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痛い。――どこが?
そんな自問自答を、鉛のように重い身体を持て余しながら私は何度も繰り返した。意識は覚醒したものの、自分の置かれた状況がよく理解できない。いつものように水差しを求めて伸ばしたはずの手が、何もない空間をひと撫でしてぱたりと耳元に落ちた。寝起きの頭ではほんの数瞬前に何を考えていたかさえ忘れてしまう。
さて、この痛みはどこから来るのか。何の気なしに目をやったその先、耳元に落ちた掌から手首にかけて、白い布が綺麗に巻かれているのが見て取れた。消毒液などではなく何かハーブのような、とても爽やかな匂いがする。
怪我でもしたかのようだ、と。痛みを感じつつも思考はまるで他人事のそれだった。
(そうだ、水――)
再び強い喉の渇きを覚え、先ほど手を伸ばした空間を見やった。しかしあるべき場所に水差しはなかった。というか、その台ごとなくなっていた。なぜ無いのだろう、と私はぼんやりと思う。その理由が「わからない」。
何にせよ求める水分がそこにないのなら、起き上がって自らの足で取りに行かなければならないと頭ではわかっているのに、動こうという気がまったくおこらなかった。痛いな、と、わかりきったことを繰り返すだけ。
「――…… 起きたのか。ラギ」
だからなのか、なんなのか。頭上から降ってきたその音が耳に届いてから、人の声だと認識するまでに少し。その声の主が誰なのか理解するのには更に数秒。また、その唇から紡がれた二音が他でもない「私」を指していると思い出すまで、ゆうに数十秒を要した。
本来ならば悲鳴を上げて飛び退く場面だったのだろう。自分が眠っているうちに、部屋に――知り合いとはいえ――招き入れた覚えのない誰かが忍び込み、なおかつ己の眠りを見守っていたなどと。
「……おはよう、ござい、ます?」
渇ききった喉からは、そんな陳腐な言葉しか絞り出せなかったけれども。
大して仲良くもない他人の前で無防備に横たわる、という状況はどうにも居心地が悪い。デリカシーの欠片もない侵入者、もとい、黒い人はそれ以上何かを語ろうとはせず寝台の傍に静かに佇んでいる。
なんだろう、この状況。立ち去るような気配は一切なく、彼はじっとこちらを見据えたまま動かない。何か物言いたげだということはわかるのだが、相変わらず寝ぼけた私の頭はその仕事を放棄している様子で、正直なところさっぱり「訳が、分からなかった」。
(……痛い)
深く考えようとすれば無視することのできない痛みが邪魔をする。私は現実逃避のように、また布が巻かれた右手に視線をうつした。隙間なくきっちり巻かれている布はひどく柔らかい。特に血の匂いはしないが、怪我をしているのは間違いなさそうだった。
いつ。なぜ。答えはでない。いや、そもそも考えようという気力がない。黒い人がこちらを観察していることをわかっていて、私は再び目を閉ざした。
「……ラギ?」
それから少し経った頃。黒い人の、珍しくも遠慮がちな呼びかけが静かな部屋に落ちる。もう一度寝たとしたら起こさないように、という配慮だろう。割といい声してるな、と、陳腐な感想が浮かび、それがまるで今初めて気づいたかのような表現であったことに内心苦笑する。
私は横たわったまま返事をしなかった。
起き上がり彼と会話するよりも――この状況の理由を知ることよりも――まずは。窓から差し込む陽の光のせいで暗闇は訪れない。それでも、この部屋で目が覚める直前まで見ていた夢のようなものがじわりと脳裏に甦った。
気付いたことがある。はっきり痛みを主張している右手とは別に、身体のあちこちに僅かな痺れが残っていること。例えるなら、冬場の乾燥した空気の中、ドアノブに触った途端静電気に指を弾かれるあの感覚。
おまえの存在をゆるさない。
他の誰でもない私ひとりに向けられたそれは、決して言葉という形を持っていなかった筈だった。外見だけを表するなら、透明な額縁に収められた、何の特徴もない漆黒の絵画でしかない。
それでも目に見えなくとも感じるものがあった。訴えかけてくる気配を感じた。あそこまで強く深く鋭利に心を抉る何か、は私の中に存在し得ないものだ。ただの夢とは思えない。
でていけ。
額縁と絵、弾かれた指。私はその意味を考える。何かの暗喩か、あるいは、“そのもの”か――。
(……っああ、もう、やっぱり無理!)
