『選定』が『選ぶ』もの
水の流れる音がやけに耳についた。詰めた息を吐き出すことも憚られるような、沈黙。喧騒が遠い。ネヴィは手首までをすっかり湧き水の中に沈めていて、だからこそ結果は明らかだった。
食堂で、彼女の持つ色が自前ではないと耳にした時から――――あるいは、光の巫女だという彼女の姉を見てしまってからだろうか? 私は、もしかしたらネヴィは光の巫女の条件に合う人間だったのではないかと疑っていた。事実、そうだとするならさきほどの彼女の怯えにも説明がつくのだ。
もし私が考えた通り、彼女が元々は金髪に翠の目を持つ人間だったとすれば、『選定』によりその湧き水から光が溢れるはずである。けれど何も起こらなかった、それはつまり彼女は光の巫女たる資格を持たないということ。
じゃあ、なにが「どうして」なのだろう………?
そう叫んだあとはただ肩を震わせるネヴィの後ろ姿があまりにも痛々しくて、そっと目を逸らす。すると、街の四方八方から浮かび上がる多くの光の粒が私の視界に飛び込んできた。光は淡く輝きながら天へ天へと昇っていく。まるで月に吸い込まれていくよう。幻想的な風景とは裏腹に、私達二人だけが世界から取り残された気分だった。以前ここへ訪れたときと同じように。
「………………、……ネヴィ?」
息を、吐いて。密やかに名を呼ぶ。小さく、小さく、子供が身を守るように、彼女は蹲って震えていた。服が土で汚れるのも構わずへたり込み、水仕事で酷使しても尚透き通るように白いその手を湧き水に浸したまま。泣いているのかもしれない、と遅くも思い至って一歩踏み出した私の耳に、届いた、声。
「ひどい、なあ――――」
こぼされた独り言に近い音は、私の予想を裏切ってどこか明るさを含んだものだった。朗らかな? 晴れ晴れしい? いや、何かを吹っ切ったような、と言うべきか。聞いているこちらが苦しくなるほどの悲痛を滲ませ、なぜと問いかけたばかりの人物が出すものとは到底思えない。そのギャップに思わず私の歩みが止まった。
彼女は、ネヴィは、私のことなど忘れてしまったかのようにただただ繰り返す。ひどい、と。言いながら顔を上げて月を見る、その横顔が確かに微笑んでいるのを見た。笑うように、泣いていた。
(…………っ……!)
泣かないでほしい、泣かれたくはない、瞬間的にそんな衝動がわきおこる。ぎりりと胸を締め付ける痛み。呼吸が止まる苦しみ。それに突き動かされるように私はまた一歩を踏み出した。伸ばした指先が彼女の背中に届く前に、再び言葉が紡がれる。
「ねえ、ラギ。光の巫女の選定条件って、……わかる?」
「……金髪に翠の目っていうのは、何度も聞きましたけど。お姉さん……が例外で、碧眼でも大丈夫だったっていう」
その例外のせいで私が殺されかけたわけだが、今は言うまい。
「そう、金髪に翠の目。あとは年齢も関係あるって言われてた。十歳以下にその証が現れたことはない、とかね」
頬を流れた涙が幻だったかと思うほど、あまりにしっかりした口調でネヴィは語る。慰めるための手で触れることは躊躇われて、私は伸ばしたままだったそれが力を失くして重力に従い落ちるのをぼんやりと見ていた。と、彼女はおもむろに湧き水から手を引き抜き、立ち上がる。ああ、また顔が見えなくなった。声の調子だけでは彼女の気持ちが量れない。
「基本的に、巫女に選ばれるのは力の強い人なんだって。たぶん、……犠牲は少ない方がいいから、かな」
「……………」
犠牲。言葉の響きにいやなものを感じつつ、思う。犠牲である―――などと、あのずけずけと物を言う若白髪以外、滅多に誰も口に出したりはしないのだろう、と。『犠牲になった』当の本人でさえ、あれだけの誇りを胸に目を閉じたのだから。
