事件発生、行動開始
せっかく無料で手に入れた貴重な美味しい食料だからと中身が残ったコップを恭しく川べりの岩に置いて、私は――正確に言えば私と、テントを出てからもずっと私の腰に抱きついたまま離れない少女は、公園をぐるりと囲むように流れる川のそばにしゃがみこんだ。恥ずかしいので人目につかないようテントの裏側を選んで。
濃厚な果汁の匂いは本当に食欲をそそるものだったが、自分から薫っていたのではありがたみも失せる。今ではところどころべとついてきたので早くさっぱりしたかった。ただ、川の水があまりに透明で綺麗だったので直接汚れた手を突っ込むのも何だか気が引けてしまい、持っていた適当な端切れを二枚ほど濡らして拭うことにする。汚れた布は持ち帰ってから他のものと一緒に洗おう。
「ラギ。ちょっと上向いて」
「……こうですか?」
「ん、そのままそのまま」
ネヴィは私の背後で膝立ちになり、ひどく丁寧に髪の毛を拭いてくれている。炊事場のおばさんにも思ったことだったが、その手つきが本当に優しくて、自分がまるで幼子に戻ってしまったような羞恥を覚えた。
……やっぱり迷惑を掛けてしまった。
ふと、そう、思う。肝心なときに限って空回りしてしまうのは私の欠点だった。いくら不意打ちだったからといって、他人を巻き込まないよう注意するぐらいのことはできたかもしれないのに。
「よし、と。とりあえずこんな感じでいいかな?どこかまだ気持ち悪いところとかない?」
「いいえ、特に。かなりさっぱりしました。……ありがとうございます」
「どういたしまして!」
笑う彼女の目は私への同情に満ちていて、普通はこうだよな、と内心頷く。あの怪しさ爆発の客引き男はいったい何だったのか。騒いだこちらも悪かったかもしれないが、大丈夫ですかの一言もなくあんな射殺しそうな目で見てこなくてもいいのに。頭蓋骨の穴の隙間から見えた片目が異様に血走っていたように見えて、軽くホラーだった。怖すぎるわ!
一応客商売だろうにそういうところには教育が行き届いていないようで、サーカス団もどきの印象が少し悪くなる。私は顔と腕その他をあらかた拭き終わると、気を取り直して傍で俯く少女にできるだけ優しく声を掛けた。
「ねえ。あなた、お姉ちゃん、探してるの?」
「…………」
「はぐれちゃった?」
「え? この子、ラギの妹なんじゃなかったの?!」
「違いますよ。多分迷子かなにかだと思うんですけど……」
背格好が似ていたとか、恐らくはそんなところだろう。人違いだともうとっくに分かっているだろうに必死でしがみつく少女がいじらしくなって、私は思わず口元を緩ませた。―――とはいえ、まだ見世物が始まっていない状態で家族とはぐれたことに気付かないなんて、余所見をするにもほどがあると思うのだが。しかも大して広くもない空間であれだけ大きく響いた「お姉ちゃん」コールに何の反応もないというのも……おかしな話だ。
不思議に思って首を傾げると、似たような表情を浮かべたネヴィと目が合った。……やっぱり、おかしい。お互い同じことを思ったと、何故か確信した。
ネヴィはおもむろに少女ににじり寄ると、にっこりと華やかな笑顔を浮かべながら口を開く。
「ね、ね。君、お名前は?私はネヴィ。こっちのお姉さんはラギよ」
「――――。……、……ルカ」
「ルカ?あら、可愛い名前ね。教えてくれてありがとう」
少女――ルカ、は、恥ずかしいのか数秒躊躇ったあと、それでもはっきりと自分の名前を答えてくれた。ただ離れてくれる気はないらしく、むしろ更にぎゅっと抱きつかれてしまった。だからといって無理矢理引き剥がすほど鬼ではないし邪魔でもないと思うので好きにさせておく。ふわふわの亜麻色の髪を撫でながら、少しでも彼女が安心できるように。
「君のお姉さんとは、どこではぐれたの?覚えてるかな?」
「……あの……」
「ん?」
「……いなく、なっちゃったの。ここで」
ルカは私のすっかり贅肉がなくなってしまった腹に顔を埋め、更にぎゅっと―――というよりはぎりぎりと締め上げてきた。まずい。このままの状態が続けば今日食べた昼食が口から産まれそうな予感がひしひしとする。ああもったいない、いや、汚い。そんな私の切実な葛藤を知ってか知らずか、ネヴィが笑顔を崩さぬまま次へと話を進める。
「そのときのこと、詳しく話してくれる?私達きっとルカのお姉さんを見つけてあげるから!ね?」
「……っ、お姉ちゃんたち、ありがとう!」
ぎりぎり、ぎりぎり。あの、そろそろ本当に限界なんですけどどうすればいいですか?
