始まりを告げる黒
珍しいことではないのだとお菓子の人は言った。巫女に選ばれた者の家族が、あるいは恋人など親しい者が、その辛さに耐えかねて“迎えに来る”こと。中には受け取ったお金全てを持ってきて、地に頭をすり付け願う人もいるという。『返してほしい』、と。
しかし祈りを通じて一度でも世界と繋がった巫女は、巫女をやめることができなくなる―――人々がそれを知らないとは思えないが。いくら彼らに訴え掛けたところで無意味な話、それがこの世界の仕組みだろうに。
痛ましいことだとお菓子の人は苦しそうに表情を歪めた。我々にはどうすることもできない。説得するしか、引き下がってもらうしかない。それこそ無理にでも。
「―――ですから」
突然、違う声が割り込んだ。開け放たれた扉の向こう、冷ややかな響きを持った男の声が私達のところにまで届く。
「貴女にまだ正気が残っているのなら、彼女のことは諦めなさい。本来、部外者がこの場所に入り込むなどあってはならないことですが、特別に見逃してさしあげます」
お菓子の人と話していたので足音に気付かなかったのか? 驚きに思わず肩が跳ねる。扉から姿を現したのは、今回の目的である似非役人その人と、後ろにもうひとり。今まで何度か会った――というかついこの前お世話になったばかりの――黒い人が気配もなく、また、無表情で立っていた。
そのまま似非役人はつかつかと部屋の中に入り、お菓子の人を追い越して泉の手前まで来て止まる。……黒い人が静かに扉を閉めた。決められていたことのように、流れるような動作だった。
このタイミングでこの配置。つまり、つまりは。彼は私達が“呼ぶまでもなく”、ここに来る手筈だった……? まだ距離はある。相手の出方をもう少し見ようと、私は一歩退きそうになるのを堪えて沈黙を保つ。
「戻れないほど染まってしまったのなら、……仕方がありません。夜に浸食された者の末路ぐらいはご存知でしょう」
浸食。その言葉を聞いて思い出したのは、今もどこかの医療施設で治療を受けているらしい全裸男のこと。一生檻の中で暮らす羽目になると、そういう話だろうか。あるいはいずれ亡くなるなんて怖い話かもしれない。とはいえどちらも私には縁のないものだ。私はこの世界で唯一、夜の影響を受けないそうだから。
(ってか、そもそも、私もネヴィもさっき否定したよね?)
明確に言葉にはしなかったが、私は何のことかと聞いたし、ネヴィも心当たりがないという態度だった。大した距離もないのだから、外の二人にだってそのやりとりが聞こえていたはず。
それを完全に無視した彼らの態度に不信感がつのる。特に似非役人の態度はあからさまだ。今会話の主導権を握っているのは彼であり、騎士二人は黙って成り行きを見守っているだけ。まるでこちらのことなど初めから一切信用していないというような―――。
あ、わかった。この感じ、この人が食堂で「なぜ踊り子の選考に来なかったのか」とネヴィにねちねち訊ねていたときにそっくりだ。
(は、結局それが間違いだって分かって、みっともなく喚いてたくせに!)
相当な自信家のようだが、現実とは厳しいものですよと教えてあげたい。自分がこうと信じたものはなかなか曲げられない人のようである。彼らの迫力に少し押されていた気持ちが僅かに活力を取り戻した。相手はまだ、状況を正確に把握してはいないのだ。似非役人の勘違いに基づいた詰問は続く。
「それで、貴女が、巫女殿のお姉様ですか」
「…………、は?」
え、ちょっとなにを言っているのかわからない。
「ご家族を、ということに抵抗があることは我々も重々承知しております。ですが世界のために、巫女は絶対に必要なのです。そして彼女は、十二期も務め上げた今代の光の巫女と同じ……どころか、それ以上の力を有しておられる。前例のないことです。彼女の他に、これほどの力を持つ方はいらっしゃらないでしょう」
どうか世界のために、諦めていただきたい。そう語る似非役人の態度や口調は居丈高なものだったが、その瞳は真剣そのものだった。世界のため、という私にとっては馬鹿げた台詞が、まったく違う意味を持つように聞こえる。彼が本気であるのは間違いないらしい。
そして相手が真剣であればあるだけ、的外れなことを言われているこちらはより冷静になった。ええとなに、姉だって? 私が、ネヴィの? いやいや、彼女の姉は今代の光の巫女―――。
(――だって、知らない? まさか!)
彼は私がネヴィの姉であるとなぜか疑っているようだった。しかも割と確信を持って。この似すぎている髪の色のせいだとしても、いきなり姉妹認定してくるとはいささか乱暴すぎやしないだろうか。
そもそもどうして私が姉なんだ。そんなに老けてみえるのか、と私は密かに落ち込む。やっぱりあれか、ここ数か月の飢えで肌が荒れまくっているんだろう。それだけ、そうそれだけに違いない。それだけですよね?
