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第12.5話 スピード・ジャンキーの失墜


――潮騒とリズム――


 夜の帳が下りる頃、翠松町すいしょうまちにはいつも、少し錆びたような、湿った潮風が吹き込んでくる。


外灯に照らされた黒い海面は、規則正しい波のステップを刻みながら、鈍い銀色の光を放っていた。


 その港町の一角、古びた赤レンガ通りのなかに、ぽつりと浮き上がるように灯るネオンがあった。


「モダン食堂 ぼんぼん」。


どこにでもある大衆チェーンの看板だが、その扉の向こうは、外の静謐な波音をかき消すような、熱気と怒号が支配する別世界だった。


「美愛、ソース! 足元もたつくな!」


「はい、入りますっ……!」


臨月を間近に控えた社員の美愛びあんが、大きなお腹を庇いながら、油と水で滑る床を這うようにしてデミグラスソースのポーションを運ぶ。


その危うい足取りを見かねて、新人のアルバイトが「代わります」と手を伸ばしかけた。


だが、鳳凰の冷徹な一瞥が、その未熟な親切心を瞬時に凍りつかせた。


「余計なことすんな。お前が入るとスピードが落ちる。美愛、みんなと同じスピードで動け、甘えるな」


 厨房の最奥。赤くぎらつく鉄板の前に君臨する鳳凰れおんの声が、鋭い劈開音となって空間を切り裂く。


彼のフライパンさばきは、確かに一種の芸術といえた。


無駄のない軌道、躊躇のない塩の振り方。


金曜夜のピークタイムという濁流の真ん中で、鳳凰は自らを「絶対的な職人」として鋳造していた。


 彼はこの厨房の、目に見えない絶対法だった。


本部が掲げる「誰でも簡単に、均一なクオリティで働けるコックレスシステム」という優しい理念は、鳳凰という圧倒的な個人の力量の前で木端微塵に打ち砕かれていた。


彼にとって、調理の速度こそが自らの存在証明であり、他者を値踏みする唯一の秤だった。


 しかし、その「神速」の代償として皿に残されるのは、表面だけが黒く焦げつき、中心に冷たさを残したハンバーグや、ソースが飛び散り、美しさを放棄した哀れな料理の数々。


「鳳凰さん、さすが。今日も速さが次元違いっす」


 周囲を固める古参の取り巻きたちが、信者のような眼差しで囁く。


鳳凰は歪んだ全能感を湛えた笑みを浮かべ、傲慢に言い放った。


「当たり前だろ。俺たちがこの店を支えてやってんだよ。スピードについて来られない無能は、ここに立つ資格すらない」


 その排他的な空気に耐えかね、今月もまた、名前さえ覚えられないまま何人もの新人が、夜の海へ逃げ去るように静かに制服を返していった。



――歪んだ楽園の囁き――


 鳳凰と美愛は、新しい店長・夢叶かけるを「外敵」として扱い、SNSの閉ざされたグループを通じて事実を歪曲し、執拗に攻撃を繰り返していた。


そこには、夢叶への容赦ない言葉の刃が並ぶ。


『夢叶、今日もピーク時に厨房に入らなかった。店長失格でしょ』


『自分の休みは人が多い土日を避けて、楽な日ばっかり取ってる。会社に直訴しようよ』


 彼らは自分たちの居心地のいい「楽園」を守るためなら、事実をいくらでも歪曲した。


ある夜、決定的な亀裂が走る。


鳳凰たちのグループに属さない、生真面目な指導係のベテランスタッフが、勤務中にバックヤードで私用スマホを弄り続けていた鳳凰お気に入りのアルバイトを厳しく注意した。


自尊心を傷つけられたそのアルバイトは、すぐさま鍵付きのSNSへと不満を吐き出した。


『また理不尽に怒られた。マジウザい。この店、パワハラが横行してる。もう限界』


 これを発見した美愛は、好機とばかりに会社の本部ホットラインへ匿名を装って通報を入れた。


「夢叶店長! 現場で陰湿なハラスメントが行われています! 今すぐあの指導係を処分して、現場から外してください!」


 しかし、夢叶店長は彼らが侮っていたような無能ではなかった。


夢叶は静かに、防犯カメラの映像をタイムラインに沿って確認し、モナカや他のスタッフへの客観的な聞き取りをすでに終えていた。


「美愛さん、映像を見る限り、注意された側が三十分以上業務を放棄していた。これは正当な指導であり、ハラスメントには当たらない」


 夢叶が淡々と告げると、美愛の顔は屈辱で朱に染まった。


