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吾輩はダンディに憧れている

掲載日:2026/10/25

 そう、近所に住まう、あのスマートでニヒルな成犬のような男を目指しているのだ。

 彼は無駄に吠えず、走るときも走っているのか滑っているのかわからぬほど静かで、横顔にはいつも物思いの影が差している。少なくとも吾輩にはそう見える。

 あれこそ真の成犬である。

 ああなりたい。いや、ならねばならぬ。


 ところが世間とは、まことに皮肉なものである。


 吾輩がどれほど胸を張り、前足を高く上げ、視線を遠くへやっても、ご主人は目を細めてこう言うのだ。


「かわいいねえ」


 違う。

 いまのは愛らしさではない。威厳である。

 未来のダンディが放つ、静かな気品である。

 だがご主人はまるでわかっていない。

 のみならず、その言葉を聞いた近所の人々まで、「ほんと、かわいい」と続ける始末である。

 誰ひとりとして吾輩の志を正しく評価しない。


 たとえば食事の時間である。


 ご主人が「ご飯だよ」と声をかける。

 吾輩はもちろん、内心では喜ぶ。喜ばぬ犬があろうか。

 だが、そこで浮き足立ってはならぬ。

 真のダンディたるもの、皿の鳴る音に魂を揺さぶられてはならないのである。

 吾輩はできるかぎり落ち着いた足取りで、あくまで毅然と、ごく自然に食卓へ向かう。

 そのつもりなのだが、ご主人に言わせると、その「いっしょうけんめい平静を装っている感じ」がたまらなくかわいいらしい。


 解せぬ。


 散歩の支度のときもそうである。


 首輪が出てくる。

 胸が高鳴る。

 だが吾輩はそれを顔に出さず、窓の外など眺めて、いかにも「たまたま今、外気に思いを馳せておりました」という顔をつくる。

 するとご主人は笑いながら、「行きたいのを我慢してるの」と言う。

 我慢ではない。

 節度である。

 だが、その節度すら、この家では幼さの証拠に数えられてしまう。


 そうした誤解は二度や三度では済まなかった。


 そしてある日、ご主人は吾輩を連れて公園へ向かった。

 近所の犬たちと合流するのだという。


 吾輩は喜んだ。

 広い。

 とにかく広いのである。

 風は遠くから走ってきて、草の匂いは土の匂いと混ざり、空は妙に高い。

 犬という生き物の奥底にしまわれている何かが、こういう場所へ来ると急に目を覚ます。

 心が喜ぶ。

 身体が喜ぶ。

 いますぐ駆け出したくてたまらない。


 だが、待て。


 あのダンディな成犬は、こういう時ですらきっと余裕たっぷりにしているに違いない。

 広いからといって目を輝かせたりはすまい。

 風に鼻先を向けて、静かに世界を受け入れる。

 そういうものではないか。

 そう思うと、吾輩もまた、毅然としていなければならぬ気がしてきた。


 胸を張れ。

 足をばたつかせるな。

 しっぽに本音を語らせるな。


 そう己に言い聞かせていた、その時である。


「ほーら、取ってこい!」


 ご主人の声とともに、何かが飛んだ。


 次の瞬間にはもう、吾輩の身体は地を蹴っていた。

 精神に相談する暇などなかった。

 四肢は勝手に伸び、耳は風を切り、目は飛んでいく獲物らしきものだけを追っていた。

 しまった、と思ったのは走り出した後である。

 しかし、犬というもの、いったん走りに火がつくと止まれぬ。


 吾輩は見事にそれをくわえ、全速力で戻った。

 そして獲物らしきものを、ご主人の足もとへ誇らしく置いた。


「えらい!」


 ご主人は満面の笑みを浮かべ、褒美をくれた。

 好物である。


 その瞬間、吾輩は悟った。

 もう敗北は確定である。

 ダンディへの道は、たったひとつの投げられた物体と、ひとかけらの好物によって、あまりにもあっさり脇へ逸れてしまった。

 こんなはずではなかった。

 吾輩の威厳はどこへ行った。

 落ち着きはどうした。

 涼しい顔は、いまや息とともに荒く出入りしている。


 失意のうちに、ふと吾輩はあの成犬を見た。


 するとどうだ。


 あのスマートでニヒルな成犬が、しっぽをぶんぶんと振りまわし、実にはしゃいでいるではないか。

 目は輝き、足取りは弾み、顔つきなど、もはや哲学を知る者のそれではない。

 ただ純粋に楽しい犬の顔である。

 吾輩は愕然とした。


 何ということか。

 あれではダンディさの欠片もないではないか。

 いや、少なくとも、吾輩が思い描いていたダンディとはまるで違う。

 理想とは、もっとこう、静かで、影があって、何かを達観しているものではなかったのか。


 吾輩は少し落胆した。


 だが、その落胆は長く続かなかった。

 なぜなら、その成犬の姿が、どうにも無理をしているようには見えなかったからである。

 はしゃぎ方が自然なのだ。

 喜ぶべき場所で喜び、走るべき場所で走り、うれしいときには全身でうれしがっている。

 そこには照れも気取りもなかった。


 そこで吾輩は、はたと考えた。


 もしかすると、この場では、あの立ち振る舞いこそが正解なのではあるまいか。

 広い公園で、投げられたものを追いかけ、ご主人の声に応え、仲間と駆け回る。

 そんな時まで格好をつけて、本心を押し殺していては、かえって不自然ではないか。

 真に大人であるとは、いついかなる時も渋い顔をすることではなく、その場にふさわしくあれることなのかもしれぬ。


 だとすれば。


 だとすれば、今この時、吾輩がなすべきことはひとつである。


 全力で遊ぶことだ。


 吾輩は地面を蹴った。

 風は気持ちよく、草はやわらかく、ご主人の声は明るく響いた。

 もうしっぽを取り繕うのはやめた。

 嬉しいものは嬉しい。

 走りたいものは走りたい。

 それでよいのだ。

 いや、たぶん、それがよいのだ。


 遠くであの成犬がこちらを見た。

 そして一度だけ、いかにも当然という顔で吠えた。

 来い、と言われた気がした。


 吾輩は走った。

 ただ前だけを見て、風のほうへ。

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