第八章 七月二十九日~死なない蛸
赤橋がふとした拍子に暗闇の中で目を覚ますと、目を開けているにもかかわらず視界は闇に包まれ、不気味な静寂がその場を支配していた。一瞬、赤橋は自分がどこにいるのかわからなくなったが、すぐにここが廃墟水族館の中に設置したいかだの中である事を思い出した。圏外のままの携帯を確認すると時刻は七月二十九日火曜日の午前九時頃だった。
「……昨日と同じ目覚め方とは、まったく洒落になってないな」
赤橋はそう呟きながら体を起こし、数時間前、二階から帰った後の事を思い出していた。
……あの後、二階西側エリアの探索に行ったメンバーが再び南通路に戻ってきた時には、もう事件を検証するだけの気力は誰にも残っていなかった。探索についての最低限の報告……つまり、西側のエリアに誰も隠れている様子がなかった事、そしてそちら側にも外へ脱出できるようなルートは存在しなかった事……が行われた後はそのまま誰も話す事なく、無言のまま時間だけが過ぎていったのだが、どう見ても誰もが疑心暗鬼に包まれており、重苦しく息詰まる空気が南通路全体に漂っていた。
と、そんな中で不意に稲城がこう発言したのである。
「少し、いいでしょうか? このままここでジッとしていても、ほとんど意味がないと思います。昨晩は思わぬ事件で休めていないでしょうし、ここは一度全員、それぞれのいかだに戻って休むというのはどうでしょうか」
その提案に、その場にいた残る生存者たちは一瞬互いの顔を見合わせた。直後、迫水が稲城の方を見ながら言葉を発する。
「休むのは俺も賛成だ。実際、かなり疲れているからな。だが、見張りはどうする? またさっきみたいに当番制にでもするか?」
だが、もはやこの状況で誰も見張りをするだけの気力が残っていない事は明白であった。というより、それ以前にこうなっては見張りを立てても無駄だと、言葉には出さないだけで誰もがそう思っているのは確実である。少なくとも赤橋はそんな空気を感じていた。
「もう、いいんじゃないの? 現に、見張りを立てても意味なかったわけだし……」
眼の下にクマを作った真凛がそんな事を言う。
「……わかった。俺もそれでいい。正直、見張りは疲れるからとてもありがたい」
「でも、もし次に目が覚めた時にまた殺人が起こっていたら……」
「あぁ、それなら問題ない」
不安そうな美柑に、迫水が自嘲気味に笑いながらとんでもない事を言い始めた。
「もしそんな事になったら、どれだけ前の事件でアリバイがあった所で、その時点で俺らの中に犯人がいる事が確定する。何しろ、この南通路に外部から侵入する事は不可能なんだからな。それがわかるだけでも、こっちとしては万々歳だ」
「そ、そんな言い方……」
「……真面目な話、そうなるのが目に見えているから、犯人だって動けないと思うぞ。まぁ、一応対策はしておく必要があるが」
迫水はそう言って立ち上がると、ガスを警戒して閉じられたままの東通路に通じる扉の前へ向かい、どこからか取り出した針金でその取っ手をきつく何度も縛り付けた。
「一体、何を……」
「これでもう、誰もこの通路から出る事もできないし、逆に外に誰かいた所で入る事もできない。北通路の毒ガスが漏れ出してもここまで入ってくる事はない。勝手に出ようとしてもこの針金に痕跡が残るし、脚立もないから後ろの水槽から二階へ行く事も不可能だ」
そして、引きつったような笑みを浮かべながらこちらに振り返る。
「ここにいる人間は一蓮托生だ。もしこの中に犯人がいるんだったら、おかしな行動はしない事だ。自分の首を絞める結果にしかならないからな」
その言葉に、もう誰も何も言えない様子だった。そしてその後、結局そのまま一人ずつ無言かつ重い足取りで自分のいかだへと戻っていき、何とも後味が悪いまま、その場は散開となってしまったのだった。
……それが今朝の午前六時くらいの事。そして今、手元の時計は午前九時。まだあれから三時間程度しか経過していなかった。とりあえず、まだ自分が生きている事だけははっきりわかる。とはいえ、今外に出てもやるべきことは何もない。だったら、この場は体力を温存しておくのが最善の策だというのは赤橋にもよくわかっていた。
