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第21話 あわいの方舟、レモンの残香




窓の外からは、七月の容赦ない西日がいささか傾きながら差し込み、古びた床の上に白く強烈な光の帯を落としている。



時刻は15時過ぎ、

昼の営業の喧騒が引き去ったあとの、どこか気だるい熱気が2階のスタッフルームの隅に溜まっていた。


いつもならそこに流れるはずの、にぎやかな笑い声が、今日ばかりはどこか手持ち無沙汰に揺れている。


卜部うらべ 華純かずみが、冷たい麦茶のグラスを手に取り、箸を休めてふと呟いた。


「今日、結さん、体調悪くてお休みなんだって」


その言葉に、燈子がスープのカップを持ったまま顔を上げた。


エアコンの冷気に白くにじむ湯気の向こうで、彼女の瞳が小さく揺れる。



「だから、14時になっても結さんいなかったんだ」



酒井が、驚いたように身を乗り出す。



「え、じゃあ、『しましまも』休んでいるの?」



理人が、器を片付けながら、穏やかにそれを引き取った。


「そう聞いている。夜は、製菓工房に、しましまから誰かがヘルプが来てくれることになっているんだ」



燈子は、手元の器を見つめながら、小さな胸を痛めていた。


お休みを告げる窓外の空は、突き抜けるような夏の青さを讃えたまま、じっと動かない。



(結さん、大丈夫かなぁ……)



その時、少し離れた席からノアが静かに声を差し挟んだ。



「結さんが体調崩されるのは、珍しいですね」



「そうなんですよ、健康管理にはすっごく気をつけている人なのに。心配ですよね」


燈子は深く頷き、温かいスープを一口、喉に流し込んだ。



西日が落とす熱を追い払うように、華純がふわりと微笑みを浮かべ、ノアに弾んだ視線を向けた。


「ノアさん、お店の雰囲気にもだいぶ馴染まれましたね。もうホールの動きは完璧じゃないですか」



不意に振られた称賛に、ノアは少しきまり悪そうに目を細め、静かに首を振った。



「いえ……まだまだ、学ぶことばかりです」



その横顔に、理人が頼もしげな眼差しを注ぐ。


彼が言葉を重ねると、張り詰めていた空気の角が、心地よく丸くなっていくようだった。



「ノアさん。今日の夜は、バーカウンターに入っていただけますか。昨日のあの丁寧な手際なら、きっと素晴らしいおもてなしになりますよ」



「承知いたしました」



ノアは短く応じると、凛とした仕草で、静かに一礼を返した。








昼の暑さを残したまま、外の空気がわずかに色を変え始める夕暮れ時。



店の中心に据えられた、磨き上げられた重厚なバーカウンターには、西日の名残と天井の琥珀色のランプが混ざり合い、グラスの群れに柔らかな光の粒を落としている。



そこに立つノアの姿は、いつの間にか、ずっと前からそこにいたかのように、しっくりと馴染んでいた。


燈子が、トレイを片手に通りすがり、嬉しそうに声を潜める。



「ノアさん、バーカウンター、いい感じですよ!」



ノアは、ほんの少しだけ照れたように微笑み、ボトルのラベルへと視線を泳がせた。





その時、店の入り口の重い扉が、音もなく開いた。



外の熱気とは対照的な、どこかひんやりとした涼やかな気配をまとって、凛とした佇まいの人物が滑り込んでくる。



卜部 華純が、いつもの笑顔で声を張った。



「いらっしゃいませ!……あ」



フロアの奥にいた藤田が、その姿を振り返り、小さく声を漏らす。



「結さん?」





だが、その場にいた誰もが、次の瞬間には捉えどころのない違和感に息を呑んでいた。


夕暮れの柔らかな光に満ちていたはずの店の空気が、一瞬にして凍りついたかのように張り詰める。



燈子は、その横顔を凝視したまま動けずにいた。



(違う。結さんに、とてもよく似ているけれど……違う)