「店長は、命がけで現場を回している私たちの味方をしてくれないんですね。分かりました。こんな店、みんなで辞めてやりますから」


 翌日から、厨房は無言のストライキに包まれた。


鳳凰と美愛を中心に、「会社は何もしてくれない」という被害妄想の噂がSNSを通じて瞬く間に拡散。


彼らは一致団結して夢叶店長を兵糧攻めにし、一斉退職というカードで組織を脅そうと画策し始めた。


彼らにとって、店がどうなろうと知ったことではなかった。


自分たちのプライドさえ守れれば、それでよかったのだ。



――翠松町のステップ――


 「ぼんぼん」の過酷な厨房を離れたモナカは、海辺の公園で待島直希が説いた「透明な黒子として調和させること」の真意を反芻していた。


 それは、鳳凰の独りよがりな暴力とは対極にある、チーム全体を美しく輝かせる「調和」のダンスだった。


誰かを見下す技術ではなく、互いを高め合うステップ。


モナカは、この町に必要なのはそのようなリズムだと確信し、明日からも「ぼんぼん」で新たな調和を築こうと決意する。



――終幕のステップ――


「店長、僕たちが一斉に抜けたら、この店がどうなるか分かってますよね?」


 数週間後、シフトの締め切り日。鳳凰が勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、事務所の夢叶店長に対峙していた。


机の上には、鳳凰、美愛、そして仲間たちの、正式な手続きを踏まない乱雑な退職届が叩きつけられる。


「僕たちプロが抜けた厨房で、あのオーダー数が捌けるわけがない。今ここで土下座して謝るなら、残ってあげてもいいですよ?」


 後ろで腕を組み、冷ややかな視線を送る美愛の瞳にも、確信に満ちた愉悦が宿っていた。


これだけの人員を急に補充できるはずがない。


店長は青ざめ、泣きついてくる。


そのはずだった。


 しかし、夢叶店長は、ただ静かに眼鏡のブリッジを押し上げただけだった。


その瞳は、凪いだ海のようだった。


「……そうか。引き留めない。全員、その日付で退職を受理するよ」


「は……?」


 鳳凰の顔から、一瞬にして余裕のストラクチャーが崩れ落ちた。


「正気ですか? 誰が鉄板の前に立つと思っているんですか!」



 声を荒らげる鳳凰の、その張り詰めた気迫に、周囲の空気が壁の端から白く凍りついていく。


自分がこの場所の絶対的な背骨であり、中心であるという揺るぎない自負。


それが他人に拒絶されたことへの、信じられないという生々しい拒絶反応が、彼の呼吸を激しく乱していた。


 誰もがその熱量に気圧され、次の言葉を喉の奥で見失った、その時だった。


「違います」


 それを遮ったのは、耳を澄まさなければ聞き落としてしまいそうなほど静かで、けれど、不思議なほどよく通る声。


 全員の視線が、一斉にその一点へと集まる。


驚きに固まる一同の視線の先にぽつりと立っていたのは、モナカだった。


「店は、鳳凰さん一人では回っていません」


 モナカは、視線を逸らさなかった。


鳳凰を見つめる瞳には、静かだけれど決して折れない、確かな熱が小さな灯火のように宿っている。


「美愛さんも」


 彼女が一呼吸置き、言葉を丁寧に紡ぐたびに、この店を支える人々の顔が、その薄暗い店内に一人ずつ浮かび上がってくるようだった。


「ホールの皆さんも」


「洗い場の皆さんも」


「……毎日、辞めずに来ている新人さんも」



鳳凰の眉が、ぴくりと動いた。


何かを言い返そうと口を開く。


だが、美愛の名も、ホールスタッフの顔も、新人たちの背中も、脳裏に浮かんでは消えた。


吐き出すはずだった反論は、喉の奥で形を失っていく。



 派手なスポットライトを浴びる主役の後ろ側で。


誰にも拍手されず、


誰にも名前を呼ばれず、


それでも床を拭き、皿を洗い、店の輪郭を守り続けてきた人たち。


「みんなで、この店を回していました。……私は、そう思います」


言い切ったモナカの言葉の余韻が、重く深く室内に沈んでいく。


誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 静寂が満ちる中、その重苦しい空気を優しく切り裂くように、椅子のきしむ音が小さく響いた。


