いいからこの際、釣られます。
ネヴィに同行するか否か、――その報酬は『情報』であるという。どう?と首を傾げて、にっこりと笑う彼女が可愛いと思う私の頭はどうかしているに違いない。現実逃避も大概にしろと自嘲しつつ、それでも私は答えを選べずに黙り込む。私が知りたいこと、全部?今置かれている状況を考えればそれは願ってもない申し出だった。
こんなに頭が悪かっただろうか、と悔しくなるほど全然この世界の文字を覚えられない状態で、いったいいつになったら本の一冊や二冊、簡単に読破できるようになるのか。あるいはそのいつかに読めたとしても、書かれている文章を私が正確に翻訳できたとどうやって証明する?
誰にも聞けないから一人でやろうと苦しんでいるのだ。他人に、何て書いてあるんですか?と内容を問うのは、私にとってあまりにもリスクが高すぎる。……それが驚くような内容だったら、私自身「おかしな」反応をしないとは言い切れないからだ。それもある種のフラグだろう。
まあそもそも、そういう細かいことが書かれている本をきちんと読める人間がこの界隈にどれだけ存在するか、という問題もあるのだが。きちんと教育を受けている貴族や国の息が掛かった連中には絶対に関わりたくない。――――論外だった。
「全部、って、どういう意味ですか」
「全部は全部よ。私、ラギよりは物を知ってるもの。何でも聞いて?」
「……えぇと」
さらりと言い放たれた失礼な言葉に腹が立たないのは、紛れもない事実だからか。それとも言ったのが彼女だからか。私はその提案にぐらりと揺れる自分を自覚していた。……揺れた時点で、答えはほとんど決まっていたのかもしれないけれども。
まず、ネヴィについて行った場合に起こり得るだろう、思いつく限りの懸念事項を頭の中で並べ立ててみる。小さなものから大きなものまで。その中でも一番怖いのは、ここの人間に見つかって捕まることだ。私はいまいち世界史に明るくはないのではっきりしたことは言えないが、こういう王制が敷かれているような国で罪を犯した場合、驚くほど簡単に極刑行きなイメージがある。言い訳すらさせず。特に国の権威を失墜させるような――罪、は。
(でも、ネヴィの言う通り、確かに人はいない)
ここでこれだけ会話して……というより騒いでも、誰もやってくる気配がない。見回りもいない。ここ一帯がしんと静まり返っている。騎士団そのものは大通りに面しているのに、ここが裏側だということを考えても人っ子ひとり見かけないのは……祭り、だから?しかし、騎士がひとりも詰所にいないとはどういうことだろう。
町の警備で精一杯?この国の騎士団はそんなに規模が小さいのか?なんだか釈然としないものの、今柵を乗り越えても見つかりそうにない、のは、素直に認めよう。
「あっでも! 報酬は後払いだからね。踏み倒されちゃ困るもの」
「踏み倒す?! って、ああもう、私はどんだけ性格悪いんですか!」
「そっか、じゃあこうしよう。もし万が一誰かに見つかりそうになったら、ラギ、逃げていいよ」
「っ、だからそういう――……じゃなくて! 人の話を聞いてください!」
ここでもうひとつ、重要なことがある。それは、ネヴィ本人が信用できるかどうか、だ。彼女のもたらす情報が本当に正しいものかどうか、何も知らない私にはわからない。私に情報を提供することそのものが何か他の目的に繋がっていたとしても、私にはわからないのだ。
騎士団を出るとき、黒尽くめの騎士は周囲に気をつけろと言った。ルカの姉は友人に裏切られ、売られた。その事が私の身に起こらないと、どうして言える?
