冷たい光が降り注ぐ下で
それから私はネヴィに半ば引き摺られるようにしてその部屋を後にした。行こうと促されてもなかなか決心がつかず、足が動かなかったからだ。文字通り死んだように眠る老婆と、煌びやかな内装のアンバランスさに息が詰まる。よく見れば窓には鉄格子のようなものが嵌められていることに気付いた。ここは、本当に牢獄そのものだった。
――ネヴィは反応の薄い私に痺れを切らしてか、私の腕を掴んで無理矢理扉の方へ一歩を踏み出す。やはり彼女は泣いていない。今一番辛いのは家族であるネヴィだろうに。強い力に流されてふらふらとついていきながら、ぼんやりと思った。ここに不法侵入すると腹を括ったときの決意は、いったいどこへ消えてしまったのだろう、と。
靴を脱いで音が響く廊下をやり過ごし、周囲を警戒しつつ訓練場へ出る。外の空気はとても涼しくて思考の止まった頭に心地いい。ぽつぽつと降っていたはずの雨はすっかり止んでいた。頭上には怖いくらい綺麗な円を描く月――元の世界で言う月、に相当するなにか――が煌々と輝き、篝火の明るさと相まって不思議な空間を作り出している。もちろん、篝火から少しでも離れてしまえば足元は真っ暗だ。
ネヴィはその暗さを物ともせず、柵を越えればまた私の腕を引っ掴んでずんずんと進んでいく。その足取りはしっかりとしていて、目的地が決まっているかのようだった。掴まれているところがほんの少し、痛い。それでも私は振りほどかなかった。……今は、何かに縋っていたかったのかもしれない。
「ねえ、ラギ。もう一回、高台に行ってもいい?」
「……いいですよ」
交わされる会話はまるであの日と同じように。けれど確実に違っているものが、ある。私は夜風に吹かれて少しずつ冷静さが戻ってくるのを感じながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「――いつから、気がついてたんですか」
「……うん?」
「私がそうだ、ってこと」
「確信があったわけじゃないよ。ただ、そうなのかなってだけで、別に」
唐突な質問にも、返事は即座に来た。私の知りたいことは何でも教えてあげると自ら提案した以上、予測済みだというわけか。しかし確信がなかったと言ったわりに、迷う素振りも見せず光の巫女の部屋へ私を連れて行ったのはどうなんだろう。
私のほんの少し右斜め前を歩くネヴィの横顔をちらりと窺ってみる。……暗くてよく見えなかった。ただ少し腕を掴む手に力が入ったような気がした。
「そういう事態になってたのは、お姉ちゃんの落ち込みようで知ってはいたしね。でももう、間に合わなかったから。今期が始まったときから老化が始まって――終わりだってわかってたから、無意味だと思って。正直、どうでもよかった」
夜の神子が召喚されたことは最初から知っていたと彼女は言う。ひどい落ち込みようだったという言葉に、私はまた僅かに湧き上がった罪悪感に視線を正面に戻した。
ネヴィの姉は、自分に与えられた仕事をこなしただけなのだろう。その結果あんな姿になったとしても、それはやり遂げた証に他ならない。己の身体が老いていく様子に心折れることなく彼女は最後までやりきった。……誇るべき、ことなのだ。
「ラギはそもそも、変だった!」
「変ってなんですか!」
「仕事はちゃんとこなせるのに、物を全然知らないとこ? なんていうか、普通の常識が全くないっていうの?」
見えないけれど、きっとにこにこと笑いながら言っているに違いない。悪意の欠片もなく。その様子がありありと目に浮かぶようで私は引き攣った笑みを浮かべた。こんな風に言われても貶されていると感じないのは一種の才能だろう。
「知る環境にいなかったんじゃないかとは思ったけど、それにしては手が綺麗だし。東の町から来たにしてはそういう雰囲気もないし。考え方も何か違う。うーん、とにかく全体的に色々変だったかな」
「…………」
「あ。お姉ちゃんの話を聞いてなかったら、ラギはただの変人だと思ってたかも」
手が綺麗、か。いちいち刺さるネヴィの言葉を聞き流しながら、掴まれていない方の腕を上げ手の指を唇に当てる。少しかさついた肌の感触。連日の水仕事で流石に荒れてきてはいるが、それでも周囲と比べればまだマシな方なのかもしれない。そう、店に雇って貰ったばかりのころはもっと。
私としてはごく普通に――目立たないように過ごしているつもりだったが、他人から客観的に見ればやはり違いはあるのだろう。自分では思いもつかないようなところで。
「えっとね、後は――」
「その話はもういいです。次、騎士団に行ったときのことなんですけど」
「な、なに? ラギ。そんな改まって」
私がどれだけ変だったかを更に語り続けようとするネヴィを遮り、私は次の質問へと移った。今後の参考に聞いてもいいのだが、役に立つというより無駄に時間が過ぎる予感がひしひしとする。今日という時間は有限だ。今のうちに、とにかく重要なことを色々聞いてしまうに限る。