「この湧き水で資格の有無を確かめて、城か役場に申し出たら、今度は祈りの間で力の強さを見極める。こっちは偉い人の前でひとりずつ確かめるから虚偽なんて許されない。巫女を騙るのは人殺しに次ぐ重罪なの。それに基づいて名簿が作られて―――あとは、ただ、国からの呼び出しを待つだけ」
今回の選定の結果、力の差はあったとしても、条件に合う誰かはそこかしこに存在すると昇る光の粒が示している。選定期間が終わらないうちに、彼らは国が支払う幾何の金銭を得る為に、こぞって城へ向かうのだろうか。
『突然変わっていく自分の姿に耐えられなくて、自ら“辞めた”人もいる。頭がおかしくなって、そのまま衰弱死した人も』
ふと、ネヴィの言葉が脳裏を過った。自然と浮かんだ疑問をそのままぶつけてみる。
「そういう人達って……あの、巫女が最期にはあんな風になること、知ってるんですか?」
「んー…、城の偉い人でもない限り、普通は知らないと思う。家族が申請すればいつでも面会はできるけど、そもそも本人が人に会うのを嫌がるようになる、とかなんとか。でも、早死にするのは誰もが理解してる」
「――――償い、だから?」
「……ま、光の巫女に選ばれたら、報酬が家族にも出るしね」
貴族にその色が出ることは滅多にない、という話だから、巫女候補は比較的貧しい人達が大部分を占めていそうだ。多額の報酬は動機になる。家族のために? もしくは、家族のせいで? 実際のところは知る由もないが。そしてその中から光の巫女が選ばれたとして、………私は、今までのようにいられるのだろうか。あのおぞましい姿を、巫女のなれの果てを見てしまった、この私は………。
(―――――いや、うん。ないな)
ふと湧き上がりそうだったなにかしらの感情は、凶行に走ったあの男の姿を思い返すだけでそれはもう綺麗に霧散した。光の巫女制度? 人身御供? 結構なことじゃないか。理由がなんであれ、異世界から生贄を喚ぶことを止めたのは正しい。そう、人として。だからそれがどんなに嫌悪するものでも、私は否定しない。してはいけないのだ。救う為には……私が行くしかなくなるから。
そこまで思ったところで、突然振り向いたネヴィともろに目が合った。
静かな―――静かすぎる、落着き払った目が、私を。
「次は、………私だと思う」
「―――、え?」
高台は暗くて、街中から昇る光も私達を包むこの闇を払うことはできない。
「次の巫女は、私が選ばれる。―――そう、わかるの」
それは、諦観。覚悟というよりは、諦めが多くを支配しているように見えた。まるで決まりきったこと、絶対に覆せないことであるかのように彼女は言う。自らが、次代の光の巫女である、と。
「ラギと同じで、昔私も別の人の色を“うつされた”。さっきお姉ちゃんが『自分もやった』、って言ってたでしょ? あれ私のことなの。法術で変わる前……生まれたときは間違いなく金髪に翠の目だった。ほら、条件にぴったり」
彼女は何を言っている? 自前ではないと言ったのは知っている、黒目黒髪は本物じゃないと似非役人に告げていた。
「あと、十二年前の『選定』で、資格ありとされたわ」
「―――……はい?」
色んな情報を唐突に詰め込まれて頭が混乱している。さっぱり意味がわからない。待て待て、なんだって? 十二年前の選定というのは、ネヴィの姉、今代の巫女が選ばれたときのものだ。資格ありと判断された―――つまり、その時にはまだ金髪に翠の目だった、と。なるほど。それはいいとして、じゃあ、なぜさっき『選定』すべき湧き水は反応しなかった? 本来の色がそうであるなら、触れた瞬間光の粒子が出てしかるべきだ。なぜ……あ、それで「どうして」に繋がるのか。あーそっか納得納得。
(――――じゃ、なくて!)
今、なにか、とてつもなく酷いことを聞いたような気がする。選定の条件が、ネヴィが、なに………?
