やっぱりタダより高いものはない
どんなずっこけかたをしたのか、四方八方にきらきら光る破片が飛び散っていた。大きな破片や零れたお茶の片付けは二人に任せ、私は近くに立てかけてあった箒で細かい欠片を集める。ああもったいないもったいない。ガラスや陶器は鏡と同じで高価なものだというのに。自分が壊したわけでもないのに気分が落ち込んだ。……なんとなく、私の発言のせいだと思ってしまいそうなタイミングだったから。
(かといって食い下がるのは……)
藪をつついて蛇を出す――よりは、何もしない方がいい。ここはひとつ馬鹿なふりをして流してしまおうか。いつの間にか紙袋を持ってきてくれていた黒尽くめの騎士の外見に似合わない親切さに驚きつつ、頭の隅でこれからのことを考える。どうすれば一番自然に、普通に振舞えるのか。自分を客観的に見るというのは本当に難しい。
「あああ、本当にごめん! あと手伝ってくれてありがとう。すぐ新しいのを淹れてくるから!」
「それじゃあ私手伝いますよ。これでもお茶淹れるの上手なんです。ね、ラギ? ちょっと行ってくるね!」
「え、ああ、……行ってらっしゃい?」
用済みになった箒を元の場所に戻しながら、畳み掛けるよう矢継ぎ早に掛けられた言葉に返事をする。それを受けて、にっこりと同じ種類の笑顔を浮かべた二人が仲良く小走りに去っていく姿を何となしに見守って――はた、と自分の置かれた状況に思い至った。私以外誰も居なくなった廊下、部屋の入り口には戻ってこいとばかりに無言のまま目で語る黒い人。その奥にはラスボスよろしく騎士団長が待ち構えているではないか。……え、もしかして引き離された?
(こんなあっさり? いやいや、でもネヴィは今明らかに自主的に行ったわけだし――)
用があるのはネヴィだけのはずだ。そう、だから別に、私が緊張する必要はない。彼女はお茶を淹れるだけですぐに戻ってくるのだから。たとえどれだけこの部屋が不気味な沈黙で満たされていようと。私が入った瞬間に閉められた扉の音が、どれだけ重く響いても。ネヴィひとり、純朴な青年ひとりいなくなるだけでなぜこうも息苦しくなるのか。私は次第に己の鼓動が早くなっていくのを感じつつ、ゆっくりとソファに戻った。
「……ラギ、と呼んでも?」
「――……、どうぞ」
ご自由に。お好きなように。どう呼ばれるかに執着は全くない。だからそのおっそろしいほどの真剣な顔をやめてもらえないだろうか。悪事を働いた覚えはないというのに、追い詰められる犯人の気分を味わわされる。目を逸らしたいと思う、けれど彼の眼光がそれを許さない。私は瞬きひとつさえ憚られる静寂の中、騎士団長が語る言葉をただひたすらに待つしかなかった。
「ラギ。これから言うことを、どうか怖がらずに聞いて欲しい」
奥行きのあるこの部屋のどこかで、かちりと小さな金属音がする。
「――そして、誰にも口外しないことを約束してくれ」
私は、騎士団に来てからずっと押し込めていた感情が、胸底でゆらりと蠢くのを感じた――――。
内容による。と、私は声を大にして答えたかった。詳細を少しも話さないうちからそんな予防線を張られると無駄に構えてしまう。騎士団長の口調は誠実でいっそ優しげではあったが、肯定以外の答えを求めていないことは明白だ。では、ここで否定を返したらどうなるだろう?彼はその剣を抜いたりするのだろうか、……「あの男」のように?
