第六章 七月二十八日~捜査会議
七月二十八日朝、三重県志摩市内志摩警察署。英美里が目を覚ますと、時刻は午前七時を少し回ったところであった。周囲を見回すとそこは小さな仮眠室と思しき場所で、隣のベッドには瑞穂がすやすやと寝息を立てて眠っていた。
一瞬、自分がなぜこんなところにいるのかわからなくなった英美里だったが、しかしすぐに昨日の夜に起こった事件……友人である金島の別荘内で血みどろの女性の遺体を発見した事を思い出していた。
「夢じゃ……ないのよね……」
不意にガタガタと音がして英美里が思わず音のした方を見やると、今もなお外で吹き付けている台風の暴風が窓を揺らした音だった。どうやら台風はまだ収まっていないらしい。
あの後、一通り別荘内の現場検証は終わったものの、台風が本格的に接近してきていた事からこれ以上の捜査は危険と判断され、捜査員全員が一度志摩署へ引き上げる事になっていた。英美里や榊原もそれに同行したのだが、やっとの思いで志摩署に引き上げた時にはもはや外出する事さえ危険な状態になっており、やむなく全員志摩署に一泊する事になったのである。刑事たちが捜査本部の設置に忙しい中、英美里は瑞穂と共に女性職員用の仮眠室に案内され、結局疲れもあったのかそのまますぐに寝てしまったようだった。
英美里が大きく伸びをしていると、隣の瑞穂もむにゃむにゃと言いながら目を覚ました。
「あ……エミリー先生、おはようございます……」
「おはよう。よく眠れた?」
と言ってから、英美里は昨日あれだけのものを見ておいて眠れるわけがないという事に思い至ったが、そんな英美里の思いを知ってか知らずか、瑞穂はコクンと頷いていた。
「大丈夫です。ここで疲れをとっておかないと、今日が大変だと思いますし」
「そ、そうね」
思わぬ反応に英美里がどう返事をしたらいいのかわからないでいると、不意にドアがノックされて、昨日この部屋に案内してくれた所轄の女性刑事が顔を出した。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「えっと、その……はい」
同じ問いをされて、英美里は少ししどろもどろになりながら答える。一方の瑞穂は先程同様にはきはきとした口調で返事をしていた。
「あの、何かあったんですか?」
英美里が聞くと、その女性刑事は少し申し訳なさそうな表情でこう言った。
「申し訳ありませんが、準備ができ次第、ついて来て頂けないでしょうか? 実は、この後すぐに前日の事件についての捜査会議が行われる事になりまして、上層部が協議をした結果、今回は綿野さんたちにも事件の関係者として特例でぜひ参加してもらいたいという事になったんです」
「そ、捜査会議、ですか?」
思わぬ言葉に英美里は不安感を覚えた。刑事ドラマなどではよく聞く言葉ではあるが、実際に聞くとどうしても気後れしてしまう。だが、隣の瑞穂は自然な様子で頷いていた。
「あ、わかりました。すぐに行きます」
「よろしくお願いします」
そのまま刑事はドアを閉める。英美里は、思わず瑞穂の方を見やっていた。
「深町さん……随分慣れているみたいだけど……」
「うーん、これを言うとまたびっくりすると思いますけど……私、捜査会議って初めてじゃないんですよね」
「え?」
思わぬ言葉に英美里が絶句している間にも、瑞穂は苦笑しながら説明する。
「私、今までにも何回か先生にくっついて色々な事件を見てきたんですけど、その中でオブザーバーになった先生と一緒に捜査会議に入れてもらった事が結構あるんです。だから、もう結構慣れちゃって……」
警察の捜査会議に慣れている女子高生というのも凄い話である。改めて、一体この子は中学を卒業した後でどんな人生を歩んできたのかと英美里は心配になったが、今はそんな事を議論している場合ではないのも事実であるので、何ともなしにため息をついて黙って身支度をするにとどめた。
「じゃ、行きましょう」
二人が部屋を出ると、さっきの刑事が待っていてくれていたらしく、彼女の先導でそのまま大会議室に案内された。部屋の前には『志摩市別荘内女性ルポライター変死事件』とそれこそ刑事ドラマで見たように事件名が大きく張り出されている。部屋の中に入ると、すでに何人もの刑事たちが真剣な表情で着席していて、その威圧感に英美里は一瞬後ずさりそうになった。が、瑞穂は気にする様子もなく部屋の中を突き進み、すでに部屋の一番後ろの席に腰かけていた榊原の横にチョコンと腰を下ろす。やむなく英美里も後に続き、瑞穂の横のパイプ椅子に座った。
「綿野先生、おはようございます」
そんな英美里に榊原が普段と変わらぬ様子で挨拶をしてくる。元刑事という事で彼もこの雰囲気には慣れているのだろうが、もう突っ込むのも野暮なので英美里は軽く頭を下げただけでとどめた。一見温厚そうに見える雰囲気は最初に出会った時と変わっていない。だが、その視線の奥底からは最初に出会った時に感じた得体の知れない鋭い何かが今も発せられているようであり、英美里は思わず背筋を伸ばして会議が始まるのを待った。
それからしばらくして、正面に幹部陣営と思しき面々が現れ、続いて定野がその前に立って発言を求めた。
「ただいまより、志摩別荘内女性ルポライター変死事件に関する捜査会議を行います」
その言葉に、会議室内の空気が一気に張り詰める。英美里は息を飲みながらも、黙って会議の内容に集中する事にした。
「まず、事件の概要を説明します。昨日、志摩市の沿岸にあるIT会社社長・金島頼経氏所有の別荘内で、若い女性の変死体が発見されました。死亡したのは週刊『アクション・フォト』専属ライターの成海洋子、二十九歳。別荘では当時金島氏及びその友人らによる同窓会が開かれていたようですが、彼らの行方は現在でもわかっていません。状況から見て金島氏所有の船で別荘近くのハーバーから出港したきり戻っていないものと推測されます。事件は一人遅れてきた綿野英美里さんの通報により発覚しました。なお、今日は特例で彼女にも捜査本部に来て頂いています」
その言葉に、刑事たちの視線が一斉に英美里の方へ向いた。英美里はその鋭い視線に気後れしそうになったが、何とか気力を振り絞って一礼する。それを確認すると同時に定野が言葉を発し、刑事たちの視線は再び定野の方へと向いた。
「最初に、昨日の時点で判明していなかった被害者の死因について報告を」
その言葉に、検視官が立ち上がって難しい表情で報告を始めた。
