ハブ対マングース
夜を忌避するこの世界の人間が、夜の闇を湛えた泉の傍にとどまることはどれだけの恐怖だろう? 全く何の影響を受けない私でも、視覚的にぶっちゃけ気持ち悪いと思うそれ。色を戻す方法が分からないのでどうしようもないが、なんとなく、それは夜そのものではあるがそこで完結していて、何かが滲み出ることはないと感じている。
ネタばらしをした以上もう後には戻れない。黒く染まった泉のふちから彼らを見上げ、私は少しの動きも見逃さないよう注意を払った。一旦腰を下ろしてしまうと、今度は、気軽に立ち上がれなくなる。前方に視線を固定しつつ……なんて、足元が疎かになって体勢を崩した瞬間に確保―! という未来が見えるようだ。
この右手にあるものが、私の生命線であり、彼らにとっての唯一の障害。―――奪われては、いけない。決意を新たに手に力を込めると、ネヴィが私に寄り添うように座る。
そして、ほんの数分も経たないうちに事態は動いた。既に譲歩したからとそれ以上の言葉を紡がずただ答えを待った私に、似非役人が、ゆっくりとその膝を折ったのだ。
「ぜひとも、お願いいたします―――」
頭を、下げて。希うように。下を向いたその表情を窺い知ることはできない。
(最初っから、下手に出られた……!)
くそが、と口は悪いが私は盛大に舌打ちしたい気分だった。男の行動は素早く、そして迷いがなかった。……もしかしたら、召喚の事実を知ってから今までの間に、こんな状況を想定したことがあるのかもしれない。そうとしか思えないほどの回復の早さだ。いつまでも自分の心臓の音がうるさくて鬱陶しく思う私とは違う。
彼ら、もとい国側が私の提案にどんな態度をとるのか、を、私はずっと考えていた。高圧的に出られたら? あるいは真逆に、友好的な態度に出られたら? それを推測できるほどの情報がなくて、結局、何でもいいと結論を出した。重要なのは話し合いの体裁をとったこの探り合いで、どういう結果を残すか、である。
私は、相手に聞こえるように大きく息を吐いた。安堵したように、呆れたように、どうとられても気にしない。この際後ろの騎士二人は近づいてこない間は無視して、似非役人一人だけに集中しよう。吐息に反応して顔を上げた男に、私はまずひとつ訊ねた。
「私に何か、望むことはありますか」
連帯責任という言葉がある。さて今回の場合、誰が責任を負うのだろうか。彼らにとって寝耳に水だった―――だろう、夜の神子の召喚。国王が独断でしでかしたということが事実なら、そんな大層なことに巻き込まれた彼らもまた被害者であると言えるかもしれない。……言える、だけだが。
たとえばこの事態を彼らの部下や同僚などが作り出したのであれば、話は単純、私も態度を強く保てただろう。けれど実際は専制君主制のこの国で最も地位の高い人間が、たったひとりで、誰にも知られず行った。つけ込む明確な落ち度が見当たらない。だからこそ、この拙い脅迫が意味を成すような態度に出て欲しかった。
「ええと、世界を救え、とかそういう理不尽かつ漠然としたもの以外でお願いします」
だが、と私は強く思う。嫌味をふんだんに盛り込んだ言葉を更にねじ込みながら、表情だけは真面目なものを保った。だが、あんただけは駄目だ、似非役人。こうして相対すると、脳裏にある出来事が蘇ってくる。いつだったか「あいさつを学ぼう~基本編~」を図書館へ返しに行った際、彼と黒い人とを見かけたあの日のこと。
『ですから、無意味なことだと言ってるんです!』
自分たちの話に夢中で入口を塞いでいることにも気付かなかった彼らの会話が今、鮮やかに思い出される。あの時、似非役人は確かにある言葉を口にした。
『早々に見切りをつけて』
『最初から無かったことにすれば―――』
後にあった出来事の方が印象強くてとっくに忘れていたはずなのに、脳とは不思議なものである。さっき聞いたことのように、声音も、その時の空気感さえも手に取るように思い出せた。前後の文脈からして、この言葉が私――夜の神子――を指していると思うのはおかしくないはずだ。どんな意図があったにせよ、それが本音だとするならば、私は……。
「……この国に、貴女を保護させていただきたい」
「もう少し具体的に」
ばさり、切り捨てる。似非役人は一瞬息を詰めたようだが、表情に変化はなかった。
「城……あるいは騎士団の管轄内で、暮らしていただきます。もちろん生活に不自由がないよう尽力を」
「拘束するということですか」
「まさか、とんでもございません!」
違うっつってんだろ黙れクソガキ。という幻聴が聞こえるようだった。台詞の途中を遮ったのはもちろんわざとである。似非役人の口元がちょっと引き攣ったように見えたので、効果はあったと思うべきか。不自由がないよう、という言葉はいいが、尽力を惜しまないと言われても何の保証にもならない。頑張りました、でも無理でした、はぁ? で終わるわけにはいかないので、ここはきっちりがっちり言質を取らなくては。
