第七章 七月二十八日~情報収集
七月二十八日正午頃、榊原たちは定野の運転するパトカーで台風の中を何とか無事に伊勢警察署に到着し、早速問題の刑事の話を聞く事になった。
「問題の刑事の名前は海倉太一郎警部補。かつては尾鷲署刑事課の主任刑事でしたが、一年ほど前にある事件で大怪我を負ってから第一線を退いて、今は伊勢署刑事課の内勤業務を担当しています。かなりのベテランで、私も彼が前線にいた時代に何度か一緒に捜査をした事があります。すぐにでも話は聞けますが、どうしますか?」
「お願いします。少しでも話を聞いておきたい」
榊原は即答した。定野は頷き、三人を伊勢署の奥へと案内する。やがて小会議室と書かれた小部屋の前に到着し、中に入ると五十代後半と思しきベテランの風格漂う刑事が一人待っていた。
「久しぶりに会ったと思ったら、いきなり話を聞かせろとは随分ですなぁ、定野警部」
刑事……海倉はそう言ってじろりと定野を睨んだ。それに対して定野が言葉を返す。
「失礼なのはわかっています。ですが、どうしても今日中に話を聞く必要がありまして」
「事情は聞いていますよ。電話だと、あの五年前のキロネックス事件の事について聞きたいという事ですかな」
「そうです。志摩市で起こった成海洋子という女性ライター殺しにその事件の関与が疑われています」
その言葉に、海倉は難しい表情で答えた。
「成海洋子……随分懐かしい名前ですなぁ。まさか今になってその名前を再び聞く事になるとは思いませんでしたよ」
「ご協力いただけますか?」
「もちろん話せと言われれば話しますがね。その前に、そっちの面々は?」
そう言って三人を見やる海倉に対し、定野は改めてそれぞれを紹介した。
「今回の事件の捜査に協力してもらっている、探偵の榊原恵一さんとその助手の深町瑞穂さん。それに、事件関係者の一人の綿野英美里さんです」
「どうも」
代表して榊原が頭を下げる。それを聞いて、不意に海倉が目を見開いた。
「榊原……もしかして、元警視庁捜査一課の榊原警部補ですかな?」
その言葉に、榊原は訝しげに顔を上げた。
「そうですが……失礼ですが、お会いした事があったでしょうか?」
「いえ。ですが、十年以上前に三重県警本部と警視庁が合同捜査した時に、本庁から凄腕の刑事が派遣されて来てたちどころに事件を解決したという噂は聞いた事があります。まだ若いのにノンキャリアで警部補だったと聞いて印象に残っていますが、その刑事の名前が確か榊原だったはず。違いますかな?」
「……まぁ、確かにそんな事がありましたね。というより、その事件で定野警部とは知り合ったわけですが。そうですか……所轄にまで噂が流れていたんですか……」
榊原は少し苦笑気味にそう答えた。それを見て海倉は首を振りながら言葉を紡ぐ。
「まぁ、いいでしょう。それで、キロネックス事件の話でしたな。あれは私が担当した中でもかなり印象深い事件でした。ただ、最終的には事故死判定されましたが」
「その理由は何ですか?」
榊原の問いに、海倉は簡単に答える。
「理由も何も、あの事件当時、現場の魚島にいた人間が被害者一人だったからです」
そう言うと、海倉は記憶を思い出すようにして語り始めた。
「事件が起きたのは五年前……つまり、二〇〇三年の九月十二日でした。当時宮森水族館の飼育員だった鯖江和紀から、魚島の館内で館長が死んでいると通報があったんです。尾鷲の港へ向かうと、鯖江が真っ青な顔でこっちへ駆け寄って来て、自分が見た事を証言してくれました」
と、ここで英美里でさえ違和感を覚えた事を榊原が間髪入れずに突っ込んだ。
「待ってください。港と言いましたが、通報は魚島ではなく尾鷲港で行われたんですか?」
「その通りです。彼は遺体を発見した後、一度尾鷲港まで引き返してから通報しています」
「理由は?」
「簡単な話で、事件のあった魚島は携帯電話の圏外エリアだったからです」
そう言うと、海倉は事件について詳しく説明する。
「鯖江の話では、問題の宮森水族館には彼を含め四人の関係者がいたそうですが、その中で被害者でもある館長の宮森海次郎だけがあの島に住んでいて、残る三人は毎日本土から島まで船で通っていたそうなんです」
「えぇ、島には被害者だけが住んでいて、あとの三人が通いだったという話は捜査会議で聞いています」
「それなら話が早い。事件当時、鯖江は島と尾鷲港を結ぶ直通連絡船……まぁ、これは宮森博士が水族館に客を運ぶために個人で購入した船だったそうですが、とにかくその船の操舵も担当していましてね。朝一番に鯖江がまず船で尾鷲から魚島に行って島に住む宮森博士と一緒に朝の業務を行い、それが終わったらいったん尾鷲港に引き返して尾鷲港で待つ客の第一陣を拾うという形式をとっていました。残る二人は普段はこの客と一緒に島に行くのが普通で、朝の業務が多い場合だけ早朝の鯖江に同行していたそうですが、事件当日はいつも通り鯖江一人だけで島に向かったそうです」
「で、朝一番に島に到着して水族館の中に入り、そこで水槽の中でキロネックスに巻きつかれて事切れていた博士を発見した、と?」
「その通りです」
「ですが、そんな絶海の孤島で水族館をやる以上、連絡手段は必須なはず。携帯電話が圏外なら、少なくとも仕事のためにも固定電話くらいはなければおかしいと思いますが」
「そこなんです。実は、確かに宮森博士の住む水族館の館長室には仕事用の固定電話があったようなんですが、事件の二日ほど前にその固定電話が故障してしまったんだそうです」
「故障、ですか?」
何とも意味ありげな話に榊原は眉をひそめた。
「鯖江の話では、純粋な機械の故障のようですがね。電話線はちゃんとつながっているのに突然うんともすんとも言わなくなったらしく、業務に支障が出るので近いうちに新しい電話機を購入するつもりだったという事です。まぁ、事情はどうあれ、事件当日に固定電話が使えなかった事は間違いのない事実です。我々もそれはちゃんと確認しています」
「なるほど。では、もう一つ。水族館というものは生物を扱っている関係上、基本的に二十四時間誰かが館内に常駐するのが原則のはずです。にもかかわらず、いくら住んでいるとはいえ夜間に館内にいるのが宮森海次郎一人だけというのは問題ではないのですか?」
榊原のもっともな指摘にも、海倉はすぐに答えた。
「確かにその通りです。なので、一週間のうち三日間は、三人の飼育員が交代で宮森館長と一緒に水族館に宿直をする勤務形態になっていたそうです。その辺は上手くシフト管理をしていたみたいですな。ただ、それでも人手不足は否めなかったので日中の業務に何人か短期アルバイトを雇っていたようですし、事件直前には具体的な人員拡充の話も出ていたようです」
「事件当夜、島にいたのが宮森海次郎一人だけだったという事は……」
「えぇ。その日は飼育員の宿直日ではなかったようですな。なので、先程説明した通常の勤務形態になっていたようで、島にいたのも被害者一人だったというわけです」
「そうですか……」
榊原は少し考え込む。それ以上の質問がない事を確認し、定野が話の先を促した。
「話を戻しましょう。鯖江からの通報を受け、警察が現場の魚島に向かった後は?」
「あからさまに不審な死に様でしたので、直ちに現場の水族館は封鎖され、遺体回収のための方法が模索される事になりました。何しろ殺人クラゲが絡みついているわけですから、下手に手を出して二次災害が出る事だけは避けなければならなかったんです。結局、上の判断で愛知県警のテロ対策部隊に出動願う事になったわけですが」
「飼育員たちは?」
「本土の方で事情聴取をしましたな。鯖江だけは通報後に案内のためもう一度島に渡ってもらいましたが、遺体確認後は再び尾鷲に戻ってもらっています。事情聴取は三者三様の反応でしたが、当時の捜査では特に怪しい点は見当たらず、早々に解放されています」
「その中に、今回の被害者……成海洋子もいたはずですが、彼女の様子は?」
本命の問いかけに、海倉は肯定の頷きを返した。
「えぇ、よく覚えています。三人の飼育員の中で一番ショックを受けていて、取り調べに難儀したのが印象的でした。私の感触では、あの態度は本物ですなぁ。本気で宮森海次郎の死にショックを受けて、呆然自失状態になっていたという様子でした」
「ショック、ですか……」
榊原はその成海洋子の態度に疑問を覚えたらしい。