「えー、発見直後の検視では、遺体には外傷がなく、かなりの量の吐血をしていた事から毒物による死である可能性が高いと判断しましたが、死因特定には解剖が必要と考え、伊勢中央大学医学部の協力の下で遺体の解剖を実施しました。その結果についてご報告いたします。まず、胃の中を確認した結果、未消化のサンドイッチ類とチョコレートを確認しましたが、鑑定の結果、これらの内容物から毒物の痕跡は見つかりませんでした」
思わぬ言葉に、捜査本部がざわめく。
「確かか?」
「この点については鑑識からも報告を」
その言葉に、鑑識が立ち上がって補足報告を行う。
「現場から採取した食べかけのサンドイッチとチョコレート、及び水筒に入っていたお茶についても化学分析を行いましたが、いずれも毒物は検出されていません。毒物は飲食物によるものではないと考えます」
「では、被害者の死因は何なんだ?」
定野の問いに、再び検視官が立ち上がって答えた。
「それなんですが、解剖の結果、恐るべき事実が発覚しました。被害者はかなりの量の吐血をしていたわけですが、内臓を確認したところ、その内臓の大半がスポンジ状に変形し、大量の出血をしていた事が発覚しました。死因は、内臓出血による多機能不全です」
思わぬ事実に、誰もが絶句していた。
「内臓がスポンジ状だと……いくら強力な毒でも一瞬で内臓がそんな事になるのか?」
「普通はあり得ません。そこで、被害者の血液を検査したところ、その血液からファロトキシン、ピロトキシン、アマトキシンといった毒物を検出しました。これらの毒物と、被害者の症状等から考えてある一つの可能性が導き出されました」
「それは何だ?」
検視官は一瞬言葉を切ると、はっきりとした口調で断言した。
「被害者の死因は毒キノコ類……もっと言ってしまえば、ドクツルタケ類による中毒死の可能性が非常に高いと判断します」
想像もしなかった死因に、捜査本部がざわめく。一方、それは後ろで聞いていた英美里も同じだった。
「毒キノコ……」
思わずそう呟いている英美里の横で、なぜか榊原は納得したかのように頷いていた。
「ドクツルタケか……なるほど、確かにそれならあの死に様も納得できる」
「どういう意味ですか?」
瑞穂の問いに、榊原は小声で答えた。
「さっき検視官の言ったファロトキシン、ピロトキシン、アマトキシンという三種類の毒はドクツルタケ類に含まれている事で有名な毒素だ。そして、このドクツルタケによる中毒には他の毒キノコには見られない恐ろしい特徴がある」
「恐ろしい特徴?」
「ドクツルタケを摂取した場合、食べてから六時間程度で通常の毒キノコ同様の嘔吐や下痢、腹痛といった症状が現れるが、これは比較的早いうちに治ってしまう。このため単なる腹痛だと思って放置する人間が多いんだが、実際は血液中に吸収された先程の毒素が酵素と結合してたんぱく質の形成を阻害。これによりたんぱく質を供給できなくなった内臓がスポンジ状に変形し、一週間ほどした時点で突然何の前触れもなく第二波が襲い掛かる。こうなったらもう手遅れで、内臓が破壊された事による激しい激痛にもだえ苦しみながら、真っ黒な血を大量に吐血して死に至ってしまう。摂取した際の死亡率は九割近いと言われているほどで、欧米では『死の天使』なんて異名があるくらいだ」
「症状が時間差で襲ってくるって事ですか?」
「そうだ。しかも、一度治ったように見えてしまう事からかなりたちが悪くて、それで手遅れになってしまうケースが多い。第二波が襲ってくるまではごく普通に生活ができる事から、『家族に別れを告げる猶予を与えている』と言われるほどだ」
と、そこで瑞穂が何かに気付いたような表情を浮かべた。
「待ってください。じゃあ、被害者の死因がドクツルタケの第二波によるものだったとしたら……」
「あぁ。彼女が毒物を摂取したのは事件当日じゃない。ドクツルタケの第二波が発生するのは、食べた量にもよるが最短で三日、長くても一週間だ。つまり、彼女の死は別荘に来る前から決まってしまっていた事になる」
実際、捜査会議でもその点が問題になっているようだった。
「この事実を受けて、こちらの独断ですが、すぐに警視庁に問い合わせを行いました。被害者の本籍地は茨城ですが、現住所は東京都墨田区になっていましたので。その上で、彼女がここ一週間以内に病院もしくは薬局かかっていないかを確認してもらいました。結果、事件の一週間前の七月二十日の深夜、彼女が自宅近くの薬局で下痢止めの薬を処方してもらっていた事が発覚しています。他に該当する行動はありませんので、恐らく、これが問題のドクツルタケの第一波の症状だった可能性が高いと考えます」
「ドクツルタケの第一波が摂取してから六時間程度で発症するという事は……被害者が毒を摂取したのは薬局を訪れる直前という事か」
だとすれば、これが殺人かどうかもわからなくなってくる。この特殊な毒性ではさすがに自殺という可能性はないはずだが、誰かに食べさせられた事による殺人なのか、あるいは事故でドクツルタケを食べてしまったのかという二つの可能性が出てくるのである。
だが、それに対して検視官はすでに答えを持っているようだった。
「その件ですが、彼女がドクツルタケをどのようにして摂取したのかを警視庁側に調べてもらいました。もしこれが誤食による事故だとすれば早急な対応が必要になりますから。ですが、警視庁が調べた結果、思いもよらない結果が出てきました。被害者の友人たちの話によれば、彼女は日頃からキノコ類を食べられなかったという話なんです」
「何だって?」
にわかに話がきな臭いものになってきた。
「何でも、小学生の時に遠足で採ったキノコを誤食して中毒になった事があるそうです。幸い、この時食べたキノコの毒は大したことがなくて結果的に軽症で済んだようですが、それ以来彼女はキノコに対して異常ともいうべき拒否反応を示すようになったんだとか。実際、友人たちとの飲み会で鍋などを食べた際にも、彼女は絶対にエノキやシイタケを食べようとしなかったという事ですので、かなり筋金入りだと思われます」
「キノコを食べられなかった人間が毒キノコの食中毒で死ぬ、というのは不自然な話だな」
刑事たちの表情も一気に険しくなっていく。こうなると可能性は一つしかない。
