表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/22

第18話 観測者の位相と星の王子様



1、平熱の旅人と星の王子様



17時。


『茶寮酒膳 箸と匙』の店内には、開店前の張り詰めた静謐が満ちていた。


昼のなごりが静かに引き、本格的な夜が訪れる前の、ほんのわずかな空白。


それは、この場所が呼吸を始める前の、厳かな凪の時間だった。


ディナー営業を控えたミーティング――「夕礼ゆうれい」の刻。


引き締まった空気の中、店長である咲良理人さくら りひとが、いつものようにどこか平熱の、薄い体温を思わせる佇まいのまま全員を見渡して口を開いた。


「皆さん、お疲れ様です。今夜の営業に入る前に、今日から新しく私たちの輪に加わってくれる、大切な仲間を紹介します」


理人の斜め後ろから、音もなく、滑るように一歩前に踏み出した影があった。


秋月乃亜あきづき のあ


下ろしたての白いホールの制服は、まだ硬い折り目が正しく残っている。


その端正なシャツの白さに包まれた彼は、どこかひんやりとした冷涼な気配と、それとは相反する圧倒的な知性の香りをまとっていた。


「今日からホールを担当していただく、秋月乃亜さんです」


理人は穏やかな微笑みをたたえながら、流れるように、そして深い信頼を込めて彼の経歴を言葉にしていく。


「ノアさんは、現場での直接のご経験はありません。ですが、かつて飲食店の立ち上げに出資され、共同経営に関わってこられた方です。いつか自ら現場に立ち、人が生み出す『温度』をご自身の肌で感じたいと願っていらしたそうで、今回、美しいご縁があってこうして私たちの店に迎えることとなりました」



夕礼の列に並ぶスタッフたちの視線が、一斉にその「新人」へと注がれる。


乃亜は、逃げることなく全員の瞳をまっすぐに見つめ返した。


そして、微塵の淀みもない、クリスタルのように透き通った声で深く一礼する。


「秋月乃亜です。今日からお世話になります。ずっと焦がれていたこの仕事を、37歳、かつ未経験という身でありながら、経験する機会をいただき、心から感謝いたします。全力で励み、このお店にプラスのベクトルをもたらす存在になりたいと考えています」


その言葉の響きは、この上なく丁寧でありながら、どこかこの世界の重力に馴染みきっていないような、不思議な浮遊感を孕んでいた。


「いまの私は、少し特殊な位相にあります。住む場所も、生業なりわいも、つい最近まで定まっておりませんでした。それゆえ、この場所で働くということは、私にとって単なる仕事以上の意味を持っています。まずは皆さんの動線と呼吸を精緻に観測し、一刻も早く、この空間の密度に私自身の波長を調律したいと思っております」



飲食店の夕礼にはあまりにも不釣り合いな、けれど不思議な説得力を持つ言葉たちが、彼の口からごく自然に滑り落ちていく。


「――『本当に大切なものは、目に見えない』。私はそう信じています。皆さんへの敬意、そしてお客様へのおもてなしの心を核に据え、未知の領域ではありますが、自らの限界を定めずに挑戦いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」



パラパラと、そしてやがて満ちていく拍手の中、スタッフたちの胸の奥には、それぞれに異なる形の波紋が静かに広がっていった。


(この人は……なんだろう)


燈子は、身体の前でそっと手を組み、彼の横顔をじっと見つめていた。


言葉よりも早く、全員の視線を受ける彼の輪郭から、驚くほど純粋で、濁りのない「なぎ」の色をした空気が立ち上っているのが見えた。


(空気が……あまりにも、綺麗すぎる……)



その隣で、パティシエとしての矜持である白いトックを頭上に美しく戴いたゆいの眉が、ほんのわずかだけ中央に寄った。


(あ……『本当に大切なものは、目に見えない』。星の王子様の一節だ……)


結はまるで、遠いよそ星から地球の飲食店へと突如不時着した、無垢な旅人を迎えているかのような、奇妙で愛おしい錯覚に囚われていた。



一方、酒井は胸ポケットから愛用の万年筆を抜き、メモ帳にさらさらと滑らかな軌跡を描いていた。


(『空間の密度に自分の波長を合わせたい』……実にい響きだ。今月の御献立に添える詩の、美しい呼び水になるな……)




