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薄闇の眠りを  作者: 吉舎街
第二章
29/85

長い、長い夜の始まり


 日本で暮らしていた間、私は名前が特別なものだと思ったことはなかった。もちろん、親に貰った名前なのだから愛着はある。しかし私にとってそれはただの名称であり、個人を識別するための記号でしかない。と、思っていた。いや、そう考えることすらなかったのだろう。名前を持つことは当たり前のことだったのだから。誰かと名前を呼び合って生きることに、何の疑問も持たなかったから。



 今――この世界に、文字通り誘拐されて、そこに生きる人々と出会って。私にとっての“名前”が、特別な意味を持ち始めた。私が私であるということ。この見も知らぬ世界で唯一私という存在を証明するもの。髪と目の色を変えられた状態では、外見は最早別物だと目を逸らしてしまう。

 名前。私は、名前を呼ぶこと呼ばれることで、そこに見えない繋がりができてしまうような気がしていた。それはコミュニケーションの一種だから当然なのかもしれない。逃げ出した私に、隠れたい私に、この世界との繋がりなど必要なかった。西洋風の名前の中で、変わった名前ね、と目立ちたくもなかった。そしてそれ以上に、唯一私が私であると証明できる音の並びを誰にも教えたくなかった――。


 『ラギ』。それはただの欠片だ。呼ばれても何の感情も湧かない。


 だから私は同じように誰の名前も呼びたくなかった。私の頭の中ではお菓子の人はいつまでもお菓子の人で、黒い人もずっと黒い人のまま。ここに馴染むつもりなど毛頭ない。別に名前を呼ばなくたって生きていける。他だってどうせ仕事でしか会わない人達ばかりなのだから、「すみません」だの「あの、ちょっと」だのと声を掛ければ事足りる。深く関わろうとしなければ。

 ……まあ、私が住む家の管理人さんだけは個人的にどうしようもなかったのだが。店の人に紹介され会ったその日に、アニーさんとお呼び。と命令口調で言われてしまっては逆らう気などおこらなかった。恰幅のいい女性が仁王立ちしていると大人しく従いたくなるのは何故だろう。――ああ、その中でも、確かにネヴィは特別だったのかもしれない。

 敢えて呼ばないように努めなければならなかった。心の中では、ずっと彼女の名前を言葉にしていたのに。私は嬉しそうに笑うネヴィを見て、その笑顔をこれ以上直視できず、少し横に視線をずらした。



「……そう、でしたっけ」

「うん。だからラギは、名前を覚える気ないのかと思ってた」

「そ、それは流石に性格悪すぎるような……」



 台詞がどこか辛辣に聞こえるんですが、わざとですか?嫌味ですか?食堂で働いている姿からすればちょっとイメージが違う彼女に、若干焦りが生まれる。ネヴィはさっきまでよじ登ろうとしていた柵に背を預け、可愛らしく首を傾げた。ううん、やっぱり含んだものはないんだよなあ。彼女の言葉はまっすぐ心に届く。ゆえに余計ぐさぐさと突き刺さるのだが。



「ふふ。……ね、ラギ。もう一回呼んで?」

「――――」

「ええぇ、もう打ち止め? けち!」



 繋がりはもう、できてしまっただろうか。私はどうしてかそれが恐ろしいことのような気がしてならない。乞われるまま開きかけた口は何の音も発さずにただ、沈黙だけを吐き出す。そしてそんな私にむくれてみせる彼女は、到底、今から罪を犯すような人間には見えなかった。



「あの、……もう、帰りませんか。こんな物騒なところ、見つかったら危ないですよ」

「やだ」

「っ!」



 即答か。その短く、けれどはっきりとした拒絶に私は二の句が継げられない。どうしてと尋ねるのは気が引けた。彼女の目的が何かを知ることは、私にとってとても危険な臭いがする。さっき、その柵を越えた向こうに行きたくないと強く本能が訴えたように。

 理想はこのままネヴィを説得して連れ帰ることなのだが――やはり、そう上手くはいかないようだった。私を見据える瞳に宿る力は強く、篝火の明かりしかない暗さでも彼女の感情を伝えてくる。