「ドクツルタケの致死量は十五グラム程度……一本あれば充分に人一人殺せる猛毒です。その程度ならキノコとわからないように他の料理に混ぜる事もできますし、極端な話、ドクツルタケを煮込んだ煮汁を何かに混ぜるだけでも充分に効力は発生します。その上、肝心のドクツルタケはその辺の雑木林にでも行けば探すつもりがなくても見つかってしまうほど身近な存在で、入手自体は珍しくないと考えます」
「つまり、何者かが一週間前に被害者にドクツルタケを摂取させ、その効果が今になって出てきた可能性が高い、という事か」
だとするなら、これは間違いなく殺人である。と、ここで突然、正面の定野が後ろに座っている英美里に声をかけた。
「綿野先生、このような場で申し訳ありませんが、念のため一週間前のあなたのアリバイをお聞かせいただけますか? 関係者のアリバイは全員聞く事になっていますので」
「えっ!」
このような場でいきなりそんな事を聞かれて、英美里はどぎまぎしながら周りを見渡した。刑事たちの視線が自分に集中する中、英美里は必死になって記憶を思い出していたが、ふとある事に気付いて、必死に定野の質問に答えた。
「えっと、七月二十日は……大会前の合同合宿の引率で、群馬県の前橋市にいました」
「確かですか?」
「間違いありません。二泊三日の合宿の二日目で、東京に帰ったのは次の日でした」
「……そうですか。ありがとうございます。失礼かもしれませんが、この件については後で確認をさせて頂きます。急な質問をして申し訳ありません」
「は、はい」
そこで英美里に対する質問は終わったようだった。隣の瑞穂が心配そうに英美里を見ていたので、英美里は無理やり笑みを作って大丈夫だという事をアピールしておいた。
「いずれにせよ、この件については警視庁側との合同捜査が必要だな。摂取が一週間前なら現場はおそらく東京だ。その点に関しては後で県警本部長から掛け合ってもらおう。では、被害者の経歴に関しては?」
定野のその言葉に、検視官が座って代わって別の刑事が立ち上がった。
「えー、被害者は茨城県土浦市出身で現在二十九歳。都内の全寮制高校を卒業後、同じく都内の明正大学に進学。ルポライターとしては三年ほど前から活動をしていて、当時起こっていた三塚商事の粉飾決算をめぐる事件でいきなり特ダネをすっぱ抜いています。で、この三塚商事の粉飾決算なんですが……当局でさえ情報を掴んでいなかったのに、彼女は極秘裏に関係者と接触して内部告発を聞く事に成功し、その内部告発を元に記事を書き上げているようなんです。そしてここで、先日の榊原さんの推理にも出ていた別荘の主・金島頼経との関係が出てきます」
「……まさか、その内部告発者というのが?」
定野の問いに刑事は頷いた。
「はい。表向きにはなっていませんが、どうやら当時三塚商事の社員だった金島頼経のようです。金島は粉飾決算発覚後に三塚商事を退職して現在社長をしている『金島サイバーフロンティア』という会社を立ち上げ、短期間でかなり利益を上げています」
その発言に、英美里は思わず口に手を当てて驚いた。それを見て榊原が小声で尋ねる。
「綿野先生はこの事を知っていましたか?」
「い、いえ。金島君が三年前に今まで勤めていた会社を辞めて事業を起こした事は聞いていましたけど、その会社が三塚商事だったという事までは……」
英美里は少し動揺しながら答えた。三塚商事の粉飾決算事件なら、当時かなり問題になったから英美里もよく覚えていたが、まさか金島がその渦中にいたなどという事は思いもしていなかった。
「今、金島の話が出たが、問題の別荘から消えた十一人に関する情報はどうなっている? 毒を盛られたのが一週間前だったとはいえ、姿を消している以上、彼らが第一級容疑者であることに変わりはない」
定野のその問いかけに、別の刑事が立ち上がって答えた。
「ひとまず、全員の身上経歴の確認、及び毒を飲まされたと思しき七月二十日のアリバイ確認を行っています。今のところは、という条件が付きますが、綿野さんに話してもらった経歴と大きく外れているメンバーはいないようです」
その間に、他の刑事によって前のホワイトボードにどこで手に入れたのか十一人の顔写真が張り付けられ、それぞれの本籍地や職業などが書き込まれていく。英美里はその様子をまるで夢でも見ているかのように眺めていたが、その中でリタだけは写真だけ張られていて職業が空欄のままであった。身元調査をしていた刑事が解説を加える。
「リタ・クラークに関しては本籍がアメリカになっていますので、現在大使館を通じて確認をとっているところです。こちらは少々時間がかかると思われます」
「やむを得ないか……。話を戻そう。被害者が敏腕のルポライターだったという点は間違いないとして、彼女が今現在調べていたネタが何だったのかという点だ。それがわかれば被害者が金島の協力を得て現場の別荘に侵入した動機や、調査対象になっていたであろう人物についてもわかるはずだ。この点に関してはどうだ?」
その問いに対し、彼女の所持品を調べていた若い刑事が立ち上がった。
「現場に残されていた被害者のハンドバッグの中に、取材用と思しきノートが確認できました。中を調べてみたところいくつもの案件を同時並行的に調べているようでしたが、例の十一人に関係ありそうなものや三重に関連している事案は残念ながら確認できませんでした。ただ……」
不意に刑事はそう言い澱んだ。
「どうした?」
「……取材ノートではありませんが、一つ気になる事が。被害者の財布の中に金運上昇祈願のお守りが入っていたんですが、そのお守りの中を確認したところ、妙なものが見つかったんです。これなんですが……」
そう言うと、刑事はビニール袋に入った何かを示した。それは、くしゃくしゃにしわが寄った一枚の古い新聞の切り抜きのようだった。小さな記事で、地方新聞の三面記事のようにみえる。
「何の記事だ?」
「それが……五年前に熊野灘の魚島で起こった海洋生物学者の変死事件の記事なんです。恐らく、ここにいる人間ならよく知っていると思いますが」
その言葉に、定野をはじめとする県警の刑事たちの表情が険しくなった。
「五年前の魚島というと……『キロネックス事件』か」
「そうです。わざわざお守りに記事を入れていたところから見て、被害者は取材とは別にこの事件に関心があったと考えるべきです」
「何でまたあの事件を……」
刑事たちが一斉にざわめく。一方、わけがわからないのは英美里たちの方である。
「えっと、キロネックスって何なの?」
「さ、さぁ……私もわかりません」