正式に店に加わった新しい存在を前に、華純かずみだけが両手をぎゅっと握りしめ、ひまわりのような瞳を輝かせている。


「ベクトル! 難しいことはよく分からないですけど、なんだかもの凄く熱いヤル気が伝わってきて最高ですっ!」



37歳、未経験。


世界の記述の向こう側――因果の果てから、この翠松町へと静かに漂着した男。


いま、あわいの日常という名の、新しい宇宙へとその第一歩を踏み出したところだった。






2. パラレル・ラインの交点


時間を十日ほど、過去へと巻き戻す。


場所は「株式会社 箸と匙のあわいで。」のオフィス。


窓から差し込む柔らかな光のなかに、微細な塵が星屑のように踊る、静謐な空間だった。


店主である理人と向かい合っていたのは、白い衣を脱ぎ捨てた外科医、海凪なぎさ(みなぎ なぎさ)。


そして彼女が、社会の綻びのような隙間から、文字通りその命ごと手繰り寄せ、救い上げてきた身元不明の男――秋月乃亜であった。


「ドクターから、お話は大体伺っています」


理人は、温かな緑茶の淹れられた湯呑みを二人の前にそっと差し出した。その眼差しは、いつものように穏やかで、どこか平熱の優しさを湛えている。


「ノアさん。……あなたの口からも、その胸の内にある事情を、少しだけ聞かせていただけますか?」


乃亜は、目の前の湯呑みをじっと見つめていた。


「……まず、記憶の一部が欠損しています」


乃亜の声は、知的で、驚くほど冷静だった。


脳というプロセッサを客観的に観察しているかのような、どこか他人めいた響き。


「自分が誰だったかは覚えている。積み上げてきた研究内容も覚えている。だが、消滅直前の出来事には、決定的な欠落があるのです」


乃亜は自分の白く乾いた掌を見つめ、記憶の底にある奇妙な景色をなぞるように言葉を紡いだ。


「私はかつて、量子物理学の実験によって、肉体を捨てて意識のすべてをデータ化し、物質の存在しない『精神世界』へと渡りました。そこは時間の概念すら意味をなさない、情報の海のような世界でした」


乃亜自身は、その精神世界で出会った一人の女性を助けるため、自らの全存在を鍵に変えて消滅した、とずっと思っていた。


だが、実際には今、こうして生きている。


「私の理論では、存在を燃やし尽くした私の生存確率は完全にゼロだった。完全に消滅したはずの私が、なぜか再び実体化し、人間の姿に戻ってこの世界の海岸へと漂着していた。……自分がなぜ生きているのか、なぜ肉体を取り戻しているのか、今の私には分からないのです」


乃亜は、自分の存在を証明する確かな質量を探るように、静かに言葉を続けた。


「それに、何かに観測されている感覚がある。時折、自分の思考が誰かに読まれているような感覚があるのです。科学的根拠はない。だが、気持ちが悪い」


自らの掌を開き、そして、ゆっくりと握りしめた。


借り物の皮膚をそっとなぞるような、痛々しいまでの違和感がそこには張り付いている。


乃亜は微かに眉を寄せ、オフィスの何もない虚空を見つめた。


「それは嫌ですね」


理人は、静かに相槌を打った。


「信じるのですか?」


「信じるというより……」


理人は少しの間、手元の湯呑みを見つめて考えた。


「あなたがそう感じるなら、そうなんでしょう」


乃亜は過去に執着する男ではなかった。


元が研究者ゆえ、起きてしまった現象を、そのまま現実として受け止めようとする乾いた気質がそこにはあった。



「この世界に、私の記録は存在しない」



「分かりました」



経営者として仕事を用意する以上、理人はその事実を淡々と受け止める。


「驚かないのですか?」


「驚いていますよ」


「……そうは見えません」


「燈子さんが初めて来た時も、もっと大変でしたから」


「燈子?」


「ええ、うちのアルバイトです」


理人は悪戯っぽく微笑み、それから少しだけ声を潜めて続けた。


「実はこの世界――あなたのような事情を抱えた人や、科学では説明できないことが、実際の出来事として、あるがままに受け入れられています。町の記憶が曖昧になったり、異能を持つ者がすぐ隣にいたりする。だから、ノアさん。あなたのような人がここに漂着したことも、まあ、そんな不思議なこともあるかもしれない、と私は思っています」