自分でも頑張った方だと思うけれども、我慢の限界は早々に訪れた。真剣な話、命の危機である。つまるところ喉が渇いてしょうがない。身体がだるいのをいいことに人目を気にせず、アザラシのようにだらけていたが、もう無理。限界。これは死ぬ。
このまま目を閉じていればまた眠りの世界に引き摺り込まれ、最悪脱水症状で永遠にお休みすることになりかねないという危機感は流石に持っていた。私は動かぬ体に鞭を打って、起きることを決意する。出来る限り小声で呻きながら、まだ動く左腕を頼りに僅かに身を起こせば、すぐさま大きな男の手が私の背を支えた。もっとも、今までの彼の言動から予想できていたので特に反応はしない。
……なんとなく、これ以上の無様な姿は見せない方がいいと、いつかの自分が囁くので。
私が喉の渇きを訴えると、黒い人はすぐに果実の匂いがついた水入りの器を用意してくれた。木をくり抜いて作ったらしい素朴な容器は手に優しく、生ぬるい水が甘露のよう。がぶ飲みしては胃に悪いと多少スピードを緩めても、やはり小さな器だったためすぐに底が見えてしまう。
身体が望むだけお代わりを要求しつつ、私ははっきりしてきた頭で周囲を見渡した。お代わりを注ぎにいく彼の背中を見守った先で、探していた水差し……らしきものが目にとまる。いちいち往復するのは面倒だろうに、寝台から遠く離れた扉の近くにあの台ごと移動しているようだった。寝台に居たままでは絶対に手が届かない位置に妙だなと思いはしても、水差し自体見覚えのないものに変わっていたことで、まあ何かあったのだろうと結論を出す。
何が、なんて、思わない。どうせ結局“彼女”絡みのこと――。
(…………あれ)
彼女? ひとつ瞬きをして、私はその単語を胸の内で繰り返した。
彼女、とは、いったい だ れ の ことだっただろう。
(っ違う、そうじゃないわからないわけじゃなくて)
思い出せないわけじゃない。顔を思い浮かべることはできる。姿形、口調、大まかな性格、今まで私とどんな会話をしてどんな風に過ごしてきたか、その危うい立ち位置だって私は知っている。
境遇が似ているようで似ていなくて、それでもお互いの利害が一致したからこそ協力している、大切な――……? ふと、僅かな違和感を覚えて私はひそかに眉を顰めた。うまく表現できない、薄気味の悪い感覚。あえて言葉にするのなら、そう、温度感の違いというものだろうか。
(私は、ここで何をして――)
起き抜けで頭がぼうっとするのは仕方がない、と思う自分と。何かもっと別のことをしなければならないのでは、と惑う自分。それこそ起きた瞬間に、開口一番に、私は何か言わなければならなかったのでは、と。まるで意味の分からない思考が頭の隅に浮かび、すぐに消えていく。
「満足したらもう少し休め。……疲れているだろう」
果実水が入った器を差し出しながら、黒い人は私を労うように言った。そう、確かに私は疲れているようだった。何がどうなってこの状況にいるのかまるで「わからない」が、怪我をした挙句、見張り付きでこうやって寝かされていたからにはそれなりに深刻な事態だったのかもしれない。
昼間だというのに静寂が支配するこの部屋で、ほのかに甘い水が喉を滑り降りていくのを感じながら、私はあるひとつの事実に辿り着いていた。
(どうしよう)
彼女の名前が、わからない。わからないくせに焦ってもいないという、現実。
「……どうした?」
ろくに何も答えない私が気になったのか、いつになく近い距離からこちらを窺う黒い人。こんな女の護衛など楽しくもないだろうに、常に一定の調子を保って私の傍に控えている。彼の気配に慣れた自分が少し恨めしい。いや、慣れさせられた、というのが正しいか。美形ではないがそれなりに端正な顔立ちをしている男をじとりと眺め。
瞬間、私ははたと気付いてしまった。
あ、黒い人の名前なんだっけ。
白い、白い世界。どこまでも真っ白な世界。窒息しそうなほどの白さが、目に痛くてしかたがなかった。あの空間で私は明らかに異質で、異物で、唯一周囲から浮いていた。
出ていけ。
――この『 』から。
向けられたのは明確な悪意だった。少なくとも、私にとっては。