見つけてあげるという言葉に安心したのか、私の腰と胃周辺はようやく解放された。子供の力と侮るなかれ、皮下脂肪を順調に消化していっている今の状態ではかなりきついものがある。これで成人男性に思い切り抱き締められようものならあばらなんか簡単に折れてしまいそうだった。骨粗しょう症になっていたらもう目も当てられない。さり気なく腰まわりをさすりつつ、ルカの話に耳を傾けた。
曰く、彼女は一昨日姉とその友達と一緒に中央公園へ訪れた。目的はもちろん噂の“面白い芸”。今日の私達と同じように客寄せに誘われ中に入る。しかし、珍しい見世物を楽しんでいる最中にルカの姉の具合が悪くなってしまった。ふらふらしてまともに歩けなかったので、ここの人の申し出に甘えて奥で休ませてもらったという。
「終わっても良くならなくて、お医者さまにつれていこうって、でも、わ、わたしお薬のまなきゃいけなかったから」
涙を滲ませ、時折しゃくりあげながら彼女は語る。断片的なそれを繋ぎ合わせると、つまり、姉を医者につれていくことになったがルカは薬を飲みに家に帰らねばならず、姉の友人のひとりに任せて公園で別れてしまった。
「それで、いなくなった……?」
医者に行った形跡もなく、送っていったはずの友人もまた行方が分からないという。……どう考えても誘拐あるいはそれに準ずる事件に巻き込まれたとしか思えないのだが、そうなると、私達の手に負えるものではない。ネヴィも分かっているのか、私に向かってひとつ頷くと少女に向き直った。
「ルカ、それは誰か――あ!そう、騎士団に相談した方がいいと思うの」
「きし…だん?」
「市民を守ってくれる人達のことよ。すっごく強いんだから!必ずお姉さんを見つけてくれる。もちろん私達もできることは協力するわ。えっと、そうね、ここの人には話してみたの?」
「……ううん、まだ。……ちょっと、こわくて」
「確かに、あの格好はないですよね」
「や、やだもうラギったら。そんなこと言っちゃ悪いでしょ?」
「顔、笑ってますよ」
「……えへ」
まあ外見はアレだが喋ればまともだから聞けば答えてくれるだろう。とそこまで考えて、脳裏にあの血走った目が甦りまた悪い意味でどきどきした。憎まれているのかと錯覚するほどの視線の強さ。ジュースを零したことに怒ったのか、騒いだことに怒ったのか―――どちらにせよ、もしかしたら元凶である私は話さえ聞いてもらえないかもしれない。そうでなくてもあんなに睨まれた後では会いたくないというのが本音だった。
そういうこともあって、私はここではなく比較的良心的だろう公共の施設を頼ることにした。なんとかそっちに誘導できるよう、ネヴィに質問を投げかけて。
「どこか、こういうことを相談できるところってあるんですか?」
「そう……ね。確か、相談専門の部署が騎士団の中にあったと思うんだけど……」
相談専門。言葉の響きから町役場の方かと思ったが、騎士団の中にとはまた斬新だった。腰に剣を差したいわゆる騎士然とした青年がおじいさんおばあさんの悩み事をきく、なんて阿呆な想像をしてしまい私は慌ててそれをかき消す。人が二人も行方不明になっているこの状況で考えることではない。
「じゃあそこへ行ってみませんか?私達だけであまり無闇に動いても……」
「そう、ね。うん。分かってる。――ルカ、ちょっといい?」
「なあに?」
「とりあえず、私達にお姉さんのことを教えてくれる?」
―――外見とか、その時の服装とか。
そんなネヴィの言葉に、少女は涙を自分で拭って力強く頷いた。