日記帳を手に
夜の神子。神子様。
私がそんな大層な名前で呼ばれるようになってから、今日でちょうど十年が経った。時とは早いものである。この日記帳も実に数年ぶりに手にした。
司祭殿にあの倉庫へ案内していただいてから、郷愁の念が溢れて止まない。懐かしさに駆られて自分の日記を読み返したのだが、長い間日本語に触れていなかったせいか読むのにかなり時間が掛かってしまった。
さすがにこの歳で祖国の文字を忘れたくはない。リハビリも兼ねて、久々に筆を取ろうと思う。
羽根ペンを使ってこうもすらすら文字が書けることを、十年前の私は想像しただろうか。
この世界に来て、いや、喚ばれてと言うべきか。十年という月日が経った今でもまだ夢ではないかと思う自分がいる。朝起きれば全てが元通りになっているのではないかという期待半分、なってしまっているのではないかという憂慮半分。
考えてみれば、この世界はひどく奇妙だ。この国ひとつ取っても文化や習慣に統一性がない。私の世界でいう東洋と西洋の文化を時代関係なくごちゃ混ぜにしただけの、独自性のないものにうつる。
そのちぐはぐさに私も戸惑いを隠せなかった。当時の混乱具合はこの日記にもしっかり書かれていて、他人事ではないのに思わず笑ってしまったほどだ。
救いだったのは、どういう仕組みなのか、私がこの世界の言語にまったく不自由しなかったことだろう。まるで生まれたときからこの世界にいたかのように、無意識の部分で理解していた。夜の神子とはそういう能力をもつのだろうか。
ああ、能力と言えば、最近、皆が言う「神子は闇を司る」という意味がようやくわかってきた。なぜ夜の神子が祈れば世界の均衡が保たれるのか。いったい何が作用しているのか。なぜこの世界の人では役目を果たせないのか。
これは私の推論だが、私達は彼らと違うものを認識できるのではないだろうか? 彼らに聞こえないものを聞き、見えないものを見て、触れないものに触れる。だから、それゆえに、彼らが処理できないものを処理できる。
食生活の決定的な違いも含めて、私達と彼らは根本からして違う生き物であると考えるべきだ。そもそも私が夜の影響とやらを一切受けない時点で――――いや、よそう。それでも分かり合うことはできる。
私はこの世界で心から愛する者と出会い、この世界で共に生きていくことを誓った。もうこの世界を夢ではないかと思うことは今日限りでやめよう。どんなに不可思議な世界でも私はここを選んだのだから。
私の祈りは、妻と、これから生まれてくる私達の愛する子供のために。
「…………また男か」
しかもリア充。私は棚とは別の場所に積み上げられていた本の中から、適当に抜き取って適当なページを開いて読んでいた。今日はもう五冊目になるが、そのどれもが男性によって書かれたもので、大抵誰かと結婚して幸せになります! というオチが待っている。
(夜の神子は男女半々じゃなかったっけ?)
ネヴィがそう話していた記憶がある。にもかかわらず、まだ女性が書いた日記は見当たらない。倉庫の中には明らかに女物とわかる小物が多々あったので、ない筈はないと思うが。
倉庫の中には、私と、エル――そう呼んでくれと割と強く押し切られた――と、色白騎士がいる。私達の間に会話は一切ないが、それは多分黒い人が何か言ったからだと思う。
黒い人と倉庫に来ても、私は彼をガン無視して自分の用事に集中する。もっとも、私が爪先立ちで何かを取ろうとする、あるいは暗い所為か床に置かれたものに躓いて倒れそうになると後ろから手がさっと伸びてくる。
助けてくれて感謝の気持ちが生まれると同時に、一挙手一投足を観察されているんだなと微妙な気持ちにもなった。そう視線を感じるわけではないのに器用なことである。
(あーもう、日記飽きた。元の世界に未練がありつつも帰らないって決めた人のしかないし)
私が知りたいのはそれじゃない。私と同じような考えで、私と同じように行動した誰かがいれば――。
軽く頭を振って、とりあえず息抜きにと別のものを見ることにした。小さい机に置いたランプを手に、倉庫の左奥へと向かう。そこに集められていたのはいわゆる伝統工芸品なるものの数々。その中で一際目を引いた、というか前から目をつけていたものを手に取る。
