ふたり
夕食に現れたネヴィは、花模様の刺繍がついた可愛らしい髪飾りをつけていた。
お披露目で彼女が身に着けていたような煌びやかなものではなく、光の巫女が使うものには見えない。個人的な持ち物だと思っていいだろう。しかし、似合っているはいるのだが、正直彼女の趣味で選んだものではないような気がしてじっと見つめてしまう。
『なに、ラギ。どうしたの……って、これ? ふふ、あのね』
貰ったの、と、ネヴィは初々しく頬を染めて嬉しそうに笑った。対する私は、良かったですねと当たり障りのない言葉を返し、誰に貰ったかなどとその話を発展させず、ただ彼女が元気そうだということに安堵の息を吐いた。
断じて、散々幸せ日記を読む羽目になった所為で最近リア充が食傷気味だったからではない。彼女が笑顔であるのが重要であって、誰がどう彼女を笑顔にしたか、になんてまったく興味はないのだ。
どこか浮かれている様子のネヴィを見送って、いつでも眠れるように就寝の用意をする。私にとって今日はここからが本番だった。
寝台の上に腰掛け、何を目にしてもいいように覚悟を決め、倉庫から持ち出したものの中から目的の日記を取り出す。それを今もまだ返していない例の呪いの日記の横に並べてみると、その違いはすぐ目に付いた。
(あれ? 字が……)
倉庫では薄暗いランプひとつで捜索するしかない。新たな日記を見つけたとき、それまでに多くのものを動かし調べていた私は割と疲れていた。気温の低い倉庫内でも薄っすら汗をかいていたほど。
そして前例がある以上、奥の奥にまるで落とし込んでしまったかのように隠れていた日記帳を発見し、且つそこに「藤堂」の文字を見た私が思わず硬直したのも無理はないだろう。この後祈りの間で体力を更にがっつり削られると分かっていたので、私はこれ以上精神的苦痛を受けまいと極力それを視界に入れないよう脇に押しやったのだ。
だからよく見ていなかった――よく見ていたからといって気付けたかどうかは疑問だが。ふたつの日記帳は、外見は同じだった。同じメーカーの商品で、紙の劣化具合からしても同じ時期に存在していただろうことはわかる。
唯一違うのは、「藤堂」という文字の、筆跡。どちらも走り書きなどではなく、素人目にも癖の違いは明らかだった。
「藤堂さん、が、……ふたり?」
思わぬ展開に驚きつつも、私は引き寄せられるようにその新たな日記帳に手を伸ばした。
呪いの日記――藤堂日記その一に、書き手以外の日本人が居たとの記述はない筈だ。何度も読み返したから間違いないと思う。文面からは、彼が早くこの世界に馴染もうと努力していたこと、夜の神子としての役目をきちんと果たそうとしていたこと、それでもいつか必ず元の世界へ帰るという強い意志とが読み取れた。
私はそれを、彼が周囲との軋轢を避け、召喚側と良好な関係を築くことで生活の安定を図り、密かに帰還への道を探るための足掛かりとしたのだろう、と受け取った。……でも。
もうひとつの日記は、まさしく言葉通りの日記であった。藤堂日記その一が日記というより情報整理に重点を置いた使い方だったのに対して、藤堂日記その二は書き手の日常生活を平凡に綴ったものだ。その日の天気、誰と何をしてどう思ったか。
文章にこの国や世界特有の表現がなければ、何の変哲もない――夜の神子ですらない――日本のとある一般人の日記として片付けられたことだろう。
(この内容だと、日記を書いたのは多分女性。それもすごく若い)
書き手の女性……いや、少女は、城下町で裁縫関連の仕事の手伝い、見習いをしていたようだ。生活は特に貧しくもなく順調で、休日に友人と出掛けたときの様子などが楽しそうに書かれている。そんな彼女が一番心待ちにしているのが、――大抵三日に一度、城で働く『兄』が訪ねてきてくれること。
(兄、って――)
自然と視線が藤堂日記その一に落ちる。それとは違って、藤堂日記その二には召喚や夜の神子の話は一切出てこない。
たまに「テレビがないのが辛い」、や、「ドライヤーがあればいいのに」などなど、はっきりこの
世界の人間ではないとわかる記述があるだけで、無理矢理連れてきただろう誰かへの恨み言も、この奇妙な世界に対する忌避も拒絶も見当たらない。文化の違いに戸惑いながらも、理解ある暖かな周囲に助けられ生きていく姿が目に浮かぶようだった。
そして少女は、城で働き仕送りをしてくれる『兄』を事あるごとに話題に出している。藤堂という名の兄妹――城に留まった兄と、町へ下りた妹。そう考えれば一度に二人が召喚されて、片方だけを夜の神子として祭り上げた、と取れる。
今と違って、当時は夜の神子の召喚は禁忌ではなかった。受け入れ先に事情を話し、生活を支援することはそう難しくはなかった筈だ。
(妹……が、いたとして……)
藤堂兄はなぜ日記に妹のことを書かなかったのだろう? 妹の日記には『兄』が出てこない日がほとんどない。兄がこまめに会いに行っていることからしても、随分と仲の良い兄妹だったのだろうと察せられた。
それなのに兄の日記では一切触れられていない、というところに、何か意図があるような気がする。あえて書かなかった、とすれば――。
兄のそれと比べて、少女の日記はいっそ微笑ましいとさえ感じるものだった。読み進むにつれ彼女がこの世界に慣れていくのがありありとわかる。
また、やがて少女がひとりの騎士に恋心を抱くまでの過程が鮮明に記されており、その甘酸っぱさに耐え切れなくなって私は行儀悪く寝台にばたりと身を伏せた。呪詛よりもこっちの方が余程ダメージが大きい。
(――ん? 騎士……?)
