三人の騎士
保護されるまで、私は常に飢えていた。栄養などほとんどとれていなかった。ぎりぎりの崖っぷちを歩くように、少しでも体調を崩すようなことがあれば二度と立て直すことはできなかっただろう。
でも、今は違う。保護されてからの私はゆるやかに――そう、ひどくゆるやかに、元に戻っていった。私の世界に居たころの私に。
(“だから”、耐えられるんだよね……これ)
思わず遠い目になってしまうのは仕方がない。私はいつものように『祈り』を終え、いつものように無様に地面に寝転がっていた。
もちろん初日と違うところはいくつかある。まず、例の一面闇に支配された空間において、私が視認できる範囲が増えたこと。今日は私を中心として大体半径一メートルくらい、まるで私自身が光源になっているかのようにはっきりと見えるようになった。日が経つにつれ少しずつその範囲が広がっていると思う。
そして視界が広がったことで、正体不明な謎の物体Yを探すことが少し楽になった。ああ、そういえば足元の水は透明で、謎の物体Yは真っ黒だったことも判明している。
(謎の物体Y――)
色は同じだが、大きさはばらばらで統一性はない。初日は二枚だった。次の日は三枚、その次の日は四枚と、一枚ずつ増えている。大抵同じような場所に落ちており、それを、まるでパズルピースをはめるように側面をくっ付ければ『祈り』が終わることもわかった。
どのピースをどのピースと、と悩むことは一度もなかった。まるでそうすることが自然であるかのように手が動くのだ。きちんと見つけさえすれば簡単に早く済ませられる。
(がりごり体力持ってかれるのは変わらないけどね!)
欠片と同じようにむしろこれも増えている、気がする。それでもただぶっ倒れるだけで済んでいるのは、私の基礎体力が元に戻ったからに違いない。長時間の泥作業で上半身は鍛えられていたのだし、と何の慰めにもならないことを思った。
寝転がったまま視線を上にやれば、ある程度は綺麗になった女神像が見える。何度高圧洗浄機が欲しいと切実に願ったことか。ろくな洗剤はないし、カビは取れないし、苔と固まった埃を無理矢理削ぎ落として体裁を整えるのが精一杯だった。
遠目に見ればまあ耐えられなくはない、という感じである。これでもう女神像の掃除は終わりとしていいだろう。
次はどこにしよう――あの隅の方を綺麗にして仮眠用の寝台でも置いてもらおうか。ああでも、毎回本格的に寝てしまったら外で待っている黒い人が可哀想かもしれない。ゆらりゆらりとどうでもいいことを考えながら、私は静かに目を閉じた。
次の日の朝。いつものように朝食を持ってきてくれる侍女頭は、その日の予定に変更があったときや何か連絡事項があったときにはそのまま部屋の中に残る。どうも今日はそのパターンのようだ。彼女は、部屋の外ではあまり見ない柔らかな笑みを浮かべ口を開いた。まるで孫を見るような目……と言ったら失礼か。姪でも見るような優しい目でいつも私を見ている。
「申し訳ありません、ラギ様」
様づけされると少しきつい。せめて桂木様、とちゃんと名字で呼ばれれば割り切れるのだろうが、今更名前を訂正する気にはなれなかった。
「はい、カリーナさん。なんでしょう」
「本日はアドラー様のご都合が悪く、勉強会はお休みです」
いくら辞職間近だからといって、今まで毎日午前中時間を割いていたことが変だと思う。とは言わないけれど。
「そしてルート様も同じく本日のみラギ様の護衛を外れます。別の方が任務につくことになりますので、後ほどルート様が直接ご紹介されると思います」
「わかりました。それじゃあ、その間はまた倉庫に行ってもいいですか?」
「――ええ、もちろん」
ご自由に。侍女頭はそう言うと、一礼して部屋を辞した。扉が閉まるのを確認してから私は食事にとりかかる。外では厳しい態度を取るものの、彼女は優しい。穏やかで、誠実で、親子ほど歳の離れた私を慮っているのがよくわかる。――安心する。落ち着く。けれど、たまに、――……。
苛立ちまぎれにやめてくれと喚きたくなるのも、事実だった。
(本当に、……どいつもこいつも)
寝台の下に置かれた私の荷物の中に、借りたままでまだ倉庫に返していないものがある。私があの場所で最初に手にしたもの。怨嗟と慟哭と呪詛に満ちたあの、日記帳。当初どん引きした筈のそれは、今や私の心の拠り所となりつつあった。