「解せませんね。いくら雇い主とはいえ、宮森海次郎と成海洋子はあくまで他人のはずです。単なる雇用者と従業員という関係で、いくら死に様が尋常ではなかったとは言えそこまでのショックを受けるというのは普通ではないように思えるのですが……」
榊原の疑問に、海倉はニヤリと笑った。
「やはり榊原さんでもそう思われますか?」
「という事は、当時の警察も同じ事を?」
「えぇ。彼女の反応はあまりにも過剰過ぎましたからな。で、ちょっと調べた所、面白い事がわかりました。飼育員のうち、宮森海次郎と成海洋子だけは単なる雇用者と従業員という関係ではなかったようなのです」
「他人ではないというと……考えられるのは恋人か、あるいは血縁関係者といったところでしょうか?」
榊原の推測に、瑞穂は少し複雑そうな顔をする。
「恋人って、さすがにそれは歳の差があり過ぎませんか?」
「言いたい事はわかるが、そういうケースがある事も事実だ。事件を調べる以上、考えないわけにもいかない」
「それはそうですけど……」
だが、これには海倉が否定した。
「盛り上がっているところ悪いですが、彼女は海次郎の恋人ではありません」
「という事は身内という事になりますが……例えば被害者の姪、とかでしょうか?」
突然そんな事を言い始めた榊原に、海倉は感心したような表情を浮かべる。
「ほう、よくわかりましたな」
「実は『宮森海次郎』という名前が少し引っかかっていました。海『次郎』という名前は普通次男につけるものですから、もしかしたら兄か姉がいるのではないかと。そして、もし兄姉がいたとすれば、その兄姉に子供がいるのではないのかとも思っただけです」
「正解ですよ。宮森海次郎には兄が一人いました。名前は宮森山太郎で、成海洋子はその宮森山太郎の一人娘です」
海倉のその発言を、定野が真剣な顔で確認する。
「それは間違いありませんか?」
「ないですなぁ。我々としても可能性を潰しておく必要がありましたからな。事故の可能性は高かったとはいえ、さすがに関係者の周囲は調べていますよ」
そう前置きして、海倉は成海洋子の経歴について語り始める。
「成海洋子の父親で海次郎の兄である宮森山太郎は茨城県庁の職員でしてね。妻……つまり成海洋子の母親の名前は成海富美子といい、本名で作家をしていました。で、結婚前の名前ですでに作家活動をしていた事から名字の変更が難しく。この時代としては珍しい事ですが結婚後も夫婦別姓を選択。娘の洋子が生まれた時に夫婦で相談した結果、いくつかの理由から母方の『成海』の名字を名乗らせる事にしたという話です」
「だから、名字が違うんですね」
「えぇ。ただ、両親の宮森山太郎と成海富美子は、一九九四年に交通事故により他界。その後、一人残された当時中学三年生の成海洋子の養父になったのが叔父の宮森海次郎で、彼の支援により、彼女は都内にある全寮制の高校に入学する事となりました。偏屈な海次郎でしたが二人の関係は悪くなかったようで、遠距離の関係でありながら成海洋子は研究一筋の叔父を尊敬し、海次郎もそんな洋子を彼なりにかわいがっていたようです。実際、彼女は海次郎と同じ海洋生物学の道に進む事を志望し、高校卒業後に東京の明正大学理学部へ進学。卒業後に叔父の経営する伊勢宮森水族館に飼育員として就職したようですな。もっとも、仕事の上では両者ともあくまで他人として振る舞い、魚島に住んでいた海次郎に対して、当時の成海洋子は尾鷲市内のアパートで独り暮らしをしていたようですが」
「なるほど……そういう関係でしたか」
つまり、この二人は叔父と姪の関係であると同時に、実際の親子同然の関係でもあったわけだ。となれば、宮森海次郎の死に成海洋子がショックを受け、事件の真相を調査しようと考えても何ら不思議はないわけである。
「あの、今更なんですけど、肝心の被害者の宮森海次郎さんって、どんな人だったんですか?」
と、ここで後ろに控えていた瑞穂がそんな質問をする。確かに、今まで名前だけは何度も出ているが、宮森海次郎という男がどのような人物だったのかについては何も知らないのである。それだけに、わかる事は聞いておく必要があった。
幸い、海倉は瑞穂の質問にも丁寧に答えてくれた。
「不審死だったので、一応経歴は調べましたがね。はぐれ者の海洋研究者……いわゆる『学会の異端児』という奴です。元々は大阪の阪南海洋大学に所属する学者で、若い頃はあちこちにフィールドワークに出かけてはいくつも奇抜な論文を発表していたらしいです。ですが、一九九三年に妻子を亡くしてから奇人ぶりに拍車がかかり、大学を辞めて魚島に個人研究所を設立。二〇〇〇年にそれを水族館に発展させ、二〇〇三年に問題のキロネックス事件が起こるまで運営していたという事らしいです」
と、榊原は何かに引っかかったようで、割り込むように質問する。
「失礼、妻子を亡くしたと言いましたが、何かあったんですか?」
「えぇ、まぁ。一九九三年当時、彼はフィールドワークの一環で北海道に長期滞在していましてね。そんな中、彼の妻子が陣中見舞いのつもりで、彼が拠点にしていた宿を訪れていたんです。日時は七月十二日の事でした」
その情報に、榊原は何か思い当たったようだった。
「もしかして、奥尻島の地震ですか?」
「その通りです。彼はあの日、海洋調査のために奥尻島の旅館に長期滞在していたのです」
海倉の言葉に他の面々も納得したかのように頷いていたが、一人、瑞穂だけが困ったように尋ねた。
「えーっと、すみません。奥尻島の地震って何ですか? 阪神大震災とかならわかるんですけど……」
「ん? あぁ、そうか……今の子はあの地震を知らないのか」
榊原は少し感慨深げな表情をした後、軽く咳払いして説明をする。
「正式名称は『北海道南西沖地震』。一九九三年七月十二日午後十時十七分に北海道南西の日本海海底で発生したマグニチュード7.8の大地震で『奥尻島地震』と呼ばれる事も多い。後に発生した阪神大震災のマグニチュードが7.3だから、規模だけ見れば阪神大震災以上の地震だったという事になるね」
「阪神大震災以上って……そんな地震が平成時代にあったんですか?」
「君がまだ二歳の頃の地震だ。覚えていないのも無理はない。だが、この地震はある点において今でも災害の歴史にその名を残していて、世界的にその名が知られている」
「ある点って何ですか?」
その問いかけに榊原は何か言おうとしたが、その前に横にいた英美里が思わずといった風にその答えを告げた。
「津波、ですね」
「……さすがは本職の社会科の先生ですね。その通りです」
榊原は英美里に頭を下げ、そのまま瑞穂への解説を譲る構えを見せた。英美里も言い出した手前、改めて興味津々といった風の瑞穂に対する説明を引き継ぐ。
「えっとね、さっき話に出ていた奥尻島っていうのは、震源地近くの北海道南西部に浮かんでいる島なの。漁業とか観光業で成り立っている島なんだけど、問題の北海道南西沖地震の時、震源地が島の本当にすぐ近くだった事もあって、地震発生からたった五分くらいで十メートルくらいの大津波が押し寄せたの。時間帯が夜だった事もあって津波を目視する事もできなくて、ほとんど何もできないまま、島の集落は津波の直撃を受けたわ」
「そんな事が……」
瑞穂が絶句する。
「結局、この津波で二百人以上の死者・行方不明者が出たの。死者数だけなら、戦後の日本の地震の中でも上位にくる被害者数ね。約六五〇〇人が亡くなった阪神大震災は別格にしても、四年前の新潟中越地震でも死者は六十人くらいだし、防災意識が高まった平成時代の地震の中では阪神大震災の次の被害者数が多かった地震という事になるのかな」
ちなみに終戦直後まで範囲を広げたとしても、二〇〇八年現在の時点で北海道南西沖地震より死者数が多いのは、一九九五年の阪神大震災、一九四八年の福井地震、一九四六年の南海地震の三つしか存在しない。そういう意味でも、本来なら教科書に掲載されていてもおかしくないレベルの地震なのは間違いないだろう。
「でも私、そんな地震があったなんて事、学校で習いませんでしたけど」
「そうね、少なくとも歴史の授業では触れる事はないと思う。歴史だとよほど社会的な影響が大きい災害じゃないと教えないから、関東大震災とか阪神大震災に触れるくらいで終わっちゃうかな。こんな言い方はあれだけど、起こった場所が場所だからあくまで『一地方で起こった地震』って扱いで、歴史の教科書に載せるほどの事件じゃないって判断されちゃってるみたいね。もちろん、本当はこんな事じゃダメで、過去にこんな悲劇があったって事をきちんと伝える必要があるんだけど……」