「というか、無理。だって、今しかないんだもの」

「今って――」

「今日は祭りだから、騎士はほとんど全員町へ警備に出てるでしょ?もちろん城の中は近衛兵とかが残ってるだろうけど、そもそも祭りは王族全員参加だしね。油断はできないけど、でも、ここをがちがちに固めることはないわ」

「いや、だから、犯罪ですし!」

「――それでも」



 それでも。決して語気が強かったわけじゃない、むしろ囁きのように柔らかな口調で彼女はそう言った。駄目だ、と思う。あれは自分の中で答えを決めていて、それを絶対に譲らないと決めている人間の目だ。説得は恐らく意味を成さないだろう。……それでも。私は心の中でネヴィの台詞を繰り返した。……それでも、私は。



「流石に騎士団に忍び込むのはまずいです。ね、今日は帰りましょう」

「…………」

「騎士団に捕まって処罰されてほしくないです。だから、私と一緒に帰ってください――――ネヴィ」

「む。そういう使い方は卑怯だと思う」

「知りませんよ!」



 ネヴィはくすぐったそうに笑う。恥ずかしそうに、どこか嬉しそうに?名前を呼んだだけでそういう反応をされると、こっちまで赤面してくるのはどうすればいいものか。今が夜で本当に良かった。動揺で声が震えそうになるのを何とかこらえて、私はただ彼女を見つめる。これ以上の言葉は重ねるだけ無駄だった。私の主張は、きっと、彼女の想いには敵わない――。ネヴィが頷かないだろうことは痛いほどにわかっているのに、私はただ願っていた。



「じゃあ、ラギも行く?」



だから、そんな斜め上の言葉が返ってきたときには自分の耳を疑った。



「嫌です! っ、ていうか今の流れでどうしてそんな話になるんですか!」

「うーん、実は一人じゃちょっと怖かったんだよね。ラギがいてくれるなら私、頑張れそうかな」

「何を頑張るんですか、むしろ怖くない方が異常ですよ。怖いなら止めましょう、ね!そもそも見つかったらただじゃすまされないし、……本当、死刑とか勘弁してください」

「大丈夫大丈夫。騎士団さえ抜けたら、後は――今の時期は、誰も近づいたりなんかしないもの」



 どこに。反射的に問いそうになって私は唇を引き結んだ。彼女の目的地、の話だろうか。騎士団そのものへ用事があったわけじゃないのかと安堵しつつ、だったらどこに用事があるのだろうと疑問が湧く。騎士団を抜けた先に何があったか?ネヴィが入ろうとしていたところから行ける場所とはどこか。城の中に入りたいのなら明らかに遠すぎる。他に、と視線を彷徨わせるが、暗闇でよく見えなかった。そもそも必要がないからか篝火の数はひどく少ない。



「ラギ、お菓子あげるから一緒に」

「行きません。割に合わなさすぎます」

「そうだよねえ。――あ、じゃあ、夜の神子について教えてあげるから一緒に行かない?」

「…………。…………え?」



 一瞬、何を言われたのかわからなかった。あまりにもさらりと放たれた“それ”。頭が理解することを拒否したかのように、思考の止まった私は目を瞬かせて呆然と立ち尽くした。ネヴィは何の含みももたない表情でにっこりと笑う。対する私は、十中八九、蒼白だったに違いないけれども。



「よ、るの――『みこ』……?」

「ラギって本当に食べ物のことしか興味ないんだから、もう。祭りの演目だってわかってなかったでしょ?」

「――――……わ、私、は、」



 怖い、と。ネヴィに対してその感情を抱いたのは初めてだった。彼女がどういうつもりでその発言をしたのか判断がつかない。あまりにも一般常識のない人間に対する同情からくるものか、それとも、何かを知って――いる、のか。優しく笑うその様子からは本当にわからなかった。私は下手な発言をして墓穴を掘りたくなくて、ただネヴィを見つめ返すことしかできない。



「そういうこと、全部教えてあげる。ラギの知りたいことぜーんぶ!」



 ――――どうすれば、いい。


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