糸が切れた瞬間
目の前の泉が漆黒に染まっていく。全てが闇に閉ざされる。私の『祈り』は、いつもこうやって始まる。そうして普段通り侵食が終わるのを待ってから伏せていた顔を上げ――私は驚いて目を見開いた。
空間に、“果て”がある。いや、正しくはその果てを私が認識できている、と言うべきか。闇に包まれどこまで広がっているかまったくわからなかったこの空間が今、大きな直方体となって私の前に現れていた。
いったい昨日までと何が違うのか? 呆然とその光景を眺めながら考えるが、ついさっきまで――光の巫女であるネヴィの祈りを間近で見ていたことしか思いつかない。
(光が……強くなってる……?)
それに思い至った瞬間、ああ、やっぱりと確信した。この光は、彼女の祈りそのものだ。光の巫女の力に直接触れた今だからこそ断言できる。宰相補佐官に無理を言ってついて行った甲斐があったと私は内心拳を握った。
正直なところ、選定を正すという行為そのものに私が関われる部分はないと思う。
選定方法を作ったのが人間である以上何らかの意思が入り込む余地はあるとか、『選定』が初代光の巫女になった例の王族を『選ぶ』為に作られたものじゃないかとか、部外者故の無知さで色々口出しして疑問を呈すことはできるが、それだけだ。
生まれ持った価値観に縛られている彼らの新たな目になることはできる。だが、やはりそれだけなのである。実際選定を正すのは彼らの仕事だ。彼らが、自分の手でやるべきこと。
(だから私は――)
私は、私にしかできないことを考える。ネヴィの寿命を延ばす為に取れる手段を、漠然とした“何か”ではなく明確な形としてこの手に掴みたい。
欠片を集めるだけの作業は飽きてきたところだった。私は、空間の奥、この距離ではまだ床に落ちている馬鹿でかいだけの黒い板……にしか見えない謎の物体Yの本体のようなものへと、迷いなく足を進めた。
どんなに親しい人だって、他人であれば一日のほとんどを共に過ごしているといずれ嫌気が差すだろう。少なくとも私はそういうタイプの人間だった。夜になれば一人になれるとはいえ、常に見張られているという感覚はいつまで経っても慣れないものだ。
私がそれに耐えられたのは、ネヴィの存在があったからだとはっきり胸を張って言える。彼女ももちろん他人だが、傍に居れば落ち着いたし、会話していて彼女が笑えばほっこりと心が緩んだ。
ネヴィは私にとって、いわば精神安定剤のようなものだった。大事だった。失えなかった。本当に、大切だった。
たとえそれが、誰かにそう強いられた感情だったとしても――――。
赤。――赤い。私の視界に飛び込んだその色が、脳裏に焼き付く。耳を劈くような悲鳴が自分の喉から出ていることを理解するのにかなりの時間を要した。
(……あかい)
それは命の色。彼女の――ネヴィの身体から零れ出たもの。私の目の前で、彼女は崩れ落ちた。他でもない彼女の護衛騎士の手に掛かって。
「ラギ、下がれ!」
思わずネヴィに伸ばした手は強い力で逆の方向に引っ張られた。黒い人が私を背後に隠し、その横に色白騎士が並ぶ。バランスを崩してその場に座り込んでしまった私を支えたのはエルだった。剣を持っていない彼は両手で私の肩を抱くように引き寄せる。
触れた手の体温が、これは現実だと残酷に告げている。もう、悲鳴すら口から出てこない。掠れた呼吸の音が耳障りだった。
(ネヴィ、ネヴィ、……ネヴィが)
血を流した。傷ついた。それをまるで自分のことであるかのように感じている。私自身が斬りつけられたかのような――痛みを、錯覚する。ネヴィが傷ついた。傷つけられた。ぐるぐると同じ言葉だけが頭を巡る。ネヴィが。ネヴィ。ただ混乱する私を「大丈夫だから」と宥めるエルの声を遮るように、部屋に響いた言葉があった。
「 ――捕らえろ 」
人に命令することに慣れ切った口調、そこに潜む尊大な態度。私に対していくら丁寧な態度を取っていても本質は変わらない。フラグ美形男ほどではないものの、あの男によく似ている声にびくりと肩が揺れた。
ヘリオス殿下――この国の王位継承権第二位。最近嫌なことが続いているから気分転換にと、半ば命令する形で今日私とネヴィとをこの中庭に集めた張本人。私はネヴィが来ることを聞かされていなかった。ネヴィは私が来ることを聞かされていなかった。中庭で顔を見合わせお互い首を傾げたのはほんの少し前のことだったのに。
王子様のひどく落ち着いた指示によって狼藉者は外へと連れ出されていく。淡々と作業する、見たことのない紋章があしらわれた鎧を着た兵士達はいったいどこに待機していたのだろう。……いや、問題はそこじゃない。問題なのは、彼らがなぜ待機していたか、だ。