英美里に問いかけられて瑞穂も困惑気味な表情を浮かべる。一方、それに対して榊原は短く解説した。
「キロネックスは確かオーストラリア辺りに生息する殺人クラゲの名前だったはずだが……どうやら、五年前に三重県内で何かがあったようだな」
そう言うと、榊原はそのまま無造作に手を上げて、定野に発言を求めた。
「失礼、その『キロネックス事件』というのは一体?」
「あぁ、すみません。何と言いますか、五年ほど前に県内の島で起こった事故の事でして」
「事故?」
「はい。熊野灘に浮かぶ魚島という島にあった個人経営の小さな水族館で、経営者でもあった宮森海次郎という海洋生物学者が事故死したという事件なんですがね。一応事故死という事になっていますがその死に様がひどかったもので、当時の県警の中でも語り草になっているんですが……」
そう言うと、定野は五年前に魚島で起こった惨劇……海洋生物学者の宮森海次郎が殺人クラゲ「キロネックス」の水槽に転落して凄絶な最期を遂げた事件の事をかいつまんで話した。その想像以上に悲惨な死に様に英美里と瑞穂は絶句していたが、対する榊原は平然とした表情でそれを聞いていた。
「なるほど……確かに、かなりインパクトがある事件ではありますね」
「触っただけで命にかかわるという事で、遺体の処理に愛知県警のテロ対策部隊まで駆り出されましたからね。問題は、なぜ成海洋子がこの事故の記事を後生大事に持っていたか、です。言った通り、悲惨ではありましたが公式見解ではあくまで事故死という事になっていますから」
「……『調べていた』ではなく『大切に持っていた』というのがみそですね。つまり、被害者にとってこの事故は単なる取材対象ではなく何か特別な意味があったと考えるべきでしょう。有体に言えば……事件の『関係者』」
その発言に、捜査本部にどよめきが走った。
「いや、しかし……事件当時の宮森海次郎は島に一人だけで住む孤高の海洋学者で、彼以外に関係者がいるとは……」
「確か、今の話だと遺体の発見者は『朝になって本土からやって来た飼育員』だったはずですね?」
榊原は鋭い視線を向けながら問う。その問いに、定野は戸惑いつつも頷く。
「え、えぇ。確かにそうですが……私の記憶だと、その飼育員は年配の男です。名前はちょっと覚えていませんが、確か昔は鳥羽水族館で働いていて、宮森海次郎に引き抜かれて働いていたとか……」
「その水族館ですが、個人経営とはいえそれなりの規模はあるんですね?」
思わぬ問いに定野は頷く。
「まぁ、確かにそうだったと思いますが……」
「だったら、少なくとも飼育員が宮森海次郎とその遺体を発見した飼育員の合計二人だけだったとは思えないんですが」
その言葉に、定野はハッとした表情を浮かべる。
「榊原さん、まさか……」
「その事件の記録、ちょっと調べてみた方がいいかもしれませんね。思わぬ掘り出し物が出てくる可能性があります」
その言葉に、何人かの刑事が即座に捜査本部を飛び出していく。英美里が呆気にとられて榊原の方を見ると、当の榊原は腕を組んで黙って目を閉じ、結果を待つ姿勢を見せたのだった。
結果は、三十分も待たずに出た。
「県警本部のデータベースにアクセスして『キロネックス事件』……正式名称『伊勢宮森水族館内変死事件』の事件記録を調べました。問題の遺体を発見した飼育員は鯖江和紀という男ですが、それ以外にも二人飼育員が雇われていました。一人は安野秀政という同じく当時三十代半ばの男性。そしてもう一人が……成海洋子となっていました」
その結果に、捜査本部が今までで一番のどよめきを見せた。定野が厳しい表情で問いかける。
「被害者はあの水族館の元飼育員だったという事か」
「彼女がルポライターとしての活動を本格化させたのは三年前。それ以前に飼育員をしていたとしても何の不思議もありません。しかも改めて調べた結果、彼女は明正大学理学部の中の、海洋生物学のゼミを受講していた事が判明しました。飼育員としての資格もこの時に取得していて、卒業した七年前に伊勢宮森水族館に雇われていたようです」
「ところが、五年前に例の事件で水族館は閉鎖。そして三年前からルポライターに転身した、という事か。しかし、何でルポライターになったんだ。そのまま別の水族館に雇ってもらう事もできたはずだが」
だが、その答えを定野はある程度予測しているようだった。そして、それは今まで黙って腕を組んで話を聞いていた榊原も同様のようで、腕組みを解いてポツリと呟いた。
「考えられるのは……被害者が例の『事故』に納得をしていなかった、という場合ですね」
「……事故の真実を調べるためにルポライターに転身した、という事ですか?」
確かに、そう考えればこの話の流れがしっくりくるのも事実である。
「もちろん、問題の宮森海次郎と被害者との間にどの程度の人間関係があったのかは調べる必要はありますが……宮森が彼女にとって大切な人間だったとした場合、事故とされた死の真相を調べるために行動を起こした可能性は捨てきれません」
だが、それならそれで問題はある。実際、定野はそれを指摘した。
「しかし、感情はどうであれ公式見解はあくまで事故です。当時の県警も死に様が死に様ですから事故かどうかの判定はかなり厳しく調べたはずで、その上で事故という結論を下しています。宮森の死が事故ではないと疑えるだけの明確な証拠はないはずですが」
続いて他の刑事も疑問を呈する。
「それに、仮にそうだったとして、彼女はなぜ今回金島の別荘を彼の協力を得て調べるなんて事をしたんでしょうか。現段階において、宮森水族館の事件と金島の別荘の事件を結び付けるものは存在しません。単に双方の事件が三重県下で発生しているというだけです。それだけでは二つの事件を繋ぐのは少々無理があるような気もしますが」
その問いかけに対し、榊原は素直に頷いた。
「確かに、捜査が始まった現状ではそれに答えられるだけの証拠はありません。ですが、もし仮に被害者が金島の協力でこの事件を調べていて、その調査対象として問題の別荘にいたメンバーを想定していた場合、船で出港したまま行方不明の彼らが今どこにいるのかという推測が成立するかもしれません」
「居場所って……まさか」
定野が目を見開いた。榊原はゆっくり頷く。
「もしかしたらですが……その水族館がある魚島にいる、という事はありませんか?」
その言葉に、全員が大きくどよめいた。そんな中、榊原は淡々と推理を進めていく。
