お祭り?いえ、私は帰ります
おぉ、と、感嘆の声が漏れた。ここまでたどり着くのにいったいどれだけの労力を要しただろう。私は万感の思いを胸に、それを壊さないようゆっくり両手で包んだ。色々おまけをつけてくれたからずしりと重い。この日、私は初めて――己の給料だけで――念願のお菓子を手に入れた。お菓子と馬鹿にしてはいけない。下手な保存食よりよっぽど美味しく、またきちんと管理しておけば長く持つ。ここまで本当に長かった。この努力は賞賛されてしかるべきだ。主に、自分自身に。
「な、泣くなよ姉ちゃん……」
「……泣いてません」
店を手伝っている私より若そうな男の子にそんな言葉を掛けられつつ、庶民向けのお菓子屋さんを後にした。
今日は朝から町全てが浮き足立っていた。そわそわしていると言えばいいのか、誰も彼も今夜に控えた“祭り”の用意に大忙しだ。それは私の働く食堂でも例外ではなく、泥作業組の私にも買出しの仕事が回ってきた。いつものネヴィからのお願いではない。
食堂の本領発揮というべきだろう、祭りで皆に振る舞われる食糧の半分はここから出るらしい。騎士団長の兄が経営しているからかどうか、とにかく忙しくて忙しくて仕方がないのだ。……まあ、その買出しの間にちょっと自分の用事を済ませたところで誰も咎めはしないからこその寄り道なのだが。
私とネヴィが騎士団に連れて行かれてから――今まで。外出を極力控えた私は、特に何の事件に巻き込まれることもなかった。国に関係するような人物を見かけることも。ネヴィもまた彼らの探す対象ではないと証明されたから、その後絡まれたりするようなことはないようだった。あまりのあっけなさに本当に大丈夫なのかと心配になるほど。
(それに、……ネヴィは)
彼らはいいだろう。当てが外れたとはいえ、目的を果たして一定の満足を得たのだから。けれどその対象だった彼女は日が経つごとにどんどんその表情をかげらせていった。仕事中もぼんやりすることが多くなり、監督の人間から怒られてばかりいる。
昨日なんて、食材のいっぱい入ったカゴをまたひっくり返してしまったくらいだ。私が一緒にいたのが幸いして、誰かに見咎められる前に片づけることができた。――私は、彼女に掛ける言葉を持たなかった。……ある種の予感はあっても。彼女が日々やつれていく様を、どうすることもなくただ見守っていた。
食堂に戻り頼まれた食材を台所に置きに行くと、珍しく店長が表に出てきており、指示をあちこちにとばしていた。通常営業の傍ら祭り用の料理を作るので、色々と手が回らないのだろう。
「さぁさ! 夜になったら思う存分騒げるんだから、アンタ達、きりきり働きなさいよ!」
ただ野菜の下拵えを延々と繰り返していればいい私と違って皆は大変だろうなあ、と他人事のように思いながら、店長の檄を飛ばす声を背に、裏庭へと戻る。ネヴィは案の定そこにはいなかった。買出しに出る前、別の仕事を言い渡されているのを何となしに聞いていたから驚きはしなかった。
そして――定時。普段なら皆帰り支度に忙しい時間帯だというのに、食堂はのんびりとした空気に包まれていた。出来上がった料理はもう祭りの会場に運ばれたらしく、ここに残っているのはもう後は遊ぶだけの暇な人間と、最後の後片付けを押し付けられてしまった不運な人間しかいない。それでも仕事が終わればもう朝まで自由だ。
自分の配置場所の掃除を終わらせた私は、台所でまだ捨てられていないゴミを集めている女性を見つけた。彼女は確か……私が騎士団長にもらったクッキーを実験よろしく食べさせた人だったか?