そこで少し英美里は言葉を濁し、やがて首を振ってこう続けた。
「こう言ったら何だけど、社会科の先生でもこの地震の事を知らない事が多いくらいよ。あえて言うなら、理科の地学の授業で津波の話に触れる時に話題に挙がる事があるくらいかな。さすがに理科の先生がこの地震の事を知らないって事はないと思うし」
「……少なくとも、こんな地震があったって事が理科の授業で話題になった事はなかったと思います」
瑞穂は正直に答える。どうやら瑞穂のいた中学校の理科教師は、授業でこの地震の話題を持ち出さなかったようである。
「怖いですね。こんな大きな地震でも、たった数年でみんなの記憶から消えちゃうなんて」
瑞穂の言葉に、英美里は何も言えなかった。津波の直撃を受けた奥尻島はその後津波対策を徹底し、今では各国の防災担当者から注目されるほどの存在となっている。だが、その津波防災の知識が全国に広まっているかといわれれば話は別である。実際、瑞穂のような若い世代にこの地震の知識が伝わっていない事を見れば、その実態は明らかであろう。もし将来、この状況で万が一にも奥尻島以外の場所で大津波が起こるような事があればどうなるか……それを考えると、英美里は薄ら寒い気分を味わうのであった。
「……どんな悲劇や残虐な出来事であっても、伝える必要がある事は後世にちゃんと伝えなければならない。『残虐だから』『悪影響があるから』『人が死ぬ描写があるから』という理由で何でもかんでも規制するようでは、大切な事や教訓にすべき事も伝わらなくなってしまい、究極的には『なかった』事になってしまう。これは荒唐無稽な話かもしれないが、そのうち我々が普段関わっている『事件』の話はおろか、歴史上の合戦や暗殺事件、果ては戦争とか原爆の話でさえ『残虐で悪影響があるから』という理由で教えなくなったり表現を規制したりする世の中が来るのかもしれない。人の『負の側面』を全く伝えず、当たり障りのないクリーンな事だけしか子どもたちに教えない社会……それは、ある意味『残虐な事件』そのものより恐ろしい事だと私は思うのだがね」
榊原の言葉を、瑞穂は真剣な表情で聞いている。英美里も何か反論しようとしたが、社会科教師として榊原の言う『荒唐無稽な話』が絶対に起こらないとも言えず、結局何も言えなかった。
「もちろん、私も別に残虐な話を積極的に教えろとまで言うつもりはない。ただ、物事には限度があり、やり過ぎは良くないという話だ。『若者や子供に悪影響がある』というような事を言う人も多いが……私は若者や子供は、その程度で簡単に悪影響を受けるほど単純な存在ではないと思うのだがね」
榊原の言葉に、その場に重い空気が漂う。が、そこで榊原は不意に表情を緩め、改めて海倉の方へ向き直った。
「失礼、話がかなり脱線してしまいましたね。海倉さん、話の続きをお願いします」
そう言われて瑞穂は慌てて海倉に頭を下げ、海倉も何事もなかったかのように改めて宮森海次郎の過去に話を戻す。
「とにかく、この奥尻島地震の際、宮森海次郎とその家族は問題の奥尻島の旅館に滞在していました、そして運命の夜、地震が起こり、津波が島を直撃した。結論から言うと、宮森海次郎はこの津波で妻子を亡くすことになってしまったんです」
「具体的な状況は?」
「宿泊した旅館が地震で崩壊し、そこからの脱出に手間取っているうちに津波が突っ込んできたらしいですね。旅館内の人間で助かったのは確認できている限りでは宮森海次郎ただ一人。妻子はそのまま沖に流されたらしく、遺体すら見つかっていないそうです」
「確かさっきの話だと、地震発生から津波が突っ込んでくるまで五分程度しかなかったんですよね?」
瑞穂が確認するように言い、海倉は頷く。
「えぇ。それだけの時間では、できる事に限りはあったでしょう。その場にいたわけではないので想像するしかありませんが、崩壊した旅館の中では、自分の身を守る事だけで精一杯だったのではないかと思います」
「とはいえ、家族を見殺しに近い形で死なせてしまったのは変わらない。その後、大学を辞めて世捨て人のようになったのも無理はないという事ですか」
定野が渋い顔でそんな事を言う。と、そこで榊原がさらに質問を重ねた。
「その亡くなったという妻子の名前はわかりますか?」
そう聞かれて、海倉は少し考え込んだ後、慎重な口調でこう答える。
「確か……妻の名前が宮森枝美。子供の名前が宮森匠と宮森千乃……」
「え、子供って二人いたんですか?」
瑞穂が思わずといった風に言葉を挟む。
「えぇ。男女の双子だったそうです。当時中学二年生だったとか」
「そんな……」
「……そしてその災厄のわずか一年後、今度は兄夫婦が帰らぬ人となり、海次郎にとって親族と言える関係者は成海洋子ただ一人となった。そしてそれは成海洋子から見ても同じだったでしょう。だからこそ、普段は他人として振る舞っていながらも、この二人の繋がりは相当強いものだったはずです」
改めて見てみると、かなり壮絶な話と言わざるを得なかった。
「最後にもう一つだけ。キロネックス事件当夜の飼育員たちのアリバイはどうなっていたんですか?」
と、榊原がそんな問いを発する。海倉は動じることなくスラスラとその問いに答えた。
「何しろ夜間ですからな。全員アリバイらしいアリバイはありませんよ。もっとも、結局事故判定されたのでそこまで問題にはなりませんでしたし、アリバイがないとはいっても全員が本土側にいたのは確実です。その場合、夜間の海をどうやって島まで渡ったのかという点が問題になります。安野秀政と成海洋子に船を操舵する技術はありませんし、鯖江にしても唯一操舵できる連絡船が事件当夜尾鷲港にずっと停泊していた事は防犯カメラなどの映像から確実です」
「そうですか」
と、ここで海倉は小さく息をつくと、どこか試すように榊原に話しかけた。
「さて、私が話せるのはこの程度です。お役に立てましたかな?」
「……えぇ。大変参考になりました。ここからは私の仕事です」
榊原はそう言って頭を下げる。英美里はそんな榊原の姿を、何とも言えない表情で見つめていたのだった……。
それから一時間後、榊原たちはまだ台風が荒れ狂う中、今度は同じく伊勢市内の夫婦岩近くの海岸沿いにある水族館・二見オーシャンパラダイスに訪れていた。奥に見える海には激しい白波が渦巻き、観光客の姿はどこにも見えない。さすがに水族館も臨時休館という事にはなっているようだが、相手にしているが生物である以上、館内に入るとこんな天気にもかかわらず、職員たちは忙しそうに働いているようだった。
定野が受付に声をかけると、すでに話は通っていたのかあっさり中に通される。そして館内を進んでいくと、突然廊下の曲がり角の向こうから、何の前触れもなく一匹の一メートルくらいのアザラシがポヨンポヨンと床をはねるようにしながらこちらに向かってくるのが見えた。
「おおっと」
定野が思わずそんな声をあげて脇にどくが、当のアザラシは気にする様子もなく、言い方はあれだがどこかナメクジのような動きで榊原たちの方へ結構なスピードで近づいて来る。そしてそこでようやくこちらに気付いたのか瑞穂の目の前で止まると、一瞬小首をかしげるような仕草を見せ、それからすぐに興味をなくしたようにゴロンと床を一回転しながら大きくあくびをした。
「か……かわいい……」
瑞穂が思わずそんな声を上げる。榊原も感心したような表情を浮かべていたが、ここでようやく先程の曲がり角からバケツを持った一人の男が姿を見せた。
「おーい、セン太! 戻ってこーい」
そう言いながらこちらにやって来ると、そこでようやくこちらに気付いたようだった。
「あ、えーっと、すみません! 大丈夫でしたか?」
確かに驚きはした。いくら休館中の水族館とはいえ、アザラシが堂々と水族館の廊下を歩いているというのは、何と言うかかなりインパクトがある構図である。
「えぇ、我々は大丈夫ですが……失礼ですが、安野秀政さんですか?」
「そうです。もしかして、連絡して頂いた警察の方ですか?」
「その通りです。えっと、その……」
定野は目の前でゴロゴロとくつろいでいるアザラシを見ながら、どう言ったものかと考え込んでいるようだった。それを見て、男……安野は恐縮気味にアザラシを紹介する。
「すみません。うちのゴマフアザラシのセン太です。ちょうど食事の時間でして」
