甘い誘惑、見えない思惑
こつ、こつ、と何度もチョークもどきで机を叩きながらも視線はお菓子から外せなかった。お腹が空いているのは当然のこととして、この物体。
どう好意的に見ても―――怪しすぎた。ものすごく。
あれから私は一度たりともゴミ捨て場の方へ振り向かずに食堂へ戻り、荷物を持って帰途についた。いつもより少し薄暗さの増した通りは少し怖くて、家が見えてくる頃には小走りに急いでいた。なんだろう、日本ではこの程度の暗さなんか全く何ともなかったのに。余計な明かりがないからだろうか?周囲のざわめきは現実味がなく、こちらとあちら、その違いをまざまざと見せつけられる気分だった。
……あの二人。騎士団長とフラグ美形男。
むろん、あれで誤魔化しきったとは思っていない。私は女優じゃないただの一般人だ。演技力なんてたかがしれている。どうしたって不自然さは拭えないし彼らを警戒していることも丸わかりだったろう。それは仕方のないことだった。
ただ、自分達が最初に不審な態度を取ったからそういう対応をされたと、ほんの少しでもそんな風に誤解していてくれればそれで良かった。
「なんだかな……」
左手に持っていた絵本をばさりと放り出して背もたれによりかかる。と、座り心地の悪い椅子がみしりと嫌な音を立てた。フラグ美形男はまだしも、―――あの騎士団長。どうもやけに身が軽い。最近ちょこちょこあの食堂に顔を出すのは何の為だ?私があそこで働きだしてから二ヶ月強の間、ちらとも姿を見たことがなかったというのに、なぜ、今。
そしてなぜ、……ネヴィを?
黒目黒髪だからといっても、国が祭りの踊り子を募集したときに見たように、黒目黒髪は集めればたくさん存在しているのだ。それだけが原因だと言うなら、なにも地位のありそうな人間がふたりも関わってまでネヴィ個人にこだわる必要はないはず。何か他の―――助けてくれたから、というのは理由の一端になるだろうか。
フラグ美形男が本気でネヴィに惚れたからとかいうんじゃないだろうな。それなら勝手にやってくれという話ですむけれど。
私は静かに目を閉じて、訪れた仮初めの暗闇の中、今日起こったことを順々に整理していく。何度反芻してもやはりあの二人とのやりとりが頭から離れなかった。
騎士団長がネヴィのことをどうして店の人間に聞かなかったのかが本当に分からない。黒目黒髪を探していることを誰にも知られたくなかったから?もし召喚された人物を探しているとして、しかしその召喚という事実を周囲に知られぬよう隠していたいのならまだわかる。
私は城で、喚ばれてから逃げ出すまでの間ずっと、「あの男」としか接触しなかった。「あの男」が死んだ今、誰も彼も私の顔姿かたちを知らないからこそ見つけられないし認識できない。だから……そう、誰も知らないうちに見つけ出したら、誰も知らないうちに、……なんてこともあるだろう。
私は深く溜息を吐いた。考えても考えても物騒なことしか思い浮かばない。刃を突きつけて脅してきた男の身内や部下など所詮どう取り繕ったところで同類に決まっている。信じるだけ無駄なことだ。国を救うため―――なら、何をしてもいいと思う連中など。
(あーもう、もやもやする)
第一誰にも知られたくないのなら。だったら、どうして私には声をかけたのだろう。黒目黒髪は何人か。ひとり、ならばその名はなにか、などと。黒目黒髪を探している事実を隠すとすれば得策ではないはずである。判断基準が分からないが、やっと見つけた情報源かもしれない存在でも。
―――ふわり、甘い甘い匂いがする。
「…………」
私はぱちりと目を開くと、まるで吸い寄せられるようにそれに視線を向けた。美味しそうな匂い。まるで早く食べてほしいと言わんばかりの、甘い、甘い、甘い……。
思わず出る涎とは裏腹に、たらり、と冷や汗が流れた。はは、まさか。まさか、ねえ?一度生まれたある疑念は瞬く間に胸中で広がり、無視できない焦燥を連れてくる。いやまさか。そんな都合のいいことあるわけがない、と、言い切れないのは、現に私の生まれ持った色が「あの男」の手によって奪われているからだ。法術がどんなものか、どんな種類が存在していてどんな効能がありその能力がどういった範囲まで力を及ぼせるのか、私は知る由もない。
しかし人間ひとりを異世界―――つまり次元の違うところから引っ張ってくるなどというふざけた能力があるなら。人の記憶をピンポイントで術者にとって都合のいいように消すことなんて簡単じゃないか?そうだ、これは騎士団長に呪われたお菓子かもしれない。
感想を聞かせてほしい、次の機会に、なんて言われてしまったら大抵の人間は食べるだろう。私のような貧民なら尚更のことだ。まして女性に人気がある彼の言うことなら……?