「あの、それ、私が捨ててきますよ」
「え? いいの?」
「私、特に誰と待ち合わせしてるわけじゃありませんから」
待ち合わせる相手がいる、と話しているのを聞いた記憶があった。だからこんなところでゆっくりしていたくはないだろう。クッキーに何もなかったからこそ罪悪感は僅かに残っていて、罪滅ぼしの為にそう声をかけた。すると彼女は、それはもう嬉しそうに笑って何度も頷き、ありがとうと手を振って食堂を出て行った。――罪悪感は消えるどころか、どこか重みを増したような気がする。複雑な気持ちを抱えながら、そのゴミ袋を両手に持って、とりあえず外へ向かうことにした。
ネヴィは会場に料理を運ぶよう言われていたから、今頃はそこに留まっているのだろうか。ゴミ捨て場の静寂がどこか落ち着く。臭いは少々いただけないが。……本当に奇妙な夜だった。じりじりと姿を消していく夕日が町を照らしていて、こんな時間になっても人の気配がそこかしこにある。日本でならむしろ当たり前の情景がこんなにも珍しく感じるなんて。よっと力を込めて、既に山積みになっているゴミの上にまた新たな袋を置いた。――瞬間、遠くから大きな音が響いて私はその方向へ振り向く。
「あ……」
散る光。そして、音。祭りにはこれが付き物か、と思ってからここが日本ではありえないことを思い出す。もう少し暗くなってからならもっと綺麗なのに、まったく気が早いことだ。もったいない。薄闇に咲く花を、私はこんな路地裏のゴミ捨て場から見守る。
(花火、……なんて)
安い。そしてしょぼい。花火といったら色とりどりでもっと大きく派手じゃないと。花火製作者に文句が言いたくなるような出来栄えだった。あちらでの花火の方が数百倍、数千倍は綺麗だ。……そう思うのに、私は断続的な光と音が消えるまでそれから目を離すことができなかった。薄汚れた場所で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
夜空を照らす火花が消え薄闇が戻ると同時に、わぁっと歓声があがる。となると――あれは祭りが始まる合図だろうか。そうだとしたらあの光の下で、これから選抜をくぐり抜けた黒目黒髪たちが踊るのだろうか。その演目を見に行きたいという気持ちは、厄介事に出くわすかもしれないという恐怖の前にあっさりと力をなくした。
随分とゆっくりしてしまったらしく誰も居なくなっていた食堂を後にしながら、この時間には珍しく大量の光――篝火、が集まる場所とは反対方向に足を進めた。今日の夜と今までの夜は、いったい何が違うのだろう。こんな夜に堂々と外を歩くのは初めてだったが、特に何かが変化しているようには感じない。人の流れに逆らう形で私は家へと戻る。すれ違う人々は皆楽しそうで、ひとり逆走する私を特に気にかけてはいないようだった。
ふと、私は行く道の先々に、例のつるっぱげ集団が一定の間隔で立っていることに気づいた。彼らは周囲を油断無く厳しい顔で見回したかと思えば、町の人に声を掛けられて笑顔を返したりしている。……ああ、そうか。警備しているのか、この町を。祭りに殆どの人間が参加するのなら彼らの家はがら空きである。また、夜が何事もなく過ごせるなら闇に紛れた犯罪のチャンスでもあるというわけだ。騎士団だって人間だ、この祭りに参加したいだろうに。お仕事ご苦労様、と適当なことを口の中で呟きながら私は先を急ぐ。いつも通りこの十字路を真っ直ぐ――
(……うぉ?!)
行かずに無理矢理九十度方向転換して、わき道に入った。早足だったのをゆるやかなスピードに戻しながら、今目に入った情景を思い出す。十字路を真っ直ぐいけば突き当たりで道が左右に別れるのだが、ちょうどそのど真ん中に、三名ほどたむろしていた男達を見つけてしまった。
一人は多分知らない男だったが、残る二人は――黒尽くめの騎士とお人好しそうな青年ではないか!騎士団なのだから警護にあたっているのだろうことはわかるが、なにも集団でいることはないだろう。騎士の二人と一緒にいるからにはきっとそいつも騎士に違いない。剣を差しているかどうかは確認できなかったが、色々どきどきしてしまって反射的に避けてしまった……。
(大丈夫。今のは距離があったし、怪しくはないはず)
変な事に巻き込まれない限りもう流石に会うことはないだろう、と落ち着いたところだったのに。まあ、むしろ何も気にしていませんよとばかりに笑顔で挨拶できれば言うことはないのだが、声が震えそうで怖い。彼らの前で変に怖がって不審を誘発するのはもっと怖い。
そもそも交友関係を広げるつもりはないんだ。あの相談所に勤めているらしい青年は、きっと私を見つければ親しげに声をかけてくれるだろうという予感はあった、その親切さゆえに。一瞬しか見えなかったが彼の隣にいた見知らぬ男を紹介されないわけがない。
――面倒だけど、迂回するか。安全第一。だって怖いし、特にあの黒い人。
道に迷わないよう、全く知らない道へは行かないことにして、私は忌々しさを胸に一歩を踏み出した。と、視界の端に何か光るものがうつった、ような気がして立ち止まる。祭り会場とはまた別の方向だ。
あれは――なんだろう?