城下町を見下ろして
甘い解毒薬のおかげか、朝のお菓子のおかげか。真昼だというのに空腹で苦しくなるということはなかった。まだ十分我慢できる程度だ。私より少し背の高いネヴィが、隣でゆっくり歩を進める。すれ違う人々――木造、石造、様々な建物が並ぶ大通り。これだけを見れば私の生まれた時代より少し前の外国、なんて思えるのに、その実態は似ているようでいて全然違う。
どこか遠くを見ているネヴィの歩幅に合わせながら、私は今まで一度もまともに見たことがない町並みを眺めてみた。道を知らないから彼女より先へは進めない。真っ直ぐ食堂へ向かっているのか、それとも寄り道しようとしているのか、……思考がそこまで追いつかなかった。あまりにも静かな時間。町の喧騒がどこか遠く、世界に私達だけしかいないような――世界から取り残されたような――とても心もとない気分になる。
「ラギ。ちょっと、あの高台に行かない?」
「……いいですよ。今日は一日、暇ですから」
ぽつり、と呟くように落とされた誘いに私は一も二もなく承諾した。家に帰っても勉強は手につかないだろう。それにこのまま一人になって、また以前のように答えの出ない思考に囚われるのも嫌だった。彼女の示した高台とは、図書館を挟んで中央公園とは間逆に位置している眺めのいい場所である。城下町が一望できる観光名所だとアニーさんが教えてくれたが、まだ一度も行ったことがない。出勤ルートには掠りもしていないからだ。
「うん。――いい風」
そうですね、と軽く頷きながら私は眼下に広がる光景を見た。この場所からは城下町をぐるりと覆う塀がはっきりと確認できる。南、東、西と三つの門があり、あの似非役人の言葉を信じるなら、そこで黒目黒髪が通るかどうか見張らせているのだろう。
城下町で、まず目に付くのは水路の多さだった。湧き水があちこちにあるのだとしても、ここまできちっと整備されているのは珍しいような気がした。……私が単にそう決め付けているだけなのかもしれないが。
町の隅に粉引き用の風車があると思えば、近くに日本の農村でよく見るような昔ながらの水車がある。夜を照らす必要がないから、外に照明のようなものは存在しない。しかし夜に外出しないということは、夜中に調子が悪くなっても医者に行かず朝まで我慢するということだろうか?そのせいで手遅れになったら諦めるのか?甚だ疑問だが私にはその答えを知る術はない。
町の一角には麦に似た植物が重く穂をたらす。ここの主食だ。そして私達が出したゴミは、回収されるとどこかで焼かれているらしい。食堂でのちょっとした会話を耳に挟んでわかったことだ。そういった廃棄物を処分する体制が確立されている――なんともちぐはぐな世界だ、と思った。文化が統一されていないような、奇妙な違和感がつきまとう。
(……異世界、だから?)
それで片付けてしまっていいのかどうか。決定的な違いはあっても、ある程度の常識は通用するのでどこか油断してしまう。油断したところにまた別の違いを見せ付けられて、私はまた……。やめよう。余裕があるからといって無駄にカロリーを消費したくはない。ループしかけた思考を遮り、再び城下町を見下ろした。
食堂で働いているとこの町は随分広いと思ったものだが――こんな高台から全体を見渡してしまえるほどには小さいのか。ゆるりと視線を巡らせ、しかし視界に灰色の城が入って私は思わず目を逸らした。未だに直視する勇気は、ない。
ここは私が思っていた以上に、平和な、平穏な町だ。犯罪は昼にだけ行われるので夜は絶対的な安心感を与えてくれる。ああ、でも。こんな緑溢れる美しい国を眺めても、まったく何の感慨も愛着もわかないひとかけらの好意すら生まれない私は、人間として大切なものを失ってはいないだろうか――――?