「十分な食事と、衣服と、住むところを用意していただける、と?」
「ええ、もちろんです」
「…………」
「……? なにか?」
いえ、と私はゆるく首を振って、ロダンの考える人のように握った右手を顎に当てる。逆手に握りなおした懐刀は当然首筋にひどく近づくが、もう私が恐怖に震えることはなかった。望むことはあるか、という問いに国に保護されろと返答が来た。だから次はまた、私の番。
何から要求すべきかと思い巡らせ―――やっぱり、万が一、が起こると怖いので右手を降ろした。入口の方からの強い視線が少し緩んだのを肌で感じる。別にやらないから。言わないけど。
「いくつか条件があります」
「聞きましょう」
「私、まず、痛いことは嫌いです」
「はっ?」
だから人を傷つけられる刃物とかもう超苦手なので、緊急の時を除いて、私の目の前では可能な限り剣を抜かないと約束して欲しい。国王だと名乗る男に散々脅しつけられたので、心がひどく傷ついている。もう見るだけで無理。怖い。本当はそんな物騒なものをさげた人には近づいて欲しくもないが、それがこの国の防衛手段なら仕方がない、などなど。
「……その短剣は」
「え? お守りがどうかしましたか?」
心外だとばかりに首を傾げて、わざとらしくぺしぺしと懐刀を弄ぶ。すると――似非役人が、薄っすらと笑みを浮かべて、今度は頬を引き攣らせた。何ということだ、完全に効いている。この路線が正しいと確信した私は、もの言いたげな彼らの視線を黙殺して続く要求を口にした。
先ほども言ったように、むやみに拘束しないこと。拘束しなくても閉じ込めないこと。ただし、外出を控えろという意味であるなら譲歩する余地はある。
「基本的に、この国の法には従うつもりです。……今後は」
「今後!?」
ここへの侵入を含め、今までの不法行為を見逃せという話だ。ぼそりと付け加えた一言に反応したのは、後ろに控えたお菓子の人だった。流石騎士団長、犯罪の匂いには敏感である。緊迫した空気を切り裂く素っ頓狂な響きに思わず向こうに視線をやってしまったのだが、黒い人だけは最初と変わらず、本当になにを考えているか分からないような顔で私を見ている。目が合って、しかしなにを言うこともないのでそっと目を逸らした。目力が凄くてまともに見ていられない。
そうこうしている間に、似非役人が復活したようだった。頭痛をこらえるように眉間を押さえながら立ち上がる。そう、彼は今までずっと、膝を折った状態のままで話を続けていたのだ。見た目文系のくせに筋力がすごい。足を崩せばいいのにと思わないでもなかったが、言ってあげる義理はないし、姿勢を保つのに苦しんで気がそぞろになればいいと邪な下心を持っていたのも事実。そして似非役人に見下ろされる形になったが、私は立ち上がらずに視線だけを動かす。
「貴女がどこまでご存知なのかわかりかねますが、ひとつだけ、確かめたいことがあります」
「……何でしょう」
全てを語る気はなかった。たぶん、お互いに。私は当面の生活のために、彼らは当面の安全のために、ただ外枠を決めただけなのだ。私の目的や私を保護した先にある彼らの目的など、いずれ話し合うときが来るとしても、今ではない。
「夜の神子の特徴は黒目黒髪……だと伝えられていますが、貴女のその色は違う。もしや、それは……」
「そうですね。私のものではありません」
ネヴィの、と言いかけて一旦口を噤む。
「―――先代の巫女の色、だそうです」
「やはり……!」
得心したと似非役人は頷き、そして間を置かずに言葉を続ける。
「色を移す方法は複数あります。ですが、貴女に色を移したのが陛下なら、恐らく法術を使われたのでしょう。いくつかの条件さえ満たせば、元に戻すのは決して難しくありません」
「…………」
そこにいらっしゃる巫女殿のように。と、指し示されたネヴィはといえば、びくりと肩を震わせてなぜか私の後ろに隠れるような素振りを見せた。なんだろう、この人が苦手なのだろうか。まあこの人頭でっかちで思い込み激しそうだし、あまりお近づきになりたくないタイプの人だと思うけど。いやいやそんなことよりもだ、男の語る話の流れに、私は嫌な予感しかしなかった。
「“神子様”。宰相補佐たる私の力及ぶ限り、貴女の要求に従いましょう。ただし」
ただし。ですが。けれども。しかしながら。今ここで逆接なんかいらないんですけど!
「安全のために、今しばらくその色のままで――――」
言われた内容に対する衝撃のほうが強くて、似非役人の言葉の後半はもう耳に入ってこない。呆然としたまま、私は、宰相補佐ってどのくらい偉いんだろう、と暫し現実逃避に走った。