないキャラクターが目に飛び込んでくる。絵の大きさからして、幼児向けの絵本であることはすぐにわかった。でも、私にとっての問題はそこじゃない。



――読めなかった。ただの、一文字すら。



 意味の分からない記号へと逆戻りした文字列を、ゆっくりと指でなぞる。驚きはなかった。取り乱すこともなかった。ただ漠然と、そうだろうな、と思っていた。それが何故か、きっともう知っているからだろう。


 しばらくの間飽きもせずその動作を繰り返し、ふと喉の渇きを覚えた私は、私の為に出されたお茶に視線を移した。艶のある液体に、檸檬に似た果実が薄く切られて浮かんでいる。

 そしてそれは、黒い人に渡されたものと同じ、木をくり抜いて作られた器に入れられていた。力いっぱいぶん投げたところで、割れはしないだろう。


 本を一旦脇に置いて、木製の器に手を伸ばす。見た目以上に重く感じるのは、よく詰まった良い木を使ったか、そもそも削り取る技術が拙いのか。これだけ重量があれば鈍器になりそう、とくだらないことを考えながら私はお茶を口に含む。

 その一連の流れを、じっと見つめてくる視線があった。あるいは最初からだったのかもしれない。


 あたたかい温度にほう、と満足げに息を吐いた私につられたのか、彼もまた、自分のお茶を口に運ぶのが目の端にうつった。

 彼が器に口をつけるタイミングを見計らって、息を吸う。



「――――そんなに警戒しなくても、もうやりませんから」



 一瞬の間があって。

 ごふぉ! と面白おかしい音を立てて、私達の共犯者は盛大に咽た。


 ただ、咽ただけで噴き出しはしなかったらしい。ああ、あと一秒待っていたら、目の前の紙束がいくらか犠牲になったかもしれないのに。

 惜しいことをした、という思考をおくびにも出さず、私は素知らぬふりでひとり優雅に喉を潤した。

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