そして訪れる穏やかな眠り
「本当に、……ごめんなさい」
手を胸の前で組み俯くネヴィの姉は、まるで懺悔室で祈っているかのようだった。たとえここで私が詰っても彼女は構わないのだろう。声を荒げて責めたところで、彼女にはそれを受け止めるだけの覚悟がある。
赦しを望んですらいない――ただ断罪を待つその姿は、老婆という外見を差し引いてもひどく哀れに思えた。そんなの、……ずるい。謝罪の言葉を口にできた時点で、少なくとも彼女の心は軽くなったはずだった。彼女が召喚を全く望んでいなかったことはその態度から十分にわかる。おまけにここまで弱りきった姿かたちで真摯に謝罪されて、それでも責められるほど私は子供にはなれない。
宝物庫に忍び込んだという他愛ない悪戯は、所詮、ただのきっかけでしかないのだ。
「使わない、という選択肢を持っていたのは『あの男』でしょう」
「っ! あなた――」
「どう言えばいいのかわかりませんけど。でも、あなたには関係ないと思います」
「――――。そう、……そう、よね。……ごめんなさい」
傷つけた、かもしれない。儚げに笑う姿にどこか罪悪感にも似た思いが胸に浮かぶ。彼女を責めることはできず、けれど謝罪を受け入れるのも何か違う気がして、私はただ、流した。許す許さない以前の問題だった。この話に入ってこないで欲しい、そう漠然と思う。
ネヴィの姉でなかったら――私はまた違う言葉を返しただろうか?私の返答に彼女は少し逡巡する素振りを見せたが、しかし直ぐに気を取り直してこちらに視線を寄越した。
「向こうであいつに会ったら、またしっかり念入りに殴っておくから! ね!」
(――――え?)
祈りの形をしていた手をほどいてぐっと両手を握り締める、老婆。口元は意志の強さを表すようにきゅっと引き結ばれて。その変化の一部始終を目の当たりにした私は息を呑んだ。……何だろう、今、なにかが……“切れた”ような感じがした。そのまま引っ張られていくような、どこかへ飛んでいってしまうような。彼女は確かに私の目の前に居るのに、一気に存在感が希薄になる。
しっかり念入りにって何だ、と妙なところに引っ掛かりを覚えつつ、私は老婆から目を離せなくなってしまった。生真面目な顔を作ろうとして力んでいるようだったが、私を見るその海のように深い蒼に浮かぶ、その感情は。
(満足……? いや待って、意味がわからない。なんで満足?)
ひきとめなければ。自分でも理解できない強い感情が私の頭を支配した。早く、今すぐ、引き留めなければ――!
「お姉ちゃん、はい、水!」
「ん。ありがと」
何を言おうとしてか口を開いたものの、計ったかのようにネヴィが水差しを持って戻ってきたせいでタイミングを逃してしまった。勢いを殺がれてただ見守っていると、彼女はそのまま枕元に移動して、近くにあったティーテーブルに置いてあったカップを手に取る。
この世界の食事量は少ないため食器も比較的小ぶりなものが多いのだが、水分摂取だけは私の世界と変わらないようで、水差しもカップも標準的な大きさだった。ネヴィはその豪華なカップにほんの少しだけ水を注ぎ、姉に渡す。一方、注がれたたった一口分をさも美味しそうに飲み干した老婆は、再びゆっくりとベッドに横になった。
彼女が浮かべる満足気な色に妙な胸騒ぎがする。今夜ネヴィと出会った訓練場で感じたような焦燥にも似た、なにか。
……また、暫し沈黙が落ちた。ネヴィが私達の会話をどこまで聞いていたかわからない。どこまで彼女が知っていて、どこまでが彼女の思惑だったのか――知りたい、知りたくない、どちらも本当の気持ちだった。表情からそれを読み取ってしまうのが怖くて、自然と視線は床に向かった。
(ここも、石……冷たそう)
大理石のようになめらかで、高級なものだとすぐわかる床の素材。この部屋にある豪華な調度品は、命を捧げる代わりに与えられるものなのだろうか。候補にさえ補助金が出るというのだ。巫女そのものにはどんな保障がついてくるのやら。でも、あれ?そうだとすればネヴィがあんな給料の低い泥作業組で日銭を稼ぐ必要はないのでは……?
