夜を拒む世界
夕日が傾き、橙色の光が食堂に差し込む頃。
食堂というものは本来ならこれからが稼ぎ時―――と思うかもしれないが、私達は閉店の準備に大忙しだった。食堂だけではない、この街に存在する全ての商店が営業を辞め、ひっそり家に閉じこもるのだ。国王が亡くなったこととは関係なく。それが常識的な習慣であるように。
どうして、と尋ねることが憚られるほど皆当然のように帰るので、私は今でもその理由を知らない。わき上がる疑問には目を瞑って黙って従った。目立つことはしたくないのだ、それによって、疑われることも。
もちろん、この三ヶ月……城から逃げてからは二ヶ月と約二週間、何もしなかったわけではない。この世界のことを知ろうと思ったし、『みこ』、が何なのか、何のために呼ばれたのか、どうやったら帰れるのか、とにかく情報を集めようとした。
市民に完全開放されているという図書館にも行った。
結果。
分かりきったことだったが、普通に字が読めなかった。
あちこちに立てられた看板などを見る限りそうだろうな、と頭の隅では思っていたが、言葉が通じることで僅かな希望を持ってもいたのだ。まあ、人の話を聞く限り識字率はあまり良くないため、私のような存在でも浮くことはない。
ネヴィでも読めないらしく、失礼にも安心してしまった。注目を集めることはないと。
とにかくだ。字が読めないことでもの凄く、自分でも驚くほどにがっくり来た私は仕事に没頭するようになる。情報を集めるにしろ何にしろ、字を覚えるにしろ、まず先立つものが必要だ。そして己の余裕も。だから私は給料を切り詰めての貯金から始めることにした。
昼と夜。
この国は、もしくはこの世界は、か。事実、極端に夜が長いように感じる。
逆に言えば太陽の出ている時間が短い。と、思う。人々は夜が訪れるとじっと屋内に閉じこもり決して出てはこないのだ。驚いたことに、そのまま直ぐ眠ってしまうという。
時計を持っていないため正確ではないが、一日を私の世界のように二十四時間とすると、彼らは少なくとも十二時間以上眠り続け、九時間活動し、残り三時間を家の中で過ごす。そんな生活をしているらしい。
十二時間眠ること自体は難しくないかもしれないが、それを毎日続けるのは流石に無理がある。それを日常としているこの人たちと私とは、違う、と思った。
疲れているときはまだしも毎日十二時間以上も眠れるはずもなく。私は適当に眠る時間をずらし、決して部屋から出ないようにしている。一度部屋から出て外の空気を吸おうとしたら、眠りが浅かった管理人のおばさんを起こしてしまい、凄い剣幕で部屋に引き戻された。
眠れないのね、辛いでしょう、でも外は駄目よ。
と穏やかに、けれど拒否できない強さを秘めた声で窘められて。
いや、毎日十何時間も寝る方が健康に悪いと思いますけど。なんて言葉は、喉の奥に引っ込んだ。
そういうこともあって、今は絵本を片手に文字を覚えようと奮闘することにしている。
本当に全く進まないが。
(――――変な世界)
奇妙な人々。それは異世界だからか、おかしいと思う私の方が異常なのだろうか。
彼らは……何というか、……夜を、恐れているように見えた。暗闇に怯えて蹲る子供のように。
例えばいつかの早朝、全裸の男が路地裏で寝ていたそうだが、「夜、外に出るからだ…」と店の人が真剣な顔で言い合っているのを耳にしたことがある。それはただの酔っ払いか変態なんじゃなかろうか?激しく突っ込みたい衝動が湧いてきたがぐっと堪えた。
短い昼、長い夜。少し時間の長さが違うだけで私には全く異常を感じない、何の変哲もない世界に思えるのに。城下町とは思えないほど、夜は静かだ。まるで世界にひとり取り残されたような気分になる。
「こら、ラギ!何ぼさっとしてるんだい、早くしないと夜が来ちまうよ!」
「……っはい、すみません!」
まずい、怒られてしまった。私は軽く頭を降って思考を止めると、箒とちりとりを手早く片付ける。うかつに注意されてしまうと減給に繋がる場合があるので気を抜いてはいけない。私はこれ以上注目を浴びないようにと、近くにひとつだけ残っていたゴミの袋を抱えて店の外へ逃げ出した。
ゴミの回収制度がある、という点は元の世界と似ていて、しかしどうやってゴミを処理しているのか物凄く気になるところではある。字さえ読めれば幾らでも調べられるのに。そう内心溜息が漏れた。無邪気なふりをして人に訊ねるには少々歳を取りすぎている、ような気がする。もしかしたら常識で知っておくべきことかもしれないし。
そんな他愛もないことをつらつら考えつつ所定の場所へと急いだ。店の表入り口から右手の、少し奥まった通路をまた右に曲がってすぐ。
その、薄暗くて用がなければ誰も近寄らない狭い空間に。
……何かが、倒れていた。
何か?いや、紛うことなきフラグである。
所々土に汚れてはいるものの、この距離からでも麗しいご尊顔が拝めた。
絹のような光沢を持つ服に、……貴族以上の人間しか身に着けないような装飾品の数々。
腰には素人でもわかる、見るからに立派な剣が刺してあって。
地面に降ろしかけたゴミ袋を、ゆっくりと音を立てないように持ち上げる。そして。
決して走らない。決して振り向かない。何度も自分に言い聞かせて、私は即座に踵を返した。
……とは、いえ。
流石に完全に見捨てるのは、日本人としてまともに育ってきた私の良心がちくりと痛む。
明日出勤してきた時に、カチコチの死体とご対面するのは尚更ごめんだ。幸いにも戻った店の炊事場にはまだ幾人かが残っていて、和やかな会話が聞こえてきた。
私は隅の方でおしゃべりしている人々を確認し―――そこに気立てのいい炊事場のリーダーであるおばさんとお人好しで誰にでも優しいネヴィがいるのを知ると、彼女達から見つけやすい場所に捨てずに持ってきたゴミ袋をそっと置いた。
どちらも仕事に対しては至極真面目で、だから、そうすれば何が起こるかを分かっていての行為だった。
「さて、そろそろ帰らなくちゃね……おや?このゴミ、まだ捨ててなかったのかい」
「誰かが忘れちゃったのかも。じゃあ私、捨ててきますね」
「頼むよ。入り口で待ってるから早くおいで、日が沈む前に帰らないと」
「……ですね」
まあ普通そうなるわな。ゴミなんてものが残っていたら私達泥作業組が減給される。私は怪しくも近くの物陰で忍びつつ無事ゴミが運ばれていく様子を見届けると、おばさんが待っているところとは別の出入り口に向かって歩き出す。
薄情?何とでも言えばいい。
私は、あの男と同じような耳飾りをつけているような人間と関わるつもりは毛頭ないのだ。
そう待たずに響いてきた可愛らしい悲鳴と共におばさんを呼ぶ同僚の声を背に、私はこそこそと家へ戻った。