「鳳凰君。君たちは、決定的な勘違いをしている」


 夢叶の声には、感情の起伏が一切なかった。


けれどそれは冷酷というよりは、最初から結末の決まっている物語の最後のページを、淡々と、静かにめくるかのような響きを帯びていた。


 夢叶は手元のノートパソコンを回し、画面を彼らに向けた。


そこには、来月から稼働する全く新しい店舗運営計画書と、本部からの承諾印が表示されていた。


「君たちが『スピード』を免罪符にして、料理の品質を貶め、気に入らない人間をSNSやホットラインで執拗に攻撃していた証拠は、ログも含めて全て本部に提出済みだ。ハラスメント、および計画的な業務妨害としてね」


「な、何言ってるんだ……! 俺たちがいないと店は潰れる!」


「潰れないよ」夢叶の言葉は、冷徹なナイフのように彼らのプライドを切り裂いていく。



「来週から、この翠松町店には最新式高効率クッキングシステムが導入される。ボタン一つで、誰がやっても完璧な火入れと正確な時間で仕上がる自動グリルマシンだ。君の『自己流の粗い速さ』より、遥かに正確で、何より美しい」


 それは、「株式会社 箸と匙のあわいで。」が開発したマシンだった。


リストの中には、水を磨くスペシャル装置も名を連ねていた。


鳳凰の目が、行き場を失って激しく泳ぎ始めた。


「さらに」夢叶は画面を切り替えた。


「君たちがボイコットすることを見越して、近隣エリアの三店舗から、マニュアル遵守率百パーセントの優秀なヘルプスタッフの配置も完了している。君たちが辞めても、この店のQSCは下がるどころか、むしろ劇的に向上するんだよ」


 美愛が震える指先でスマートフォンを取り出し、本部の役員へ直接泣きつこうと発信ボタンを押した。


しかし、スピーカーから響いたのは、親しかったはずの役員ではなく、人事部長の氷のような声だった。


『島田美愛さん。ホットラインの虚偽通報、およびSNSを用いた執拗な従業員への嫌がらせの件、監査を終了しました。退職届は受理しますが、今後の出方によっては、会社として法的措置および損害賠償を請求する用意があります』



「え……あ、嘘、違うんです……私たちは、店のために……!」


 スマートフォンの通話が切れる無機質な音が、静まり返った事務所に空虚に響いた。


「君たちが守りたかったのは店じゃない。自分たちだけの『歪んだ楽園』だ」


 夢叶店長は立ち上がり、机の上の退職届を一枚ずつ丁寧に揃えると、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。


「誰もが等しく輝けるはずのシステムを破壊し、個人の技量でマウンティングを取り、新人を追い出す。そんな『職人気取りのスピード・ジャンキー』は、我が社には一歩たりとも必要ない。……今までご苦労様でした。最終日まで、マニュアル通りの綺麗な盛り付けで、静かに働いてください」


 鳳凰は言葉を失い、魂を抜かれたようにその場に頽れた。


美愛は顔面蒼白になり、震える手からスマートフォンが床へと滑り落ちた。


画面がかすかに揺れ、静かに暗転した。


自分たちが最強の武器だと信じていた「速さ」も、世界を繋いでいると錯覚していた「SNSの紐帯」も、組織の論理と、冷徹なまでのテクノロジーの前には、ただの哀れな独りよがりに過ぎなかったのだ。


 その様子を事務所の入り口で見届けていたモナカは、ふっと小さく息を吐いた。


胸の奥につかえていた何かが、すうっと消えていくようだった。


彼女の頭の中で、燈子が語ってくれた、待島直希の言葉が再び鮮やかに響く。


――『透明な黒子として調和させること』。


 それは、誰も傷つけず、誰も取り残さない、最も美しいダンスのステップそのものだった。


鳳凰たちの歪んだステップはここで終わり、明日からは、誰もが等しく、美しく踊れる新しい舞台が始まる。


 モナカは、窓の外で穏やかに広がる翠松町の海を見つめながら、自分の新しいステップを始めるために、静かに厨房へと歩き出す。


誰かが「大丈夫」と囁いた気がして、

 夜風が、ほんの少しだけ、優しく感じられた。



本作はフィクションです。

描写される専門的なロジックや技能は、物語を彩るための設定であり、実在の見解とは異なる場合があります。


誰かのために自分を消し、透明な『風』になろうとする人々の物語。

この翠松町のあわいに流れる穏やかな時間が、慌ただしい日常を過ごすあなたの、ささやかな休息の場所になれますように。

今夜も、至高の客席でお待ちしております。


◼️本作は「カクヨム」にも掲載しています。

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