巡り巡る思考の中で一度妙だと思ってしまえば、次から次へと新たな疑問が湧いてくる。さっきネヴィの姉は、「昔、あいつを唆して宝物庫に忍び込んだ」と言っていた。あいつとは「あの男」――もちろん当時も王族の一人だったはずだ。王族を唆す、宝物庫に忍び込む、そんなことを一般庶民ができるだろうか?まさかやんごとない出身だとか……しかしそれなら尚更ネヴィの貧乏っぷりがおかしい。
ぐるぐると同じところを彷徨っていると、ふう、と溜息のような呼吸音が聞こえてきた。誘われるように顔を上げると、視線の先、すっかり落ち着いた様子の老婆が曇りのない晴れやかな表情でにっこりと笑っている。
「ありがとう、ネヴィ。それにあなたも。……来てくれて嬉しかった」
「……お姉ちゃん」
「でもそろそろ時間のようね。選定が始まれば、流石にここにも見張りが戻ってくるわ」
行きなさい。さあ。枯れ枝のような腕を伸ばして扉を示し、出て行くようにと老婆は言う。あまりに唐突なことに私は驚きを隠せなかった。何を……言って?ネヴィはわかっているというようにひとつ頷いて、少しくすんだ金色の髪を慈しむように撫でた。お疲れさま。優しさと思いやりに満ちた彼女の声は、ひどく空虚な響きを纏う。
『えぇと――お姉ちゃんを看取りに?』
どうしてその言葉が今頭に甦るのだろう。確かにネヴィの姉は光の巫女として生命力を奪われ続け老婆のような姿になっているが、でもほんのついさっきまでは声の張りとか表情とかにまだ生気が満ち溢れて――いた、ように、思うのに。
終わりはとても静かに訪れた。
口元に耳を寄せたネヴィに何事か囁いてから、老婆はゆっくりと瞳を閉じた。……それきりだった。
(……待、って)
あまりにもあっけない終わり。おやすみなさいとネヴィが言うのをどこか遠くで聞いていた。彼女は泣かなかった。眠りに落ちた姉の髪をそっと撫で続けたまま、微笑んですらいる。だからだろうか、どうしても、現実のように思えないのは。
「光の巫女は、ね、任期を終えたら選定が終わるまで……こうやって眠り続けるの」
白いネグリジェから覗く骨と皮だけになった胸は僅かに上下している。それは眠りだ。死ではない。しかし、生きているとも言い難かった。やがて訪れる死まで眠り続けることは、死と何が違うのだろう。
彼女は眠り続けるという。何の為に?引き継げる相手が見つかるまで、ずっと?二度と目覚めることのない眠りに落ちた老婆の、その口元がネヴィと同じく笑っているように綻んでいて――私は。……私は。
(光の巫女は……生命力を消費して、祈る。取り替えのきく消耗品で、だから)
そんなこと頭では理解していた筈なのに、どうして、こんなにも身体が震えるのだろう。老婆のような姿に強い嫌悪を感じていたというのに、私は、名も知らぬ彼女の死が怖かった。
「――――ネヴィ」
こんなのって、ない。今まで私はその事を知識としてしか捉えていなかった。どうしようもない現実なのだと心に刻んではいなかった。私は今にも死にそうなネヴィの姉を見てもおぞましさしか感じないまま、ああ、何も――何も、何も!
「……っ、ネヴィ!私が、……『あの男』に従ってたら、この人は助かったの」
「――――」
「逃げずにちゃんと言う通りにしてたら、この人は、こんな――」
「……ラギ」
「っ、質問には答えてくれるんでしょう!」
私は常になく動揺していて、叫ぶことを止められなかった。これがただの八つ当たりにすぎないとわかっていても。明言を避けていた事実を、はっきりと認めてしまうことだとわかっていても。
ネヴィの姉が眠りに落ちた今も、私は、「あの男」に従っておけばよかったなどとは思えない自分に気付いていた。思えないことに自己嫌悪しながら、でも、そう言葉に出さずにはいられなかった。もしもあの時――なんて、選ぶ気もない選択肢。
ネヴィと真っ直ぐ正面から向き合う勇気も、ネヴィの姉の力なく横たわる姿を見る勇気もなくて強く目を閉じた私の身体を、暖かい何かが包み込んだ。
「光の巫女は、役目を負うと途中で辞めることはできないの。夜の神子がいてもそれは変わらない」
私より少し身長が高いネヴィが少し屈んで、私の耳元で囁くように言う。感情の窺えない声だった。暖かい他人の体温に少し頭が冷え、逆に落ち着かなかったが、私を抱き締めるネヴィの腕が震えているのを感じ取って迂闊に動けなくなってしまった。そしてそんなことよりも、今ネヴィが言っていることの方が重要だったから。
「辞められない、んですか? 絶対に?」
「そう。一度でも祈りを通して世界と繋がってしまったら、ね。もちろん、光の巫女と夜の神子が同時に存在したことはないから、詳しい仕組みはわからないけど」
光の巫女でなくなるとすれば、それは死が訪れたときだけ。含まれた諦観に似た響きが胸に刺さる。
「突然変わっていく自分の姿に耐えられなくて、自ら“辞めた”人もいる。頭がおかしくなって、そのまま衰弱死した人も。……お姉ちゃんの身体の衰弱は、止められたと思う。でもね、ラギ。進行を止めるだけなんだよ。元に戻すことは、できないの」
「……でも、」
「こんな姿のまま助かって、後どれだけ生きられると思う? ろくに歩けもしない状態でほんの少し生き長らえることに、意味があると思う?」
それは、――その人によるだろう。苦しそうな声を聞きながら、私は心の中でそう返した。死に向かう人が一秒でいいから長く生きたいと願うか、ただ自然に任せることを望むか。ネヴィの腕に力が込められたが私はその痛みを甘んじて受け入れた。伝わる震えが全てを物語っている。
……彼女の姉は、きっと、願わなかったのだ。
「こんなことをするくらいなら、もっと早くにやれば良かった。こんな遅くにやったって意味ない、間に合わない! 助けたいなら最初にそうするべきだったのに――」
「……間に合ってたら、ネヴィは、……どうしてた?」
「え?」
「間に合っていたら。あの人が助かるなら、私を、国へつきだしてた?」
はっとしたように緩んだ腕から抜け出さないまま、私はぽつりと呟く。多少の意趣返しのつもりだったかもしれない。今の会話でネヴィは私が召喚された『夜の神子』だと確実に知っていることが証明された。いつからかはまだわからないが、知っていて、私をあの老婆に会わせたのだ。
未練などありませんという顔をして眠りについたネヴィの姉。お互いを大事に思っているだろうことは考えなくても理解できる。
「っ、……した。したよ。――したに決まってる!」
また強く、強く抱き締められる。意地悪な質問をしたと自分でも思う。けれど少しも誤魔化さない、謝らない彼女の強さが、なんだかとても羨ましかった。