変化の兆し
わあ、………………凄いね。
食卓の上に並べられた私の分の料理を見て、ネヴィはそう言って目を見開いた。頑張って食べてるとかじゃなくて? 普通です。そんなやりとりを交わしながら私達は向かい合って席に着く。
流石お城、食堂やアニーさんのところで食べたものよりは遥かに豪華な料理の数々だが、まあ正直なところ、素朴だなあと思わないでもない。全体的に色彩が少なく、あまり見た目にはこだわっていないようである。
「ほんとに、……あの人達への嫌がらせとかじゃなく?」
「私を何だと思ってるんですか! 食費が嵩むだろうから、これでも一応遠慮している方なんですけど」
「これで!?」
素っ頓狂な声を上げる彼女に私は頷き、肉と思しき薄っぺらい茶色のなにかを口に放り込んだ。焼き過ぎてだろう固いそれをしっかりと噛む。満腹中枢を刺激するように何度も、何度も。
昨日私が宰相補佐官に提示した朝食、昼食、夕食の量は、腹八分目を目安に決めた良心的なものだ。決して朝食時の彼の態度に少し傷ついたからとかそういうことじゃない。善良な一般市民として遠慮して差し上げたのである。
「前からよく食べるなあと思ってたけど、そこまで行くといっそ清々しいかも」
「吐き気、します?」
「ううん、べつに? たぶん、シュルツさんが特別繊細なんじゃないかな」
「繊、細……?」
褒めているように聞こえないのはいつものことか。微妙にひどい言われようだと僅かに同情の念が湧いた。ネヴィはそれきり私の食事のことについては何も触れず、今日の午後の儀式のことや、途中で偶然出くわした王族のことを話した。
「ちょうど外遊から戻ってきたんだって。これがね、もう見るからに“王子様”って感じなの!」
まるで絵に描いたような、という彼女の言葉に、後光を背負ってマントを翻しつつ白馬に乗って登場する金髪碧眼、なんて変な人物像を想像してしまう。そんな珍妙な人物が居れば、異世界とはいえここでも確実に浮くだろう。
自分の想像にげんなりして曖昧な相槌を打っていると、ネヴィがふと疑問の声を上げた。
「でも、そういえば誰かに似てるような気がしたんだけど、誰だったっけ……?」
王族。その単語を聞いて脳裏を過ぎるのは二人の男。ひとりはもちろん私を召喚した国王であり、もうひとりは。
「――――『犬』、じゃないですか?」
「え?」
きょとん、と、言われたことの意味がわからないといった様子で彼女がこちらを見た。私はそれ以上言葉を紡がずに、その短い言葉が彼女の脳味噌に浸透するのを待つ。犬。それは、彼女自身が『彼』を指すときに使った単語である。
「……っえ、……えぇ!?」
「あれ、違いましたっけ?」
「ちょ、え、な、なんでラギがそのこと知って――……!」
彼女の言う『犬』――もとい、フラグ美形男は、その装飾品の絢爛さから地位の高さが窺えた。その後再びゴミ置き場に現れたときの騎士団長に対する態度。あるいは私への、でもいい。
王族かどうかは確証がない。ないけれど、あの男と同じような耳飾りをつけていたこと、そして声が、あの男のそれにひどく似ていたこと、を思えば。
「すみません。あの時実は見てたんですけど、偉い人に関わりたくなかったので見捨てました」
「う、……そりゃ、事情が事情だし……いいけど! いいんだけど!」
なんか釈然としない、とネヴィは拗ねたように頬を膨らませる。私はといえば、どさくさに紛れてあの日のことを謝ってひとりすっきりしていた。“許された”、ことに安心した。
ただ、フラグ美形男に罪悪感は湧かないのかと問われても、おそらく助かって良かったですねという冷めた気持ちしか出てこないだろうが。
「でも、言われてみれば確かにそうかも。あの人に……うん、似てた気がする」
王子というからには若いのだろう。フラグ美形男とは兄弟か、そうでなくても血縁者――ああ、やっぱり、関わらなくて大正解だった。私は何の反省もなくそう思う。そして出来れば今後もあまり関わりたくないな、とも。
(声、が、ほんとに駄目。――あの男を思い出すから)
