昼と夜の『狭間』
まるで誰かに操られているかのようだったと、後になって思う。ちょっと迂回して彼らから離れ、でもすぐに家に戻るつもりだったのだ。誰にも会わないよう部屋という密室に篭って祭りが終わるのをただ待とう、と。ぽたりと冷たい雨が一粒、私の頬に落ちた。向こうの方でちらちらと瞬く光に引き寄せられていく自分を止められない。まるで蛍のような淡く、どこか儚い光。近づけば近づくほど遠のくそれに、単なる錯覚かもしれないとわかっていながら、ただふらふらとついていってしまった。何の光なのか全く疑問に思うこともなく。
いったい何がそんなに気になったのか、説明しろと言われてもできないだろう。夢見心地のまま私は歩き続けた。思考の止まった頭でも、光を追いかけて行く道のりは知らないものではないと理解できる。そう、一度通った道だ。それもついこの間、ネヴィと二人で歩いたのではなかったか――。
(……あ、れ?)
二人で帰った道を今、逆に辿っている。つまりその先にあるのは?ろくに物も考えられない頭が答えを弾き出す前に、私はそこに辿り着いてしまった。そう、まだ忘れるほど時間が経っていない。
……ここは、騎士団の詰め所だ。光はこちらへ来いと言うように奥へ、奥へと私を誘う。警備に殆どが駆り出されているのか人の気配はなく、固く閉ざされた門がひどく冷たい。門の傍を通り過ぎた光は騎士団の詰め所を囲う柵に添う形で、ゆっくりと移動していった。
本当に、――私は何をしているのだろう。こんな怪しすぎる光など放っておけばいいのに。まるで明かりに群がる虫にでもなった気分だ。……と、一定の距離を保って配置されている篝火が照らした場所に目が行った。柵越しに見えるそのだだっ広い空間は、確かつるっぱげ集団が訓練という名の殴り合いをしていたところじゃないか?これじゃ外からも丸見えだ、あんな訓練風景など見たくもないが。光についていきながらぼんやりとそう考えていると、突然、ふっと一瞬で光が掻き消えてしまった。
「……っ!」
ここで消えるか!と思わず突っ込んでから、あれだけぼやけていた頭がいつの間にかはっきりしていることに気付く。まるで呪縛から解き放たれたかのようにその違いは明らかだった。しかしよくよく考えてみれば、私、かなり危ない状態だったのでは……。まさか「あの男」が使っていた法術だなんだという意味不明な術を何者かに使われたのか?一気に不安が襲ってきて、しんと静まり返っている周囲を慌しく見回す。誰かが見ているのではないか、誰かにつけられているのではないかと怖くなったのだ。
そうやってきょろきょろしていると、……私の少し前、篝火の明かりがぎりぎり届くか届かないかのところに、何やら蠢く影を見つけてしまった。瞬間ぎくりとして、けれどその痛いまでの緊張はすぐ驚きに変わった。
(――って、ええ?!)
しげしげ観察するまでもなく、どこからどうみてもネヴィだった。今日最後に見たときと同じ髪型、同じ格好だった。間違いない。私が言葉を失っていると、彼女はその柵を今まさによじ登ろうとしているところだった。いやいや、いやいやいやいや。どうしよう、どこからどうみても不法侵入を試みているようにしか見えない。不審者丸出しだ。これは流石にやばいだろう!こんな騎士なんていう人間が普段集まるところに無断で入って見つかりでもしたら、問答無用で切り捨てられたって文句は言えまい。
――でも、と混乱しきった頭はぐるぐると考え出す。彼女は真面目だし常識も弁えている人間だ。今自分がしていることがどんなことなのか、理解できないはずはない。そして彼女にそんな真似をしなければならない理由などあるだろうか。
あ、……もしかして、祭りで出されるというお酒で酔っているのだろうか?そうかもしれない。いや、そうであってほしい。きっとそうだ!そういうことなら私は、同僚として、彼女が犯罪に手を染める前に止めてあげなければ。
「…………あ、あの!」
そんな決意と共に勇気を振り絞って掛けた声は、緊張ゆえの震えを伴いながら、訓練場に空しく響きわたって――そのまま消えた。応えは、ない。
(無視……? え、無視なの?)
