慈愛と犬と騎士
おはようございます。こんにちは。ありがとう。ごめんなさい。
写実的でお世辞にも可愛らしいとは言えないキャラクターが、笑顔で延々とその言葉を繰り返す。
――――という、夢を見た。
十中八九、寝る前のお勉強タイムで使った「あいさつを学ぼう~基本編~」という絵本のせいだろう。図書館に通い始めたばかりの頃、絵本のくせにいい歳した大人が借りていくのを見て気になっていた代物だ。字を覚えるための入門書の入門書、といったところか。もう少し絵を何とかしてもらいたかった。
名前の綴りと、挨拶を一通り。三ヶ月経っても私が確信を持って読み書きできるのは今のところそれだけである。後は……よく下拵えする食材なら、辛うじて雰囲気で分かるかどうか。私はこんなにも阿呆だっただろうか?
(まあ、別に死ぬわけじゃないし、……読めない人の方が多いんだし)
言い訳をする脳裏にまたあのキャラクターがじわりと侵食してきた。だから消えろあいさつマン。その笑顔怖いから。
ふ、と思わず溜息が零れる。読み書きに不自由しなくなる日なんて到底来るようには思えなかった。とりあえず仕事仕事、と頭を切り替えてベッドから起き上がる。これは飢えとの戦いだから辞めるわけにはいかない。
手早く着替えて顔を洗い、さっと簡単に髪の毛を纏めると、私はそのまま食堂へと向かった。
――――そういえば、昨日のフラグ美形男はどうなっただろう?
その答えはいつもの作業場でネヴィと顔を合わせたとき、自ずと知れた。
笑顔が素敵で可愛らしい部類に入る彼女は、寝不足ですと言わんばかりに、目の下に大きな隈を作っていたから。
「……おはよう、ラギ」
「おはよう……ございます。あの、大丈夫ですか?」
「ええ―――その、ちょっと色々あって」
色々。含みまくった表現と、濁した言葉。やはりあの行き倒れのことかと私は思考を巡らせる。彼女と炊事場のおばさんは共に食堂の近くにある建物に住んでいて、だからこそ引き取る可能性は高いと思っていた。
どんなに怪しくても、関わったら厄介なことになるかもしれなくても、目の前で倒れている人間を見捨てられない優しい女性。
「あ、そう、犬!」
「え?」
「怪我をしていた犬を拾ったの。その、朝まで意識が戻らなくて、」
犬呼ばわりされたフラグ美形男に同情すべきか、
明らかに今思いつきました感が漂う苦しい言い訳を笑うべきか。
「――――ああ、それで」
私はどちらも選ばず、納得したふりをして頷いた。何にしても、私はその男を見殺しにせずにすんだ。そして厄介事を押し付けた自覚はあったものの、それでも直接頼んではいない。結果的に選んだのは彼女だ。
「だったら、危ないから皮むきは私がします。その代わりこっちの野菜洗ってください」
「ラギ……いいの?」
「ええ、もちろん。ここで流血沙汰になったら、連帯責任で私まで減給ですしね」
「あっこら!可愛くないぞ!」
彼女は笑う。朝まで意識が戻らなかったということは、夜の間、ずっと傍について起きていたことになる。普段十二時間以上きちんと眠り続けているだろうのに。……夜を、どこか恐れているのに。私の住む建物の管理人の言葉を借りるなら、眠れないことは辛いことであっただろうに。それでも彼女は笑うのだ。
知らず王族ならびに貴族、それに仕える官僚騎士エトセトラ、には絶対関わりたくない私の身代わりになって。
――――声に出せない感謝の言葉は、どこか偽善めいた響きを持っていた。
ネヴィはそれから数日間、寝不足からか酷く憔悴していたようだったが、暫くすると元気を取り戻していった。彼女との会話で距離が縮まったか、というと実はそうでもない。ネヴィという女性はいつでも誰にでもあんな感じだ。
ただ、一度だけ。“犬”はもう大丈夫になったから、とこっそり教えてくれた。
つまりは家に帰れるほど回復し、彼女の元を去ったということなのだろう。その時の少し寂しげな表情が物語っている。そして最後までばればれな“犬”呼ばわりが変わらなかったのは、きっと、フラグ美形男が本当にフラグだったから。街の人間であればそこまでして隠し通さなくてもいい筈だ。身分を、正体を、他人に知られたくない誰か――――。
(やっぱり関わらなくて良かった。よし、この調子で行こう。……ん?)
内心ガッツポーズを決めていると、ふと。己の背後、食堂の辺りが何だか騒がしくなるのを感じた。普段通り泥まみれの野菜を洗っていた手を止め振り返る。ざわめき、と、それに混じる女の、いわゆる黄色い声。
何かがおかしい。私は全力でそちらから意識を引き剥がし、野菜に向き直って強く強く目を閉じた。
確かにここは城下町で五本の指に入るほど大きい食堂だ。だが、やはり客層というものは大体決まっている。庶民、商人、傭兵。少し柄の悪い輩も時々現れるが、乱暴に飲み食いしては大人しくお金を払って出て行く。味は別として評価のランクは中の下。数ヶ月働いていても、従業員のあんな声なんて聞いたことがなかった。
……招かれざる客だ。どこか冷静な頭が答えを弾き出す。この店に相応しくない客が今、ここに居る。しかし何の為に?『みこ』を探す為かと一瞬考えて即座に打ち消す。こんな騒ぎの中で何ができると?
「っきゃぁあああああ!リカルド様ぁ!」
大合唱。うん、ここまで嬉しそうな悲鳴をどうやったら出せるんだろう。皆一オクターブ高いよ、声。ここに居てさえ耳に刺さるような気がした。それにしても、リカルド、………リカルド?
「リカルド、って、どこかで聞いたような……」
「あんた、騎士団長の名前も知らないのかい」
「はいっ?!」
ぎくりと肩が跳ねた。取り落としかけた野菜を何とか手の中に収め、声のした方へ慌てて顔を向ける。そこには呆れたような顔を隠しもせずに炊事場のおばさんが仁王立ちしていた。何故か、手にお菓子を持って。
「姿が見えないと思ったら、呑気に野菜洗いとはね……全く」
「えっと……その、すみません?」
「ラギ。あんたもう少し、女らしくした方がいいよ」
余計なお世話だ。反射的に出かかった台詞を呑みこんで、私は引き攣った笑みを浮かべ誤魔化した。そんな様子に思うところがあったのか、深い深い溜息を吐きつつも、手に持った袋詰めのお菓子を渡してくれる。
お菓子。それも、バターのいい匂いがする。私の世界ならまだしも、この街では高級品に相当する部類のものだ。
「さ、これ食べて仕事頑張りな。なんてったってリカルド様からの差し入れだからね!」
「………はあ」
「反応薄いねえ……」
「あ、いえ、本当に嬉しいです!美味しそうだし!」
差し入れという口ぶりからも、これはこの食堂の従業員全員に配られるものらしい。
カップケーキを配って回る騎士団長?何だそれは。何の詐欺だ。
だがこの国で夜を忌避することが当然であるように。
この事についても全く何も思ってなさそうなおばさんに、私は仕方なく口を閉ざした。
食欲をそそる良い匂いがするお菓子には確かに未練があった。
ただ、騎士団長直々にという意味不明な事実がやけに気になって、結局家に戻った後、管理人にあげることにした。