「報酬なんですからてきぱき答えてください。ネヴィ、あのとき、何してたんですか」
「……。……あは、やっぱりばれてた?」
「あれじゃ怪しすぎます。いっそのこと、用事があるからって普通に出て行った方がまだマシでしたよ」
「ううん、自分でもそう思ってはいたんだけどね。途中で折を見て抜け出して欲しいなんてあの人が言うから……」
ティーセットが割れたこと自体は偶然だったかもしれない。それにわざとらしく乗っかってどこかへ消えたネヴィは、背後霊を背負った男を引き連れて戻ってきた。この国に、この世界に恨みを持つ『夜の神子』が死ねば世界は闇に覆われる――らしい、ことを考えれば、あの似非役人が必死になって探すのも理解はできる。
「あのときはね、私が夜の神子じゃないって証明してた」
「……え、どうやってですか?」
「光の巫女の、祈りの間があるでしょ? 城の中心を境にして、そのちょうど反対側に夜の神子の祈りの間があるの」
祈りの間。私は若白髪が言っていたことを思い出した。そこに湧く水は特別で、資格の有無、力の強弱を識別することができるという。夜の神子のそれもまた同じことができるというのか。……いや、少し違うかもしれない。私みたいに逃げ出したりしなければ、資格の有無など調べる必要はないのだから。
「私が本当に夜の神子だったら、そこにある泉に手を突っ込んだら変化が起きる。ええと、水が真っ黒になるとか」
「っ、気持ち悪!」
「こら! 神様の啓示なんだってば!」
ネヴィの窘める声も、その感情を消すことはできなかった。手をつけた途端、一面に広がる墨汁。そんなものを想像してしまい、それはないわと私は軽く首を振る。何の啓示だ。しかし、確かにそれはわかり易いことだと思った。外見がどうであれ、突っ込んで何も変わらなかったらその人間は『夜の神子』ではない。
つまりネヴィがそうだと強い自信を持っていた似非役人は、覆しようのない、誤魔化しようのない結果を示されて撃沈したのだろう。なるほど、私という部外者がいても形振り構わず落ち込むわけだ。よほどショックだったに違いない。
(ざまあみろ、とは、もう思えないけど)
結構思い込みで動いていたんじゃなかろうかと思う節があるので、一切同情はしなかった。
次の質問、次の質問。私は口の中でそう呟きながらネヴィと共にゆったりと歩いていた。話しながらだと格段に歩くスピードは落ちる。彼女が選んでいるのは恐らく大通りから少し外れた道だと思う。少し狭い上に篝火の数が少ない。たまに遠くの恋人同士とおぼしき男女が寄り添う姿が視界に入るだけで、騎士の姿は行きよりまばらになっていた。ネヴィの姉が言っていたように見張りとして騎士団に戻っていったのだろうか。
――選定。言葉だけを考えれば、踊り子を募集するときにもその言葉が使われていた。これから『光の巫女』の選定が始まるらしい。それがいったいどういうものなのか、音の響きからはまったく想像できなかった。
「……選定って、どうやるんですか」
この話題がネヴィにとって愉快なものではないと知っていながら。けれど、私はそう質問した。腕を掴む手にまた力が入ったが、しかしそれはもう私に痛みを与えるものではなくなっている。さっきは彼女も動揺していたのだろうか。思った以上に静かな声が、私の疑問に答えてくれた。
「湧き水」
「はい?」
「とにかく、湧き水に手を触れるの。汲んだりして少しでも時間が経ったものは駄目。地面から湧いてくるその水に直接触らないと効果はない。これが前提、いい?」
「…………はあ」
ぶっちゃけると、この人は何を言っているんだろうと思った。湧き水なんて毎日私達が仕事に使っている生活用水、この町ではとてもありふれたものだ。それをさも重要な――神秘的なもののように彼女は語る。
また御伽噺の世界かと頭が痛くなりそうになったとき、ようやく目的地である高台へと続く坂道に着いた。ネヴィはふと足を止めて私の方へと振り返った。
「資格を持っていれば、触れた瞬間に光が溢れる」
そして私の腕を掴んでいない方の手を頭上に掲げ、ある一点を指差す。
「『月』――選定のときにだけ現れる、神様のしるし。それが欠けてなくなるまで」
だからその期間はあちこちで光の粒子が飛び交う。選定の長さは大体七夜。その間に国中の金髪翠目の女性は必ず選定を受けなければならない……。私は、ネヴィの説明を半ば聞いていなかった。間抜けにもぽかんと口を開けたままそれに見入っていた。
気付かなかった。夜空に星はあったし、夜の間はアニーさんの目もあり外に出られなかったから今の今まで気付いていなかった。この世界には普段――月が、ないのだ。選定期間に現れても、たった七夜で姿を消す。
(それに、……どうして“ルナ”?)