まるで全然聞こえなかったと言わんばかりに反応ひとつみせず、ネヴィは柵に足をかける。今にも身を空中に躍らせようとしているかに思えた。聞こえない距離ではない。聞こえない声量でもない。そのあまりのナチュラルなスルーっぷりに、私はなんだか泣きそうになってしまう。
酔っているかどうか以前の話として、ネヴィに、……毎日会話を交わしている彼女に、こういう態度をとられたのは初めてのことだった。自分で思っていた以上に私はショックを受けていた。抱える秘密の大きさゆえ、距離をとっているのは確かに私だ。だけど、でも。
「待っ……!」
ぽつりぽつりと、頭上から雫が落ちてくる。それは勢いを増すことはないが止む気配もない。雨は雪と同じように音を吸収するという。私のこの声は、彼女には届かないのだろうか?
――駆け寄ればいいのに。
どこからか湧いた思考に私は思わず顔を顰めた。
――駆け寄って、肩を掴んで、止めればいいのに。
止める?それが出来れば苦労はしない。こうしている間にも柵に足をかけては戻し、戻してはかけるを繰り返しているネヴィを見やった。暗闇に目が慣れてきたのかその横顔を窺うことができる。
……私に、何が、できるだろう。彼女の表情には、酔いの欠片も感じ取れなかった。そんなこと、本当は最初から分かっていた、けれど。
ネヴィには何か目的がある。この柵を越えて不法侵入してまで、行かなければならないところがあるのだろう。でもそこはもう“国”の領域だ。私は、行けない。今彼女に近づけないのも、近づいて触れて振り向かせられないのもその所為だった。そこは“国”だ。私が最も忌避する「あの男」の――。
(……行け、ない)
怪しい光に導かれてここに来たことなど最早どうでもよかった。私の全身を支配しているのは紛れもない恐怖であり、今すぐ回れ右して逃げ帰らなければならない状態にある。それと同時にネヴィを、彼女をこんな所に置いていくわけにはいかないという思いもあった。
私がこの国に連れて来られてから今まで、いったい何度彼女に助けられた?彼女の差し出すお菓子が、それに宿った優しさが、何度私の命を救った?もちろんそれらが同情や憐憫から来るものだったとしてもその価値は変わらない。このまま彼女が罪を犯すのを黙って見逃すのか。……止められる立場にいるのに、一人逃げ帰るのか。見て見ぬ振りをして次の日の朝、ネヴィが捕まりましたなんて知らせをどんな顔で聞けばいい?
(ね。だからもう止めよう、って)
喉がひりつく。この静寂の中、声を張り上げるには相当な意志の力が必要だった。彼女は真っ直ぐ柵の向こうを見据えていて、私のことなど目に入らないといった様子だった。怖い。止めなければ。二つの相反する感情が私の心を支配する。しかしこんなにも私が必死になっているというのに、彼女は再び柵に手を伸ばした。
「――っ――――」
待って、(その先は)待ってよ、(その先には行きたくない)待ってってば。(その先には、何か、よくないことが――)
夕日が完全に沈んだ暗闇。この世界の人間が、何の制約も受けることなく自由に行動できる唯一の夜。人々はそれを昼と夜の『狭間』と呼んでいる。
「――――――ネヴィ!」
ああ。己が口から放った単語に、私は胸を掻き毟りたくなるような苦しさを覚えた。ああ、……やってしまった。それは、私がずっと敢えてしていなかったこと、だから。それでも私は引きとめたかった。こちら側へ戻ってきて欲しかった。そんな風に思うくらいには――私はきっと、彼女のことを。
「……初めて、」
雨が降る。私と、彼女と、恐らくは今も祭りを楽しんでいるだろうこの町の人々に。私という異物がこの世界に紛れ込んだことを知っている誰かにも、平等に。立ち尽くしたままそれ以上動けない私の前で、彼女は、強く握り締めていた柵からそっと手を放した。そしてゆっくりと――こちらへ、振り向いて、ほんの少しだけ笑ったようだった。
「初めて……名前、呼んでくれたね。ラギ」
――――あめが、ふる。私達の、間に、ずっと。
一章終了。