望むこと、望まないこと
店主から魚用包丁を受け取ってまた裏口から外に出た。空を見る限り、まだ夕方までには時間がありそうだった。寄り道せずに食堂へ帰るのなら無理に急ぐ必要はない。
これで一安心と私は息を吐き、やはり無言でついてきた黒尽くめの騎士に改めて礼を言う。何にせよ、彼のお陰ですんなりと目的を果たせたのは事実だった。もしその“羽目を外した”連中とやらにばったり出くわしていたなら、どんな絡まれ方をしていたやら。面倒事は避けて通るに限る。
そういう側面もあっての、本当に助かりましたではごきげんようの意味を込めたありがとう、だったのだが。黒い人は何でもないようにひとつ頷くと、そのまま同行の旨を申し出てきた。
「店まで送ろう」
「お気遣いなく」
「いや」
オブラートに包んだお断りを言下に否定される。まるでそう言われるとわかっていたかのような素早い返事だった。眼光の鋭さは幾分和らいでいたものの、彼の中に、梃子でも動かない頑固さを感じる。これはもう食い下がっても無駄に終わる展開しか見えない。
「店に、用がある。ついでだ」
「……そう、ですか」
逆らうような勇気を持ち合わせてはいない上に、更に理由を付け加えられてしまえば何も言えなかった。まさか毒入りジュースの件で負い目を感じている……わけじゃあるまいし。それとも騎士というのは、こういうものだと諦めるしかないのか? 考えても答えは出ないと、私は先に歩き出した黒い人の左後ろ、剣をさげていないほうを選んでついていくことにした。
夢を見ている。……彼女の夢を。
彼女が立つどこまでも白いその部屋は、今まさに一つの命が終わろうとしている場所だ。終わりまで眠り続ける、誇り高き光の巫女の部屋。現実と違って白以外色彩というものが一切削ぎ落とされたその空間で、彼女はどこかほっとしたように笑うのだ。
『大丈夫。絶対、絶対に、君の望まないことはしないから』
『―――望まないことは』
だったら。それは。それは―――。
次の日の朝、私は軽く頭痛を感じながら目を覚ました。睡眠時間は足りている筈なのに身体がひどくだるい。黒い人に店まで送って貰う間、ろくな会話もなくずっと黙ったままだったのが悪かったのかもしれない。緊張するだけで何もいいことがなかった。むしろ何を話せと?
店に何の用ですか、なんて話題は、もし用事がネヴィに関することなら、回り回ってこちらにも飛び火してきかねないので避ける。この間の毒殺未遂事件などもってのほか。そうすればもう思いつくものなどなくて、黙々とただ足を動かした。市場に差し掛かれば、商品を見ているように視線をあちこちにさまよわせ、黒い人を全力で意識から追い出しもした。
……相手も無言だった分、送られているというより、連行されている気分だった。
(店長に用事があったっぽい、けど)
胃の痛くなるような時間を経て店にようやくたどり着くと、私はこれ幸いと礼を言って中に引っ込んだので後のことは知らない。ただ帰る際、やけに真剣な様子で話し合う店長と黒い人を目にしただけだ。嫌な雰囲気――耳を塞いで忘れてしまえといつものように、目を逸らした。
そんなことを思い返していると、量が寂しい朝食を味わう気力がごっそり削られてしまった。いつもならよく噛んで空腹を紛らわせているが、今日は無理に水で押し込んで席を立つ。……気分が悪い。
「いってらっしゃい、ラギ。……人通りが多いから気をつけてね」
「はい、アニーさん。行ってきます」
どこか心配そうなアニーさんの声を背に一歩外に出ると、昨日とは全く違う風景が広がっていた。人通りが普段よりも多いことは当然として、重要なのはきらきらと太陽の光を反射して輝く金髪があちこちで風に靡いていること。金髪、と一言でいっても種類があるなと、私は僅かな色の違いに目を細める。
人の流れに逆らうように食堂へ向かいながら、すれ違う金髪の人は確かに見事に女性ばかりだと思った。もちろん付き添いだろう人も中にちらほら混じっているが、恐らく条件に合わない人だろう。彼女達はこれから、城へ、行くのだ。資格を証明するために? 報酬を得るために? 国が踊り子を募集した時とは違う―――その先にあるのは死への道だと、彼女たちは本当に理解しているのだろうか?
