第五章 七月二十九日~さらなる惨劇
「赤橋君、君はこの事件の事をどう思っているんだい?」
赤橋がビニールシートに座って何ともなしにボンヤリと考え事をしていると、同じく隣で座っていた武美がそんな事を聞いてきた。時刻は二十八日午後九時、他には誰もいない。全員がいかだの中で休みをとっているところだった。
結局、あの後全員で南通路の大水槽前で固まる事となり、何とも重苦しい空気の中で半日を過ごす事となった。それぞれ言いたい事はいくらでもあっただろうがほとんど会話らしい会話はなく、たまにトイレに立つ人間がいる以外は特に何事もなく夕方を迎えた。この頃になるとようやく外の風雨の音は弱まってきたようだが、いずれにせよもう一晩をこの場で過ごさなければならないのは確実で、その夜間をどうやって乗り切るかが次の課題となった。
さすがに全員が水槽前のブルーシートの上で雑魚寝するという案は退けられ、各自のいかだの中で寝る事が確認された。だが、この状況では純子を殺した何者かが次の犯行を起こす可能性も捨てきれず、散々に話し合った結果、二時間ごとに二人ずつこの水槽前に見張りを立てるという事で決着した。少なくとも袋小路になっているこの場所なら、いかだ前に見張りさえ立てておけば見張りの目を盗んでいかだ内の人間を殺す事など不可能という判断からだった。
金島と純子がいなくなり、現在のメンバーは合計九人。二人ずつ分けると四ペアと余りが一人できる。誰か一人が余った一人と二回目の見張りをすればちょうど五ペアでき、二時間交代制なら十時間はこれで乗り切れるはずだ。そこで、ひとまず夜の八時から朝の六時までの十時間を就寝時間にするとして、見張りのペア分けが行われた。
女性二人での見張りは何かあった時に対応が難しいとリタが主張した事もあり、ひとまず女性陣は必ず男性とペアを組むという事が前提になった。結果、色々話し合った末に赤橋と武美、白松と美柑、戸塚とリタ、迫水と真凛の順番で見張りを行い、最初に見張りをした赤橋が余った稲城とペアになって最後の見張りをするという形で決着した。
かくして、午後八時を回った時点で赤橋と武美を除いた全員が疲れた様子でいかだの中に消え、残された二人は少し手持無沙汰な様子でいかだの様子を黙って見張る事になったのだった。そんな中、武美が冒頭のセリフを言ったのは、見張り開始から一時間ほどが経過した後だった。
「何だ、藪から棒に」
「真面目な話だよ。君はこの事件についてどう考えているのか知りたくなってね」
「勘弁してくれ。俺は学者ではあるが探偵ではない。こんな異常な事件を解決する頭脳は持ち合わせていない」
赤橋としてはそう答えるしかなかった。実際、やる事がない中で色々考えてはみたものの、どれだけ考えても何も思いつかず、つくづく自分がこの手の事に無力であると実感するだけに終わったのだった。
「そういうお前はどうなんだ、佐伯」
「私も同じだね。色々考えたけど、これだと思える考えは出てこない。サバイバルなら私の専門だけど、殺人事件は専門外かな」
「……結局、こういうのは素人が知恵を絞るより、素直に専門家に任せた方がいいって事か」
「だけどその専門家がいない以上、どれだけ門外漢であったとしても、私たちができる限り考える必要があるわけだけどね」
「耳が痛い言葉だな」
そこから、しばし無言の時間が続く。
「佐伯、今更なんだが……どうして自衛隊に入ったんだ?」
「……本当に今更だね」
武美は苦笑気味に赤橋の問いかけに応じた。
「言いたくないんだったら別にいい。ただ、気になってな」
「そうだね……ま、いい時間つぶしにはなるかな。でも、大した話じゃないよ。何て言うか、よくある話だし」
そう言ってから、武美は何かを思い出すように一瞬天井を見上げ、唐突にこんな事を言い始めた。
「言っていなかったけど、私、昔父親を亡くしてるんだ」
「え?」
「震災でね。中三の頃だったかな。家がつぶれて、父はその下敷きになった。私も家から出られなくなって、火が迫ってくる中で必死に助けを求めていたんだけど……そんな私を助けてくれたのが自衛隊だった。だから、私を助けてくれた自衛隊にあこがれるようになった。ありきたりだよね」
「……」
「色々あって大学へ進んだし、一時期就活もやっていたけど、自衛隊に入りたいっていう気持ちはむしろ膨れ上がる一方だった。だから、大学を卒業した後で自衛隊に入った。もちろん、家族からは大反対されたけど、私はこの選択を後悔していない。と、まぁそんなありきたりな理由だよ。おもしろくなかったんじゃないかな?」