その人物は、透き通るような異様な白さを湛え、まるで世界から完全に隔絶されたかのような、不自然な静謐さを纏っていた。


生身の人間が持つはずの、内側から匂い立つような体温や呼吸の気配が、その肌からは一切感じられない。


それはまるで、精巧に作られた純白の彫像が、夕闇の悪戯によって命を得て歩いているかのような。


フロアの面々は、一瞬だけ、結に酷似したその存在に目を奪われていた。


だが、迫りくる夜の営業の忙しさと、グラスの触れ合う硬質な音が、彼らをすぐにつなぎ留める。


他人の空似。


ただ、それだけのことなのだと。



結に似たその人物は、周囲の動揺など意に介さず、ただ真っ直ぐにバーカウンターだけを見つめている。



華純が、その凍りついた視線を汲み取るようにして、一歩前に出た。



「カウンターのお席が宜しいですか? どうぞ、こちらへ」



案内されるまま、その客は言葉を発することなく歩を進め、静かに椅子へと腰を下ろした。


その一連の所作には、衣擦れさえ聞こえないほど、一切の生活のノイズが含まれていない。



「いらっしゃいませ」



カウンターの向こう側から、ノアが静かに、しかし深く、その異質な存在のすべてを受け止めるようにして言葉を紡いだ。


客は、何も答えない。


ただ、夕闇に沈む街頭の光を反射する窓硝子のように、どこまでも深い瞳でノアをじっと見つめている。



「何になさいますか?」



ノアは、肌を刺すような冷たい沈黙を急かすことなく、ただ湖の波紋を広げるように静かに問いかけた。



「何……?」



客の唇から漏れたのは、言葉というよりは、ただ空間そのものがその形に震えたかのような、実体のない響きだった。



「お飲み物、でございます」



ノアは、その短く削ぎ落とされた言葉のなかに、すべてを理解したような深い平穏を込めた。



「……」



二人の間に、ただ濃密な沈黙の時間だけがおりのように積もっていく。



いつもは気にも留めない壁の古時計が刻む秒針の音が、この世界で唯一の現実であるかのように、不自然なほど大きく響いていた。


フロアの端から息を潜めてその様子を窺っていた燈子は、何故だかその光景から一歩も目が離せなくなっていた。



(なんだろう……ノアさんとあのお客様のあいだだけ、時間の流れが違う。すごく、大人な感じがする……)



やがて、客は真っ直ぐにノアの瞳を見据え、その血色のない薄い唇をゆっくりと開いた。



「任せて……いいですか?」



ノアは、その射抜くような眼差しを真っ向から受け止め、深く、静かに頷いた。



「かしこまりました」



彼が迷いのない手つきでバックバーのボトルへと手を伸ばした瞬間、店内の賑やかなざわめきが、その一角にだけ吸い込まれるようにして消え去っていった。



ミキシンググラスの中で、氷が硬質で美しい音を立てて回り始める。



カララン、と静まり返った空間に響くその音は、まるで凍てつく夜の底で、ひっそりとひび割れる氷河のようだった。



ステアを重ねるノアの視線は、客を捉えることもなく、ただグラスの中で静かに混ざり合う、結晶のように透明な液体だけに注がれている。



やがて、極限まで冷やし抜かれた、脚の長い凛としたグラスへ、無色透明な液体が滑らかに注がれていった。



仕上げに、レモンの皮が鋭く絞られる。



一瞬だけ、張り詰めた空気に弾ける、瑞々しくも少し苦いオイルの香り。



それは凍りついた空間を、ほんの一瞬だけ融かすかのような鮮烈さをまとっていた。



ノアは静かにグラスを滑らせ、客の目の前へと差し出した。



「『マティーニ』でございます」



透明の海の底で、一粒の緑のオリーブが、じっと佇んでいる。



カクテルの王様。



何も語らぬ客の、その痛いほどに張り詰めた「覚悟」を受け止めるに足る、唯一の一杯。



客はしばらくの間、グラスの表面にうっすらと浮かび上がる、白い魔法のような霜の衣を、ただ黙って見つめていた。



指先がグラスに触れたその場所から、白い霜が静かに融けて、透明な雫へと還っていく。



客は、その頼りなげな細い指でそっとグラスの脚を持ち上げ、静かに口に含んだ。



ジンの鋭いアルコールと、ベルモットの複雑な香草の薫りが、喉を微かに焦がすようにして通り過ぎていく。



客は、手元のグラスを見つめたまま、小さく呟いた。



「この身体には……少し、強いですね」



「いまの貴方には、これが必要かと思いまして」



ノアの返答に、客の唇から、小さく、しかし確かなため息がこぼれた。



それは、ずっと張り詰めていた見えない糸が、ほんの少しだけ緩んだような、どこか柔らかな響きを持っていた。



彼女を覆っていた不自然な静謐さと、こちらの世界の境界線が、その一息でわずかに滲んでいく。



遠くからその横顔を見守っていた燈子は、思わず息をのんだ。



(……綺麗。まるで、古い映画のワンシーンを見ているみたい……)



客はもう一度グラスを見つめ、今度は少しだけ愛おしおしそうに、それをゆっくりとでるように口に運んだ。



「美味しい……これが、美味しいという感覚なのですね」



この不条理な世界の重力のなかで、彼女が初めて「事実」として手に入れた、未知の感覚。



どこまでも不思議で、けれど胸が締め付けられるほどに切ない客だった。



ノアと客は、それからもしばらくの間、外の世界の喧騒から完全に切り離された場所で、静かに言葉を交わし続けた。



天井から降り注ぐ琥珀色の光の中で、二人の影だけが静かに重なり合っている。



やがて、グラスが完全に空になった時、客は静かに席を立った。



「また……来ます」



一言だけ残して、彼女は再び、夕闇から夜へと移ろう街の奥へと消えていった。



扉が静かに閉まったあとも、カウンターには、かすかなレモンの残香と、そこだけぽっかりと切り取られたような冷気だけが、いつまでも名残惜しそうに漂っていた。



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