そんなわけで、再び眠ろうと赤橋は狭いテントの中で再度寝返りを打つ。が、どういうわけなのか眼が冴えてしまい、寝付く事ができなかった。そのまま少し時間が流れるが、寝ようとすればするほど、頭は逆に活性化して色々な事を考えてしまう始末である。
「……ふう。これも昨日と同じか」
赤橋はため息をつくと、仕方なく身を起こして音をたてないようにテントの入口を開けて外に出る。見張りは必要ないという事だが、自発的にやる分には問題ないだろう。自然に眠くなるまでやりたい事をやるのも一興だった。
だが、いざ外に出てみるとすでに先客がいた。
「よぉ、赤橋も眠れないのか」
迫水だった。自作ランタンの前でブルーシートの上に胡坐をかいて腰かけ、どこか疲れた表情ではあるが、少なくとも正気は保っている視線を赤橋の方へ向けていた。
「随分早いお目覚めだな。もしかして、俺を殺しにでも来たか?」
「馬鹿言うな。冗談だとしても不謹慎だぞ」
「……そうだな。悪い。さすがに俺も、ちょっと精神的に参ってるみたいだ」
そう言って自嘲気味に笑うと、迫水はポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「持ってたのか」
「あぁ、さすがに今までは自重していたがよ。いつ殺されてもおかしくないんだったら、吸える時に吸っておいた方がいいと思ってな。お前も一緒に吸うか? 確かタバコ持ってたろ」
「……生憎、俺のタバコはクルーザーで吸ったのが最後だった」
「そうかい」
そう言うと、迫水はポケットからライターを取り出して火を点けようとするが、どういうわけか点きそうもない。どうしたものかと迫水が顔をしかめていたので、赤橋はため息をつきながら自分のライターを取り出し、迫水に差し出してやった。
「悪いな」
迫水はそう言って、ありがたく赤橋のライターの火を煙草に点ける。迫水はうまそうに口から煙を吐くと、ぼんやりした様子で天井を見上げた。
「推理小説なんかだと、煙草の煙の動きで抜け穴があるのを見つける、っていうのが定番なんだろうけどな。現実はそううまくいかないか」
実際、漂う煙におかしな動きはなく、この通路が完全に閉鎖された状態にある事を改めて証明しただけだった。
「ま、ぼんやりとでは明るくなっているだけましか。この明るさだと、やっと台風の勢力も衰えたみたいだしな」
目の前の大水槽は相変わらず暗く澱んでいて一寸先も見る事はできないが、時間が時間だけに二階天井のガラス窓から差し込む光が入り込んでいるらしく、薄ぼんやりとした光が通路にも照らされるようになっている。とはいえそれもわずかであり、自作ランタンの明かりが必要な事に変わりはなかった。
「で、赤橋センセ。お前は今回の事件、どう考えているんだ?」
「その質問、昨日の見張りの時に佐伯から全く同じ事を聞かれたんだが」
「あの時とは状況が違う。あれからたった半日くらいで、三人も死んじまったんだ。何か思う事はあるだろ」
迫水の言葉に深いため息をつきながら、赤橋は自作ランタンを挟んだ反対側へ腰かける。
「悪いが何か考えがあるなら、みんながいる席で真っ先に言ってる」
「ま、そうか。そうだよな」
迫水は煙草の煙を吐きながら、さしてがっかりした風でもなく、あっさり引っ込んだ。
「こんな時に何だが、赤橋センセ、肝心の研究のインスピレーションは沸いたりしたのか?」
「研究?」
「おい、しっかりしろよ。お前、『死なない蛸』の研究をしてるんだよな」
「……あぁ、そう言えばそうだったな」
この状況で、すっかりそんな事を忘れていた。純子の遺体が見つかった時にはまだあの詩を思い出す余裕もあったのだが、それももうはるか昔の話のように感じる。
「というか、どうしていきなりそんな事を?」
「こんな状況なんだ。無事に帰った後の事を考えたって罰は当たらないだろ」
「それはそうだが……逆に、お前はどうするんだ?」