毒を使われた可能性がありますと叫び、兵士を遠ざけネヴィを診察している若白髪は最初からこの妙な集まりに参加していた。扉を開けて、王子様と若白髪に迎えられたときの微妙な気持ちといったら。
やがて応急手当が終わり、ネヴィが運ばれていくのを私はへたり込んだままじっと見守る。若白髪の態度に悲壮感がないことから大した怪我ではない、と頭ではわかっているのに、赤い色がまだちらつく。
フラグ美形男がさほど怖くなくなったからといっても剣はやっぱり怖かった。立ち上がろうとしても足に力が入らない。
「――ラギさん」
背後からそう呼ばれても私は反応できなかった。ラギ、とエルに声を掛けられても動けなかった。顔を見てしまえば、目が合ってしまえば、自分が何をしでかすかわからなかったからだ。
相手は王族だ。それに今は彼自身の部下だろう兵士達を連れている。恐らく私を、次期光の巫女候補としてしか認識していない人達だ。特例は――適応されない。見逃してはもらえないだろう、最終的にはなかったことにしてくれるとしても。
呼ばれているのに答えないのは不敬罪に当たらないのかという部分は意図的に無視する。慣れぬ惨劇に放心していると思ってくれれば幸いだった。
「ラギさん、大丈夫ですか?」
「……っ!」
今度の呼び掛けはすぐ傍から聞こえた。ここまで近づかれて気付かなかったは苦しい言い訳にしかならない。いつの間に距離を詰めたのやら、演技でなく驚いて見上げれば、思っていた以上の至近距離に王子様が立っていた。私を見下ろす彼とまともに目が合い、そして。
「怖い思いをさせていまい、大変申し訳ありません。お怪我はありませんか」
――私は悟らざるを得なかった。
「……巫女様は必ず我々がお助けします。どうか、ご心配なさらないでください」
王子様はその長身を屈めすっと手を差し出す。その姿に、私は悟った。彼は、私がその手を振り払うだろうことを「わかっている」。目の前でネヴィを傷つけられた私がその状況を作った彼を許さないと「知っている」、と。
巫女様を傷つけるつもりはなかったと男は言う。それは本当のことかもしれない。でも、傷ついても構わないと思っていただろうことはわかった。襲撃に遭っても最初から最後までこの人は冷静だった。その様子が全てを物語っている。この人達はまたネヴィを囮にした。もしかしたら私のことも。舞踏会の日のあの事件を、また、繰り返した!
(――――――)
どれだけ罵倒すれば気が済むだろう。その端正な顔を何回殴れば気が晴れるだろうか。しかし、現実、顔を見てしまえば爆発すると思っていた感情は、喉まで出掛かっていた言葉は、あと一息のところでぴたりと動きを止めた。
彼の目を見たからだ。全てを把握していて、尚且つ全てを覚悟している目。自分の行動が何を引き起こすか知っていて、結果がどうであろうと何もかも受け入れる覚悟を決めた、その、目。
たとえば私がここで泣き喚くとしよう。冷血、悪魔、人でなし、その他ありとあらゆる罵詈雑言を投げかける。暴力を振るう。懐刀で刺す……のは流石に止められるか。とにかく、私がこの湧きあがる衝動のままに彼を詰ったとして、彼にはその全てを受け止める用意があるのだ。そういう、覚悟を、している。
(……なんて、傲慢)
それは、彼の掌の上で踊れと言われたに等しい。そして彼はただ待っている。私が差し出された手を払い、呪いの言葉を吐くことを。
今、私は宰相補佐官の忠告の意味を強く実感していた。夜の神子の死そのものには災いを引き起こす力がないと知られてはいけないというその意味を。もし、この善人の面を被った王子様がその事実を知ったのなら、間違いなく私を殺すだろう。早々に。躊躇なく。彼はそれができる人間だ。
「っラギ、さん……?」
私は未だ恐怖で震える手を伸ばし、数秒前まで跳ね除けてやろうと思っていた王子様の手を取った。そのまま彼の力を借りて立ち上がる。皮肉にも、胸に蟠る黒い感情のおかげで立ち上がる程度の力は足に戻っていた。
私の行動に虚をつかれたのか、表情を変えないまでも彼が僅かに目の色を変えたのを確認して、私はついと視線を逸らす。
「――戻ります」
返事は聞かない。そのままエルを押しのけ踵を返し、薄く開いたままだった扉に手を掛ける。待て、と黒い人の声が耳に届いたが、足を止めずに身体を向こう側に滑り込ませた。
扉の閉まる音が全てを拒絶するかのように重く響く。
(……あかい、色)
彼女の倒れた姿が目に浮かぶのに、心は凪いでいる。
(ああ、ネヴィ――)
逃げるように目を瞑る。ぶつり、と思考が途切れた。