「いや、その……」
何とコメントしたらよいのかわからず、赤橋は口ごもるしかなかった。
「逆に聞くけど、赤橋君は何で研究者に?」
「……別に佐伯みたいに大した志があったわけじゃない。就活に失敗したから大学院に進学するしかなかった。そのままズルズルと残り続けて……いつの間にかそれが生きがいになった。それだけだ」
「ふーん、私からすればそれもおもしろい人生だと思うけどね」
「人生、ね」
「そう、人生。……だから、どんな理由であっても、その尊い人生を潰した犯人は許せないよ。本当に」
そう言った時だけ、武美の表情は真剣だった。その雰囲気に、赤橋も気の利いた事を言える気がせず、黙って大水槽の方を見上げるだけにとどめた。
……結局、その後はしばらくの間、武美とは時々とりとめのない話をする事になったが、いずれも大した話に発展する事もなく、気付けば午後十時を回ろうかという時間になった。すると、次の見張り番の白松と美柑がもぞもぞといかだから顔を出してくる。一応寝ていたはずなのだが、二人とも全く疲れが取れていないのが一目でわかり、改めて自分も含めた全員が精神的にかなり疲弊しているという事実を突きつけられる事となった。
「交代だ」
「あぁ。後は任せるよ」
寝起きのせいなのかぶっきらぼうな口調の白松にそう言って、赤橋はいかだへ戻る。武美も美柑に対して何か言っているようだったが、それを確認する気力もなく、赤橋はいかだの入口を閉じて、その場に寝転んだ。どうやら、自分で思っていた以上に赤橋も疲れ果てていたらしく、しばらくすると赤橋の意識はスッと暗闇の中へと何の抵抗もなく沈んでいったのだった……。
「……おい……起きろ……」
……不意に体を揺さぶられて、赤橋は夢の淵から目を覚ました。もっとも、この状況では夢など見る事はできず、正確には急に意識が覚醒したと言った方がよかった。
体を起こしながら辺りを見回すと、懐中電灯の光の中で、迫水が赤橋のいる救命いかだの中に体を突っ込んで彼を起こしていた。咄嗟に携帯で時間を確認すると、時刻は七月二十九日火曜日の午前三時頃を指し示している。あの幻想的かつ恐怖に彩られていた山中純子の死から、すでに丸一日が経過しようとしていたところだった。
「起きたか」
「どうした? 俺の見張りはまだ先のはずだが」
赤橋は反射的に小声で迫水にそう尋ねる。が、迫水はなぜか厳しい表情を浮かべて重々しい口調で告げた。
「わかっている。だが、状況が少し変わった」
「というと?」
「リタと戸塚が消えた」
その言葉の意味を、赤橋は最初理解する事ができなかった。
「消えたって、どういう事だ?」
「そのままの意味だ。二人の姿がどこにも見えない。本来ならあの二人が一時間前に俺と花園を起こすはずだったのに、それもなかった。ふと気が付いたら三時だったから慌てて起きていかだの外に出たら、見張っていたはずの二人の姿がなかった」
「それぞれのいかだの中は?」
「もちろん確認したが、もぬけの殻だ。トイレにもいない」
次第に、事の重大さが赤橋にもわかってきた。
「誰かに襲われたのか?」
「いや、それならビニールシートの所に何か痕跡があるはずだし、悲鳴の一つでも上げたら嫌でも耳に入ったはずだ。だが、そのどちらもなかった。何にせよ、何か起こったのは間違いない」
「他のみんなは?」
「今、順番に起こして回っているところだ。幸い、他に行方不明になった奴はいなさそうだが……」
とにかく、赤橋もいかだから出る事にした。いかだから出た瞬間、反射的に目の前の大水槽の方に視線が向いたが、幸い今回は何も浮かんでいる様子はない。その前の懐中電灯式ランタンの前に、残った面々……稲城、白松、武美、美柑、真凛の五人が皆不安そうな顔で立っていた。
「二人が消えるなんて……何が一体どうなっているんだ」
白松が厳しい口調でそう吐き捨てた。
「とにかく、このままにしてはおけない。二人を探さないと」
「でも、どこを探すの? 私たち、ここに閉じ込められているのに……」
真凛が今にも泣き出しそうにしながら尋ねる。武美がそれに答える。
「今見た限り、この南通路と、トイレがある東通路に人影はなかった。北通路へ通じる扉は相変わらず閉鎖されたまま。残るは……」
「上だな」
全員の視線が天井に向く。もうそこしか残されていなかった。
「どうする、昨日みたいに決死隊を送るか?」
「いや、全員で行こう。こうなっては下手に分かれるのは危険だ」
迫水の問いに赤橋はそう答える。他のメンバーもその意見に賛成するように頷いた。
