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腹の底から声を出したのはいつぶりだろう。湧き上がる衝動に任せて喚き散らせば自然と息が荒くなる。それを真正面から受け止める羽目になったエルの表情を見れば、私が今どんな醜態を晒しているのかは考えなくてもわかった。
そして、誰かさんのおかげで、どんなに力を込めても相変わらずコンクリートで固められたかのように微動だにしない右腕。ガラスの破片はまだ私の手の中にある。
「ラギ……っ離せ、血が出ている!」
「――――」
知るかボケ。とばかりに、私は黒い人の言葉を黙殺した。かなり筋肉のある彼の本当の力を持ってすればもぎ取ることは簡単だろうに、今、お互いの力は拮抗している。
怪我をさせるわけにはいかないと彼が気を遣っているのか、もしくは私の火事場の馬鹿力か。血が出ていると言われてもまったく痛みを感じないので、後者かもしれないと思う。
私は呼吸が整うのを待たず、しかし今度はしっかり意志を持って、私から一番遠いところに立っている男を睨みあげた。顔色を失いながらも私の視線を受けてさっと表情を取り繕うさまは、流石王族と称賛するべきか。こちらが何かを言う前に、王子様は口を開いた。
「申し訳ありません。今回のことは、全て私の独断で――」
「どうでもいいです、そんなこと」
内心はどうあれ、言葉態度全てにおいて丁寧に紡がれた謝罪を、私は最後まで聞かずに切り捨てる。それは偽りなき私の本心だった。仰る通り彼ひとりで決断し、その権力を以て強引に事を運んだのが事実とする。だからどうだというのだろう。責めるなら私だけを、なんて殊勝なことを言うつもりだろうか。いやはや、――笑うしかない。
「いいんですよ別に、そんなこと。誰をどう使おうが、囮にしようが、それが貴方の仕事なら」
国の秩序を守るという大義名分があって、その為に致し方なく……かどうかは定かではない……巫女と巫女候補を囮にして。囮にされたことに憤りはすれど、私自身秘密を守れないかもしれない事情を考慮すれば、百歩譲って事前説明が無かったことは受け入れる。
そして事件に対応した騎士や兵士など国側の陣営が、人のことを一度囮にしておきながら、それでも尚まだ侵入者を根絶できなかった程度の能力しか持っていないというのなら。
「千歩譲って、今回のことも受け入れますけど――?」
私の嫌味に反論はなかった。宰相補佐官の口ぶりだと、彼らの実力がないというよりは国境を跨ぐ相手が非常に厄介であるというのが正しいのだろうが。私は声高に詰ることを選ばなかった。どうせ聞きやしないのだ。
私がここで「二度とするな」と叫んで彼が頷いたところで、その約束にいったいどれほどの価値があるだろう? 誓いの言葉なんていらない。どうせ私は信じない。彼らは彼らの仕事を全うすればいい。――でも、と。私は一度言葉を切って、じわりと滲む感情を持て余しながら目を眇めた。
私だけのことなら、いい。一応彼らは私を「死なせてはいけない」と思っているのだから、守られるという保障はある。夜の神子なんて、百年前の遺物がいきなり目の前に現れたようなものだ。確実なことは何もないはず。
むしろ逆に危険なのはネヴィの方だった。結局この世界の人々は――光の巫女を消耗品としか思っていない。言葉でどう表しても、無意識のうちにそう認識している。
(“力”が強いから、大事にすると思ってたのに……!)
