どうしてこうなった。
あの美味しいジュースが大きな体躯を持つ男達に攫われ、追いかけても追いかけても捕まえられない―――そんなくだらない悪夢を見てしまった。逃した魚は何とやら。虚しさと空き腹を抱えながら起きた私は、多少のだるさを感じながらもいつも通り変わらない朝を迎えた。
いっぱい食べるんだよと暖かい笑顔でふるまわれる朝食も、食堂につく頃には消化されきってしまうのではないかと思うほどに少ない。いわゆる西洋料理のランチコースで出される前菜の三分の一の量、とでも言えばいいだろうか。できるだけよく噛んで満腹中枢を刺激するのが精一杯だった。
私は食事を終えると部屋から荷物を取って、早々に食堂へ向かった。昨日別れ際にネヴィから約束のお菓子を貰っていたので今日は特に飢えに苦しむ心配はないだろう。決して満腹感を得られはしないだろうが、いつものことだと割り切るしかない。余計な体力を使う羽目にならないよう時間に余裕を持って出勤した私は―――食堂前の曲がり角まで来て、いつかと同様ぴたりと足を止めた。目の前に広がる光景に止まらざるを得なかったからだ。
(…………なんですと?)
見覚えのありすぎる赤が視界の端にうつる。そしてその隣に黒まで加わっているのはなぜだ。意識せずとも口の端が盛大に引き攣った。唯一違和感を覚えたのは、彼……ら、の周りに誰ひとり女性がいないところか?いつもなら既に囲まれていたっておかしくないと思う。開店前だからと店長にきつく言われたのかもしれないが、それはよく分からないしどうでもいい。とにかく関わらない方がいいと頭が強く警戒音を発している。私は迷うことなく踵を返し、食堂の裏口へと向かうことにした。……私には関係ない。そう、関係なんかあるものか。
裏庭にネヴィはまだ来ておらず、私はひとり山のような野菜を抱えて定位置に腰をおろした。右手には鈍く光る包丁―――この仕事についたばかりの頃は、城で拘束されていた頃のことを思い出して刃物が怖くて仕方がなかったものだが。日本で普通に使っていた包丁でさえも、持つだけで手が震えた。
(人間、慣れれば慣れるものって?)
元に戻った、とまでは言えない。思い出せばまだ、辛い。だから騎士なんて連中とこれ以上関わりたくない。腰に携えられた剣がいつ抜かれるかと思っただけで怖くて怖くて仕方がなかった。
(……弱い、なあ)
「あの男」に刺されたわけでも切りつけられたわけでもないのに。何度も自分をそう宥めても、刻まれた恐怖は決して消えてはくれない―――。野菜を泥を落とし、へたを取って皮を剥く。その単純作業を繰り返せば少し心が落ち着くような気がした。
しかし、今日も変わらず続くと思われたその穏やかな時間は突然終わりを告げる。どたばたと慌しい足音が響いたかと思うと、食堂へ続く扉がいきなり乱暴に押し開かれたのだ。
「ラギ?……っラギ!? ちょっとあんた、なにやってんだい!」
「え、なにって、仕事ですけど」
「呑気に仕事なんかしてる場合じゃないよ! 騎士様方があんたを呼んでる。……ああ、聞いたよ、昨日大変だったんだって?」
「―――はい?」
呼んでるって、いや、でも、え?疑問符が頭を支配する。だが口答えする暇もなく包丁を奪われ、野菜も奪われ、至極真面目に働いていた私は、急かすおばさんに半ば引っ張られるような形で食堂へと連れて行かれた。その道すがら、可哀想にねえ、でも無事で良かったよとほっとしたように笑うので私は何も言えなくなってしまった。純粋な好意は単純に嬉しい。……心配、してくれることも。
まだ開店前だというのに、食堂の隅には極普通の顔をして騎士団長と黒尽くめの騎士がお茶を飲んでいた。二人の間には捕虜よろしくネヴィが座らされており、見るからに居心地が悪そうな顔をしている。ああ、そうか。ネヴィはちゃんと正面入り口から出勤したから捕まったのだろう。そうだよな。関わりたくないと思っているのは私だけであって、ネヴィには騎士団を避ける理由がない。たまに見せる反応に引っ掛かるものはあるけれども。
「ほら行っといで。大丈夫だよ、リカルド様はお優しい方だから」
「…………はあ」
じゃあもう一人はどうなんだ。そう思いつつ、おばさんにばしんと背中を叩かれてしまっては前へ行くしかない。塞ぎ込む己を自覚しながらゆっくりした足取りで彼らに近づく。と、私に気付いたのはネヴィが一番早かった。俯き気味だった顔を上げると、見事にぱぁっと顔を輝かせて笑ったのだ。心底安堵したと言いたげに。
「ラギ!おはよう、もう来ないのかと思ってた!」
「おはようございます。……私、もう仕事してたんですけど」
「え? そうなの?」