「へぇ、セン太君っていうんですか」
瑞穂は興味深げにセン太と言われたゴマフアザラシを見つめ返す。そんな彼女を見て、安野は困惑した風に定野に尋ねる。
「あの、この子は?」
「あぁ、いえ。我々の捜査協力者でしてね。一緒にあなたの話を聞いてもらおうと思いまして」
「はぁ、そうですか……。まぁ、警察がいいっていうのなら、私に文句はありませんが」
その間にも、セン太はまたあくびをしながら通路でゴロゴロしている。
「それより、セン太君……でしたか? こんなに堂々と廊下をうろついていて大丈夫なんですか?」
「えぇ、問題ありませんよ。ここは元々動物と身近に触れ合えることが売りの水族館でして、お客さんがいない時とかは結構自由にゴロゴロしています。まぁ、お客さんがいる時でも同じノリでその辺をうろついている事もありますが」
「は、はぁ……」
アザラシが檻やガラス越しでなく客のすぐ足元をうろうろしているのというのも凄い話である。何にしても、このままではまともに話を聞けそうになかった。
「すみません、先に餌やりを終わらせますから、先にそちらで待っていてください」
榊原たちが案内されたのは、奥にあるアシカショーが行われる場所だった。観客席の前にプールが広がっているが今は誰もおらず、時々静かな水音が時々聞こえるだけである。先にそちらへ行って待っていると、少しして安野が姿を見せ、頭を下げながら観客席に座った。
「早速ですが、話を聞かせて頂いてもよろしいですか?」
「それは構わないんですが……あの、さっきの電話だと成海君が亡くなったという事ですけど、本当なんですか?」
開口一番、安野が口に出したのはそんな言葉だった。これには定野が答える。
「残念ですが間違いありません。先日、志摩市内で遺体となって発見されました。我々は何者かに殺害されたと考えています」
「そんな……」
安野は絶句し、榊原はそんな安野の様子をジッと観察している。どうやらこの場は警察である定野に質問を任せるようで、定野自身も心得ているのかすぐに質問に入った。
「それで、彼女を知る人にこうして話を聞いているわけなのですが、安野さんはかつて彼女と同僚だったという事で間違いありませんか?」
「……えぇ。五年前まで、尾鷲市の伊勢宮森水族館で一緒に働いていました」
「宮森海次郎さんが亡くなった水族館ですね?」
「その通りです。あの時は警察にもご迷惑をおかけしました」
「成海洋子さんという女性は、どのような人でしたか? 何でもいいので彼女の人となりが知りたいのですが」
「そうですね……。月並みな表現ですけど、明るくて元気な女性でしたよ。水族館の仕事も真剣にやっていましたし、やる気はあったと思います」
「彼女は宮森館長の義理の娘さんだそうですが、その話は?」
定野の確認に、安野はあっさりと頷いた。
「えぇ、知っています。本当は姪御さんらしいですね。でも、その事を知ったのは事件が起こった後の話です」
「と言いますと?」
「宮森館長が亡くなるまでは、二人は仕事の上では他人のように振る舞っていたんです。多分、えこひいきされていると見られたくなかったんでしょうけど、そんな事を考慮しなくても彼女は優秀でした。ただ、館長が亡くなって葬儀をする時に他に親戚がいなかった事もあって彼女が喪主をする事になりましてね。その時に、彼女が館長の姪だという事を初めて知りました」
「なるほど」
その辺りの話は、先程の海倉刑事の証言通りだった。
「ところで、具体的に彼女は水族館ではどのような業務を?」
「そうですね……あの水族館には建物の中央に大水槽があって、その北側と南側にそれぞれ汽車窓式水槽、東西の通路に小水槽が並んでいる形式でしてね。大水槽は我々三人が全員で担当して、南側の水槽を私が、北側の水槽を成海君が、東西の小水槽を鯖江さんが主に担当していました。鯖江さんは連絡船の運航業務もあったので、他の二人に比べて難易度の低い業務になっていたんです。業務の内容は、例えば餌やりとか二日に一度の水槽内の清掃、水の管理とか飼育している生物の健康管理とか……まぁ、色々ですね」
後ろで聞いていた英美里と瑞穂は、安野の言う水族館の構造を必死に頭に思い浮かべながら何とか状況を理解していた。ふと英美里が隣を見ると、榊原は涼しい表情で話を聞いていて、すぐに理解した様子である。その辺はさすがだと英美里は心の中で感心していた。
「宮森博士が亡くなった事件があった日の事は覚えていますか?」
「もちろんです。あの日、私と成海君は尾鷲港で何人かの乗客と一緒に鯖江さんの船を待っていたんですが、戻ってきた鯖江さんが真っ青な顔をしていましてね。突然『館長が死んでいる!』と叫んで警察に通報したんです。私はどういうことかわからなくてその場で頭が真っ白になっていましたが、成海君の悲嘆ぶりはもう見ていられませんでした。結局そのまま尾鷲で警察の聴取を受ける事になりました」
「つまり、事件当日、結局あなたたちは島には行かなかった?」
「はい。鯖江さんは案内のために警察を乗せてもう一度行きましたけど、またすぐに戻って来ました。結局、私と成海君が事件後にあの島に入れたのは、事件発生から三日くらい経った後でしたね。水槽にいる生き物の餌の問題とかはあったんですけど、その間は鯖江さんが警察の許可を得て一日一回島に渡って、警察の監視の元で最低限の事をしてくれていました」
「その後、水族館は閉館する事になった」
「えぇ。元々宮森館長の個人経営で成り立っていた水族館でしたから、館長がいなくなったら閉めるしかなかったんです。他の水族館と交渉して飼っていた生き物を全部移籍してもらって、それが終わったら水槽の清掃みたいな撤収作業です。担当は事件前と同じで、彼女は黙々と水槽を掃除していましたよ。気丈に振る舞っていましたけど……見ていられませんでしたね」
ですが、と安野は不意にため息をついてこう続けた。
「結局、その撤収作業も最後までできなかったんですけどね」
「どういう事ですか?」
「今回と同じですよ。撤収作業を進めて、あとは大水槽の水を抜くだけだったんですけど、その直前に熊野灘に台風が突っ込んできましてね。そのせいで島の港の施設が壊れて船が接岸できなくなってしまって……。で、臨時の波止場を設置する工事を先にして、それは完成したんですけど、今度はその間に土地契約だの何だの色々でもめちゃって、建物が差し押さえられちゃったんです。そのせいで、私たちは二度と建物に足を踏み入れられなくなってしまって、そのまま中途半端に水族館を放置して立ち去るしかなかったんです。しかも、それだけの事があったのに場所が場所だから経費がかかるとかで肝心の土地管理会社が建物を取り壊そうとしなくて、おまけにその管理会社自体がしばらくして経営難で倒産したとかで土地や建物の権利関係が無茶苦茶になってしまって……そのせいで、今もあの建物は廃墟のまま放置されているってわけです」
「そうでしたか……」
あんな島に廃墟の水族館ができた経緯はこれではっきりした。定野は質問の切り口を変えてみる。
「五年前の事件の後、他の飼育員の方に会った事はありませんか?」
「そうですね……鯖江さんは事件から少しした頃に、尾鷲市の実家の酒屋を継いだという手紙をもらいました。でも、会ってはいませんね。何だかんだ、互いに忙しかったもので」
「一年ほど前、鯖江さんが亡くなった事は?」
「新聞で知りました。火事だったそうですが、正直、かなりショックでしたね」
「葬儀には?」
「行きましたよ。といっても、仕事が忙しかったのでお焼香だけですが……」
「その葬儀の時に、成海さんと会ったというような事はありませんでしたか?」
その問いに、安野は少し難しい顔をした。
「どうだったかな……いなかったとは思いますけど」
「確かですか?」
「少なくとも、直接話をした記憶はありません。私がいたのは短時間だけですので、私の知らない所で参列していた可能性はありますけど」
「では、五年前の事件後、いつでもいいので成海さんに会った事はなかったのですか?」
「えぇ、多分……」
そう言いかけた安野だったが、ふと何か思い出したかのように言葉を止めて、こんな事を言い始めた。
「いや、そういえば確か、半年くらい前に彼女がここに来た事があったかな」
その言葉に、定野は緊張した表情を浮かべる。
「確かですか?」