懐中電灯を持つ武美を先頭に全員で一塊になって、東通路の一番北にある階段室のドアの前に到着する。女性を先頭にするのはあれだが、この状況では自衛官の彼女が一番戦闘力のある人間であるためやむを得ないとの判断である。相変わらず北通路へのドアは閉じたままで、武美がバックヤードのドアを開けると、何の抵抗もなく開いた。
「……行こう」
武美の言葉に全員が緊張した様子で頷く。そのままバックヤードの中に入り、階段を上って二階に上がる。ドアを開けると、昨日同様にきつい潮の臭いが漂ってきた。
「うっ!」
初めてここに来る稲城が顔をしかめてそんな声を出す。声こそ出さなかったが、真凛や美柑もあまりいい気分ではないらしい。夜であるため当然天井のガラスの向こうは真っ暗であり、頼りになるのは武美の懐中電灯と、何人かが持つライターや携帯電話の明かりだけである。
その懐中電灯の光の中に、大水槽の脇に横たわる純子の遺体が映り、後ろの何人かが小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。だが、赤橋が見た限り遺体に変わった様子はない。
「どうだ?」
「……少なくとも、このフロアにおかしなところはないね」
武美が注意深く周囲を光で照らしながら言う。
「となると、残るはそれぞれの部屋の中か、あるいはまだ誰も行った事のないキャットウォークの向こう側……大水槽の西側のエリアか」
「だが、南側のバックヤード以外の場所は鍵がかかっているんだ。どうやって……」
と、その時だった。
「ね、ねぇ……そこのドア、開いてない?」
真凛の言葉に、全員が後ろを振り返る。彼女は顔を青くしながら、震える手で右の方を指さしていた。見ると、昨日は確かに閉じていたはずの北側のバックヤードに通じる扉が、わずか数センチではあるが確かに開いているように見えるのである。その瞬間、赤橋たちに緊張が走った。
「……昨日は、開いてなかったよな?」
「うん」
迫水の問いに、武美が頷く。当時同じ場にいた赤橋や白松も無言で頷いた。
「どうします?」
「どうするって……行くしかないだろう。どう見ても異常なんだから」
稲城の言葉に、迫水が声を引きつらせながらも言う。かくして、一行は慎重な足取りで北バックヤードへ通じるドアの前へ向かった。
まず、武美が懐中電灯でドアを何度か突っついてみるが、何も反応はない。それを確認すると、武美は慎重な手つきでゆっくりとドアを開け、サッと懐中電灯で中を確認した。
中は、昨日水槽のガラスを割って侵入した南の二階バックヤードとちょうど左右が逆になった感じだった。左手の大水槽側に色々なものが置かれている棚。右手に北通路の北側の壁にあった水槽の上部と思しき穴がいくつかあいている。恐らく、ここから北通路の水槽に餌をやったりしていたのだろうが、見た限り通路内に人気はない。また、奥の方の二つの水槽の上部には、もう使えない事を示しているのかそれぞれ大きな木の板が蓋のようにかぶせられており、水槽の中を見る事ができないようになっていた。そして、通路の一番奥には西側へ通じる扉があるようなのだが、そちらは完全に閉じている様子だった。
「見てくる」
武美は一言そう言うと、懐中電灯を照らしながら通路をゆっくりと進み始めた。誰もが固唾を飲んで見ている中、彼女はそのまま突き当りの西側のドアの前に到着する。が、何度かドアノブを回したのち、振り返ってこう叫んだ。
「駄目だ! 鍵がかかっていて開かない!」
「何とかぶち破れそうか?」
「……これは、無理だね。さすがに水族館のドアだけあって頑丈だ。第一、ぶち破れるなら既に南のバックヤードでやっているよ」
「じゃあ、最近開けられた痕跡は?」
この赤橋の問いにも、武美は首を振った。
「ないね。錆びもひどいし、埃もたまっている。これは長い間開けられていないと考えるのが自然だよ。昨日見た南バックヤードの西扉と同じだ」
「となると、どのような手段であれこのドアを開けて西エリアに誰かが入った可能性は低い、という事か」
赤橋が考え込む。それに対し、横にいた迫水が険しい顔で問いかける。
「しかし、それならどうして閉まっていたこの北バックヤードのドアが開いていたんだ? しかも、このドアにはこじ開けた形跡がない。となれば、こいつを開けた人間は鍵を持っているという事になる」
次いで、後ろにいた白松も疑問を呈する。
「それに……肝心の戸塚とリタの行方もわからないままだ。ここにいないとなると、もうあの腐りかけた大水槽のキャットウォークを伝って西エリアに渡ったとしか……」
「な、何のためによ?」
