かわいいうさぎのお名前
月曜日の放課後というのは、一週間の中で最も帰りたい放課後だと、桐島律は思っていた。 土日で一度リセットされた気力が、たった一日でまた削られる。
授業中はずっと時計を見ていた。チャイムが鳴った瞬間に帰ろうと思っていた。鞄に教科書を詰めて、立ち上がりかけたところで、奈良坂が「ちょっと聞いてくれ」と言った。
その顔が、妙に深刻だったので、律は座り直した。
先週の金曜日まで、奈良坂は浮かれていた。付き合い始めてまだ一ヶ月も経っていない彼女の話を、聞いてもいないのにしてきた。昼飯を食べながら、授業の合間に、帰り道に。律は半分聞いて、半分聞き流していた。それくらいがちょうどよかった。
でも今日は違う顔をしていた。
「彼女の名づけ方がやばいんだよ……」
奈良坂は机に突っ伏しながら話し出した。声が、くぐもっていた。
「いきなりなに?」
「最近、彼女とペットショップに行ってさ」
「良いじゃん、楽しかった?」
律は椅子を逆向きにまたがって、背もたれに顎を乗せた。ペットショップ。週末のデートとしては悪くない。動物を見ながら、もし飼ったらとか、どれが可愛いとか、そういう話をする。定番だ。どこがやばいんだ。
「楽しかったは楽しかったよ。でももし飼ったらみたいな話でやばいんだよ……」
「やばいって……そのペットの名前がってこと?」
「そう、やばいんだよ」
「どんな感じなの?」
奈良坂は少し間を置いた。言葉を選んでいるのか、思い出したくないのか。
「なんかこう……キラキラネームみたいな名前」
「キラキラネーム」
律は繰り返した。
キラキラネーム。ペットに。なるほど。
「……まぁペットになら別にいいんじゃないか」
「いや俺も最初はそう思ったよ」
奈良坂はさらに机に突っ伏し始めた。そろそろ机にめり込むんじゃないかと律は思ったが、言わなかった。
「でもペットだとしてもおかしいんだよ……」
「えぇ……いいだろ別に、そりゃ『業火旋風』とかだったら嫌だけどさ」
律は適当に言った。極端な例を出せば、大抵の名前はマシに聞こえる。そういう作戦だった。
「なんでだよ!『業火旋風』はかっこいいだろ!」
作戦は、完全に失敗した。
「なんで『業火旋風』は容認する側なんだよ!」
律は少し体を起こした。
思ったより話がずれた。でも奈良坂が「かっこいいだろ」と言うときの顔が、妙に真剣だったので、否定しにくかった。そうかもしれない、と思ってしまった自分が、少し悔しい。
「いや、ていうか実際にお前の彼女はどういう名前つけてんだよ」
奈良坂は机から顔を上げた。
そして、言った。
「『神烈風』」
律は、一瞬、止まった。
「……『神烈風』」
「そう『神烈風』」
律は窓の外を見た。夕日が、少し眩しかった。
ちょうどそのとき、窓からそよ風が入ってきた。まるで今二人で繰り返した言葉が呪文のように風を呼んだようで、律は少し鳥肌が立った。偶然にしては、出来すぎていた。
「……いいじゃん、『業火旋風』みたいで……」
「絶対嘘だろ!目逸らしてるし!」
「嘘じゃねぇよ!『業火旋風』かっこいいだろ!」
「『業火旋風』はかっこいいよ!でもペットの名前で『神烈風』はやばいだろ!」
律は少し考えた。
『神烈風』。ペットの名前。奈良坂の彼女がつけようとしている名前。
確かに、やばいかもしれなかった。でも面と向かってやばいと言うのも、なんとなく気が引けた。奈良坂は明らかに困っている。しかし律がやばいと言ったところで何も解決しない。それどころか奈良坂がもっと落ち込むだけだ。
だから律は、別の角度から攻めることにした。
「別に良いだろ……たぶんお前の彼女はファイ〇ルファン〇ジーとか好きだったんだよ。価値観を尊重してあげろよ」
「いや『神烈風』はたぶんイナ〇マイ〇ブンじゃね?」
「……問題そこなのか?」
律は呆れた。突っ込むべきところを間違えている。出典の方が気になるなら、名前のやばさについてはもう折り合いがついているということではないか。
でも奈良坂は、また机に突っ伏した。折り合いは、全くついていないらしかった。
教室が、少し静かになった。
夕方の光が、黒板の残った字を斜めに照らしていた。どこかで部活の掛け声が聞こえた。律は椅子の背もたれに、また顎を乗せた。
「……ペット、何だったの」
「うさぎ」
「うさぎに『神烈風』かぁ……」
「そう」
律は天井を見た。うさぎ。『神烈風』。その組み合わせを、頭の中で並べた。
白くてふわふわしたうさぎが、『神烈風』という名前で、ケージの中でのんびりしている。鼻をひくひくさせながら、餌を食べている。名前と、全く釣り合っていない。
「……でもなんか、強そうでいいな……」
「強くていいのかよ!」
「うさぎだけど」
「うさぎだから嫌なんだよ!」
せめて犬であってくれよぉ、と奈良坂は嘆いた。机に額を打ち付けそうな勢いで突っ伏した。律はそれを見ながら、まあそうか、とも思った。犬なら、まだわかる。大型犬なら、ぎりぎり似合うかもしれない。でもうさぎだ。ふわふわしたうさぎだ。
でもいいじゃないか、うさぎに『神烈風』。自分だと絶対にそんな名前はつけないが、人の感性はそれぞれだ。奈良坂の彼女は、ふわふわしたうさぎの中に、何かしら『神烈風』的なものを見たのだろう。それはそれで、すごいことだと律は思った。
「ていうかお前、結局どうするの」
「どうするって」
「うさぎ、飼ったとしたら『神烈風』って呼ぶの?」
奈良坂は突っ伏したまま、少し間を置いた。
窓から風が入ってきた。さっきより少し、強かった。
「……たぶん呼ぶ」
律は少し笑った。声に出してではなく、表情で。
「価値観、尊重できてるじゃん」
「うるさい」
窓の外が、少し暗くなってきた。
夕日が沈みかけていて、教室の光の色が変わった。黒板の字が、ぼんやりしていた。律は立ち上がって、椅子を元に戻した。逆向きにまたいでいたせいで、少し床を引っ掻いた音がした。
「帰るか」
「帰る」
二人は鞄を持って、教室を出た。
廊下は、まだ何人か残っていた。委員会の生徒が早足で通り過ぎた。どこかの教室から、ギターの音が聞こえた。軽音楽部だろう。月曜日でも、やる人はやる。律には、その気力がわからなかった。
階段を下りながら、奈良坂がぽつりと言った。
「でもさ」
「うん」
「『神烈風』って呼んでたら、なんか愛着わきそうじゃね」
「うさぎに?」
「うさぎに」
律は少し考えた。
名前というのは、呼んでいるうちに慣れ親しんでいくものだ。最初はどんなに変な名前でも、呼び続けているうちに、それ以外の名前が考えられなくなる。そういうものだ。だとすれば、うさぎに『神烈風』も、いつかはしっくりくる日が来るかもしれない。
「……わくかもな」
「だろ」
「『神烈風』、元気に育てろよ」
「育てねーよ!」
二人の声が、放課後の廊下に響いた。
どこかの教室で、部活の準備をしている音がした。外では風が吹いていた。
『神烈風』みたいに、とは思わなかった。ただの、夕方の風だった。