その単語だけどこか浮いているような印象を受けた。この世界にそぐわない、わけではないが、月そのものという意味もある単語だと私が理解できるゆえの違和感。選定のときだけ、ならば最初に現れたときにはもう既に『夜の神子』は存在しておらず、命名はこの世界の人間がしたことになる。太陽は太陽と呼ぶのに――どうしてだろう。
「選定で資格ありとされたら、この町なら城へ。他の町ならそれぞれの役場へ申し出るの」
「それ、任意ですか?」
「義務よ。って言っても、補助金が出るから皆こぞって行くけどね。貴族は……国民なら全員行かなきゃならないけど、ああいう人達から光の巫女が選ばれることって少ないよ。そもそも金髪に翠の目の女性がほとんどいないから」
なんでも結婚相手に金髪に翠の目の家族がいるとわかったら、どんなに話が進んでいても断って、その血を入れないようにするほど徹底しているらしい。その話を否定も肯定もできずに私は黙り込んだ。ネヴィの姉がどうなったかをこの目で見てしまえば、何も言うことはできなかった。
高台のてっぺんに立って、ぼんやりと篝火に照らされる城下町を見下ろす。ここからでも篝火に囲まれた城はなんとなくわかった。今が夜だからか、この前とは違って比較的心穏やかにそれを見ている自分がいる。
城から少し離れたところに騎士団の詰め所、そして前見落としていた小さな塔が目に入った。つまりはあれが光の巫女の――。ネヴィの言葉通りちょうど反対側を見やると、そこにも同じような塔が立っていた。
(あそこで、……いつかの夜の神子が自殺した)
直後に起こった天変地異により、この世界は学習したのだ。何を引き起こすかわからない異世界から引っ張ってきたものに任せるより、自分達でなんとかしよう、と。
その心意気は認めてもいい。むしろ痛い目に遭わなければそんな風に思えなかったことを詰るべきか。けれどそれが人間というものだ、と自分に置き換えて考えてみる。ちらりと視線を回せば、篝火が一カ所に大量に集まっているのが見える。あれが祭りの場所のようだった。
「ラギ。……そろそろだよ。あっちのほうを見てて」
ここに着いてから私の腕をあっさりと放したネヴィに、あっちと天を示され上を向く。当然のことながら、吸い込まれそうなほどに綺麗な満月が視界に入った。私の世界のそれと何ら変わらないように見える月。首がつりそうだと思いながら見ていると――――きらり、と、何かが光った。
瞬間、
もの凄い量の光の粒子が、雨のように降り注いだ。天から?いや、あの月からだった。
落ちてくる光は途中で方向を変え四方八方に飛び回り、私達の遥か頭上で弾けるようにして次々と消えていく。短い時間がとても長く感じた。――それはまさに魔法だった。綺麗、だと、素直に思った。
わぁっ、と遠くで歓声があがり、私ははっと我に返った。隣にいたはずのネヴィの姿が見えず、慌てて振り向く。と、ネヴィは暗さを取り戻した高台の隅にしゃがみ込んでいた。どうしたのかと思って近づくと、彼女の正面に、小さな湧き水があった。
ああ、それに手を突っ込めば、資格があるとさっきのような光の粒子が溢れ出すのか。ひとり納得して頷いていると、そこでまた私は首を傾げることになった。どうしてネヴィは、そんな真剣な顔をして袖をまくっているのだろう。そんな震える手を伸ばして、何をしようとしているのだろう。
選定は光の巫女を決める為のもので、金髪に翠の目と決まっている。ネヴィの姉は例外だったかもしれないが、条件から外れまくった、むしろ真逆な黒目黒髪で何を。
(あ、そうだ、……ネヴィのは自前じゃない!)
まさか、彼女の元の色は――。ネヴィが息を呑む音が聞こえた。そして恐る恐る、本当に恐る恐る、指を近づける。光の巫女たる資格があるかどうかを判断する方法。素質を持つ者が湧き水に触れれば、光が溢れる。
「……どうして、」
ぽつり、落とされた呟き。今にも泣きそうな声が私の耳に届く。
「どうして――――!」
そして、何も、起こらなかった。光の一粒さえ、現れなかった。