「私自身幼くて、正直何が起こったのかわかってなかったんだけどね。選定って意識も知識もなかった。とにかくもう、びっくりするくらい光が溢れて。普通と全然違うって、ほんと大騒ぎになっちゃった」
「………それ、は」
一体誰の、話? それでいてなぜネヴィの姉が選ばれた? 尋ねかけて口を噤んだ。報酬に何でも答えてあげると彼女が言った以上、聞けば答えは得られるかもしれない。しかしそこまで踏み込んでしまえば、知ってしまえば、どこまでも深みに嵌りそうな気がした。巫女の最期に匹敵するような……なにか、おぞましい気配がする。私の葛藤とは裏腹に、ネヴィは諦めたように笑う。寂しそうに笑う。ただ、笑っている。
彼女が次代の光の巫女――――これが真実なら、その先に待つ未来は姉と同じだ。おぞましい老婆の姿と成り果ててたったひとりで命を落とす、そんな未来。でも。そんなの。
「に、」
喉が渇いて上手く言葉が出ない。言うべきではないような……今言わなければならないような。頭の中で、相反する思考が同時に存在している。頭がずきりと―――痛む。自覚しているのに、止められない。絞り出した声は、どこか懇願するような響きを持っていた。
「逃げ、れば、いいじゃないですか」
「―――、え?」
「嫌なら、逃げたらいいんです。……私なら、間違いなく逃げます。っというかそもそも、選ばれてないですよね! 今、何も起きなかったんだから。時間が経って色々……なんか色々変質したかもしれないじゃないですか。十二年前がどうだったとか関係ない、今この瞬間光は現れなかった、ならネヴィは光の巫女になれる資格を持ってないってことでしょう」
きょとり。意外なことを聞いたというように、ネヴィは可愛らしく目を瞬かせて小首を傾げた。何を言っているか理解できないという感じではない。間違ってない――――見当はずれなことは言ってない、と、思う。
彼女の言っていることが嘘か本当か知らないが、昔のことなんかに囚われる必要もなければ、わざわざ名乗り出てやる必要もない。生きながらミイラになって死ぬなんて、全人類を愛する慈悲溢れる聖人でもなければ絶対に無理だ。何か特別な理由でもないと無理だ。そう、やらなくたっていい。だって代わりがいるんだから。夜の神子とは違って、代わりがたくさんいるんだから。
逃げる―――もちろん、実際に逃亡生活を送る、という話じゃない。ただ、口を噤めばすむ話だった。ネヴィは私より少しまし、なだけの極貧生活を送っている。恐らく、今代の巫女の家族であるはずのネヴィは“報酬”を受け取ってはいない。そして申請すればいつでも面会できるはずの姉に会いに行くのに、侵入という手段を取った。仮に両親などの他の家族が存在しているとしても、縁を切っているかなにかで繋がりはないと考えるべきだろう。
(『選定』だかなんだか知らないけど、結局、重要なのは見た目だけって?)
色をうつす法術……だか技術だかが特別、選定を遮断するなにかを有しているという可能性はある。とはいえ異世界人を召喚する方法も法術なんだから、『選定』が始まる前に存在していたはず。法術というものがどれくらいの規模広まっていたかは想像するしかないが、その影響を受けないよう考慮していない筈はない。なんというか、資格とか小難しいことを言っておきながら、その実、何を『選んで』いるんだか怪しいものである。
とにかく、だ。今のネヴィは黒目黒髪、加えて選定は彼女を資格なしと判断した。
「―――巫女を騙るのは、重罪なんでしょう?」
それなら、ネヴィと私が沈黙を守りさえすれば、何も始まらない。事実が存在しないから。昔のことなんて見間違いだったと言い張れる―――。言い募る、(何の為に?)終わりを見たから、わかっているから? それとも、彼女が光の巫女になることで私のことが露見しかねないと危惧して? ずきり。一際強い頭痛が私を襲った。
「………っふふ、」
くすくすと。最初は控えめに、やがて耐え切れないといった様子でネヴィが笑い出す。
「まいったわ、もう。ラギったら――――」
ずきり、痛む。苦笑に近い笑顔を浮かべる彼女の頬に、涙が一粒、流れ落ちた。
何か、変だ。どっちが。わからない。頭が痛い。
「私、たぶん、一度でいいから、誰かにそう言って欲しかったんだと思う。“あの日”から、ずっと」
だから、ね。――――ありがとう。
ネヴィは本当に、穏やかに。
まるで全てのことが解決したかのような、安心しきった、今まで見たことのない無防備な顔で、笑うのだ。
嬉しいと言う、そう言ってネヴィは笑う。その表情からは寂しげな暗い色はすっかり消え失せていて、ほっとする……のが普通の反応だっただろう。けれどなぜか私は、酷い痛みに襲われてそれどころではなかった。このときの状態をなんと言い表せばいいのかうまく言葉が見つからない。
茫然としていた? 混乱していた? 衝撃を受けた? 何もわからない。
ただ、その場に卒倒するくらいの勢いで、ざっと血の気が引いたのを覚えている。