(……は、馬鹿みたい)
思考の飛躍が被害妄想そのものだ。そう判断できるだけまだ救いはある。私は彼らから見えないよう、一度だけ強く拳を握った。返す答えなど最初から決まっている。
「えっと、それは構いませんけど、……何の話ですか?」
「君が奴らから受け取った――飲み物のことだ」
「何が入っていたか、は、まだ結果は出ていないんですよね?」
「すまない。可能な限り、話を広めたくなかった」
「……」
だったらネヴィを連れてくるなよ。反射的に心の中でそう突っ込みながら、半目になりそうな自分をぐっと抑えた。そしてこの騎士団長、今遠回しに私の言葉を否定しなかったか。自分で言ったくせに無責任もいいところである。
「マリア嬢――ミラルカ嬢の姉、が記念品だと言って渡された飴に、痺れ薬が仕込まれていた。彼女の症状は間違いなくそれの所為だろう。だが君の飲み物にはそういった類のものは見つからなかった」
ああやっぱり嘘だったのか――と納得しつつ、何が広めたくないだのと意味深なことを言ったのだろうと純粋に疑問が生まれる。何も見つからなかったら見つからなかったで、ネヴィを呼び寄せる材料にしたかったのだとしても、今私に告げる必要性はない。目的を果たしてから、ほとぼりが冷めてから言えばいいし、あるいは権力者らしく握りつぶせば済む話だ。――どうして?その答えはすぐに知れた。
「ラギ。落ち着いて、よく聞いてくれ。……あの液体には、遅効性の毒が入っていた」
「――――はい?」
ちこうせいのどく、とは何ぞや。表情を硬くさせた騎士団長と暫し見つめあう。この人、琥珀色の瞳なんだ、と場違いなことを思った。ちこうせいのどく。漢字変換がうまくできない。脳が言葉を認識しない……理解しようとしてくれない。私は本当にわからなくて、いや、聞き間違いだと思いたかったのかもしれない。首を傾げて彼に尋ね返した。
「すみません、もう一度言っていただけますか?」
「……っ、つまりは、君の」
「毒ですよ、毒。分かりますか? 君は彼らに殺されそうになったという話です。あるいは――今も?」
「っ!?」
全く予想もしていなかったところから響いた声に、その内容に、私は事実跳び上がって驚いた。足を机にぶつけてしまった痛みに意識が流れ、一瞬だけだが冷静さが戻る。声は私の右後方から発せられた。急いでその方向へ振り向くと、いつからそこに居たのか、見知らぬ白髪の男性が気だるそうに立っているのが視界に飛び込んできた。……もしかして若白髪だろうか、外見からして。なんて呑気に考えている場合じゃない!
「ど、毒……?」
「そう。効果が現れるまで七夜かかる、遅効性の毒です。効果が出る前に解毒薬を飲めば確実に助かりますが、ちゃんと致死量を摂取すれば案外ころりといけるいい薬なんですよ。しかし致死量に満たないと……生き地獄が待っているという。まさに『天国と地獄』、その名に相応しい毒だと思いませんか?」
「…………」
そんな物騒な内容を笑顔で語られても反応に困る。いや、それより毒ってなんだ、私が飲みかけたジュースに入っていたって、意味が全くわからない。考えようにも頭が全く働かない。突然現れた新たな男性にどん引きするだけで精一杯で言葉が出ない私に焦れるでもなく、闖入者は優雅な所作で騎士団長の隣に腰を下ろした。
「あ……の、なあ!入ってくんのが早いんだよ!」
「君がいつまで経っても話を進めないからでしょう。隣で聞いているだけで苛々しましたよ。ああルート、黙って突っ立ってるくらいなら手伝ってください」
「――――」
黙々と、渡された何か怪しい物体たちを机に広げる黒い人。口やかましく言い合う騎士団長と若白髪。彼らの間にかなり親しげな雰囲気を感じ取れた。私はまた一人取り残された気分を味わいながら、ただ呆然と事の成り行きを見守る。毒。そう言われても、その事実を現実として受け止めることができなかった。騎士団長が深刻な顔をすればするほど。突然現れた若白髪の、ふざけているとも取れる言葉も、何もかも。まるで他人事だった。
騒ぐ気にもならず彼らの作業を眺めていると、やがて緑……辛うじて緑という色が残っている、ように見える、泥水に似た液体が出来上がった。わざわざ透明なガラスの器に注がれたそれは、若白髪の胡散臭い笑顔と共に、私の前にどんと置かれる。
「君は運がいいですね、本来ならこんなことはしないんですが、仕方がありません。うちの顧客が迷惑を掛けたお詫び、ということで。……ただで差し上げますよ」
「……え?」
「まったく、黙って消えられたせいでとんだ大損害です。あの時なら菓子折りのひとつやふたつで手を打っていたものを――魚屋の言う通り南の食堂とやらに行っても姿が見えないし、……おや?なんですか、変な顔して。私の解毒薬が飲めないっていうんですか」
聞きもしないのに延々と並べ立てられる愚痴に、思い当たることがあって私は目を見開いた。知らないのは当たり前だ、顔を見なかったのだから。会話だけ聞いて、その物騒さにすたこらさっさと逃げ出したのは――あの日。じゃあ言葉の端々に棘を含ませるこの若白髪は。
まさか、謎の液体Xを作った張本人で、私に水をぶっかけた怪しい職業の男――?