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薄闇の眠りを  作者: 吉舎街
第三章
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どこまでが『嘘』?

『救いだったのは、どういう仕組みなのか、私がこの世界の言語にまったく不自由しなかったことだろう』


 いつかの夜の神子がそう日記に書き残していたのを思い出す。まったく不自由しないということは、彼はこの世界の人間と会話するのはもちろん、読み書きもそつなくこなしたのだろう。

 だったら私のこの様はなんだ? 同じ夜の神子のくせに不公平すぎる。私は差し出された水を震えたままの手で受け取り、どうか喋らないで欲しいと身振りで騎士の片割れに示した。理解できない言葉はただの雑音となって今の私を苦しめている。温い水を口に含み、何とか飲み込めば少し呼吸が楽になった気がした。


(――……『帰りたい』)


 さっきから頭の中をその言葉だけがぐるぐると回っている。元の世界に帰りたい。家に帰りたい。……家族に会いたい。私は泣きたくなるような気持ちで『帰りたい』と繰り返した。

 まるで今までそういった感情が押し込められていたかのように、後から後から溢れ出してくる。自分の感情の波に圧し潰されてしまいそうだ。身を守るように蹲る私の背を、騎士が労わるようにそっと撫でた。


 ……今ここに居るのが何をどこまで知っているかわからない人で良かった、と思う。その暖かな手を撥ね退けたいのを堪えて深呼吸をひとつ。もしこれが、私の事情を良く知っている彼らの中の誰かであったなら、「今すぐ帰せ」と胸倉を掴んで詰め寄っていたかもしれない。それくらいの激情だった。

(っ、……頭、痛い)

 意識を失いそうになるのを堪えて、思考を繋ぎ止める。この状況には覚えがあった。あの日――選定が始まるのを高台でネヴィと共に見守って、……多分、私が背中を押して。彼女が単身城に向かい食堂から姿を消した後のこと。


 彼女からの報酬に呼ばれて宰相補佐官に会う決意をした頃にはもう、その兆候がはっきりと出ていた。消えない頭痛に吐き気、胸が苦しくて呼吸さえまともに出来なかった。食欲不振はその前から続いていたかもしれない。

(これ、も、多分同じ。でも、たった一日離れただけで、こんな――)

 あの時は、ネヴィの姿を目にしたら症状が消えた。それはもう綺麗さっぱり。だからそこに関係性があると疑ったのだ。ただ、それだけだと単に私がストレスに負けていただけと言えなくもない。


 だが、今回のことで確信した。二度目ならば偶然とは思わない。問題は、たった一日しか離れていないのに症状が出たことだ。また、症状がかなり進んでいることも。

(もしかして時間だけじゃなくて、物理的な距離も関係がある、とか?)

 食堂から城までの距離と、城からこの民家までの距離の違いが、症状の重さに出ているとしたら。


 私が意識を保っていられたのはそこまでだった。力の抜けた手からコップが落ち、床の敷物に当たって乾いた音を立てたのを最後に、抗いようもなく瞼が落ちた。





 ――……ギ。……ねえ、ラギ。起きて。起きてよ。


 意識がゆっくりと浮上していくのがわかる。誰かの泣き声が聞こえる。誰かが、起きて、と泣いている。

 頼むから泣かないでと言いたかった。お願いだから泣かないで。私は誰かに泣かれるのが本当に苦手なのだ。むしろ嫌いだと言ってもいい。幼馴染で、親友だった女の子を思い出すから。


『泣けば誰かが、助けて、くれるのかなあ? ねえ、――ちゃん』

『駄目だよ。だあれも助けてくれないよ』


 少女の泣き叫ぶ声と、ねっとりと肌に纏わりつくような、低く、嫌悪感を抱かせる誰かの声。私はそれが、本当に――。


「ラギ、ねえ、起きてったら!」

「――っ!」


 近くで響いた一際大きな声に、私は全身をびくっとさせて目を開けた。状況がわからず視線を少し横にずらせば、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたネヴィと目が合う。私が起きたと知った彼女は、目を見開き、その綺麗な翠色の目からさらに大粒の涙をいくつもこぼした。良かった、と何度も繰り返して。


 寝起きに泣かれて半ばパニックになってしまった私は、何でもいいから言葉を掛けて慰めようとして――ふと、彼女の言葉を何の問題もなく理解している自分に気が付く。また、予想通りというべきか、あれほど苦しかった痛みや吐き気が大分和らいでいる。だるさはまだ残っているものの、このままいけばすぐに体調は戻るだろう、とも。

