見ないふり、聞こえないふり
(……………まずいな)
ぐう、と鈍い音が胃の辺りから聞こえてくる。私は今、ぶっちゃけお腹が空いていた。この間差し入れで貰った怪しいお菓子、変に勘繰ったりしないで素直に食べておけば良かったかもしれない。
頑張っても頑張っても文字の勉強は全然進まない、起きていればいるだけお腹が空く。どうすればいいものか。かといって雀の涙のような貯金は崩したくないとくれば、もうお手上げ状態だった。ともすれば下拵えで皮を剥いた後のじゃがいものような野菜に齧りつきたくなるほど。生だけど。
昼食としてここで出されるまかないの量は本当に少ない。足りなさすぎる。
………ああ、お腹空いた。
と、そこで勢いよく食堂に通じる扉が開き、いつも通り笑顔満開のネヴィがふわりとスカートを靡かせ走りこんできた。
「おっはよう、ラギ!遅くなったけど約束のお菓子持って来たよ―――ぅあ?!」
天使だ。天使がやってきた。私は速攻で野菜を足元に放り投げその場に跪き、尊敬の目を彼女に向ける。お菓子、と言っても、粉と水と何かの甘味料だけで作られた素朴なものだったが、私にはそれが天上の御馳走に見えた。
「……っ女神様……!」
「え?え?なにどうしたの?え?」
閑話休題。
貰ったお菓子を全て腹に収めると、私は漸く一息つけた。と同時にらしくない姿を見せてしまった、とも思う。やはり空腹は敵だ。気をつけないと。
「ああもう、びっくりした。何かと思った。お腹空いてたんだ」
「……本当に、助かりました」
「ふふ、どういたしまして。でも君って意外とよく食べるよねえ。まかないとか一瞬だもん」
「それは――――」
日本でのことを考えれば、私は完全に平均だ。小食ではないが決して大食らいでもない。と、声を大にして言いたかったが、確かに彼女達の食事を見るとただの間食かと思うほど少ない。それで充分満足しているというから驚きだった。
この世界の人達の摂取量は少なすぎる。活動する時間が短い所為なのかもしれないけれども。
「まあ、成長期ですから」
「胸が?」
「喧嘩売ってます?」
「ううん、全然」
にこにこと笑うネヴィの表情にはやはり全く裏を感じなかった。本気で言っているだけ余計性質が悪いと思うのは気のせいだろうか。彼女の胸は女らしく豊満であるゆえに、私のそれは小さく見えるのだろう。これでも結構着やせするタイプ……いや、関係ない関係ない。
「よーし、今日もきっちり稼がないと。気合入れていくわよ!」
「そうですね。流石にごはん抜きはもうごめんです」
「や、やぁねえ。あんなこと二度としないわよ、大丈夫大丈夫」
野菜がたっぷり入った大きな籠を脇に置いて、彼女は腕を捲り上げる。その気合は充分なことだが、気持ちが先走りすぎて籠ごと全部ひっくり返したことがある。昨日の話だ。運悪く片付ける前にその光景を見られてしまい、上司に報告され、罰としてまかないを貰えなかった。―――傍にいなかった私でさえも下働きの連帯責任で。
少ない食事でもないよりは断然ましである。
そんな細かいことが重なって、今日のような飢えに繋がるのだから。
「……まあ、お菓子貰えるなら別に構いませんけど?」
「ラギ……。君、ほんっと単純………」
ほっとけ。私にはまだお菓子を買う余裕すらないんだっつの。
そうやって遠回しに催促をすることを恥ずかしいとは思わなかった。ネヴィも大概貧乏だが私はその更に上を行く。一日、一日、食べるものをきちんと確保するのがどれだけ難しいことか。
泥作業組の給料は少ない。けれど特別な技術もいらない、誰の紹介でなくともいい。身元を保証されていない私に残された選択肢など、そうありはしないから。
「ですから、無意味なことだと言ってるんです!」
図書館入り口前、門の近く。「あいさつを学ぼう~基本編~」だけは辛うじてマスターしたので、本を返そうと思ってやってきた私は響いた怒号に思わず歩みを緩めた。
建物の前で入り口を塞ぎつつ、自分達の世界に入っている男二人―――。
中に入りたい私にはものすごく邪魔である。かといってどいてくれるよう声を掛けようにも、片方の青年の剣幕に怯んでしまい、その勇気などどこを探しても見つかりそうにない。不幸にも図書館へ行こうと思っているのは私だけなのか、ちらほら視線を向ける人間は居ても、邪魔そうにしている誰かは見つからなかった。いや、むしろ、見て見ぬふりをしている?
その事実に気付いた瞬間、わけのわからない漠然とした不安が私の心の中に広がっていく。
「やめろ、シュルツ。声が大きい」
「……すみません。……とにかく、私は賛同しかねます」
「それこそ無意味な話だろう。事は既に起こってしまった」
「だからといって、あんな方法で解決するとあなたも本気で思っているんですか?考えれば分かるでしょう。そうやって無駄な時間を費やすより、早々に見切りをつけて最初から無かったことにすれば―――」
「あいつがそれを望むとでも?」
「……っ!」
声、今でも大きいですけど。周囲に丸聞こえですけど。聞かれて困るとかそういう意識はないのか。しかし、漏れ聞こえてくる内容からして思っていた以上に深刻な話のようだった。何とも物騒な会話である。
そしてよく見ると、傍迷惑な男の内ひとりは綺麗な刺繍が散りばめられた豪華な服を纏っていた。もちろん、ついこの間行き倒れていたフラグ美形男には敵わないが、―――貴族。あるいは、それよりももっと上の。
(……なんだろう。ものすごく、……フラグのにおいがする)
もう一人は全身黒尽くめだったが、明らかに騎士と分かる紋章のついた剣を腰に差していて。関わらないほうがいいような、絵本のことは諦めてさっさと回れ右した方が幸せになれるような、第六感なんてものは持ち合わせていない筈だが、本当にそんな気がした。
だが彼らの視界に入っているだろう今この場で足を止めそうしたのでは怪しいかもしれない。私はざっと周囲を見渡して、……図書館の横に位置している広場に目をつけた。
そしてまるで最初からそこへ向かっていましたよと言わんばかりにゆるりと方向転換し、歩く速度を上げ、彼らから充分距離を取った状態ですれ違う。
「……光の――さえ見つかれば、そんなもの。……我々には必要ありません」
「―――――――」
……突風が、男達の声を掻き消した。
広場にはたくさんの子供達が元気そうに走り回っていて、笑顔が何故かひどく眩しい。とりあえずあの二人がどこかへ行ってくれるまでここに居ようと近くにあった段差に腰を下ろす。後ろには小さな川が流れていて、ささやかな水音が耳に涼しかった。
この国は、水資源が豊富なのだろう。食事を満足に得られない私が今も尚生きていられるのは、町のそこかしこに湧き水があって誰でも自由にそれを飲むことができるからだ。初給料が出る前は一日のほとんどを水だけで過ごしたときもあった。
―――懐かしい、と思えるほどにはまだ時間が経っていない。まして、そんな生活にいつ逆戻りするか分からない日々を送っている自覚もある。
私は、その不安定な生き方を止められる方法をふたつ、知っていた。
……どちらも選びはしないけれど。