全国からここにやって来た人々を自分の店に引き込もうと、威勢のいい声が飛び交う。人々の顔は皆明るく、事情を知っていなければまた祭りでも始まるのかと思えるほど街は活気づいている。当の本人たちでさえそうなのだから不可解だった。全てが他人事のよう。まるで、私が目撃したあのおぞましい光景など幻だったと思いたくなるほど―――。
ああ、駄目だ。考えれば考えるほど気が滅入る。なるべく人と顔を合わせたくなくて、いつかのように食堂をぐるりと回り込んで裏口を目指した。裏口から入れば顔を合わせるのは炊事場のおばさんかネヴィだけで済む。
(……ネヴィ)
あれから一日ほどしか経っていないのに、遠く離れてしまったかのような寂寥感が胸を支配していた。会えば何か変わるだろうか。いや、そもそも、彼女が妙なことを言い出すから悪いのだ。選定に引っ掛からなかったくせに、光の巫女だと言い張って……なおさら話がこんがらがる。文句の一つでも言ってやらないと―――そういう無意味な思考は、単純な現実逃避だと私は知っていた、のに。
自分の仕事場へ続く扉に手をかけ、開く。奥に人影が見えた。
「おはようございま……? っ!」
「―――おはよう、ラギ。相変わらず早いわね」
「っ店長!」
毎朝の繰り返しで深い意味もなく挨拶をしながら入って、言葉が途中で喉に詰まった。彼女とは似ても似つかない、変な口調の大男……じゃない、この食堂の店長が、待ち構えていましたとばかりに立っていた。ありえないことだった。基本的に、泥作業組の仕事場に店長や料理人が足を踏み入れることはなく、用があっても人を寄越す。どういうことだろう……? 仕事場にネヴィの姿は見えず、だから余計不安を誘う。
「あのねえ。仕事前に悪いんだけど、ちょっと、話があるの」
裏まで来てちょうだい、彼はそう言って少し口の端を上げた。笑顔なのに、なぜか笑っているようには見えなかった。
店長と一対一で話したことは、今まで一度もない。この店で雇って貰ったときも炊事場のおばさんが一緒だった。彼のそっち系の口調に慣れるまではおかしいを通り越して怖いとしか思えず、いつも身構えていた記憶がある。二メートル越えの迫力は半端ない。
仕事にはもちろん厳しくて、怠慢ゆえの失敗などに関しては、誰にでも平等に雷を落とす。老若男女分け隔てなく。とはいえ入れ替わりの激しい泥作業組には別に監視役がいるので、直接関わることなどそうそうなかった。例の騎士団呼び出しの際、名前を呼ばれて内心どっきりしたのは秘密である。まさか覚えられているとは思わなかったから。
そんな店長も商売人らしく、客に対する愛想はいい。いつもにこにこと、時には人の悪いにやにやした笑みを浮かべて決して柄がいいとは言えない客達をあしらっている。そんな彼は今、打って変わって真剣な、……沈痛な表情をしていた。私と店長が二人きり、机を挟んで向き合っているこの場所は、裏――いわゆる店の事務所のような部屋。重苦しい空気が漂うここで、彼はどう切り出そうか迷っているようだった。
たったひとり呼び出された理由がわからず、様々な憶測が脳内を飛び交い、よもや最悪のクビだろうかと私が半ば覚悟をしたときだ。店長が懐から小さな皮袋を取り出して私の方へと押しやった。机に置かれたとき、僅かに金属音がした。聞き覚えのある―――硬貨が擦れあう音。
(え、て、手切れ金……? 違うか。クビならクビで支払うものなんてなにも)
退職金、などというものがこの世界に存在するかどうかは別として、この食堂の仕事は日払いだ。今日の仕事を始めていない以上、私が受け取るべきものはなにもない。