「間違いありません。一般客としてやって来て、私がいるのを見て向こうもかなり驚いていました」
「という事は、あなたに会う事が目的ではなかった?」
「多分そうです。彼女は偶然だと言っていましたね。たまたま取材で来ただけだと」
「取材ですか」
「元水族館の飼育員という経歴を活かしてで、全国の水族館を紹介する記事を書く仕事を受けていたみたいです。彼女が今はライター業をしている事はその時に聞きました」
聞くと、互いに仕事中だったのでそこまで突っ込んだ話はできなかったらしいが、それでも五分程度の立ち話はしたらしい。となると、その時の会話の内容が気になってくるのも事実だった。
「その時、彼女とはどんな話を」
「簡単な近況報告と……あぁ、そうそう。左手の薬指に指輪をしていたからどうしたんだって聞いたら、少し前から付き合っている彼氏がいるとかそんな話はしていましたね。どっかのIT会社の社長さんとか何とかで、もし結婚できたら私も式に呼びたいとか言っていたんですけどねぇ」
その発言に、榊原たちは全員思わず顔を見合わせていた。定野が少し顔を引き締めて掘り下げていく。
「その彼氏の名前、わかりますか?」
「さぁ、そこまでは……」
「もしかして、『金島頼経』という名前ではありませんか?」
「……わかりません。名前は言っていなかったと思いますので」
だが、彼女の周辺にいるIT会社の社長など金島しか考えられない。しかも指輪をして結婚式の事にまで言及していたとなると、演技などではなく本気だった可能性が出てくる。と、榊原が小声で定野に確認を求めた。
「定野警部、被害者の左手に指輪はありましたか?」
「いえ、確認されていません。ただ、榊原さんが言うように今回の別荘への招待がキロネックス事件を調べるためだったとするなら、不用意に二人の繋がりがばれるような事は避けたがるはずです。となれば、今回は指輪をあえて外していた可能性が出てきます」
「後で警視庁に確認する必要がありますね」
と、そこで安野が戸惑った顔で榊原たちの方を見やる。
「あの、何か?」
「あぁ、いえ。私からの質問は以上ですが、榊原さんからは他に何かありますか?」
定野はそう言って榊原に話を振り、榊原は少し考えた後、こんな質問をぶつけた。
「そうですね……話を五年前に戻しますが、当時、水族館の客が魚島に行くためには鯖江さんが操舵する連絡船を使うしかないという事でしたね」
「その通りです」
「その連絡船ですが、客の人数確認などはしていたのでしょうか?」
榊原のその質問に、初めて安野が言葉を詰まらせる仕草を見せた。
「あの、先生。どういう事ですか?」
すかさず瑞穂が榊原の質問の意図を問いかける。
「こういう観光地の島を往復する連絡船の場合、客の置き去りを防ぐために行きと帰りで人数が一致するかのチェックをしている事が多い。だが、連絡船の運航が事実上のワンマン状態になっていた鯖江さんにそれができる余裕があったのか少し疑問になってね」
そう言われて、安野は恐縮したように声を潜めてこう答えた。
「……今だから言える話ですが、正直、そこまで厳格にはできていなかったと思います」
「やはりそうでしたか」
「ただ、万が一置き去りが発生しても、魚島にはもう一隻館長が個人所有しているボートがあったので、それで尾鷲港まで送る事ができました。だから問題ないという認識でしたし、実際にそういう置き去りが発生した事はなかったはずです」
「あぁ、やっぱりもう一隻そういう船があったんですね」
確かに冷静に考えてみれば、島にずっと住んでいる宮森海次郎の本土への交通手段が連絡船だけというのはさすがにあり得ない話である。何よりそれだと、水族館が開かれる二〇〇〇年以前の彼の交通手段は何だったのかという話になってくるので、個人で操舵できる船があるのは充分想像できる話であった。
「ありがとうございました。質問は以上です」
「もういいんですか?」
「えぇ。聞きたい事は全て聞けたと思いますので」
「そう、ですか……」
安野はそう言った後、少し俯きながら不意にポツリとこう続けた。
「あの……私がこんな事を言うのもなんですけど……成海君を殺した犯人、必ず捕まえてください。お願いします」
「……」
「あの子はいい子でした。こんなに若くして死んでいい人間じゃない。だから……お願いします」
「……最善は尽くします」
その言葉に対し定野は真剣な表情でそう答え、その後ろで、榊原も無言で頭を下げたのだった。
二見オーシャンワールドを出てから少し経った午後四時頃、ようやく台風が多少なりとも勢力を落とし、車で他の場所へ長距離移動できるくらいになったのを見計らって、捜査員たちの尾鷲署への移動が実行に移された。定野ら志摩署の捜査本部の何人かが運転する警察車両を先導にし、その後に英美里の運転する自動車も続く形での移動である。とはいえ、まだまだ注意が必要なくらいの風雨は吹き付けている状態で、車の窓の外に見える海は大荒れ。必然的に車も速度を出す事ができず、最終的に彼らが尾鷲市の尾鷲警察署に到着したのは二時間が経過した午後六時頃の事となった。
尾鷲署内の会議室に急遽設置された今回の事件の第二捜査本部では、捜査員たちが忙しく動き回っていた。英美里はする事もなく榊原や瑞穂と一緒にその作業を漠然と見つめていたが、やがて定野がやって来て状況を説明する。
「県警本部の判断で、魚島への捜索活動は明朝に行われる事が正式に決定しました。やはりこの状況ではまだヘリや船は出せないそうです」
英美里は思わず天を仰いだ。わかっていたとはいえ、いざ言われてしまうと何とももどかしい気持ちになるものである。だが、榊原にとってこれは想定内の情報のようだった。
「でしょうね。こうなった以上、じたばたしても始まりません。今はできる限りの情報収集に努めましょう」
「同感ですね」
と、そこで電話を担当している刑事が定野に声をかけた。
「警部! 東京の警視庁から連絡です!」
「警視庁?」
「先程、被害者宅の家宅捜索が一通り済んだそうです。その件について情報共有したい事があると」
「向こうも仕事が早いな」
そう呟くと、定野は近くの固定電話の受話器に手をかけながらその刑事に指示を出す。
「わかった、聞こう。こっちの電話に回してくれ!」
「了解です!」
定野が受話器を耳にやると同時に回線がこちらへ回される。そんな定野の様子を、榊原はジッと見つめていたのだった……。
……さて、その数時間前、東京都墨田区の一角に建つマンションの前に一台の車が停車し、その傍にスーツ姿の人影が二人立ってマンション上階の方を見上げていた。
「ここだな」
そのうちの一人……警視庁刑事部捜査一課第三係主任の新庄勉警部補は、隣に立っている同じく第三係所属の竹村竜警部補にそんな声をかけた。年齢は二人とも三十代半ば。刑事課一筋の新庄に対して竹村は交通課の白バイ隊員から刑事課にのし上がってきた変わり種であるが妙に気が合い、捜査の際もこの二人でコンビを組む事が多いという関係だった。
そんな二人がここにいるのは、三重県内の別荘で起こったルポライター・成海洋子殺害事件に関連し、彼女の自宅を家宅捜索するためである。実際の死亡現場こそ三重県であるが、肝心の毒を飲まされた現場が都内である可能性が浮上した事から警視庁も本格的に殺人捜査で動く事になり、こちらの捜査は新庄らが所属する第三係が受け持つ事となっていた。すでに今の段階でも被害者の行動に関するいくつかの有力な情報が集まりつつあったが、ここに至ってようやく被害者宅の家宅捜索令状が出た事から、捜査本部から新庄と竹村のコンビが彼女の自宅マンションまで足を運ぶ事になった次第である。何か重要な証拠が見つかれば、後々、鑑識も合流する手はずとなっていた。
「行くぞ」
「あぁ」
短く言葉を交わし合うと、二人はそのままマンションの入口へ向かう。そこにはあらかじめ連絡をしておいたこのマンションの管理人が待っており、新庄らはどこか青い顔の管理人に令状を提示しながら事情を説明すると、管理人の案内で成海洋子の自室へ向かった。
「こちらです」
管理人がそう言って示したのは、マンション三階の角部屋だった。新庄が頷くと管理人がマスターキーで部屋の鍵を開ける。それを受けて竹村がドアを開けると、そこには典型的な2LDKの部屋が広がっていた。
「ありがとうございます。申し訳ありませんが、このまま立ち合いをお願いします」