「そもそも、当時はまだ予報で進路が外れていたとはいえ、台風が接近している海に船を出すこと自体が不自然です。しかし、これがもし台風にかこつけて『避難』という名目でメンバーを魚島に上陸させるための被害者と金島の策略だったとしたらこの奇妙な行動に関しても辻褄は合う」
「な、何のためにそんな事を……」
定野の問いに榊原は首を振る。
「現段階では詳しくはわかりませんが、もし金島や被害者がメンバーの中に五年前の事件の関係者がいると何らかの理由で判断していた場合、問題の島に連れて行く事で何らかの反応を起こすかもしれないと考えた可能性があります。つまり、金島がメンバーを島に連れ出してその反応を確認し、その間に成海洋子がメンバーの持ち物を確認して証拠をつかむ……そういう計画だったとすれば?」
「それは……」
定野が言いよどむ。本人が言うように現時点ではあくまで仮定を重ねた榊原の推測という側面が強いものではあるが、一概に否定できないものがあったのである。そしてそんな中、榊原は一瞬英美里の方をチラリと見やった後、こう続けた。
「そして、万が一メンバーの中に本当に五年前の事件に関与していた人間がいて、しかもそいつがこの金島達の計画を事前に何らかの方法で知ってしまったとした場合……そこに被害者を殺害する『動機』が生まれるはずです」
「っ!」
定野が息を飲んだ。それは、メンバーの中に成海洋子に毒を飲ませた人間がいるのではないかという疑いを榊原が明確に示した瞬間だった。ショックで英美里は言葉を失い一瞬気が遠くなりかけたが、そんな彼女を瑞穂が気を遣うように支える。
「何にせよ、その魚島とやらを一度ちゃんと確認しておいた方がいいのは間違いないでしょう。いれば万々歳ですし、いなかったらいなかったで、この推理が外れていた事が証明されます。どっちにしても捜査にはプラスになるはずです」
「……確かに、それはそうです。ただ……」
定野はそう言いながらチラリと窓の外を見やった。速度の遅さも相まって未だに三重県は台風の勢力下を抜け出ておらず、外は暴風雨が吹き荒れて窓に激しい雨を打ち付けている。この状況では船やヘリを出すなど自殺行為以外の何物でもない。
「予報では明日の朝くらいに勢力を抜けるという事ですが……歯がゆいですね」
定野は悔しそうにそう言った。本部を一瞬重苦しい空気が支配する。
と、その時だった。不意に捜査本部の電話が鳴り、担当の刑事がそれに出た。
「はい、志摩署捜査本部。はい……はい……何ですって?」
電話を受けた刑事の表情が厳しくなった。全員の視線がそちらに集中する。刑事はしばらく何事か受け答えをしていたが、やがてその表情を崩さないまま電話を切り、定野に向き直った。
「警部、例のリタ・クラークの身元に関するアメリカ側からの返答です」
「どうだった?」
「それが……リッチモンド証券という会社は確かにありましたが、そのリッチモンド証券にリタ・クラークという名前の社員は存在しないというのが会社側からの返答だそうです」
思わぬ答えに、全員が顔を見合わせた。
「確かか?」
「はい。彼女が転勤したと言っていたらしい日本支社にも問い合わせをしましたが、回答は同じだそうです。つまり、彼女は少なくとも職業を偽装していた事になります」
予想外の話に英美里は何が何だかわからなくなっていた。だが、英美里が状況を理解する前に話はどんどん進んでいく。
「じゃあ、彼女はいったい何者なんだ?」
「それなんですが、大使館側はFBIに頼んで急遽彼女の身元を確認してもらったそうです。少なくとも日本の大学に留学している以上、名前に関しては本物のはずですから。その結果、彼女に該当する人物が一人該当したそうです。ただ……その職業が問題でして」
「何なんだ?」
直後、刑事が発した言葉に誰もが今日一番の衝撃を受ける事となった。
「サンフランシスコ市警殺人課刑事。それが彼女……リタ・クラークの本当の職業だそうです」
それからしばらくして、リタ・クラークに対する本格的な情報が届いてきた。
「彼女が大学時代に早応大学に留学していたところまでは綿野さんの証言通りです。ただ、卒業して帰国した後、彼女はサンフランシスコ市警に就職して殺人課の所属の刑事になっています。そこまで派手な実績はありませんが、堅実に捜査を進めるタイプの刑事だったようですね。ただ、FBIが市警に問い合わせをしたところ、彼女は半年ほど前から一年間の休職届を出しているという事です」
「……彼女が日本支社に転勤になったと言って来日したのが確かその辺りでしたね?」
定野が確認を取り、思わぬ事実に呆然としていた英美里はかろうじて小さく頷いた。さっきから信じていた友人たちの裏の側面ばかり出てきていて、何を信じたらいいのかわからないというのが英美里の本音である。だが、事態は英美里の思考が追い付くのを待ってくれはしないようだった。
「それと……これはサンフランシスコ市警からの情報ですが、ここ数年、彼女と頻繁に接触していた日本人が一人いたとの事です」
「日本人だと?」
「はい。しかも、よりによってこのメンバーの一人でした」
そう言うと、刑事はボードに張られた一枚の写真を指さす。その先にあったのは、テニスプレーヤーの戸塚克人の写真だった。
「と……戸塚君?」
英美里は無意識にかすれるような声でそう呟いていた。その間にも、刑事は淡々と報告を続ける。
「戸塚克人はプロテニスプレーヤーとして大会のために度々渡米しています。そして、そのたびに必ずリタ・クラークと接触をしていたそうです。周囲には古い友人だと話していたようですが……」
「戸塚とリタには繋がりがあった、という事か」
定野が考え込む。
「それともう一つ。テニスプレーヤーとしての戸塚克人にはスポンサーがいたんですが、そのスポンサーは表向きセントリーという飲料品会社になっています。ところが、実際にそれ以外に表には出ない裏のスポンサーがいたらしく、その裏のスポンサーが……」
「まさかとは思うが……『金島サイバーフロンティア』か?」
定野の言葉に、刑事は黙って頷いた。
「要するに、戸塚克人を通じて金島とリタに繋がりがあったわけです。そして、今回の被害者である成海洋子は金島と繋がりがあった。いくら大半が大学時代の同級生とはいえ、これは異常です」
「偶然……には思えないな」
と、ここで榊原が静かに発言した。
「もしかしたら、今回の一件で成海洋子に協力していたのは、金島だけではなかったのかもしれませんね」