裏口から入ったので、ということを今は口にしない方がいいと思って黙っておく。まさか直接指名してくるとは思っていなかったんだ、昨日の今日で。私の話を聞いていなかったのか騎士共よ!我慢できずに胡乱気な視線を向けると、黒い方は特に反応を見せなかったが、赤い方―――騎士団長は、明らかに怯んだ様子を見せ、それを取り繕うように慌てて笑顔を浮かべた。
「い、いや、昨日の事件でやはりその、確認を取っておきたい。店長に許可を取ったから――協力してくれないか」
「……私は」
何が許可だ。とりあえず嫌味のひとつでも言ってやろうと口を開いたところに、新たな声が割り込んだ。
「あらぁ? そろそろ開店だっていうのに、まだ話纏まってないの?」
私の遙か頭上から聞こえてきた――涼やかな響き。目を閉じさえしていれば、多少の低さを考慮しても、麗しい女性を思わせる、それ。思わずぎくりとして見上げると、正確に計ってはいないが、二メートルはゆうに超える長身の――がっしりした体つきの男性と目が合った。ここまで外見と声がちぐはぐな人間にはついぞ出会ったことがないと皆が口を揃えて言う中年男性。仕事と金にはとても厳しいことで有名な、そう、彼が、我らが食堂の店長である。……特にそっち系であるという噂は聞かない。
「やーねぇリカルド。こののろま。ぐず」
「ぐっ、だ、誰がっ!」
「あと、ラギ。事件に巻き込まれたのはアンタ達のせいじゃないでしょ? 市民には騎士団の要請に協力する義務ってものがあるじゃない。アタシはそこまで鬼じゃないわよう。特別手当あげるからいってらっしゃいな」
「特別……手当、ですか?」
「今日の給料、さっぴかないでいてあげる」
「……っ」
しまった。店長の言ったことを理解して、私は内心舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。お金がないから、給料が貰えなかったら飢え死にするから行かないと言えば、じゃあ金を渡せば来るとかいう結論に至るのは当然のことだ。店長を説得すれば話は簡単、家族である騎士団長には造作もないことだっただろう。そんな単純なことを考えなかった自分が腹立たしい。思いつきのその場凌ぎは、本当にその場凌ぎにしかならない……。
私は一切の反論を封じ込められて、少し考えるふりをしながら黙り込んだ。ここで行きたくないと駄々をこねるのは私にとって得策ではないだろう。―――でも、と私は思う。
でも、やっとわかった。昨日どこから騎士たちが見ていたかは知らないが、あの頭蓋骨仮面男と私とのやりとりに限って言うなら、大した罪に問うことはできないはずだ。所詮彼は私達を鞭で威圧しただけで傷を負わせたりはしていないし、誘拐がどうとかの話も私にはほとんど関係ない。だって、結局何も起こらなかったのだから。たとえジュースに何が仕込まれていようと、私はそれを飲まなかったのだから。
(それをなに、わざわざ金にがめつい店長を説得してまで話を聞こうって?怪しすぎるわ。たぶん目的はそれじゃない)
―――私は、ただの口実なのだろう。
(何のために? ……まさか、ネヴィ、とか?)
当事者である私だけでなくネヴィも、という話なら―――それは疑いようもないことだった。
給料を下げないという約束を取り付けられてしまえば、事前に“理由”を提示してしまった私にはどうすることもできなかった。騎士団の場所的に城には入らないだろうという希望に縋って大人しく承諾した。それを受けて、外で待っている、と騎士達が立ち上がるのを曖昧な笑みを浮かべて見送り、荷物を取りに裏庭へと戻る。その後ろからネヴィがとことことついてきた。
「待ってラギ! ねえ、どうしてそんなに不機嫌なの? 行くの、嫌?」
「嫌ですよ! 知ってますよね、私が散々暴言吐いたこと」
「そ……っ、うん、まあ、アレは間が悪かったわよね……」
「不敬罪とかで市中引き回しの刑とかなったらどうしようとか、色々考えてるんです!」
「ななななに怖いこと言ってるのよー!」
内容が内容なので、周囲を憚りながら二人して小声でぼそぼそと言い合う。不敬罪、確かにそういう可能性がないわけではないのだ。忘れかけていたというのに黒尽くめの騎士を見て思い出してしまって憂鬱になる。そもそも、騎士団長自らやって来る事が信じられない。あれだけたくさん部下がいるくせに、被害者――しかも未遂、のだ――と証言者を連れてくるだけの仕事をどうして自分でやる。兄の説得だけしていればいいだろうに。
だいたいネヴィは今回のことについて何も思わないのだろうか?ちらりと視線を向けても、笑い返されるだけで何も分からなかった。
「ちょっとアンタたちいつまでぐずってんの? さっさと行けっつってんでしょうがっ!」
「うぁはいっ!」
「今すぐ行きます、すみません!」
食堂の方から聞こえてきた店長のその言葉には、明らかに、「行かなかったらクビにするわよ?」の意味が込められていたと思う……。