――でも、と私は思った。
この世界で、いったい誰が信用できるだろう。この世界に、“彼女よりも”信用できる人間が果たしているだろうか。私は、小首を傾げたまま辛抱強く待ってくれているネヴィを見やった。根底にどんな理由があったところで、あれこれ世話を焼いてくれた彼女には本当に感謝している。信用度の絶対値は低くても、この世界で一番信用できる人間は、と問われれば私はネヴィを選ぶだろう。彼女が優しいことを、身を以って知っている――。
「ついて、いくだけですからね」
「……え?」
「私、危ないことは嫌いなので、何もしませんから。でも報酬につられたのでついていきます」
「っ、本当? いいの?」
なんとかひねり出した答えに、ネヴィは意外だというように驚いて声を上げた。いや、それこそ意外なのだが。どこかほっとしたように肩の力を抜くさまを眺めながら、思う。
もし危ないことがあったなら、彼女がどんなに嫌がろうと無理矢理引き摺ってでも連れて逃げよう。日々の重労働で鍛えた腕の力を見せつけてやるのだ。だから置いていくことがないように、置いていかれることがないように、できるだけ近くにいればいい。
「いいもなにも……そもそもネヴィが言ったんでしょうに。あ、もちろんお菓子つきですよね」
「……。……ラギ、がめつい」
「褒め言葉ですか?」
情報を得たらそれを鵜呑みにせず、まず考えればいいと自分に言い聞かせる。先入観というものはどうしてもついてまわるが、いや、それでも全くの無知でいるよりは遥かにマシなはずだ。私が思いついた幾つかの懸念事項に目を瞑ってでも――知りたい、という欲求は強かった。そしてネヴィはきっと真実を語ってくれるだろうという全く根拠のない自信も、また。どうしてか。……餌付けされたからか。
「ん。――いいよ」
じゃあ今回は、奮発しちゃうから!そう言って力強く拳を握る彼女から、私はまた目を逸らした。一緒に行くよ。傍にいる。だからどうか、そんな泣きそうな顔で笑わないでほしい。……どうすればいいかわからなくなるから。
柵を越えるのはかなりの勇気が必要だった。侵入者対策などとられていないのか特に上部が尖っていたりはしないのだが、足を掛ける場所が少なく、よじ登るのはもちろん飛び降りるのにも少々時間を要してしまった。
それから私達は静かに、けれど大胆に訓練場のど真ん中を突っ切り、ついこの間通ったばかりのやけに足音が響く廊下に身を滑り込ませる。ああ、これで完全に不法侵入をやらかしてしまった。こちらとしては助かるのだが、本当にこれでいいのか、騎士団よ。危機管理はどうなってるんだ。
廊下に立つとネヴィに促され、余計な音が響かないよう木だか皮だかで出来た靴を脱ぎ、裸足で歩く。石造りの床から直に伝わる冷たさが心地いい。同時に、表面の凹凸が少し痛かった。
(……靴下、あったんだけどな)
脅されるまま着替えさせられたときだったか、いつの間にか「あの男」に服諸共隠されてしまって今はもうどこにあるのかわからない。もちろん今持っていたとしても、靴下を身につけているのは大抵金持ちと決まっているので履けなかっただろうが。そう、貴族と呼ばれる類の人間は、私が持っているのと似たタイプの靴下を使用しているらしかった。……やっぱりこの世界の文化はわからない。
ネヴィは決して急がなかった。ゆっくり歩いて周囲をやたら見回すのも、最初はやはり警戒しているのかと思っていたが――暫くすると、むしろどこか辿り着くことを恐れているようにも見えた。彼女はこの間行ったあの執務室を通り過ぎ、奥へ奥へと進む。……ひどく、慣れた足取りだった。
やがて足の裏が冷えて温度を感じなくなった頃。私の目の前に、美しい装飾を施された扉が現れた。
(ここは――)
『ここから出て右手の奥、突き当たりに、巫女の祈りの間があります』
ふと、若白髪の声が甦る。知らず呟きが唇から零れた。
「祈りの、間……?」
「そう。光の巫女は、ここで祈るの」
何を?この国の平和を?あるいは、この世界の平穏をか。冷めた思考が頭を過ぎった。祈りの間とやらに続く扉はとても分厚そうで、執務室以上に頑丈な造りをしているように見える。固く閉ざされたそこは何者をも拒絶しているかのように、ひどく冷たい。……どうしてか、見ているだけで寒気がした。
「ラギ」
こっち、と袖を引かれて、私はその扉から意識を引きはがした。ネヴィは祈りの間には全く興味がないようで、私の服を掴んだまま更に奥へと歩き出す。すると扉の前からは丁度死角になっていた場所に、人ひとりぐらいしか通れない狭い階段があった。両壁に手すりがつき、上へと螺旋状に延びている。そんな狭いところを彼女が先導する形で階段に足をかけた。ビロードのような布が張られたここの床は石の冷たさを伝えない。
高さにして丁度二階分ほど上がっただろうか。
螺旋階段の先には、どこまでも白く、息が詰まりそうなほど神秘的な扉があった。