「俺か? せっかく当事者になったんだから、この事件についての記事を書く……と言いたいところだが、書く気力があるかどうか微妙だな。ま、俺が何言った所で、デスクは無理にでも書けって言うんだろうが」
迫水は自嘲気味にそんな事を言った。
「商魂たくましい話だな」
「商魂がたくましくなかったらこの業界はやってられない」
「そもそも、こういう話題自体が世間では死亡フラグというらしいが……」
「上等だよ。実際に死の危機に瀕している状況で死亡フラグを言う機会なんかそうないだろうからな。いい経験だ」
「そんな無茶苦茶な……」
と、そこで迫水は急にフッと口元を緩めた。
「ま、それはともかく……どうだ、ちょっとは気が楽になったんじゃないか?」
「……そうだな。暗い話をしているよりは何倍もマシだ」
実際、確かに少し気が楽になったのも事実だった。
「俺も記者だからな。色々やばい現場に行った事もあるが、そういう時こそこうやって気を紛らわせることが大切だと実感した。お前も素直に真似したらいい。案外、こんな馬鹿なこと言ってた方が、殺人鬼とやらも引っ込んでくれるかもしれないしな」
「……わかった。ご教授、ありがたく受け取っておく事にしよう」
そう言って、赤橋がふと何気なしに大水槽の方を見やった……その時だった。
何の前触れもなく、何か黒い影が澱んだ水槽の中をスッと横切るのを、赤橋は確かに見たのだった。
「……え?」
赤橋は思わずそんな声を上げて、フラフラと大水槽の方に近づいていた。この水槽に入っている水は、この水族館が閉館してからずっとたまったままになっている腐りきった水である。当然ながら生物が生き延びられるような環境ではなく、従って今の影も赤橋の見間違いと言ってしまえばそれまでであるはずだった。
だが、赤橋はそれでも目を皿のようにして、一メートル先も見えない水槽の中を見つめていた。さすがにこの行動は迫水も不審に思ったらしく、眉をひそめて問いかける。
「おい、どうした? 急にそんな呆けた顔をして」
「……今、水槽の中を何かが泳いでいた」
赤橋はそういうのが精一杯だった。だが、迫水の表情はますます険しくなる。
「おい、確かに俺がさっき言った冗談は不謹慎だったが、だからと言ってこんな時に同じ冗談をやり返すな!」
「冗談じゃない! 確かに何かが水槽の中に何かいたんだ!」
「いるわけがないだろ! この水槽の水は五年前からほったらかしにされて腐っている『死の水』なんだぞ! 生物なんかいるわけがないし、仮にいたとしたら、そいつは五年間も食い物なしでこんな水の中で生き延び続けた『化け物』だ! ただでさえ殺人鬼で手一杯なのに、そんなオカルトまで追加されてたまるかってんだ!」
迫水の言い分ももっともである。しかし、赤橋は自分の見たものが見間違いとはとても思えなかった。
「嘘じゃない! 今確かに、俺の目の前を……」
「勘弁してくれよ、赤橋センセ! まさかとは思うが、お前が研究していた『死なない蛸』とやらが現実に現れたとでも言うつもりなのかよ!」
その言葉に、赤橋はハッとした表情を浮かべた。朽ち果てた水族館の水槽で己の足を食べ続けながらも生き延び続け、その姿を消してなお怨念を残し続けた蛸。ここ最近の赤橋の研究テーマであり、この水族館に初めて足を踏み入れてこの大水槽を見た時に思わずその詩の一節を読み上げたほどである。
だが、直後に赤橋の口から漏れ出た言葉は、迫水にとって予想の斜め上を行くものだった。
「……蛸だ」
「は?」
「今の影だよ。言われてみれば、確かに蛸の形に似ていた気が……」
「いい加減にしろよ! それ以上は俺も怒るぞ!」
そう怒鳴りながら、迫水は立ち上がって大水槽のガラスに自身の左手を叩きつけた。
「詩の描写と現実をごっちゃにするんじゃねぇ! そんな事を言ってるから、事件の真相が……」
そう言って、さらに何かを言おうとしたまさにその時……
そんな迫水が手を叩きつけた辺りの大水槽の中を、今度はさっきよりもはっきりとした影が、またしても二人の目の前をスッと横切っていくのが見えたのだった。
「……」
「……」