新庄の要請に管理人は少し蒼ざめた表情で頷き、新庄と竹村は早速部屋の捜索を開始した。一人暮らしの女性の部屋ではあるが、ルポライターらしく外出が多いのか思いの外片付いており、少なくとも何者かに荒らされたような痕跡は全く確認できなかった。
「おい、これ」
と、竹村がリビングの机に置かれていたノートパソコンを見つけて声を上げた。書きかけの原稿などがこの中に保存されている可能性があるが、立ち上げてみると当然のようにパスワードが設定されていたため、これについては後で鑑識に解析してもらう必要があった。
「もっとも、データをUSBなりに保存して持ち歩いていたら、こいつを調べても何も出てこないだろうがな」
そう呟きながらも、ひとまずこのノートパソコンは押収する。それからしばらく机周りを調べてみたが、机の一番下の引き出しを開けてみると、そこに思わぬものがあるのを見つけた。
「これは……手提げ金庫か?」
そこには、引き出しにすっぽり収まるくらいの大きさの手提げ金庫が鎮座していた。新庄と竹村は顔を見合わせる。
「いかにもな物があるな」
「こういう金庫というと、通帳とか重要書類なんかが入っている事が多いが」
「にしては、サイズが少し小さい気もするが……」
そう言いながら竹村が軽く金庫を振ると、中でカランコロンと何か小さなものがぶつかるような音が聞こえた。
「何だろうな」
「少なくとも書類ではなさそうだ。こいつも後で鑑識に開けてもらおう」
さらに調べてみると、本棚に何冊かのスクラッチブックがあるのを見つけたが、中を見るとその大半が五年前に起こったキロネックス事件についての記事だった。すでに彼女がこの事件を調べていた可能性は三重県警から情報提供されているが、その情報が正しかった事が証明された形である。
「あとは……お、これかな」
本棚の一角にあった取材ファイルの中を調べると、その中に一通の封筒が挟まっているのが確認できた。手袋をはめた手で中を確認すると、それは『一週間前に届いた』と彼女の手帳に書かれていた、汚職事件の情報提供をネタに彼女を川崎市に呼び出すための手紙だった。
「本当にあったな」
「彼女が一週間前に川崎市に出かけたという事実は関係者からの聴取からすでに確認済みだ。それが裏付けられた形になるな」
と、その時、新庄の視線が別の所へ向いた。
「これは……」
棚の隅、そこに隠すように小さな箱があった。気になった新庄はそれを取り出し、中を確認してみる。
「これは……指輪か?」
それは確かに指輪だった。小さな宝石がついたシンプルなデザインで、婚約指輪のようにも見える。台座の部分を見ると何か文字が刻まれているようだった。
「『KからNへ』か。普通に考えたらNは『成海洋子』だが……」
「おい、ひょっとして相手はこいつかもしれないぞ」
振り返ると、竹村が別の棚からアルバムらしき冊子を取り出してみているところだった。覗き込んでみると、成海洋子が別の男性と二人で一緒に撮影したと思しき写真がいくつも張られているのがわかった。そして、二人はこの男性の顔に見覚えがあった。
「これ、三重県警から照会のあった、被害者が死んだ別荘の持ち主じゃないか?」
「あぁ、名前は確か金島頼経だったか」
「どう見てもただの知り合いという関係じゃなさそうだな。調べてみる価値はあるかもしれない」
「同感だ」
ひとまず、この件についてはこの家宅捜索が済み次第調べる必要があると新庄は判断したようだった。
「よし、後はキッチンの辺りの捜索だ。一週間前に購入した腹痛用の薬の残りや、毒物の痕跡が残った食品辺りが見つかれば万々歳なんだが」
「そううまくいくかはわからないが、とりあえず調べてみるか」
そう言って竹村は早速キッチンの方へ向かおうとする。と、そこで新庄はふと思い出したと言わんばかりに、唐突に別の話を始めた。
「ところで聞いたか? 今回のこの一件だが……三重県警の話だと、どうもあの人が絡んでいるらしい」
「あの人?」
「榊原さんだよ。なぜだか知らないが三重にいたらしい」
新庄のその言葉に、竹村は作業の手を止めて眉をひそめた。
「何でまた?」
「だから知らないと言ってるだろう。県警の話だと別件でたまたま三重にいた時に今回の事件に遭遇したらしいが」
「あの人、一ヶ月くらい前に蒲田で起こった殺人事件を解決したばかりだったよな」
「それもそうだが、数週間前に埼玉県の春日部市の廃墟で起こった事件の解決にも関わったとも聞いている」
「……こう言ったら何だが、一介の探偵とは思えない忙しさだな。というより、そもそも普通の探偵は殺人事件の捜査に関わったりはしないもんだが」
「あの人は普通の探偵じゃないからいいんだ。それは今までに何度も見てきた事だろう」
「それはそうだがよ……」
今更の話ではあるが、「真の探偵」の名で知られる榊原に捜査協力要請をするのは三重県警だけでない。その実力は彼が刑事だった頃に合同捜査をした事がある全国の警察に知れ渡っているが、特に榊原自身の古巣であり、榊原が事務所を構えている東京を管轄する警視庁には刑事時代の榊原の実力を直接知っている人間も多く、どうしても警察だけで解決が難しいと判断した事件については、今回同様に非公式のアドバイザーとして榊原に協力を要請する事も多々あった。
その中でも、新庄や竹村の所属する捜査一課第三係は、係長の斎藤孝二警部が刑事時代の榊原の後輩だったという関係からとりわけ榊原との繋がりが深く、必然的に斎藤の部下の新庄たちも榊原とは何度か一緒に事件調査に携わったという関係だった。
「何にしても、榊原さんが本当に関わっているのだとしたら、この一件、一筋縄ではいかないかもしれないぞ」
「あぁ、そうだな」
新庄のコメントに、竹村も同意するように頷いたのだった。
……それから数時間後の現時刻、三重県警尾鷲警察署の会議室に設置された第二の捜査本部で、定野は警視庁の新庄から東京の成海の自宅の捜索結果を聞いていた。その定野の傍らで、榊原たちも耳を傾けている。今、新庄が話しているのは、例の謎の手提げ金庫の中身についての報告だった。
「バッジですか?」
『えぇ。鑑識が彼女の机から見つかった手提げ金庫をこじ開けたんですが、その結果、金庫の中から小さいビニール袋に入ったバッジと思しきものが見つかりました。金庫の中にあったのはこのバッジだけです。正直、今回の事件に関係あるかどうかまではわかりませんが、被害者にとって明らかに大切なものだったようですね』
「一体何のバッジなのかわかりますか?」
『ひとまず弁護士バッジのような公的なバッジではなさそうです。かといって、どこかの企業のバッジというわけでもない。どうも私的に作られたオリジナルのバッジのようで、正体の特定までには少し時間がかかるかもしれません』
「どんな形のバッジですか?」
『そちらに写真を送ります』
しばらくして、備え付けのパソコンにデータが送られて来た。定野がすぐにそれを開くと、そこには新庄が言ったようなバッジがしっかり写っていた。形は円形で色は黒っぽく、中央に「STS」というアルファベットと「2001」という数字が小さく書かれているのがわかる。
「何かの記念バッジですかね」
『「2001」は二〇〇一年の事だとは思いますが、「STS」が何なのかさっぱりです。この略語は色々な所で使用されているようですが、どれもしっくりこないものばかりでして』
「例えば?」
『有名所だとスペースシャトルのミッション名ですね。『宇宙輸送システム(Space Transportation System)』の略らしく、例えば二〇〇三年に起こったコロンビア号墜落事故の際のミッション名は「STS107」となっています。ですが、最新のミッションでも今年の五月三十一日に実施された「ST124」で、「STS2001」などというミッションは存在しません』
「二〇〇一年に実施されたミッションだったとか?」
『どうでしょう。調べたら二〇〇一年にスペースシャトルは六回打ち上げられていますが、そこで何かあったという話は聞きませんね。スペースシャトル打ち上げに絡んでバッジが制作されたという話もなさそうですし』
「そうですか……。他にはどうですか?」
『あとは旧ソ連の核実験場の略称とか、カリフォルニア州にある空港のIATAコードとか、正直ピンとこないものばかりです。そちらで何か心当たりはありますか?』
「いえ、特には……」
定野も悔しそうに返答する。と、その時だった。
「あの……」