理人は超常現象を否定しない。


外見上、大げさにも扱わない。


「ただ、いまの段階では、そのことは、私とドクターだけが知っている。そういうことにしましょう」



「……分かりました」



理人は真っ直ぐに乃亜の瞳を見つめた。



「元の世界へ戻りたいですか?」



乃亜は少し考えてから、静かに首を振った。



「戻れる保証があるなら考える。だが、今は違う。私は今ここにいる」



「良かった」



「……何がです?」



「帰る場所だけを見ている人は、ここで暮らせませんから」



理人は話を聞き終え、乃亜のどこか浮遊したような横顔を静かに見つめていた。


能力者だからではない。


数多くの人々を支えてきた、支援者だからこそ分かる皮膚感覚だった。



(この人は大丈夫じゃない)


(けれど、自分でそれに気付いていない。だから今は、住む場所と仕事が必要だ)



「ノアさん、改めて。よろしくお願いします」


理人が差し出した手を、乃亜は握り返した。


なぎさがその光景を横目で見届け、小さく、満足そうに微笑む。


彼に提供されたのは、なぎさと同じ階に位置するマンションの405号室――『The Cherry Vintage Houseザ・チェリー・ヴィンテージ・ハウス』。



そして、その1階にある『箸と匙』という、新しい居場所の灯りだった。






3. 営業の始まり


時間を、再び現在へと巻き戻す。


夕礼が静かに幕を閉じ、メンバーたちがそれぞれの位置へと付き始める。


新しく加わった乃亜のトレーナーとして、理人から燈子が指名された。


みんなからの温かい歓迎の拍手が収まるのを待って、燈子は一歩、乃亜の前に歩み寄った。


「ノアさん、今日からよろしくお願いします! 私、トレーナーなんて初めてだからちょっと緊張しちゃうんですけど……一緒に頑張りましょうね」


燈子は、明るい声で、けれど少しはにかむように微笑んだ。


「あなたが燈子さんですか…」


「えっ?私をご存知なんですか?」


「店長から、あなたの面接の時のエピソードを少し…」



「あ、えへへへぇ、緊張していろいろやらかしちゃったあの面接ですかぁ…」



「いえ、店長が褒めてましたよ(嘘)。燈子さん、どうぞよろしくお願いします。あなたの動きを正確にトレースできるよう、最善を尽くします。何か不手際があれば、即座に指摘してください」


乃亜が姿勢を正し、寸分の狂いもない角度で生真面目に頭を下げる。


「ふふ、トレースだなんてそんなに硬くならなくて大丈夫ですよ。まずはメニューの名前と、テーブルの番号を覚えるところからです。……あ、でも、ノアさん」


燈子は少しだけ声を潜め、いたずらっぽく目を細めて彼を見上げた。


「さっきノアさん、夕礼で『本当に大切なものは、目に見えない』って言っていましたよね。私、あの言葉、すごく素敵だなって思いました」


乃亜は一瞬、不思議そうに瞬きをした。


「私の拙い挨拶を記憶してくれたのですか」


「はい。不思議なお客さんもたくさん来るし、目に見えない『空気』とか『居心地の良さ』をすごく大切にしている場所なんです。だから、ノアさんがそう思ってここにきてくれたなら、きっと大丈夫。メニューなんて、やっていくうちに絶対に覚えられますから!」


燈子の瞳の奥で、嘘のない純粋な光が小さく揺れていた。


「……そうですか。未知の領域ではありますが、あなたの言葉を信頼し、限界を決めずに追従します」


「はい! じゃあ、まずはあっちの棚の確認からいきましょう!」


(店長が私を褒めてたって、やった!)





店内の照明が、夜の営業にふさわしい落ち着いたトーンへと一段階落とされる。



『茶寮酒膳 箸と匙』の重い扉が、静かに開け放たれた。


新しい物語の波長を孕んだ、翠松町のあわいの時間が、ゆっくりと、しかし確かに動き始めていたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