「ラギは、さ」
掛けられた声に振り向くと、同じように城下町を見下ろしていたはずのネヴィが、私に背を向けていた。彼女は足下にあった小さな石を蹴り密やかな溜息を吐く。石は大して跳ぶこともなく地面に落ちた。周囲に響く、乾いた音。
「……死ぬのが怖い?」
「怖いですよ」
考えるよりも先に口が動いた。たとえ考えたとしても答えは同じだっただろう。私は死にたくない。死ぬのが怖い。それを認めることに、なんら躊躇いはなかった。認めてしまうことを恥ずかしいとは思わなかった。……なぜそんなことを聞くのか、という至極真っ当な問い掛けは、喉に絡まって音にならない。ネヴィはただ淡々と言葉を続ける。
「死ぬのは、嫌?」
「嫌です」
「……自分が死んだら、助かる人がいても?」
これは、いったい、何の話だ。胸が押し潰されそうな苦しさを感じながらも、なぜ私の口は答えようと動くのか。この質問をはぐらかしてしまうことはできる。冗談にしてしまうこともできるだろう。しかし彼女の声が――表情が見えない分、そこに潜む真剣さが、刺さるように届くから。
「それは、助かる人によります」
「……?」
「命を捨ててまで助けたい人なんて、正直、ここには――――」
いない、と言い切れずに私は言葉を濁した。迷う心があったからではない。ネヴィを目の前にして、彼女を切り捨てる言葉を何のてらいもなく告げることはできなかったからだ。どんなに会話を重ねようと、どんなに仕事の苦労を共にしようと、命と引き換えに彼女を助けるような自分を思い描くことはできなかった。その事実はどう繕ったところで変わりはしない。彼女に対して、繕いたいという気持ちもなかった。
「……そっか」
私の言いたいことは十分伝わったのだろう、ネヴィは軽く頷いて、再び城下町に視線を向けた。私はその横顔に向けて更なる言葉を投げかける為に口を開いた。普段の私なら決してそうはしなかっただろう。そう、騎士団に行く前の自分ならば。それは今までずっと避けていた――彼女の内側に踏み込むこと、だったというのに。
「居るんですか」
「え?」
「……命と引き換えにしてでも、助けたい人」
息を呑む、ような気配がした。ネヴィがこちらを向く前に私も視線を外し、目を合わせないよう俯く。らしくもないことを聞いてしまった。安い好奇心とかじゃない、馬鹿みたいな興味でもない、けれどどうしてか、その時の私には聞かずにはいられなかったのだ。
「うん――。ひとり、ね」
「…………」
「でも、もうすぐいなくなっちゃうかもしれないから、……意味はないかな」
彼女は笑う。私を見て、笑う。その助けたい人を想っているのだろうか、ひどく愛おしそうに。心のどこかがずきりと音を立てて軋むのを感じながら、私は心地良い風に身を任せてただ沈黙を守った。ひとりという答えが意外だったような気がするのに、どこか納得している自分もいる。面倒見が良くて優しいネヴィは人によって態度を変えることはない。そのたったひとりは、彼女にとってどんな存在なのだろう。いなくなるとは――どういう意味なのか。
私はもう一歩踏み込むことはできなかった。踏み込まないのは踏み込まれたくないから。それは今も変わらない。私は、そうなんですかと意味のない返事をしてその会話を断ち切った。これ以上はお互い言葉が続かなかっただろう、と思いながら。
「ね、ラギ。もうすぐ祭りが来るね」
気を取り直してか、今までの会話がなかったかのような朗らかさでネヴィが声を上げる。話題が切り替わったことに安心する反面、どこか妙な表現だと、頭の隅で思った。含まれたニュアンスに知らず眉を顰めるが、幸いにも彼女はそんな私に気付かなかった。
「たくさん食べ物を持ち寄って、そう、お酒もいっぱい飲んで。踊り子が舞を披露して、皆で朝まで大騒ぎして」
その祭りには殆どの町の人間が参加するらしく、いわゆる無礼講の飲めや歌えやの大宴会――だそうだ。半年に一回、唯一その日だけが何も気にせず外に出られるとあって、本当に嬉しいのだろう。その感覚を私が味わうことはないだろうが。
「神様に許された、大切な時間――」
彼女は笑う。私を見て、笑う。ひどく愛おしそうに、あるいは、……懐かしそうに?
「終わらなければいいって、……私は、思うの」
その言葉になんと応えたか、どうしても思い出すことができない。