騎士がどうこうという話じゃない。裏切りもあまり深くは考えていない。ふとすれば国側の人間に流されそうになる私への、または阿呆なことをやらかした国王以外、まだ常識的でまともな人間にしか会っていない私への。
(……私は、間違ってない)
警告、であり、慰めでもある。どれだけ良くされても彼らとの間に引いた一線を越えない、越えようともしない私は、絶対間違ってなんかいないと心が強く叫ぶから。
朝食を食べ終え、侍女服に着替えたあたりで扉をノックする音が聞こえる。どうぞ、と返事をすると、予想通り黒い人が姿を現した。その後ろに、――二人の青年を従えて。
「話はもう聞いたか?」
「聞きました。今日はとりあえず倉庫に篭ります」
既に侍女頭から聞いているだろうが改めて今日の予定を言いながら、そっと視線を黒い人の横に流す。二人のうち一人ははっきりと見覚えがあった。町の相談所に勤めているらしい、珍しく剣をさげていない騎士。お人好しそうな外見通り中身も相当お人好しっぽいと記憶している。
そしてもう一人。まず目に付くのはその服装の緩さだった。
たとえば黒い人や騎士団長は、首元までしっかりと釦をとめ、日中でも汗などかきませんといった涼しい顔で動いている。その点、この誰かはろくに釦をとめず、女性顔負けの白い肌を晒している。剣を持たない騎士とは別の意味で騎士らしくないなと思った。
ゆるく癖のある黒髪が目元を隠し、そのコントラストがより一層彼の肌白さを強調している。病的とまで言ってもいいかもしれない。不躾にならない程度に顔を確認して、あれ、と私は内心首を捻った。
なんだかどこかでこの人を見たことがあるような気がする。いつだったか、まさにこの三人が並んでいるのをどこかで見た――、と、そこまで考えれば早かった。あの、忘れられない、祭りの日のことだ。
「紹介する。同僚のエルとフラウトだ。ああ、エルには会ったことがあるだろう」
「……相談所の方ですね。あの時はお世話になりました」
「ううん、こっちこそ。俺のこと覚えててくれて嬉しいよ」
彼は、結果的に私が騙していたことなど全く気にしていない様子でにっこりと笑う。
「俺はあんまり……その、強くないんだけど。その代わりフラウトはすっごく頼りになるから! 強いし!」
それは彼が剣を持っていないことと何か関係があるのだろうか、と疑問に思ったが、口にはしないことにした。次いで彼に背中を押される形で前に出た新しい人に視線を合わせる。私が姿を見たのは一瞬だった。三人一緒に固まって、おそらく町の警護をしていたあの時だけ。喋るところも見ていないので性格は予想できない。
「フラウトは基本的に城下町の警護を担当している。今回だけ――とは限らないから、覚えておいてくれ」
「――以後お見知りおきを、『次期巫女候補殿』」
流れるような動作で騎士の礼をとる青年をどうとるべきか。恭しく頭を下げたが、その言葉は何かを含みまくっている。黒い人の代わりをする時点で私の事情を知っていなければならないのは理解している。だから、皮肉ではないと思いたいが。
「初めまして、ラギといいます。今日はお世話になります」
とりあえずの礼儀として自己紹介しつつ頭を下げると、どういう嗅覚を持っているのか、黒い人がいきなり私に問いかけてきた。
「……フラウトを知っているのか?」
(今初めましてって言ったでしょうが!)
「……? いえ、祭りの時に一度見かけただけです。三人一緒に警護してましたよね」
「見かけた? ――いつのことだ?」
「確か……花火が上がったころ、だったかと。もちろん速攻で脇道に入りましたけどなにか?」
「…………」
騎士になんて関わりたくなかったんですよあの時は。という、私の無言のうちの主張を完璧に読み取ってくれたのだろう、心底呆れた、という様子を全く隠さずに黒い人は深い溜息を吐いた。
なんというかこの人最近、色々と遠慮がなくなってきている。私がここの常識と反するようなことをすると、それをそうと指摘する前に「なにこの変な生き物」みたいな目で見たり、私に見えないよう横を向いて声も立てず笑ったりする。肩が震えていて何ひとつ隠せていないのがかなり腹立たしい。
「っは、ルート、お前……っ!」
「――黙ってろ」
「うわあ……」
仲が良さそうだ、と何事かを言い合う三人組を眺めながら、それ以上何かを思わないよう私はそっと目を伏せた。