「ネヴィから預かったものよ。アンタに、って」
「……私に? ネヴィから?」
「正確には弟―――リカルドが持って来たんだけど」
「…………。……? ……ああ、お菓――騎士団長さんですね」
どうしてもぱっと思い浮かばないのは横文字のせいか、何度か繰り返してようやく誰を指すかに思い至り、口を滑らせることはなんとか堪えた。だから、なのだろう。店長が私に告げた言葉に込められた本当の意味を。
理解。
するのは、遅くて。
今日という日に、騎士団長が持って来たというお金の入った袋。ネヴィから、の。
「ネヴィが、ね。家族はもういないから、報酬の九割を店に、一割はアンタに渡してほしいと言ったそうよ」
嗚呼。否定したかった現実が、ここにある。
「アンタは知らなかったかもしれないけど、あの子、ほんとは巫女に選ばれる色を持ってた。びっくりしたわよう、ある日突然黒目黒髪になって現れるんだもの。何があったんだか……」
彼の口ぶりからすると、ネヴィのことを昔から知っているように思える。ますます彼女の素性がわからない。城の宝物庫に忍び込めるような姉を持ち、騎士団長の弟を持つ店長と知己の仲? 一方で店長は何もかも知っているというわけでもなさそうだ。私にとって何の慰めにもならないが。
ネヴィはどうやってか髪と目の色を戻し、城へ行って、資格ありと認められ報酬を貰ったのだろう。それは、わかった。しかしその報酬を自分で使うでもなく、店と私にあげるだって?
百歩譲って、お優しい彼女の奉仕精神が発揮されたとしよう。―――だとしたら、本人が渡しに来てもいいはずだ。そこを他でもない騎士団長などという地位のある人間を、言葉は悪いがぱしりに使った、とくれば。おまけに本人がいつまで経っても仕事場に現れないとくれば。
「アンタたちを一緒にしたのはアタシだけど、こんな短期間にそこまで仲良くなってたとはねえ。ネヴィは今後の報酬も同じように、って国に頼んだらしいし」
「今後って、まだ……まだ選定期間は、半分以上残ってます!」
「そうね、でも、リカルドは桁違いだと言ってたわ。前例がないほど力を、あの子は示した―――」
その他大勢が霞むほどに。誰が見ても間違いなく、彼女は『光の巫女』であった、と。決まりきったことであるかのように? もう覆せない真実であるかのように? それは彼女の妄言が正しかったということに他ならない。――頭が、痛い。
光の巫女に選ばれれば、その家族には巫女が生きている限り継続的に報酬が支払われる。そしてネヴィは、その家族に相当する人間として店長と、私とを名指ししたのだという。この私に、それを使えと。この硬貨は、……彼女の命そのものだというのに?
「―――受け取れ、ません」
「ラギ……」
「そんなの、出来るわけが! 私が、……わたし、が」
他の誰でもない私だけは、そうしてはいけないのだと、わかっている。夜の神子として召喚された、この私だけは。
『君の望まないことはしないから』
『―――望まないことは』
じゃあそれは、私の望んだことだっていうのか。夢の中で、私は、そう問いかけることが出来なかった。この世界のことはこの世界の人間がやればいい、今でもその考えは変わらない。光の巫女を、文字通り“使って”世界を守ればいい。この世界の誰かがやればいいのだ。
でも、だけど、違う。違うんだ。その誰かは―――不幸なくじを引く誰かは、決してネヴィではありえなかった。私の中でその選択肢はありえなかったんだ。私はそんなこと、望んでいない。
(望み……?)
私が望むこと。私が本当に、心の底から望むこと。…………それは。