どういうわけなのか、突然、英美里が遠慮がちに会話に割り込んだ。定野が一度通話をストップして振り返る。
「何か?」
「そのバッジ、見せてもらっても構いませんか? 私、見覚えがある気がして……」
「本当ですか?」
この際、少しでも手掛かりはあった方がいい。そう判断した定野はパソコンに映し出されたバッジの写真を英美里に見せる。しばらくそれを見ていた英美里だったが、やがてどこか困惑気味にこんな事を言った。
「これ……私、知ってます。早応大学探検サークルの記念バッジです」
「記念バッジ?」
「はい。『早応大学探検サークル』の頭文字をとって『S(早応大学)T(探検)S』です。サークルに所属していたメンバーが卒業する時に、卒業年度が入ったこのバッジを二つずつもらうのが慣習になっているんです」
「では、これは二〇〇一年度の卒業生に渡されたバッジという事ですか?」
「はい。つまり……私の代のメンバーが持っているはずのバッジです」
思わぬ事実に瑞穂が「えっ?」というような表情を浮かべ、定野は真剣な表情で確認を取る。
「それは間違いないですか?」
「はい。実際、私もこのバッジをもらっていますから間違いありません。今は東京の自宅のどこかにあるとは思いますけど」
英美里ははっきりそう言った。だが、それが本当だとしても、それはそれで問題である。
「しかし、おかしいですね。その話が本当なら、このバッジを持っているのは二〇〇一年度に早応大学探検サークルを卒業したメンバー……つまり、綿野先生と今まさに失踪している別荘のメンバーだけという事になります。ですが、このバッジを持っていた成海洋子はその条件に当てはまりません。一体、彼女はなぜこのバッジを持っていたんでしょうか。しかも、袋に入れて手提げ金庫に入れるというかなり厳重な形で」
「さぁ……私にはわかりません」
定野の問いに対し、英美里は困ったように首を振った。と、ここで榊原が顔を上げて突然定野と新庄の通話に割り込んだ。
「新庄、話の途中で悪いが、いくつか質問していいか?」
そんな榊原の言葉に対し、電話の向こうの新庄は少し驚いた声を出した。
『その声……もしかして、榊原さんですか?』
「久しぶりだな。そっちの担当は君か」
『えぇ、まぁ。榊原さんがそっちにいるという話は聞いていましたが、どうして三重に?』
「たまたま別件の依頼でこっちに来ていたら、色々あってこの一件に関わる事になった。今はある事件関係者からの正式な依頼でこの事件の捜査に介入している」
そこで一度言葉を切って、榊原は話を続けた。
「時間もないし、つもる話はこの位にしておこう。聞きたい事がある」
『何でしょうか?』
「そのバッジだが、何か痕跡は残されていなかったか? 具体的には指紋などだが」
だが、その問いかけに新庄は否定的な答えを返す。
『いえ、鑑識が調べましたが、指紋は一切検出されませんでした』
「成海洋子本人の指紋もか?」
『はい。ただ……』
「ただ?」
『一つだけ不自然なものが。バッジ表面の溝の部分から、わずかではありますが塩の結晶が検出されているんです』
「塩?」
思いもよらない話だった。
『はい。バッジが入っていた袋の底からも数粒検出されましたが、これは恐らくバッジに付着していた結晶が落ちたものかと思われます。それと、同じくバッジの溝から細かい砂粒のようなものと、何らかの植物繊維の一部と思しきものも検出されています。何の植物繊維なのかは現在調査中ですが』
「塩と砂に、何らかの植物繊維……どうにもよくわかりませんね」
定野が傍らでそう呟く。が、榊原は黙って少し何か考える仕草を見せると、すぐに次の質問に移った。
「話は変わるが、被害者の部屋に指輪はなかったか?」
『指輪、ですか。それなら確かにありましたよ。本棚の隅にあった箱の中に入っていて、裏には『KからNへ』と書かれていました』
「『KからN』……」
「『N』は成海洋子の事だと思います。どうも婚約指輪みたいですね」
恐らく『金島から成海へ』という事なのだろう。『頼経から洋子へ』としなかったのは、そうすると『YからYへ』になってしまうからという事情があったからかもしれない。
『それから、部屋の中にあったアルバムを調べた所、そちらから照会のあった金島頼経と一緒に映っている写真が多数確認されました。その写真とこの指輪を総合的に考えるに、どうもこの二人、単なる協力者という範疇を超えて、恋人同士だった可能性があります』
「……あぁ、私たちも同じ考えだ。こちらの予想が正しければ、金島の自宅にも同様の指輪がある可能性が高い」
榊原も新庄の意見を肯定する。一つならともかくここまで状況証拠がそろうと、二人が恋人関係だった可能性は決定的だと言わざるを得なかった。
『それについてはこれから調べてみます。それと、そちらで押収された被害者の手帳に書かれていたという「三河」なる男からの偽の呼び出し手紙ですが、無事に室内から発見されました。内容も概ね、手帳に書かれていた通りの事が書かれていましたが、発見された手紙はワープロ打ちで筆跡鑑定は不可能。指紋は被害者本人のもの以外検出されず、消印は相模原市の郵便局になっていました。少なくとも、手紙から差出人を特定するのは難しいというのが鑑識の意見です』
「随分周到ですね」
定野が呟く。どうやら、一筋縄ではいかない相手らしい。
『あと、キッチンの棚から腹痛用の薬の箱が見つかりまして、箱の中にレシートも入っていました。それによると、薬を購入した日付は七月二十日となっています。薬局側の証言と一致しますので、彼女がこの日にドクツルタケを摂取したのは間違いなさそうです』
「問題はその摂取のさせ方ですが……」
定野がそう言うと、新庄は思わぬ事を言い始めた。
『それなんですが、今回家宅捜索をして調べた所、彼女の自宅マンションは防犯事情があまりよくない事がわかりました。その分家賃は安いのですが、管理人が常駐しているわけでもなく、基本的に人の出入りは住人でなくても自由。各部屋にチェーンロックもついていません』
「つまり?」
『要するに、鍵さえ何とかできれば、第三者がこの部屋に入る事はそう難しくないんです』
その事実に、定野と榊原は思わず顔を見合わせる。
「ですが、その肝心の鍵をどうするんですか?」
『それについてこちらで調べた所、彼女が川崎市に呼び出されるよりもさらに一週間前、彼女が自宅の鍵の入っていたと思しき財布を紛失していたという事実が判明しました。そちらから提供して頂いた被害者の携帯電話の通話記録をこちらで解析した所、新宿区にある百貨店のお客様センターへの履歴が残っていて、センターに確認を取ると記録が残っていました。それによると、百貨店内で財布を落としたかもしれないので届いていないかの確認してほしいという連絡があり、担当社員が確認した所、特徴に合致する財布が届いていたそうです。その旨を伝えた所、彼女はすぐに引き取りに来たとか。その財布は百貨店内のベンチに落ちていたらしいんですが……』
そこまで言われて、榊原はピンときたようだった。
「実はその財布は落としたのではなく百貨店内で犯人によってすられており、その時に中に入っていた自宅の鍵の型を取られた可能性がある、という事か」
『はい。そして型を取った後、落とし物を装ってベンチに放置されたとすれば辻褄は合います。金銭が盗まれたわけではないので、被害者本人も落とし物だと思ったままだったのでしょう』
新庄の言葉に、定野は呻くように尋ねる。
「となると、犯人は被害者を川崎市に引き付けている間に勝手に室内に侵入する事ができたという事ですか?」
『その通りです。それはつまり、冷蔵庫に保管されている作り置きの食べ物や、ペットボトルの飲み物にドクツルタケの毒を混入する事が不可能ではない事を意味します』
「ですが、さすがに毒物を混入されたら味で気付きませんか?」
だが、定野のこの問いには榊原が答えた。
「いえ、その可能性は考えなくてもいいと思います。これはあくまで過去に実際にドクツルタケを食べて生死の境をさまよった経験者の証言ですが、実際に食べてみるとドクツルタケの味はかなりおいしいらしいのです。もちろん、本当においしいかどうかを確認する術などありませんし、仮に本当だったとしても、その後高確率で死亡してしまう事を考えるとこの味のおいしさは逆にたちが悪いと言えるかもしれませんが、ひとまず味でばれる心配はないという事です」
