老兵は死なず、ただ
「そう、いうもの……でしょうか?」
男は、腑に落ちない様子で己の上司に異を唱えた。
確かに今までのやりとりである程度の教養を持っていると窺い知れた上に、内心はどうであれ、あるいは刺々しい物言いがないわけではなかったが―――終始、彼女は丁寧な態度を崩すことはなかった。喚き散らすこともなく、努めて冷静にこちらを観察していたように思う。
しかしそれとこれとは話が、と男が言いかけたのを遮って、上司は更に言葉を続ける。
「リカルドの報告からもそのように読み取れた。なに、侍女頭には既に話を伝えてある。今後は侍従長と協力して、事を進めるように」
「……はい。では、彼女たちの教師の件はいかがいたしましょう」
「ああ。それも―――こちらで用意しておく」
珍しいことだ、と男は思った。
先王の事件があってからというもの、まるで魂が抜けたようにやる気をなくしていた人間と同一人物とは思えない積極性である。そろそろ呆けてきたのかと危惧した頃が懐かしい。男にはまだ仕事が山のように残っていたので、その言葉に甘え、忙しなく部屋を辞した。
この時もっとよく確かめておくべきだったと後悔するまで、あと、……。
知らず背筋が伸びた。相手の地位に臆したというよりは、相手そのものがもつ威圧感……威厳、に、引いた。緊張から冷や汗が背中に滲む。別に怒られているわけでもないのに、である。
すっかり雰囲気に呑まれ萎縮してしまったことを無理矢理押し隠しながら、私は、はじめまして、と挨拶した。声が掠れている。無様にも。
「お初にお目にかかります。この国の宰相を務めております、アドラーと申します」
初老と言って差し支えないであろう年配の男性は静かに笑みを刷いた。だが全く空気は和らがない。よろしくお願いしますと頭を下げることで視線を逸らし、気持ち隣に立つ唯一の味方の傍へと寄る。続いて自己紹介をし始めたネヴィの陰で私はこっそり息を吐いた。
予想に違わず、私達の教師は宰相閣下その人だった。悩み疲れたような顔の宰相補佐官に連れられ辿り着いた一室、立ち上がり私達を出迎えた人を見て思わず回れ右したくなった。今でも正直帰りたい。
だって、この人、まるで厳格そのものという風貌をしているのだ。彼の授業なんて想像するだに恐ろしい。居眠りでもした日には、出席簿か教科書の背表紙で遠慮なく殴られそうだ。もしくは、『聞く気がないなら出て行きなさい』と放り出されるか。
(しかもそういう人に、馬鹿丁寧な敬語使われると……っ)
ごめんなさい許してくださいと無条件で謝りたくなる。この感覚、私だけなんだろうか?
先生って呼んでいいですか?もちろん構いませんよ。などと、にこやかに明るく話すネヴィをちょっと理解できないなと思いながら眺めつつ、話が終わるのを密やかに待つことにした。
まず結論から言おう。宰相閣下の――いや、アドラー先生の授業は初日ながら非常に分かりやすかった。理路整然としているのはもちろんのこと、こちらの理解の度合いをはかるのがとても上手く、ちょっとでも引っ掛かればすぐ助け舟を出してくれた。主にネヴィに、ではあるが。
そもそもの話、私が何を知らないかというと、文字、歴史、その他この世界特有の事柄に関して、だ。世界は違えど共通するものに関しては問題なく理解できる。
一方で、私を変だと言ったネヴィもまた、先生の質問に答えていくうちに知識がかなり偏っていることが浮き彫りになってきた。それこそ分野によっては異世界人の私と同程度の知識レベルであるくらいに。
『……なるほど。お二人の学力は大体わかりました。明日からはこれを参考に、しっかり勉強していきましょう』
手元の紙に私には読めない文章をいくつか書き連ねた後、眼窩に嵌めた片眼鏡を外しながら彼は口調だけは朗らかにそう言った。怜悧な顔には年齢ゆえの皺が多く刻まれ、やはり何を考えているのか読み取れない。
とはいえ宰相補佐官や騎士たちにしたように、わざと嫌味を言って反応を確かめる気には到底なれなかった。私がひとりぐるぐる悩んでいるうちに昼を告げる鐘が鳴り、騎士団長がネヴィを迎えに来たことによって勉強時間は終わった。
―――そして。
「どうぞ、ラギ。あなたの聞きたいことを仰ってください」
机を隔てて向かい合う、爺と小娘。二人きりの部屋、窓から強い日差しが降り注いでいる。彼はそう言ったきり口を閉ざし、私が質問するのを悠然たる態度で待っていた。
質問……疑問に思っていることがあれば宰相の権限においてそれに答えるという。今は皆光の巫女関連の儀式で忙しく、目がこちらに向くことはないだろうから、と。