認めたくない光景に、二人は何も言えずに黙り込んでいた。迫水は大水槽のガラスからゆっくりと手を放すと、そろりそろりと後ずさり、赤橋の横に並ぶ。
「嘘だろ……」
今度は迫水もはっきりその姿を見たようだった。赤橋が水槽から目を離さないまま迫水に語り掛ける。
「見たか?」
「あぁ……見た」
「何に見えた?」
「……」
「何に見えたんだ!」
赤橋にせかされるように言われて、迫水は認めたくないと言わんばかりの表情をしながらも告げる。
「……確かに、蛸みたいに見えた」
「だよな」
「どういう事だよ……本当にあの詩みたいな事がここで起こっているっていうのか?」
迫水としてはそう言う他ないようだった。二人にとってもこの事態は、完全に予想外の状況である。
「どうする?」
「どうするって……ほっとくしかないだろ。ここから出るわけにはいかない」
迫水は目の前の現実を受け入れられずにいながらも、何とか現実的な判断を維持していた。これが何でもない状況なら、純粋な学術的興味から、二階に行ってこの水槽を泳いでいる蛸の捕獲作業を行うというのも選択肢となってくる。だが、今は殺人鬼の襲撃中であり、そんな学術的興味が許されない状況である。さすがに赤橋も、この場で自重するだけの良識は併せ持っていた。
「そう、だな」
「そもそも、急に蛸が現れたのだって、犯人が俺たちを外におびき出すための罠かもしれない。ここは動かないのが正解だと思う」
「……あぁ」
赤橋はそう言うしかなかった。それからしばらく、さっきの影が再び目の前に現れないか観察し続けていたが、そこから十分経過しても二度と赤橋たちの前に影が現れる事はなかった。
「……ふぅ。俺とした事が、随分焦った」
迫水はそう言って、持っていた煙草を取り出した携帯灰皿に突っ込む。
「とにかく、影の正体は助かった後にでも存分に調べたらいい。今は変な好奇心は抱かない方が賢明だ」
「そうだな」
「にしても、ここで起こる事は何もかも心臓に悪すぎる。助かったとしても寿命が縮んでいるかもしれないな」
迫水はそうブツブツ呟いて、そのまま再びビニールシートに腰を下ろそうとする。赤橋もそれを眺めながら迫水に続こうとしたが、その瞬間、不意に何かに気付いた様子で、さっきよりも真剣な表情で短く叫んだ。
「っ! おい!」
「ど、どうした? 今度は何だよ?」
迫水が驚いた表情で赤橋を見やる。が、赤橋の表情はかなり真剣だった。
「今、何か聞こえなかったか?」
「何かって……」
「そっちの扉だ!」
赤橋が目で示したのは、ずっと封鎖されたままになっている西側の扉だった。本来ならこの先は入口の受付横に通じているはずだが、扉の前に鋼鉄のシャッターが下ろされているため、ここからの脱出は最初から選択肢にない状態だった。ただ確実なのは、この開かずの扉の先が、赤橋たちが望んでやまないこの建物からの出口に繋がっているという事だけである。
それはともかく、迫水は赤橋に言われた通り、そちらに向かって耳を澄ませる。が、何か聞こえるようには見えない。
「脅かすなよ。こんな時に冗談はよせ」
「嘘だと思うならもっと近づいて耳を澄ませてみろ」
そう小声で言い合いながら、二人は西側の扉に近づき、そこでもう一度そっと耳を澄ませてみる。すると……
「マジか……」
迫水が呻く。確かに、扉の向こうから足音と思しき音がかすかに聞こえた。それも、一つではなく複数である。
「誰かいるように聞こえるな」
「頼むから殺人鬼の襲撃だったとかいうオチだけはやめてくれよ」
と、その直後だった。その声はかすかに、しかし確実に二人の耳に届いた。
『誰かいますか! いたら返事をしてください! こちらは三重県警です!』
その言葉が聞こえた瞬間、二人は一瞬呆けた様子で顔を見合わせ、次の瞬間には反射的にこんな言葉を叫んでいた。
「救助だ!」
「畜生、やっとか!」
そして、二人そろって扉の前に駆け寄ると、その金属製の扉を叩きながら必死の叫び声を上げる。
「ここだ! ここにいる! 助けてくれ!」
それは、長かったこの廃墟水族館の恐怖の時間が、唐突に終わりを告げた事を示す合図となったのだった……。