藤堂日記その二でおかしいと思うところといえば、少女が一度も「帰りたい」という明確な意思を示していなかったことだろうか。文字にしたくなかっただけという話かもしれないが、どこをどう読んでも元の世界への執着が感じられない。
日記は、兄が体調を崩したと聞いて、ひどく心配だから城へ行くというところでぶつりと途切れている。
次の日の朝。侍女頭と共に入ってきたネヴィが、いつもの騎士に加えて若白髪を引き連れていたのを見て私は目を見開いた。中の点検と朝食の準備が終わって侍女頭たちが去っても、彼は部屋に留まっている。私に用があるのは間違いなさそうだ。
だが粉末を渡してからそう日は経ってはいない。まさかもうその結果が出たとは思えないので、何か別の話かと当たりをつけ用件を問うと、――そのまさかだった。
「ですから、わかったと言っているでしょう。二度も言わせないでください」
「え、だって、ついこの間渡したばかりですよね?」
「……? いえ、これでも梃子摺った方ですが」
えええ。軽く眉を顰めて不服そうな顔をする若白髪に、私は開いた口が塞がらなかった。いったいどんな調べ方をしたらこんなにすぐ分かるのだろう。この世界にはこの世界のやり方があるのだろうが、それでも一週間以上を見ていた私にとっては驚きだった。もしかしてこの人天才かもしれない、と阿呆なことを思いつつ、まさか実際に人で試したなんてことはないだろうなと心配になってしまう。
彼は懐から折りたたまれた紙を取り出しながらちらりとネヴィを窺った。特に彼女に聞かれて困る話とは思えなかったので、私は彼に頷き返し話を進めてもらうことにした。
「それで、何だったんですか」
「――ご想像の通り、と言えば良いのでしょうかね。毒薬です。それもかなり強力な」
「…………」
隣でネヴィが息を呑む音がする。私は彼に色々と悟られているのを理解して、あえて取り繕うことはしなかった。調査の報告を受ける上では時間の無駄にしかならないと分かっていたからだ。
「強力とは、どの程度ですか?」
「あの妙な袋ひとつに入っていた量で、軽く五人は殺せます」
「五人!? っでも、一人一包って――」
はっと気付き慌てて口元を押さえたが、口から出てしまった言葉は取り消せない。それを聞いて一気に眼光を鋭くした若白髪は怒涛の勢いで畳み掛けてくる。
「一人一包、ですか? ……君がどこでそれを知ったのかはわかりませんが、なるほど。身体のつくりがそもそも違うのかもしれませんね。わざわざあの量で分けられていたのも納得できます」
腑に落ちた、という様子で彼は報告を続ける。
「なんとも不思議な毒物ですよ。経口で摂取するとすぐに意識を失いますが、毒が全身に回るまで半日ほど掛かるようです。そして解毒しない限り――意識が戻ることはないでしょう」
つまり眠ったまま死に至る毒、ということか。自ら命を絶つ分には随分と優しい、と思う。
「解毒できるものなんですか?」
「ええ。こちらにも似たような症状が出る毒がありまして、その解毒薬で無効化できると確認しました。ただし、一見眠っているようにしか見えないので、判断は難しいでしょうね」
「そう……ですか」
どうやって確認したかは最早突っ込むまい。世の中知らなくてもいいことは山ほどある。これで私が知りたかった情報はもう十分手に入れた。
前払いで頭痛薬、後払いで胃腸薬と約束しているので、後者を取りに行こうと踵を返した私の背に、若白髪の声が掛かる。
「ああ、それと。解析を急いだので、その毒薬は手元にほとんど残らなかったのですが――」
「それは構いません。中身が何なのかを知りたかっただけですので」
私は振り向かないまましれっとそう返すと、棚から黄色と茶色で彩られた箱を取り出した。