「もちろん、国益を損なうものであれば、お答えしかねるものもあるかと思いますが」
「……。……聞きたいことは、山ほどあります」
「ではご遠慮なく、どうぞ」
今朝だ。当面の目的は情報収集だと今日の朝決意したばかりだった。だから、情報源がどんなに恐ろしかろうとも、何もせず尻尾巻いて逃げるわけにはいかない。この人も騎士と違って腰に剣をさげてはいない。いざというときには懐刀を取り出してやればいい。だから、だから。そう何度も自分を奮い立たせ、このチャンスを逃すまいと、私は腹を決めた。
「なぜ、あなたが教師をやることになったんですか?」
こんな状況で、遠慮も謙遜も猫被りも全く意味がない。相手の言うとおり、聞きたいことだけ聞いてやる。
「宰相補佐の方と騎士団長の驚きようからして、つまりはあなたの独断ってことですよね。宰相って、そんなに暇だとは思えないんですけど」
「―――。なるほど」
この人の相槌には妙に重みがある。もしこれで彼がにやりと笑ったなら「なんでもありません!」と速攻謝り倒す自信があったが、現実は違う。ただ、ゆうるりと目を眇めてこちらを見据えただけだった。こっちの方が余程恐ろしい。
「端的に言えば、私が近々宰相の任を解かれるから―――ですね」
「それは、辞めるってことですか?」
「はい。今はもう、宰相としての主な仕事はシュルツが担っています。辞め時を見計らっているだけで、特に大きな仕事は抱えていませんよ」
若い人に任せるときが来ただけだという宰相の言葉に、なぜかネヴィの言葉が重なる。
『この国は、最近、変わり始めたばかりなの―――』
「君の事情を良く知っていて、口が堅く、様々なことに融通を利かせやすい……中々難しい注文でしたが、幸い引継ぎが大方終わったところだったので、自分でやってしまえばいいと思いつきましてね」
「……そうですか」
一見自慢のようだが、言葉の端々に実感が篭っていて私は大人しく頷くことしか出来なかった。確かに宰相の地位にある人間が動けば、少なくとも裏切りの心配はなくなるわけだ。彼がどの立ち位置にいるかで裏切りの意味も変わるけれど。
辞める理由が気にならないといえば嘘になるが、今、踏み込む価値がある話だとは思わないので、いったん断ち切る。彼がまだまだ答えてくれるつもりがあり、今の質問で機嫌を損ねていないことを確認してまた問いを重ねた。
「夜の神子について、いいですか」
本当に答えてくれるかどうか、あるいは得た答えが真実かどうかはわからない。
「はい。私が把握していることでしたら」
「えっと、その、最後に召喚された神子――が、亡くなった後に、災いが起こったんですよね」
「……そうです。我々は太陽を失いました」
「その災いというのは、神子が自殺したことが原因で引き起こされたもの、で間違いないんですか?」
「――――――」
すると、初めて。宰相閣下と相対してから初めて、部屋に奇妙な沈黙が生まれた。打てば響くように滑らかに会話が続いてきた今までと比べて明らかに様子がおかしい。とはいっても、彼は焦っているわけではなかった。答えに窮したわけでもなく、海のように凪いだ瞳に不可思議な色を浮かべて、―――はっきりと微笑んだ。
「誤解を招くことを承知で、お答えします。……“わからない”と」
どくりと心臓が嫌な音を立てる。負けてはいけない、まだ、引いてはいけない。
「ただ、状況がそう示していると、昔の人々は判断したようです。夜の神子は闇を司る者。ああ、『漆黒の三年』はご存知でしたね」
さっきの授業を思い出す。何を知っていて、何を知らないのか。歴史の話になったとき、その話題は避けては通れなかった。私はネヴィとネヴィの姉に概要を聞いていたので特に引っ掛かることもなく流されたはずだった。
「確か、太陽が沈んだまま、三年昇らなかったという―――」
「はい。ですが、正確に言えば違います」
「え?」
「太陽を失ったのは我々人間だけでした。正しくは、人間だけが、太陽を“認識できなくなった”」
世界が闇に覆われても、陽は変わらず昇り、そして沈む。その繰り返しは変わらなかった。人間以外の生き物は変わらず太陽の恩恵を受けていたと彼は言う。植物は枯れず食物連鎖は維持され、人間は飢えることはない。ネヴィから聞いた三年太陽が沈んだままという表現をそのまま解釈していた私は、自分の勘違いに気付く。
「認識できない……?」
「全てが闇に覆われたおかげで、昼と夜の境界線が曖昧になり、夜に呑まれる犠牲者が増大したのです」
各国時を知らせる鐘でどうにか区別をつけていたものの、日が経つにつれ夜の時間が増え、あとはお察しの通り。
「当時の国王が亡くなるまで、ずっと―――」