押し込められていたもの
犯人を捕らえたとはいえ、襲撃されたばかりで私を一人にはできないと思ったのだろう。部屋を出てから数秒と経たずに背後で扉が開き、黒い人が私を追いかけてきたのは知っていた。こちらの感情を考慮したのか声を掛けてくることはなかったけれど。
私はそれをいいことに一度も振り向かず、もう部屋までの道は覚えていたのでひとりすたすたと歩き続けた。その時の記憶はろくに残っていない。ただ、私の部屋がある区画へ入る際は通行証を提示しなければならないのだが、普段と違って不自然に距離を開けている私達を顔馴染みの見張りが物珍しそうに見ていたことだけは覚えている。
私は、黒い人に一切気を払わなかった。部屋に辿り着くと挨拶もせず無言で扉を閉める。その状態のまま数十秒待ってみたものの、入ってくることはないが一向に去る気配も見せないので彼はまだそこにいるのだろう。でも、もういい。騎士達や若白髪が王子様と共謀していてもいなくても。――私には何らの関係もない。
意識から黒い人の存在を追い出すと、私は流れ作業のごとく黙々と事を進めた。部屋の奥に隠してある私個人の荷物からまず、あるリボンを取り出す。少し長めのそれは、食堂に勤めていた頃ネヴィから貰ったお菓子についていたものだ。
(……ネヴィ)
彼女のことを思い浮かべれば、途端にあの赤い色が視界いっぱいに広がった。ぐっと喉が詰まってうまく呼吸が出来ない。一瞬きつく目を閉じて、私はその幻影を振り払う。
深呼吸の後、気を取り直してリボンを手に扉へ近づき、出来る限り音を立てないようふたつの取っ手をまとめて縛った。もちろん安い布製のリボンに耐久力がある筈もなく、この行為にさほど重要な意味はない。一瞬だけでも動きを止められれば良かったし、それ以前に、気分的なものがあった。
今からすることを思えば――鍵が掛からない扉なんて興醒めである。そう、舞台設定はおざなりにしてはいけない。
自暴自棄になっていたわけではなかった。ひどく冷静だった。ただ、頭の中からありとあらゆる感情が抜け落ちたかのように、私は無感動に手の中のものを見つめる。鞄から取り出した自分の財布の中、捨てるに捨て切れないポイントカードの山に挟むようにしてあの日ここに隠したもの。秘密箱の、中身。透明な袋に入っている塩に似た結晶。
それを解析した若白髪が城に来ているという事実が私を後押ししたのは否めない。彼がネヴィの治療の為一定期間ここに留まるだろうと予測しての、――。私は、痛いのも、苦しいのも嫌だった。
寝台の枕元の近くにはいつもガラス製の水差しとコップが置かれている。その空のコップの中に一袋全てをあけ、その上から水差しの水を注ぎ込んだ。半分ほど入れればさっと溶けて無色透明になり、しかも無臭だったので、元の水とはまったく区別がつかなくなる。この量で五人も殺せるというのだから驚きだった。
私は水差しを戻すついでに、粉末の入っていた袋をその横に置く。そしてコップを手に持ったまま、この部屋を初めて見たとき悪趣味だと正直引いた天蓋つきの寝台にあがり、全ての布をおろした。周囲を遮断すれば私だけの空間が出来上がる。
「…………」
不安はない。もっと言えば、恐怖もなかった。この世界で解毒ができるからといって異世界人である私にもその効果があるとは限らない。あるいは若白髪が間に合わなかったら。そもそも一人一包というあの言葉に嘘があれば。様々な可能性が頭を駆け巡り、そして、何の感情も生まずにただ消え去った。
(どうでもいい、――何もかも)
この世界のことも、あれだけ切望した私の世界すら、この瞬間には頭から消えていたのかもしれない。崩れ落ちる彼女の姿だけが何度も何度も繰り返されるだけ。彼女の身体から零れ落ちていく命が、目に焼き付いて離れない。
両手で持ったそれをゆっくりと口元に持っていくと、やがて唇にガラスの固い感触がした。
――――どこか遠くで、あの子の悲鳴が聞こえる。
そして全てを飲み切る前に、私の意識は闇に沈んだ。
深い眠りからゆっくりと覚醒するように、意識が少しずつ浮上していく。自分がどこで何をしていたのかよく思い出せない。瞼がやけに重い。穏やかな微睡の中で、ふと、声が聞こえた。
「彼女がそれを所持していたと、本当に知らなかったんですか!」
厳しさの滲む声はすぐに宰相補佐官のものだとわかった。しかしその激しさに反して、別の場所から落ち着いた言葉が返される。
「ええ、知りませんでしたよ。それが入っていたという箱ごと渡されたものですから。効果を知る前に抜き取っていた、ということは、……あらかじめ予想していたということでしょうね」
「っ、呑気なことを――」
「おや、彼女が持っていたことがそれほど重要ですか? むしろ、それを“使わせてしまった”ことこそが問題でしょう」
そうは思いませんか、ヘリオス殿下? まだ身体は眠っているのか、彼らの会話だけが混濁した意識にぽつりぽつりと落ちてくる。それでも自らの置かれた状況を把握するには十分だった。