その言葉に、全員が榊原の方に視線を向ける。
「……つまり、金島だけでなく戸塚とリタも成海洋子の協力者だったという事ですか?」
定野の問いに榊原は小さく頷いて言葉を続ける。
「そもそも今の情報が正しいなら、少なくとも戸塚や金島はリタの正体が刑事である事を知っていたはず。にもかかわらず金島は綿野先生に対して彼女の職業をリッチモンド証券だと言っています。これは金島が彼女の正体を意図的に隠したとしか考えられません」
「……確かにそれはそうですね」
実際、こうして検討していくと金島の行動は明らかに不自然なものばかりであった。
「しかし、なぜこの二人なんでしょうか。協力者にしたという事は、金島と成海はこの二人が五年前の事件と関係ない事を確信していた事になります。そうでなければ仲間に引き入れるような事はしないはずです。しかし、どうやってその判断をしていたんでしょうか?」
刑事の一人が疑問を呈する。だが、これに対する榊原の答えは簡単だった。
「多分……アリバイですね」
「アリバイ?」
「さっきの話だと、五年前の事件が仮に第三者による殺人だったとした場合、現場の状況から見て直接現場にいないと犯行はまず不可能です。そうなると……」
「問題の五年前の事件当日のアリバイを調べて、その時明らかなアリバイがあった人間を犯人候補から除外した、という事ですか?」
定野が勘のいいところを見せる。
「もっとも、本人たちがいない現状では、五年前の彼らのアリバイを調べるのは難しいでしょうがね。とにかく、魚島への渡航が不可能なこの状況では、台風が通過するまでにできる限りの情報を収集するべきだと思いますが」
「……ですね」
榊原の助言に定野が頷くと同時に、刑事たちの表情が一斉に引き締まるのを、英美里は見て取っていた。
「ひとまず、先程も言ったようにドクツルタケの一件に関しては警視庁側に正式に捜査を依頼する事にする。毒を飲んだのが一週間前なら、現場は恐らく成海洋子の生活圏内だ。そっちは警視庁に任せる他ない。その間に、こっちはこっちで五年前のキロネックス事件に関する情報を洗い直す。万が一これが殺人で、それが今回の事件の遠因になっていたとするなら、三重県警として放っておくわけにはいかない。いいな!」
「はっ!」
その後は、刑事たちによる聞き込みや捜査手順の確認などの時間となり、英美里たちはそれを後ろの席からボンヤリと見つめている他なかった。やがて刑事たちが一人、また一人と出ていき、捜査本部は静かになった。
「さて、終わったようですし、一度私たちも外に出ましょうか」
「え、あ、はい」
不意に榊原にそう言われて、英美里は少し焦りながらパイプ椅子から立ち上がった。そのまま一度玄関前の正面ロビーまで降り、そこのソファに腰かける。
「あ、私、何かジュースでも買ってきますね!」
気を使ったのか、瑞穂はそう言って自販機があるコーナーへ走っていった。後には英美里と榊原だけが残る。チラリと時計を見るとすでに午前十一時になっていて、もうすぐ正午になろうかという時間である。チラリと玄関から外を見てみると、昨日よりは弱まっているとはいえ、まだまだ台風の暴風はやみそうな気配はなかった。
「どうでしたかね、捜査会議は?」
と、榊原が会議中とは全く違う穏やかな声で尋ねた。
「えっとその……正直、どうなっているのか……」
「お友達の事、ですね」
「……はい」
金島、リタ、戸塚……友人たちの隠れた一面を見せつけられて、英美里は正直何を信じたらいいのかわからなくなりつつあった。
「確か昨日の話では、綿野先生たちは早応大学探検サークルのメンバーだったんですよね」
「はい。山とか洞窟とか……色々行きました。今となってはいい思い出ですけど」
「卒業した後も付き合いがあったんですか?」
「えぇ。基本的に年に一回くらいのペースで不定期に会っていました。ただ、アメリカに帰ったリタは卒業以来会っていませんでしたけど、今年は来るっていう話だったから楽しみにしていたんです」
「その集まりは、いつもここの別荘で?」
「いえ、今までは都内の居酒屋なんかで会っていました。別荘に招待されたのは今年が初めてです」
と、ここで榊原が苦笑した。
「すみませんね、何だか尋問みたいになってしまって」
「い、いえ。大丈夫です」
「……もしかして会議中に質問された事を気にしておられるのですか?」
「それは……否定はできません」
あの突然のアリバイ確認は間違いなく肝が冷える思いだった。と、榊原は少し難しい顔をした後、首を振りながらこんな事を言った。
「恐らくですが、綿野先生を捜査会議に参加させた事自体、県警側の戦略だと思います」
「えっ?」
「あえていきなり捜査会議に参加させる事で先生の反応を見たかった、という事でしょうね。ですが、私が見る限り綿野先生の言動におかしな部分はありませんでした。アリバイもある事ですし、そこまで気にする必要はないと思います」
「警察って、そんな事までするんですか?」
「警察全体としてはわかりませんが、少なくともあの定野警部は、真相究明のためなら利用できる事は何でも利用する人間の一人です。だからこそ、事件捜査においては私も信頼をしているのですがね」
「はぁ……」
そのまま少しの間二人は無言になる。英美里は気まずくなって、やがてこう尋ねていた。
「あの……探偵さんは、元刑事なんですよね?」
「そうなりますね」
「どうして探偵になられたんですか? さっきまでの会議を見たら、刑事としても充分やっていけそうに感じたんですが」
実際、さっきの会議中での鋭い思考や発言の数々は、今のどこか穏やかな感じの雰囲気と違ってまさに凄腕の刑事そのものといった感じで、正直なところ、どこか畏怖さえ感じるものだった。だが、その問いに対して榊原は再び苦笑しながら答えた。
「まぁ、私も色々ありましてね。ある理由で、警察にいられなくなった……とだけ言っておきましょう。それでも、警察関係者の中には定野警部みたいに今でも私の事を信頼してくれる人間も多いんですが……正直、私にできる事は一つしかないんです」
「それは?」
「簡単ですよ」
榊原は何でもない風に言った。
「『真相を解き明かす事』です。刑事時代から私はこれしかできません。だから、探偵になってからも、私はただひたすらにそれを突き詰めているだけなんですがね」
「そう……なんですか」
と、そこに瑞穂がジュース缶を持って戻ってきた。
「お待たせしました! エミリー先生はこれが好きでしたよね」