光の巫女の寿命を延ばせるかもしれない、という私が生んだ希望が、あるいは彼女の価値を損なったのだとしたら。ネヴィが傷つき、傷つけられた――その苦しみと悲しみが後から後から溢れ出し、やがてひとつの言葉となってぽつりと零れた。
「……どうでもいい」
そう、「どうでもいい」。
確かに、光の巫女に選ばれてしまった人は可哀そうだと思う。一度でも世界と繋がってしまえば、逃げようが逃げまいが数年と経たずに老いて死ぬ。いくら報酬を貰っても、いくら称賛を受けても、決してその悲劇を癒すことはできない。『選定』そのものが最初から歪められていたかもしれない、と思えば尚更憐みは増した。
あの時ネヴィの姉に会わなければよかったとは思わない。一方で、聞かなければよかったとも思う話もある。光の巫女と夜の神子。死が常に傍に寄り添うものと、そうでないもの。私はそれらを天秤に掛けること自体が罪であるような気がしていた。ずっと。ずっと。ずっと。――でも。
「――私は、光の巫女なんてどうでもいい」
赤い色を纏って崩れ落ちるネヴィの姿を見てしまった今ならわかる。
「この世界がどうなろうと知ったことじゃない。光の巫女なんて馬鹿げた仕組みがいつまでも続くとは思えないけど。それがこの世界の仕組みだっていうなら、私は口を出すつもりはなかった。まして、……救おうだなんて」
「ラギ――」
人の命が失われるとわかっていて、それを自分が命を失わず救えると知っていて何もしないこと。人として罪悪感に押し潰されなかったのは、私を召喚したあの男に明確な落ち度があったからだ。
もし、もしも、召喚直後から平身低頭で迎えられ、そう経たず死ぬという光の巫女とやらに直接会い、泣きながら懇願されたら――。ああ、想像しただけで吐きそうになってしまう。私は、本当に、トラウマレベルで女子供に泣かれると弱い。幸い、そういうことにはならなかった。あの男は私を脅迫し交渉は決裂――現状、私は、『光の巫女』を助けようとは思わない。
「でもネヴィが選ばれたから、……っネヴィが私を呼んだから! ネヴィが死にたくないって言ったから!」
だけど、彼女は、助ける。絶対に。私はもう、そう決めている。そしてその行為が、夜の神子として光の巫女を助けるということになるのなら、私にとっての光の巫女とはネヴィだけだ。
「――――私は、ネヴィ以外の光の巫女なんて認めない」
はき違えるな。その言葉に彼らが頷いたかどうか、を私が見ることはなかった。散々叫んだせいで寝ている間に若白髪が打った鎮静剤が回ってきたのだと知るのは、実にその数日後のことだった。
私は、白い世界に立っていた。どこまでも真っ白な世界。いつからいたのか、なぜここにいるのかはわからない。まるで夜の神子の祈りに使われる空間を白黒反転させたかのようだった。
そこでは私は『私』という形を取っていなかった。辛うじて人型だとわかる輪郭の奇妙な黒い靄となって、私はその空間に存在していた。
(……なに、やってたっけ)
頭がひどくぼんやりとしている。最近悪夢は見ないと思っていたのに、これもその類のものだろうか。ただ白い空間に取り残されているだけなら悪夢とまでは言えないが、さっきから嫌な感じがする。誰かに見られている、と思う。ぴりぴりと、あからさまな敵意が籠った視線がちくりと肌を刺した。
(や、気付いたらいただけで、来たくて来たわけじゃ……)
誰にでもなく言い訳しつつ、ぐるりと周囲を見渡す。と、少し離れたところに何か黒いものが見えた。この白い空間の中ではかなり目立っている。ぱっと見たところそれ以外は見つからない。じっとしていても何も変わりそうにないので、私は警戒しつつもそろりそろりと足を進めた。
目が痛くなりそうな白い空間のど真ん中で、ソレは宙に浮いていた。
「謎の物体Yの、本体? ……の、完全版?」
この間祈りの間で見た、謎の物体Yの本体らしきもの。あれは馬鹿でかい黒い板に見えた。近寄れば端からぼろぼろと崩れていたのが見えたが、その欠片が、普段私が毎日集めているものだった。つまり夜の神子の祈りとは、崩れていく物体Yを元に戻す作業である、と言っていいだろう。もちろん、以前の夜の神子が同じことをしていたとは限らないが。
そしてそれが今、綺麗な一枚の長方形の板となって宙に浮いている。まるで絵画のようだと私は思った。その謎の物体Yの完成版の周囲に、透明な額縁のようなものがはめられていたからだ。特に精巧な細工が施されているわけではないけれど、透明で、綺麗な――。
(……? ネ、ヴィ?)
なぜそう思ったのか。自分でもよくわからない。その透明な額縁にふと感じるものがあって、私は吸い寄せられるように手を伸ばした。
ネヴィ、だ。なぜかこの額縁から彼女の力を感じる。彼女が祈っていたときと、同じような力が。そしてその額縁に触れるか触れないか、といったところで、ばちっ、と電流が走ったかのように指が弾かれた。鋭い痛みに思わず手を引っ込める。
(っな、なに――)
――――出ていけ、と、誰かに言われた気がした。
すう、と意識が浮上する。やけに瞼が重い。あれ前もこんなことなかったっけ、と止まった思考の中、思う。強い喉の渇きを覚えた。
ああ、水差しはいつも枕元にある――薄っすら目を開けると同時に、何も考えず寝台の傍にある台に手を伸ばそうとして。
「――え、痛……い?」
夢幻ではない現実の痛みに、私は目が覚めた。