地位があり、騎士団長と親しげに行動を共にしていたことから、いずれ会わなければならない側の人間だとわかっていても。
「あっ! それはそうと、ねえ、ラギ」
「なんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど。ラギ、君今日、何かした?」
「……? 今日、ですか?」
何かしたか、という質問から、ネヴィと別れた後のことを言っているのだろうと見当はついた。午後はええと、宰相閣下と戦って、黒い人に謝って、掃除をしようとしてできなかった、びっくりするほど体力を持っていかれた、くらい。
「なんていうか、ね。少し前に、こう、いきなり、すごく身体が楽になったから―――」
とても言い辛そうに、言葉を濁しながら、それでも彼女は真っ直ぐに私を見据えてくる。
「リカルド様……じゃなかった、リカルドさんに聞いてもラギの予定は教えてくれないし。ね、何か、したんでしょう?」
「そういえば、やったような、やらなかったような」
「えー?」
「自分でも何やってるのか全然わからなかったので。でもまあ、祈りの間の“掃除”には行きましたよ」
実際はひと拭きすらも出来なかったのだが、泉の色を元に戻せた、という成果はある。今後はまず掃除から先にするべきだという教訓も得た。それにたった今、別の成果もあったと知った。
無駄に体力を削られたわけじゃない、確実に、私の行為はネヴィの命を救っている。その事実だけで今も身体に残る疲労がすう、と消えていくようだった。
「そっか。ありがとう、ラギ」
「どういたしまして。あ、このお礼はお菓子でいいですよ」
「あはは! やっぱりね、そう来ると思って用意しておいたから。はいこれ」
「…………。――アリガトウゴザイマス」
冗談に普通に返されて思わず片言になってしまう。だがしかし、今のは冗談です、とは言わずに、私はネヴィがどこからか取り出した両手に余るほどの焼き菓子を、それはもう喜んで受け取った。いくらなんでも日々のおやつはとても彼らに要求できなかったので、これで何とかしようと心に決めながら。
午前中はネヴィと共に宰相閣下に教えを請い、午後は祈りの間の掃除と『祈り』、夕食を終えれば皆が寝静まった後もひとり起きて文字の勉強をする。そのうちの空いた時間は倉庫に篭って役に立ちそうなものを片っ端から探す。
暫くはこんなスケジュールで行動しようと決めてから早くも三度目の朝が来た。その事実に気付いたのは、午前中ネヴィと並んでこの世界の共通文字を勉強していた時のこと。
(…………あれ?)
するすると、止まることなく問題が解ける。昨日一昨日覚えたことがまだ頭の中にある。他でもない、私が数ヶ月かけてさえろくに覚えられなかったこの世界の文字であるにもかかわらず、だ。
文章そのものは「これはペンです。」レベルのごくごく簡単なものだが、それでも、私が理解できていること自体ありえない。その事実に愕然としていると、それを見逃すはずもない宰相閣下が訝しげに声を掛けてきた。
「どうしましたか、ラギ。何かわからないことでも?」
「……いえ、……終わり、ました」
「そう、ですか? ではこちらに」
普段の勉強用に黒板もどきを貰っていたが、今はやけにごわつく紙を使って問題を解いている。宰相閣下に渡す前に一瞥して確認し、間違いがなさそうだと判断して差し出す。ちら、と見ただけでその判断ができる自分にまた違和感がつのった。
「……はい。……はい、いいですよ。全て合っています。君は案外覚えがいいですね」
「それは、どうもありがとうございます」
「ラギ、大丈夫? なんか無理してない?」
心配そうな顔で背中をさすってくれるネヴィには笑って大丈夫だと言っておく。別におかしいことじゃないはず、だ。私はどちらかといえば暗記系が得意だったし、時間を掛ければこの程度できないはずがない。だからそもそも数ヶ月もかけて例文一つ満足に書けなかったことこそがおかしいんだ。
(――では、なぜ?)
なぜ今まで出来なかったのか。なぜ今になって出来るようになったのか。
どちらも、答えは、出ない。