それは一見、寄木細工が綺麗なただの木箱だった。けれどその模様に私は見覚えがあった。昔テレビで見たことがある、鍵が付いていないのに普通に蓋を開けようとしても開かない、――“秘密箱”。箱を振ってみれば僅かに音がすることから中に何かが入っていることは確実。別に中身に期待していたわけじゃない、気分転換になると思ってのこと。
どうだったかな、と呟きながら箱をくるりと回してみる。これがどれだけ複雑なものかはわからないが、十数回動かさなければならないものもあると知っている。「幸せ」な夜の神子たちの姿を垣間見てしまった私は、その想像を消そうと躍起になって手の中のパズルに取り組んだ。
結局秘密箱は部屋に持ち帰ることにした。腹が減っては戦が出来ぬ。昼食の時間になったので一旦諦め、興味深そうに箱を見る二人と一緒に戻る。秘密箱の他にも数冊の日記帳らしきものも持ってきた。
最近文字の覚えが思った以上に早いので、深夜の勉強時間を減らしてこっちに重点を置くと決めたのだ。
「ラギはごはん食べたらどうする? えーと、すぐ掃除に行く?」
「そう、ですね……」
エルの問い掛けに私は歩きながら考える。午前中しっかり倉庫に篭ってしまったので、今日はもう一回行こうとは思わなかった。部屋で休憩してから掃除、掃除してから部屋で休憩、どちらも私の好きに選べるが……。
「あのさ、良かったら中庭に行こうよ。今季節の花がたくさん咲いてて――」
すっごく綺麗だし! と、エルは人好きのする明るい笑みを浮かべながらそう言った。
「……花」
「う、うん、花。……もしかして、嫌い……だった?」
「いえ、好きですよ。割と」
一転、しゅんとして顔を俯かせる彼の頭に犬の耳を幻視した。ころころと表情が変わるのが実に面白い。演技ではないだろう、という部分でも。
そして私がもし何の立場もないただの小娘であったなら、彼を安心させようと笑って彼の提案に頷いたことだろう。この好青年には、そうさせるだけの何か引力のようなものがあった。
でも、私は、夜の神子とかいう意味不明な枷をあの男に背負わされたから。護衛という意味で彼らを信頼しても、信用はしていないから。
「行ってほしいですか?」
「えっ」
「――――」
私が逆にそう問うと、エルは驚いたように目を見開き、そして、色白騎士は薄く笑った。
中庭といっても完全に屋内だった。大きめに取られた窓から他の場所よりは多めに光が降り注いでいるだけの、だだっ広い部屋。所狭しと花が植えられていて、見頃を迎えているそれは確かに綺麗だった。
中央に用意された、私が座るべき席。こちら側が要求したのは紅茶とお菓子だけ。あちら側は、そこにひとりの人間を加えてきた。
生真面目そうな顔に控えめな笑みを浮かべて、青年は右手を差し出す。
「初めまして、ですね。ラギさん……とお呼びしても構いませんか?」
「…………。どうぞ、ご自由に」
「ありがとうございます。どうぞ、お掛けになってください」
柔らかな亜麻色の髪に、澄んだ空色の目。物柔らかな態度、洗練された動き、さり気なく椅子を引く気遣い。王子様、と、ネヴィが称したのも分かる気がする。失礼のないようにという、私にとってはどうでもいい配慮からか、私は既に二人から彼のことを聞かされていた。
フラグ美形男の異母兄であり、王位継承権第二位の、――――王族。
「まずは無理にお呼び立てしてしまって、大変申し訳ありませんでした」
外遊から帰ってきたばかりという話通り、王子様はほとんど城には滞在せず、国内の地方へ飛んだり外国へ飛んだりと忙しい日々を送っているらしい。ということは、今回の夜の神子召喚事件は青天の霹靂だったに違いない。
私へ向ける笑みはどこまでも柔らかいくせに、どこかぴりぴりとした空気が肌を刺す。
宰相閣下主催の勉強会の中止、黒い人の護衛外れ、そしてこの邂逅。彼の目的はなんだ? 疑問に思えど、外遊をするような人間相手に腹の探りあいなど無謀に近いものがある。
「やっぱり、似てるんですね」
「……? 何が、でしょう?」
とりあえず私は彼の謝罪には触れず、彼と相対して最初に思ったことを口にすることにした。
「――声」
この人もやはり、あの男に、似ている。