瑞穂はそう言ってホットココアの缶を差し出す。英美里はありがたくそれを受け取り、タブを開けて少しだけ口に含んだ。心地よい暖かさが口の中に広がり、少しホッとした気分になる。
「はい、先生。とりあえず缶コーヒー買ってきました」
一方、榊原に渡されたのはどこにでも売っているような缶コーヒーだった。榊原は黙ってそれを受け取って複雑そうな顔でそれを飲む。ちなみに、瑞穂自身はオレンジジュースである。
「あ、そうそう。さっき定野警部が先生を探していました。伝えたい事があるらしいです」
「……そういう事は早く言ってほしいんだがね」
「今、言いました」
瑞穂の切り返しに、榊原はため息をついてコーヒーを飲むと、そのまま英美里に頭を下げた。
「すみません。そういうわけですので、少し外します。ここで待っていてください」
「は、はい」
英美里がそう返事すると、榊原はそのまま奥へと消えて行った。今度は英美里と瑞穂の二人だけが残され、瑞穂は少し気を遣うように英美里に話しかける。
「何だか、大変な事になってきましたね、エミリー先生」
「えぇ……そうね」
英美里としては、そう答えるのが精一杯だった。
「で、エミリー先生、どうですか?」
「どうって?」
「先生です。一日先生と過ごしてみて、どんな感想ですか? ちょっと聞いてみたいです」
「そ、そうね……」
改めて聞かれて、英美里は戸惑う。少し考えて、こんな感想を返した。
「何と言うか……パッと見た感じは何でもない平凡な人に見えたかな。正直、あの人があなたの言うように凄腕の探偵だって話は外見だけじゃ全く想像できなかったから。でも、捜査や会議中の発言とかはかなり鋭かったし、それにどう言ったらいいのかわからないけど……何というか、表面上のあの凡庸さとは違う何か異質なものが体の内にあるような気がしたわね」
英美里が色々と考えながらそんな感想を告げた。それを聞いて、不意に瑞穂はこんな事を呟いた。
「『探偵は、ただひたすら愚直に推理と論理に忠実であれ』」
「え?」
いきなりの事に英美里は驚いたが、瑞穂は真剣な表情で英美里に問いかける。
「先生の座右の銘です。唐突ですけど、エミリー先生は『探偵』って存在にどんなイメージを持っていますか?」
ふいに瑞穂からなされた問いに、英美里は戸惑った。
「どんなイメージって言われても……」
「多分、いかにも天才っぽいスマートでかっこいいイメージとか、天才過ぎてやる事なす事が他人から見るとわけがわからなく思える奇人・変人のイメージとか……何にしても、いかにも推理の主役らしく目立つイメージだと思うんです」
確かに、大抵の小説やドラマなどで描かれる探偵はそういうイメージの人間が多く、実際榊原に初めて会った時も、英美里はそんなイメージを思い浮かべていた。反射的に頷くと、瑞穂は少し苦笑気味にこう言った。
「私も昔はそう思っていました。だから最初に先生と会って、その後で先生が探偵だって知った時には正直ちょっとびっくりしたんです。こう言ったらなんですけど、パッとしない地味で疲れた中年サラリーマンみたいな外見で、私の想像する探偵のイメージとはかけ離れていましたから。その辺はエミリー先生と一緒です。でも立山高校の事件で先生に助けられて、弟子入りした後にその事を聞いたら、先生は何でもない風にこう言ったんです」
瑞穂は一度言葉を切ると、その言葉を告げた。
「『逆に聞くが、外見や言動がかっこいい事や天才的である事や奇人・変人である事が「探偵」である事の必要条件なのかね?』って」
その言葉に英美里は殴られたかのような衝撃を受けた。が、なおも瑞穂は言葉を続ける。
「それで、今のエミリー先生みたいに思わず言葉が出なくなった私に先生はこう続けたんです。『「探偵」であるための必要条件は、あくまで真相を暴く「論理力」と「推理力」があるかであって、それ以上でもそれ以下でもない。それ以外の要素はあくまで付加的なものに過ぎない。だから私は、「探偵」としてただひたすらに論理と推理を突き詰めただけだ。それ以外の付加的要素など、「探偵」として活動するにあたって私には一切必要ない』って」
正論ではある。正論ではあるがあまりに極端な意見に英美里は言葉を失っていた。それでも瑞穂はさらに言葉を紡ぎ出していく。
「確かに、先生はお世辞にもあまりかっこいい外見じゃないし、普通の大衆受けを狙った推理小説なんかだったら主役を張れるタイプじゃないと思います。最初に会った時はあの特徴のない凡庸な外見に油断したり侮ったりする人も多いですし、実際に捜査をしている段階だと頭の中で集まった情報の分析をするだけで必要最低限の事しか話さないから、はっきり言って地味に感じてしまう事も多いと思います」
苦笑気味にそう言いながら、しかし次の瞬間には瑞穂の表情は真剣なものになっていた。
「でも……その本質は探偵としての確固たる信念を貫いて、他の余計な要素を全部切り捨てた上で『探偵』としての本分である『論理力』と『推理力』を徹底的に昇華させてきた『論理の怪物』。『探偵』の本質である『論理』と『推理』の部分だけに完全に特化して、徹底して探偵の王道を突き進みながら、逆に王道を突き詰め過ぎて異常ともいえる存在。それが先生……榊原恵一という人間なんです。その外見と内面の強烈なギャップから、先生の事を知る警察や事件関係者は先生の事をこう呼んでいます」
いったん言葉を止め、瑞穂はその異名を告げた。
「己の信念に従って徹底して探偵の王道を行く男……『真の探偵』って」
シンプルな異名だった。だが、それだけに逆に榊原という『探偵』の底知れぬ実力を示すのにふさわしい異名にも思えた。
「あぁ見えて、先生は表に出ている以上に色々な事を頭の中で考えています。単に自分の中ですべての推理がしっかり固まるまではそれを表に出さないだけで、いざその時が来た瞬間に誰もが先生の本当の恐ろしさを知る事になるんです」
「その時って?」
英美里の問いに、瑞穂はこう答えた。
「もちろん、犯人との直接対決……今まで構築してきた論理を相手に叩きつけにかかる、最後の推理対決の瞬間です。古今東西に色んな探偵はいても、犯人との一騎打ちで先生の右に出る人間はいないと、私はそう思っています。エミリー先生、今まで地味だと思っていた人間が突然徹底した論理で自分を追及してきてくるような事があったら……それはとっても恐ろしい事だと思いませんか?」
その言葉に、英美里は何も答えられなかった。