妙な思考の海をたゆたいつつ、驚きは通り越すとただ無になる。私は凪いだ心で、こちらを説得しようと熱弁を振るう青年を他人事のように見つめる。すると隣から、ネヴィの固い声が似非役人の言葉を遮るように響いた。
「姉は、亡くなりました」
「は……亡くなった? え、しかし、あなたはこの間……」
「つい最近のことですから。それに、家族はもういないとリカルド様に言いましたけど」
確かに、ネヴィが巫女候補として認められた時に出る補助金を『もう家族がいないから』私と店に分けたのだから、まずその旨を国側に話していなければおかしい。おまけに力が桁違いだの何だのと、選定期間真っ只中では秘すべきだろう情報をわざわざ付け加えて皮袋を持ってきたのは店長の弟、つまりあんただろう、お菓子の人!
図らずもネヴィと同時に当の本人に視線を向けたが、彼は目を逸らし口籠るだけでなんの役にも立たない。もしかしてそれすらも嘘だと判断した? いや、それこそまさかだろう……?
(あれ……? ネヴィのお姉さんって、あの男と知り合いだったし、若白髪とか騎士団長とかとも面識あったんだよね?)
それなのに、家族であるネヴィの存在だけがぽっかりと空いている。姉のこともあったし、私はてっきり彼女はどちらかといえば国よりの人間で、国の中に誰か知り合いとか、頼れる人がいるものだと思い込んでいた。だから―――だから?
(……あ。動揺してる)
で、では妹、違います、そんなやりとりがすっかり傍観者となった私の目の前でかわされている。口調がぶれ始めた似非役人とは対照的な、ネヴィのしれっとした返しが何とも言えない。
この世界のことだけではなくて、ネヴィに関してだって、私の知らないことがたくさんある。私が誤解していることも、きっと。彼女が私とそう変わらない貧乏生活をしていた理由の一端が、今のこの噛み合わない会話にあるのなら。
私はおもむろに膝を折り、湿っぽい泉のふちにぺたりと腰を下ろした。靴を履いたまま正座するのはちょっと無理だったので足を崩す程度に。そしてそのまま手を伸ばす。
本当は、と私は思う。私の予定ではお菓子の人に似非役人を呼んでもらって、彼がその扉から入ってきた瞬間に、狙い済ましてこうするつもりだった。頭の回転が早そうな人だと踏んでいたし、騎士団の執務室で見せた醜態ぶりから、不測の事態に弱いのではないかとも推理して。
私なりに考えた。――本当に、色々考えたのだ。だというのに……まったく、なにひとつ上手くいかない、行きあたりばったりもいいところだ。
私は躊躇なく泉の中に左手を突っ込んだ。過程がどうであろうと、目的の似非役人に会うことができた。そして本来の予定は狂ったがむしろこの混沌とした状態の今だからこそ、つけ込める隙があるような気がする。
―――ざわ、り。
瞬間、視界が真っ黒に塗りつぶされた。隣に立つネヴィも向かい側に立つ騎士達も似非役人も全てが、黒く黒く、物凄い速さで闇に飲み込まれていく。やがてそれは私の全身を包み、その意識ごと奪われそうになったところで―――慌てて手を引き抜いた。するとまるで夢だったかのように全てが元に戻る。
否。
唯一、泉が漆黒に染まっていることを除けば、だ。
ネヴィから夜の神子ではないと証明したことを聞いたとき、泉の水が黒く染まる話を冗談交じりに墨汁などと称したことが、とんでもない間違いだったと知る。それは闇だった。夜の闇だ。けれど、人々に穏やかな眠りをもたらす筈の闇が……何と表現すればいいのだろう、歪で、澱んでいて、ひどく、おぞましいものに思えてならなかった。
「――まさか」
その声は震えていた。
「まさか、あなたが―――夜の、…………」
私は視線を上げずに、ただ、右手に握った懐刀を濡れた左の手のひらに置いた。彼らが何を勘違いしていようと構わない。たとえその勘違いゆえに誘い込まれたのだとしても、構わない。
「私は彼女のお姉さんではないですし、彼女を連れ戻しにきたわけでもないです。光の巫女がどうとかそんなことにも興味はありません。もちろん、殺されたくはないですが」
未だ泉に満ちている闇は、おぞましいものではあったけれど、おそろしいものではなかった。コレは私を傷つけないという奇妙な安心感さえ覚える。――私と同じモノである、確たる理由もなくそう思った。
「ただ、まあ。“そちら”にとっても、不測の事態だったと、とある方から聞きまして。この生活を続けたところで何かが変わるとは思えませんし」
状況は変わった。当事者の一人はもういない。この世界がどうなろうと知ったことじゃない、なんて、私は誰に叫べばいい?
「話し合う……余地、は、あるかと」
だから、取引しませんか。懐刀を左手にぺしりと叩きつけ、私は彼らを脅迫した。




