可能性について
「記憶がない?」
その報告を受けた宰相補佐官――シュルツは、思わずといった様子で声をあげた。そして慌てて口を噤むと、薄く開いた扉の隙間からそっと中の様子を窺う。天蓋がおろされていないせいで、そこに眠る人影を確認することは容易かった。起きてはいない。そう判断した彼は、再び黒い騎士に向き直る。
「ルート。それは、いったいどういうことですか」
「彼女はどうも状況を理解していないようだった。……いや、半端に覚醒していたところをみると、確実にそうとは言い切れないが」
神子に宛がわれた部屋の前で密談よろしくたむろしているのは三人の男。物静かな相貌に普段とは異なる感情を浮かべ、部屋の中を見つめる黒い騎士。若さゆえか焦りを隠せず、眉間の皺がすごいことになっている宰相補佐官。
「あー、ルート。ちょっと聞いていいか?」
そして、最後のひとり。
「記憶がないっての、それあいつが誤魔化してるってことは――ない、よな?」
一見困ったような乾いた笑みを浮かべながらそこそこの爆弾を落とす、今回の騒動を直接“見て”はいない騎士団長。彼の何とも言えない発言を受けた二人は、示し合わせたように沈黙を返した。そう、沈黙である。ラギという一人の人間に対する、まったくありえないわけではない、という共通認識。
「……どうなんですか、ルート。彼女と一番長く過ごしているのはあなたでしょう」
たとえばヘリオス王子のように、この城へ既に保護された後の彼女と初めて出会ったのなら、そもそもこの疑問を持つことはなかっただろう。保護を受けると決めてからの彼女はひどく『大人しかった』。控えめな感情表現と相まって、――どこか、見誤ったのかもしれない。
しかし奇しくもこの三人、例の祈りの間でラギと相対した顔ぶれである。敵対の意思はないと言いながらこちらの隙を窺っていたあの豪胆さを知っている。小さな守り刀を握った手は、決して震えてはいなかった。
「可能性は、否定できない」
だが、と、黒い騎士は言う。
「ラギは目覚めてから一度も――光の巫女について訊かなかった」
「……っ!」
まさか。また声をあげそうになってしまったシュルツは、ぐっと歯を食いしばることで耐えた。わいた疑問は視線に乗って届き、相手の無言の頷きによって肯定される。あの現場を見ていない騎士団長でさえはっきり顔を顰めたほどだ。その意味するところは明白だった。
「それ、は……また。重症、ですね」
静まり返った廊下に、途切れ途切れの、何とか絞り出しましたという宰相補佐官の声がむなしく響く。どれほど近い距離にいたところで、彼女の態度に嘘があるかどうか、あの短い時間だけで判断を下すのは難しい。そうは見えなかったと言ったところで、それを証明する術がない。ただ、唯一示せる事実が、この男達を黙らせるだけの説得力を持っている。
『――――私は、ネヴィ以外の光の巫女なんて認めない』
血を吐くような叫び。おそらく、あれを演技だと思った人間はいないだろう。前提としてその感情があるのなら、意識が戻り、こちら側の人間を認識した時点で、何らかの行動を起こしてしかるべきだった。どんな形であれ。
「可能性を整理すると、だ」
どこまでも重苦しい空気を払ったのは、騎士団長――リカルドのいっそ呑気とも言える声。
「単純に寝ぼけていた。気まずいのでなかったことにしようとしている。起き抜けにお前の顔を見たので混乱した」
「おい」
声だけ聞けば冗談にしか聞こえない調子で、彼はふたつ目の爆弾を落とした。
「あるいは――後遺症」
毒の。と、みなまで言わずともわかっている。一瞬にして冷えた空気に動じるものはいない。
「ディアを呼びましょう。リカルド、巫女様の治療は終わりましたか?」
「……ああ。命に別状はないそうだ」
「では彼を北の間に呼びつけておいてください。私が行くまで逃がさないように。ルートは引き続き警護を」
普段の冷静さを取り戻したかのように指示を出す宰相補佐官は一度そこで言葉を切り、傍にある部屋をちらりと見た。正確には、その中で眠りにつく者を。
「どこまで覚えているかを探る必要はありません。聞かれたことにだけ答えるようにしてください。余計な口出しはしないように。くれぐれも、――頼みましたよ」
「……わかっている」
そうして、彼らの密談は終わりを告げた。
前回と違い、早々にああこれは現実ではないと認識した。どこまでも真っ白な世界のど真ん中で、私はひとり立っている。
この空間に来るのは二度目だという記憶が脳に刻まれている時点で、これが単なる夢なんかじゃないと断言してもいい気がしてきた。ゆるく周囲を見渡せば、すぐに謎の物体Yの親玉が目に入る。距離があるからか、その漆黒の絵画を囲う透明な額縁は視認できない。
くわばら、くわばら。
近づこうという気は起こらなかった。私は周囲を警戒しつつ、ゆっくりとその場に座り込む。
いつか夜の神子の祈りの間で彼らに宣言したように、私は痛いことが嫌いである。冬に静電気でばちっとするのも苦手だった。一度でも痛い思いをしたのなら、よっぽどのことがない限り同じ状況は避けるだろう。見るからに怪しいものに不用意に触った私も悪かった。
そう、一応、私達は学習するイキモノなので。
(それに……ひとりになれる、っていうのはある意味ありがたいかも)
ぶっちゃけた話、黒い人の気配に慣れたからといってあの近すぎる距離に控えられたままでは気が散る。それに今問題にすべきことが、彼本人にも関わるとなればなおさらである。
名前。そのひとをあらわす音。
彼女のそれを思い出そうとしても、鍵のかかった箱にしまい込まれたように、文章の一部だけ黒く塗りつぶされたように、ただその部分だけが不自然に抜け落ちていて形にならない。焦ることはなかったが、どこか薄気味悪く思う自分がいる。
一方で、彼の名前について思いを馳せても、そういった奇妙な感覚は生まれない。なんだったかな、と、まるで日常生活で直前まで思っていたことをど忘れするような。今言おうとしたことが次の瞬間にわからなくなるような。……だから、つまり。その。
(単にガチで忘れた可能性)
うんこれは口に出しちゃダメなやつ。私はそのあり得そうな結論を思いつかなかったことにした。未だかつて黒い人に名前で呼びかけたことなどないのである。彼が騎士である以上、私達の共犯者にはできないのだから無理に近づく必要もない。ああ、まったく問題なかった。
――――びしり。ばきっ。
「っ!」
仮にも護衛をしてくれている人に失礼なことを考えたのが悪かったのだろうか。
突然聞こえてきた不吉な音に、私は肩をびくつかせた。見渡す限り、この空間には私とあの漆黒の絵しか存在していない。そしてこの距離で音が聞こえたということは、相当な音量であったことがうかがえる。ヒビが入った、なんて可愛らしい音ではなかった。確実に「何か」が割れている。
(行きたくないなあ)
思考とは逆に、私は全身に力を入れて立ち上がる。歓迎されていないのはもうわかった。触らなければいい――かどうかは、まだわからない。
ぱきん。一歩一歩進むごとに、小さく大きく何かが壊れていく音がする。それでも私の歩みを止めるには至らなかった。やがて透明な額縁の輪郭が見えるころ、私は、何かの囁きを耳にしたのかもしれない。
――――いたいのはいやだ。
それに意味があったかどうかさえ、わからないまま。