――怪しい。
疑惑を向ければ向けるほど、食欲をそそる香りが強く更に甘くなったような気がした。
――――怪しすぎる。食べたいけど、食べたくない。
でも次に会ってしまった時、普通に感想を聞かれたらどうすればいい。あるいは、本当に記憶を消す効能があって、食べないでいると探られたり怪しまれたりするかもしれない。
「……もったいないからまだ食べてません、で当分誤魔化すか……」
知らない人からお菓子を貰ってはいけません。世間の常識。でも皆が当然のように知っている人からだったらどうすれば。皆が心から信頼している人だったら。とはいえ私を守る為に回避できるフラグは全力で回避するべきだと信じている。私は勢いをつけて椅子から立ち上がると、そのまま窓際に遠ざけていたお菓子に近づき、恐る恐るつまみ上げ机の引き出しの中にしまいこんだ。
とりあえず、今日食べるのはやめておこう。……色々な様子見も含めて。
ネヴィ。泥作業組にして私の同僚。
彼女はフラグ美形男に何を話して、何を話さなかったのだろう。彼女は忙しいとき以外裏に引っ込んでいる。普段店に来ても表からは見つけられないとくれば、つまり接客以外を担当しているという結論に達するのは簡単だ。騎士団長が厨房を確認しようにも、店主と兄弟だからといって部外者が調理場に足を踏み入れることを店の人間は許さなかったのかもしれない。飲食店にとって台所とは聖域だから。
もしくはネヴィが自分の職業を話していたのだとすれば、私の言葉から同じ「泥作業組」であることを見抜き、ああやって勢いよく乗りだしてきたのかもしれない。
さて、どうするべきか。彼女の数日にわたる保護の間、男の側から名乗らなかったのだとしても、彼女もまた自分の名前を教えなかったのだとしたら?タイミングを逃して、ではなく。敢えて教えたくなかったのだとしたら、……この状況をどう判断すればいい。
高そうな衣服と装飾具を身につけた見目麗しい、ただし口と態度に難ありな青年と『お菓子の人』が、黒目黒髪を―――というより、ネヴィその人を探していた、と馬鹿正直に教えてあげるべきか。恋に悩む青年とその友人らしき人にネヴィのことを知りたいと請われたと冗談混じりに揶揄うべきか。
それともただただ口を噤んで、事の成り行きを見守るべきか。
話すか、話すまいか。私は早々にどちらかを選ばなければならなかった。ネヴィが心配だからというよりも、遥かにその事実が私にどう影響するかを心配する気持ちの方が大きい。これ以上二人に関わりたくない。しかし食べていく為に仕事はやめられないし今このタイミングで止めたらそれこそ怪しい。ああ、全く。ゴミ特有の嫌な臭いが充満しているあの場所でいったい何を語ることがあったのやら。場所を選べばいいのに。もったいない上に傍迷惑だ。
暫くはゴミ捨て場に近づかないようにしようと私はそう決意する。リカルド、アーク。その名を私が口にすることがないように。
「……フラグは立てない、立てさせない。これは基本。これは絶対に守る」
私は、私の平穏を守るためならきっと手段を選ばないだろうから。己の甘さゆえに中途半端に首を突っ込んでも、きっと最後は譲れない。
机に放り投げた絵本に手を伸ばすと、チョークもどきを手に取り、再び机へと向き直った。
明日は明日の風が吹くことを祈って。
ぐるぐる。