「だから大丈夫です。先生だったら、どんな手段を使っても最終的にすべての謎を解き明かしてくれるはずです。ただ……その真相がハッピーエンドにつながるかどうかは、私にもわかりませんけど」
瑞穂はそこで言葉を切り、英美里も言葉を返せずに、そのまま何とも言えない沈黙が続いた。
と、そこへ奥から榊原と定野が戻ってきた事で、この気まずい沈黙は終わりを告げた。
「待たせたね」
「先生、何があったんですか?」
瑞穂が駆け寄って尋ねると、榊原は事務的にこう答えた。
「成海洋子の足取りに関して、東京の警視庁から連絡があった」
「え、もうですか?」
確か、さっきの捜査会議で正式に捜査協力を要請するはずだったはずである。その疑問に答えたのは定野だった。
「昨日の検視官からの調査要請があった時点で、警視庁側も事態を不審に感じて独自に動き始めたようです。もしこれがドクツルタケを使った遠隔殺人なら、会議でも出たように実際の現場は東京で、管轄は警視庁。向こうも、自分の管轄内で起こった殺人を見逃す事はできないと考えたようですね。事態はすでに複数の県警をまたぐ広域捜査になりつつあります」
「で、その結果なんだが……成海洋子がドクツルタケの第一波と思しき腹痛を訴えた七月二十日の行動を確認したところ、彼女は川崎に行っていた事がわかった」
「川崎って、神奈川の川崎市ですか?」
予想外の地名が出てきて英美里は瑞穂と思わず顔を見合わせる。定野がその詳細を教えてくれた。
「こちらに残されていた彼女の手帳の記述と照らし合わせた結果、その時彼女が調べていた神奈川県議会における汚職事件の『三河』という名前の関係者と会う約束だったらしい事がわかりました。手帳の記述によると、どうも『事件について極秘に話したい事がある』という密告の手紙があったようです。ところが、神奈川県警に照会してその三河という人物に連絡を取ってもらったところ、妙な事になりましてね。三河本人は『そんな待ち合わせなどした覚えがない』と言い張っているんだそうです。三河に嘘をつく理由もなく、そもそも問題の七月二十日、彼は一日中検察からの取り調べを受けていてアリバイは完璧です」
「という事は……」
「当然、三河は当日待ち合わせ場所に行っていません。どうやら、被害者は待ちぼうけを食らって、そのまま何も取材できずに帰ったようです」
「そして、その日の夜に、彼女はドクツルタケの第一波に襲われて薬局へと駆け込んだ」
榊原の言葉が、その場に重く響いた。瑞穂がおずおずと言う。
「それじゃあ……」
「恐らく、毒を盛られたのはその時だ。どういう方法なのかは向こうの捜査待ちだが……その関係者との待ち合わせのきっかけになった密告文というのも、犯人による偽装の手紙だった可能性が高い」
「つまり、誰かが被害者を偽の手紙で川崎に呼び出して、その時に何らかの手段で彼女に毒を飲ませる工作をしたって事ですか?」
瑞穂の言葉に、榊原は重々しく頷いた。
「出かけた先の川崎市で飲まされたのか、それとも留守にしている間に自宅の何かに毒を仕込まれたのか、そのどちらなのかまではまだわからないがね。警視庁側の話では、これから彼女の自宅の家宅捜索を行うらしい。そこでまた何か出てくるかもしれないが、ひとまずそっちは警視庁の捜査の結果待ちだな」
「だったら、これからどうするんですか?」
「さて、何しろこの台風だ、県警も頑張っているとはいえ、できる事に限界はある」
瑞穂の問いに榊原はそう答える。が、口ではそう言いながらもその目はすでに何か考えがある事をうかがわせるようなもので、案の定、榊原は瑞穂に向かって続けてこう言った。
「ただ、捜査会議でも言ったように、今回の事件はどうも五年前のキロネックス事件を発端にしているようだ。となれば、一つだけ確認しておかなければならない情報がある」
「それは……何ですか?」
英美里が思わず口を挟むように尋ねると、榊原は丁寧な口調で答えた。
「言うまでもなく、キロネックス事件における第一発見者……当時問題の水族館の飼育員だった鯖江和紀の証言です。ただ、会議の後で定野警部が追加調査をかけたところ、鯖江は事件後に故郷の尾鷲市で実家を継いで居酒屋を経営していたものの、その居酒屋が一年前に火の不始末から火事になって、その火事に巻き込まれる形で亡くなっていた事が判明しました」
「じゃあ、話はもう聞けないって事ですか?」
英美里の問いに、榊原はゆっくりと首を振る。
「確かに本人に話を聞く事はできません。ですが定野警部の話だと、事件当時に鯖江に事情を直接聞いた刑事が今でも伊勢警察署で勤務しているそうなんです。彼なら事件の事について何かを知っているかもしれません」
その言葉に、定野も頷きながらこう続ける。
「もちろん五年前に聴取をした際の調書は残っていますが、我々は直接彼に話を聞くべきだという結論に達しました。それともう一つ、先程の会議でも情報が挙がりましたが、キロネックス事件当時、伊勢宮森水族館には被害者の宮森海次郎以外に三人の飼育係がいました。そのうち成海洋子と鯖江和紀は死亡していますが、最後の一人である安野秀政という男の行方が今しがたようやくわかりましてね。県内にある二見オーシャンパラダイスで今も飼育員を続けているそうです。今となっては、キロネックス事件当時の水族館について知っているほぼ唯一の人間という事になるでしょう」
二見オーシャンパラダイスとは、伊勢市の夫婦岩近くにある海獣展示を中心とする大型水族館で、近隣の鳥羽水族館と共に三重県有数の観光スポットとして知られている施設だった。
「他の捜査員たちはそれぞれの作業で忙しいので、ひとまずは我々でこの二人から話を聞こうと思っています。その上で台風の勢力が落ち次第、我々は尾鷲市の尾鷲署に向かうつもりです。恐らく明日捜索する事になるであろう魚島が尾鷲港の方が近いので、第二の捜査本部を尾鷲署に設置する事になったんです」
定野に続いて、榊原が英美里にこう告げる。
「お聞きの通りです。なので、県警との話し合いの結果、我々もその移動に同行して、今日は尾鷲署で一泊させてもらう事にしました。そして、朝になり次第、地元の漁師の方にも協力してもらって、すぐに魚島周辺の捜索を行うつもりです。依頼人のあなたの意見も聞かずに勝手に決める事になりましたが、それで構いませんか?」
無論、英美里に異論などあるはずもなく、彼女はしっかりとその場で頷いたのだった。