『それについては我々も同意見です。ただ残念ながら、今回の家宅捜索で被害者の冷蔵庫から押収した食品類にドクツルタケの毒の痕跡は見当たりませんでした。もっとも、一週間も前の話なのでやむを得ない部分はあるのですが……』
何とももどかしい話だった。
「他には何かありますか?」
『そちらからの要請を受けて、キロネックス事件が起こった五年前における別荘にいた人間のアリバイ確認をわかる範囲で行いました。何しろ本人たちがいないので確認できないケースの方が多かったのですが、逆に明確なアリバイがある人間は現時点では三人だけ確認できています』
「それは?」
『リタ・クラークと戸塚克人、それに別荘の持ち主である金島頼経の三名です。リタ・クラークはそもそもサンフランシスコ在住。戸塚克人は同時期にアメリカのロサンゼルスで行われていたテニスの大会に参加していて日本におらず、金島は当時勤めていた三塚商事の仕事でイギリスのロンドンにいました。いずれも外務省の出入国記録で確認済みです』
ある意味、予想していた通りの面子であった。定野はチラリと榊原の方を見やり、榊原も黙って頷きを返す。
『あとはそうですね……被害者の部屋に残されていたノートパソコンを解析中ですが、そっちの方の結果はまだしばらくかかると思われます。現状、こちらでわかっている事はこのくらいですが、また何かわかればそちらにも連絡します』
「わかりました。よろしくお願いします」
そこで通話は終わる。
「被害者が金島たちだけしか持っていないバッジを所持していた、ですか。榊原さんはどう思われますか?」
「意味深ではありますね。恐らくですが、そのバッジの存在が、成海洋子が金島たちのグループを疑う根拠になっていた可能性があります」
「しかし問題はさっきも言ったように、彼女がいつ、どこでこのバッジを入手したか、です」
「そうですね……恐らくそのヒントが、問題のバッジの付着物にあると思われるのですが……」
と、そこで後ろにいた瑞穂が遠慮がちに尋ねた。
「あの、根本的な疑問なんですけど、仮に今回の正体が金島さんと成海さんの計画だったとして、単純にメンバーに『バッジを持っていないか?』と聞くだけじゃダメだったんでしょうか? 持っているはずのバッジを持っていないだけでも充分疑わしいと思いますけど」
しかし、そんな瑞穂の疑問を、榊原は首を振って否定した。
「いや、さっきの綿野先生の話だと、彼らは卒業時に問題のバッジを二個ずつもらっている。だから仮にバッジを紛失していても、もう一個のバッジを見せられたら意味がない。だからと言ってバッジを二個とも見せてもらうよう頼むというのは、相手からすればあまりにも不自然すぎる。そう考えると、この手段を採る事はできなかったんだろう」
「あ、そっか……」
瑞穂は納得したかのように引き下がる。それと入れ替わりに、定野がさらにこうコメントした。
「それと、金島と成海洋子はやはり恋愛関係にあったようですね」
「えぇ、どうもそれは確実なようです。恐らく、協力し合ううちに恋愛感情が芽生えたと言ったところでしょうか」
「何にせよ、これでこの二人の関係が想像以上に強固だったことがわかりました。話としては前進ですね」
と、定野がそんな事を言った、まさにその時だった。尾鷲署の刑事の一人が捜査本部に飛び込んでくると、少し慌てた様子で定野の前に駆け寄って来た。
「失礼します。少々厄介な事になりました」
「どうした?」
「先程、地元の漁師から、尾鷲港近くの砂浜にクジラらしき物体が漂着したという通報がありました。現在、近隣をパトロール中だったパトカーが確認に向かっています」
「クジラ?」
予想外の報告に、定野は眉をひそめる。なぜ今この状況でそんな報告をこの捜査本部に上げてきたのか不審に思ったが、その刑事は構う事なく報告を続けた。
「もう死んでいるようですが、かなり大型のクジラのようです。波が荒れていて今の時点では接近できていませんが、通報者の話では十メートルほどのマッコウクジラではないかと」
「台風の影響で迷い込んだか?」
「いえ、それが……そのクジラ、頭部に大きな傷があるらしいのです。詳しくは専門家の調査が必要ですが、見た限りでは恐らく船のスクリューの傷ではないかと」
「船のスクリューだと?」
その報告を聞いて、定野や榊原の表情が一気に険しくなった。なぜならそれが意味する事は、一つしかないからである。
「つまり、この辺りの海のどこかで船舶とクジラの接触事故が起こったという事か?」
「その可能性が高いかと。ただ、すぐに関係各所に連絡を取りましたが、少なくとも三重県及び愛知県内の港で、クジラと接触した痕跡がある船舶は確認されていないという事です」
だが、その状況……つまり確実にクジラと接触した船舶があるにもかかわらず、それに該当する船舶が確認できないという状況は、逆に事態がより深刻である事を示すものだった。そしてその「最悪の事態」を、榊原が容赦なく言葉に出した。
「それはつまり、クジラと接触したというその船舶が、今もなお近隣の港に到達できていない可能性が高いという事ですか?」
「はい。ですが、それと同時に各港に所属する船舶の中で、現時点で所在不明のものは一隻も確認されていません。となると、あとは個人所有の船舶くらいしか可能性がないわけなのですが……」
と、ここでようやく定野が何かに気付いたかのようにハッとした表情を浮かべる。
「行方のわからない個人所有の船舶……まさか……」
定野たちが知っている限り、そんなものは一つしか思いつかなかった。そして絶句する定野の代わりに、またしても榊原がその答えを告げる。
「……失踪している金島のクルーザー。彼らの船が沖合でクジラと接触し、航行不能になっている可能性が出てきたという事ですね」
その言葉を聞いた定野は難しそうに考え込み、刑事に再度確認する。
「そのクジラの傷がスクリューによるものだというのは間違いない話なのか?」
「先程も言いましたように、現時点では波が高くて接近が難しい上、暗くなってきていますので詳細は不明です。ただ、報告ではその可能性が高いと。通報した漁師の話では、以前、連絡船と接触して死んだクジラについた傷跡とよく似ているという話です」
「そうか……」
ここに至って、定野はこの刑事がわざわざ捜査本部にこの情報を報告しに来た理由を理解したようだった。実際、この話が事実とすれば、今後の話が大きく変わって来る。
「定野警部、クルーザーがクジラに接触して航行不能になっていたとして、そのクルーザーが今も熊野灘もしくはその近辺の海上を漂流し続けている可能性はありますか?」
「無理です。熊野灘はそんなに甘い海ではありません」
定野は間髪入れずにその可能性を否定する。説明されるまでもなく、今の熊野灘は台風の影響で荒れに荒れている状況なのである。もし漂流していたとすれば、スクリューを破損して航行不能となった小型クルーザーが無事であるとはとても思えなかった。定野や榊原の表情もかなり深刻なものになってくる。
「こうなってくると、最悪の可能性として、純粋にクルーザーがどこかで難破している可能性についても真剣に考えなくてはならなくなりましたね」
「そ、そんな……」
定野の発言に、英美里の顔がみるみる蒼くなる。それを見て、榊原は少し表情を緩めてこう言い含める。
「綿野先生、定野警部が言ったのはあくまで最悪の可能性であって、今までの予想通り、彼らが何とか近くの島まで無事に辿り着いた可能性がなくなったわけではありません。むしろスクリューに損傷が発生したからこそ尾鷲港まで航行する事を諦め、舵が効くうちに近くの島への退避を決断した可能性もあります。その可能性がある以上、明日の魚島やその周辺の島の捜索を行う価値はあるはずです」
「えぇ、それについては同感です。ただ……念のため海上保安庁にも連絡しておく必要があります。本当に漂流という事になれば、警察だけではどうしようもありませんので」
定野の深刻な表情は崩れない。とにかく、全ては明日にならないとどうにもならないというのが共通した見解ではあった。
「こちらでやれる事はやりました。後は、明日次第です。今は耐えましょう」
「はい……すみません……」
英美里はそう言って頭を下げ、瑞穂が心配そうに英美里に寄り添う。重苦しい空気が漂う中、榊原は部屋の窓からすっかり暗くなった外を見やり、目の前で暗く荒れ狂う熊野灘の大洋を無言で睨みつけたのだった……。