 涙腺が壊れてしまったかのように、ネヴィは泣き続けている。その姿を見ていると、いつかの彼女の台詞が脳裏を過った。


『君の望まないことはしないから』

『―――望まないことは』


 安心してか、今度は穏やかな睡魔にじわりと意識を侵食されつつ、私は問い掛ける。


「ネヴィは……知ってたんですか?」

「……そうかな、とは思ってた。私、基本、人見知りだしね。でもこんな、……っ調子が悪くなるなんて、知らない」


 何をと言わなくても通じるのは、私達がお互いのことを分かり合っているから、ではない。そのことを悲しいとは思わない。「思わない」のか「思えない」のか、自分で判断できないことが怖いだけ。

 夜の神子と光の巫女についてはまだわからないことだらけだが、ひとつはっきりしていることがある。


「でももう大丈夫。私が、ずっと傍にいるから。……ラギ」


 私達は、離れてはいけないのだ。――決して。







 次に目を覚ました時、見慣れた天井が目に飛び込んできた。しんとした部屋、身体に掛けられた布は毎日私が使っているものだ。いつの間に城へ戻ってきたのだろう、と私は内心首を傾げた。移動させられている間中一切目が覚めなかったというのも間抜けな話である。


 ああ良く寝た、とすっかり疲れの取れた身体を起こそうとしたが、右手に抵抗を感じて動きを止める。視線を向けたその先には、私の右手を握りながら寝台の柱に身を凭せ掛け眠るネヴィの姿があった。

 ずっと傍にいる、という言葉通り、ずっとついていてくれたようだ。何ともむず痒い気持ちになり、右手を動かさないよう半身だけ起こした。よく寝ているので起こすのもかわいそう、いや、このまま放っておくと風邪をひいてしまうかもしれない。

 彼女をそのままにしておくべきか否か迷っていると、突如思わぬところから声を掛けられ、私は文字通り飛び上がった。


「――ラギ」

「は、はいっ! ……え?」


 声のする方へ振り向くと、ネヴィが居る枕元とは反対側の――床、に、ひとりの男が膝をついて頭を下げていた。髪で顔が隠れてしまっているが、衣服と声からして宰相補佐官に間違いないだろう。

 いつから居たのかわからなかった。いや、そもそも彼は何をしているのか。異様な光景にちょっと引いていると、彼は更に深く頭を下げた。


「今回のことは、私の失態です。大変、申し訳ありませんでした……!」


 大の大人が必死になって謝っている。私は特に何の感慨もなく、その姿を見やった。だって彼がいったい何に対して謝っているのかわからないからだ。

 妙なことに巻き込んだこと? 私を囮にしたかもしれないこと? それとも私が――倒れたこと? 一連の事件がどこまで彼の掌の上だったか、なんて、私には見当もつかなかった。

 具体的な話を聞いていない以上今の謝罪に意味はない。この行動に意味を持たせるには、まず彼と話をしなければ。


(落ち込んでる、よね……?)


 それもものすごく。私は無言のまま宰相補佐官の観察を続けていた。わかるのは、彼の態度がネヴィへの疑惑が空振りに終わったあの時のものとそう変わらないように見える、ということ。彼の思惑がなんであれ、今この瞬間はひどく意気消沈していると思う。

 現に彼は頭を深く下げたまま上げようとはしていない。私の言葉を、あるいは反応を待っている。


 今なら聞けるだろうか。私はまだ眠りの中にいるネヴィをちらりと見て、まだ起きないだろうことを確認してから宰相補佐官の方へと向き直った。ずっと――ずっと、聞いてみたいことがあった。正面から聞く勇気はなかった。肯定されたらどうすればいいのかわからなかったし、否定されたとしても私自身信じたかどうか。

 彼は選定を正す為の協力者最有力候補である。だからどうしても、いつかは確かめなければならないことだった。私は一度目を瞑って、覚悟を決める。ネヴィと繋がった右手の温もりだけが今の私が唯一縋れるもの。


 宰相補佐官が落ち込んで打ちのめされているなら好都合、精神不安定な今こそチャンス。ネヴィを起こさないよう声量は抑え気味に、しかし床に膝をついている彼にはきちんと聞こえるように、はっきりと。


「私のこと、死ねばいいのにって思ってますよね」

「今は思っていません!」


 間髪をいれず返ってきた答えに、私は、非常に不本意ではあるものの、……とりあえず肩の力を抜いた。

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