解毒しない限り意識は戻らない、とあの日若白髪は言っていた。だから私は一命を取り留めたのだろう、ということはわかる。もっとも、一包を飲み切っていない時点で致死量に達していたかは怪しいが。
この愚かな行為は万が一の可能性を無視した上での狂言であり、脅迫でもあった。今、若白髪に水を向けられて口を開いた、――彼への。
「彼女は――いや、彼女達は、こちらの思っていた以上に……」
王子様の言葉はそこで途切れ、続くことはなかった。ここがまだ私の部屋だとしたら、そこに宰相補佐官、若白髪、王子様の三人が揃っていることになる。嫌な面子だとぼんやり考えていると、ここで新たな声が割り込んだ。
「ラギは、……ずっと我慢してたんだ。知らない世界にひとりきりで放り出されて、すごく不安だったと思う」
声の主はエルだった。聞き間違うことはない。労りと慈しみに満ちた、彼の声。
「やっぱり召喚した側の人間だし、俺達が信用し切れないんだよね。こうやってひとりで溜め込んで、我慢して」
どこまでも異物である私を、心の底から思いやることができる優しさに溢れた青年。黒い人に比べてそこまで長い間一緒にいたわけではないのに、ごくごく自然に私の傍へと寄り添い、常に気に掛けてくれる。相談所に勤めているからか距離の取り方は上手かった。自分からは強く踏み込まない。それでも、その優しさでいつでも迎え入れてくれるという安心感を相手に与える。
「でも、――っ、ラギは何も言ってくれないから」
嗚呼。
「何も……」
私は――多分、彼のその態度が、――――だいっきらいだった。
がしゃん、と耳障りな音を立てて手の中の水差しが砕ける。流石は城の備品、食堂にあったものと違って高価なものらしく、薄く軽く作られており、台に叩きつけるだけでそれは容易く割れた。
私は意識を取り戻したばかりでろくに動かない右腕に気合で力を込める。ガラスの破片となった水差しを強く握り、そのまま己の首筋に近づけると――次の瞬間、物凄い力でその腕を捻り上げられた。
どうやら伏兵が居たらしい。会話に一切参加していなかったので存在に気付けなかった。
「え、ラギ!?」
「あ、あ、貴女――」
「馬鹿な真似はよしなさい!」
音に驚いてこちらを振り返る男達の姿がぼやけた視界に入る。やがて、言葉もなく青褪めてこちらを見つめている王子様と目が合った。息を吸う。強く掴まれた右腕は痛みを訴えるが、欠片は意地でも離さない。背後から、ラギ、と、低く叱責するような響きを持った黒い人の声がして、そして、全てが決壊した。
「――――あんたたちに、何がわかる!」
最初から思っていた。誰が加害者で、誰が被害者なのか。禁忌とされた法術を使って私を召喚した国王。国王が死に、召喚は彼の独断だったと言って私を保護しようと動いた人々。
彼らは言葉通り私を「保護」して、……いや、少なくとも飢えからは守っている。そういう行為を、私は、どう思えばいい? どう思うのが正しいこと?
「何がわかるっていうの、貴方達に! 何が!? そもそもこっちはボランティアやってんじゃねえんだよ!」
「ぼ、ぼら……? えっ?」
通じないかもしれないと、彼らにカタカナ語は使わないよう気を遣っていたことなどどうでも良くなる。私の豹変に呆然と立ち尽くす男共に、言葉を止めることなどできなかった。
「だいたい、なんで召喚とか許したの? 大の大人が揃いも揃って情けないとか思わないわけ!? 召喚なんて大掛かりなこと、そう簡単にできないよね。準備とかもあったはず、なのに少しも怪しいとは思わなかった? どうして? あ、ていうか、国王サマが正気を失ってたって、なにそれ? ああそう、ぜーんぶその一言で片付けたわけだ」
まあお気の毒さま。私が来て、厄介なことになったと思ったでしょう。毎日毎日、正直色々面倒なんじゃない? だったらさあ。
「――召喚自体阻止してみせろよ、この無能」
まるで地獄のような沈黙が横たわる。さして声量が大きくもないのに、私が吐き捨てた言葉はしんとした部屋にはやけに響いた。そしてこれだけ暴言を吐いても、右腕に掛かる力は一瞬も緩むことはない。同じく私も引かなかった。
互いに無言の攻防を繰り広げつつ、彼らから特に反応が返ってこないので私はふと目に付いたエルに次の標的を定めた。
「国王が召喚したから、独断でやったから。結局他人事だよね。ううん、いいよ別に他人事でも。君主制の国で王様なんて一番偉い人が強行したら止められないか。それは理解する。でも、他人事なら他人事らしく、無関心貫いたらどうなの? そうやって関わってきて、「何も言わない」って、ねえ、なに? 言ったら何かが変わるの? ねえ!」
「――――っ――」
「じゃあ今すぐ帰してよ! 元の世界に帰して、ほら早く!」
それ以外に望むことなんてない。叶えたい願いは、たったひとつ。
「それができないなら――――」
黙ってろ、と私は思った。彼に悪気が一切ないことは知っている。彼の優しさに嘘がないことはわかっている。ただ、その優しさに、私が勝手に傷ついただけ。勝手に――苛ついていた、だけ。