真凛が怯えながら尋ねる。と、これに稲城がこう答えた。
「もしかして……二人だけでここから逃げ出すつもりだった、という事はありませんか?」
全員の視線がそちらを向く。迫水が怖い顔で稲城を睨んだ。
「俺らを見捨てて逃げたっていうのか?」
「言った通り、二階の西エリアには誰も足を踏み入れていませんからね。もしかしたらそちらに脱出経路があると考えた可能性は否定できません」
「しかし、あの二人がそんな仲だったようには私には思えないんだが」
白松が複雑そうな表情で言う。そして、赤橋にも反論はあった。
「第一、脱出経路が見つかってもこの台風だ。外には出られても、島から逃げ出す事は出来ない。それはあの二人にもよくわかっていたはずだ」
「でも、ここからまったく出られないよりはましです。可能性はゼロでは……」
と、その時だった。
「いや、その可能性はゼロだと断言できるよ」
不意にこちらへ戻ってこようとした武美が横から険しい声でそう割り込んできた。今度は武美に全員の視線が向くが、その武美はなぜか通路の真ん中あたりで、横にある水槽の中を上から覗き込んでいた。
「なぜそんな事がわかるんですか?」
「ここへ来ればわかる。ただし、女子二人はそこで待っていた方がいい」
その言葉に、男子四人は一瞬顔を見合わせると、そのまま武美のいるところへ向かい、暗い水槽の中を覗き込んだ。そして、その次の瞬間、全員が言葉を失う事となった。
「こ……これは……」
水の入っていない暗い水槽の跡、その一番奥底……
そこに、首が不自然な方向に曲がったまま物言わぬ体となったテニスプレーヤー・戸塚克人が、武美の懐中電灯の光に浮かび上がるように横たわっていたのである。
「と……戸塚……」
迫水が呻くように呟き、赤橋、白松、稲城も絶句する。
「どうやら……殺人鬼の悪夢はまだ終わっていないようだね。残念ながら、だけど」
武美の言葉を、否定する人間は誰もいなかった。バックヤードの入口の所にいる真凛や美柑にも、全員の反応から何があったのか概ね予想はついている様子だった。
「ね、ねぇ……まさか……」
「戸塚君が……そこにいるんですか?」
「……あぁ」
赤橋は簡単に答えた。それだけで、二人とも何が起こったのかわかったようだった。
「そんな……」
「白松君、どうだい? 何かわかるかい?」
武美がそう尋ねる。白松は厳しい表情ながらも懐中電灯の限られた光源で目細めながら戸塚の遺体を観察し、それから険しい声で告げた。
「この暗さにこれだけの深さだ。ここからでは詳しい事はわからない。首が折れているらしいことはわかるが……」
水槽の深さは南通路の水槽同様二メートルほど。降りようと思えば脚立が必要である。
「南通路の水槽の脚立を持ってくるか?」
「その方がいいね。とにかく、このまま彼をここに放置しておくのは色々な意味でまずそうだ。それに本当に死んでいるのかも確認しないと」
「じゃあ、俺たちで持ってくる」
そう言って、迫水が稲城と一緒にバックヤードを出て行った。一方、美柑はなぜか青白い表情を浮かべている。
「あ、あの……その水槽って……」
「ど、どうしたの?」
伝染したのか、真凛も不安そうな顔を浮かべる。美柑は少し言いよどんでいたが、やがておずおずとこう言った。
「その水槽……もしかして、一昨日見た、五年前に宮森博士が死んだっていうキロネックスの水槽なんじゃ……」
そう言われて、赤橋たちはハッとした表情を浮かべる。慌てて水槽の位置を確認するが、確かにその水槽は、最初にここに来た時に見たキロネックスの水槽そのものだった。
「なんてこった……」
白松が呻き声を上げる。と、そこへ脚立を持った迫水たちが戻ってきた。
「持って来たぞ。ついでに南のバックヤードも確認してきたが、そっちも誰もいなかった。もちろん、水槽の中もな」
「今はそんな事より、遺体の確認だ」
赤橋の言葉に、二人は頷いて脚立を戸塚が倒れる水槽内部に下ろそうとする。が、脚立が一番下に届く前に妙な手ごたえがあった。
「これは……何か液体か?」
「え?」
「暗くてよく見えないが、水槽の底に何か液体がたまっているみたいだ。そんなに深くはなさそうだが」
改めて複数の懐中電灯やライターが水槽の底へ照らされる。確かに、水槽の底に数センチほど何かの液体がたまっていて、戸塚は半分そこにつかっている状態だった。初日に北通路から見た時、こんなものはなかったはずだ。
「何の液体だ?」
「わからない。ただ、こうなるとうかつに降りるわけにもいかないぞ」
赤橋の問いに、迫水が舌打ちして答える。
「とにかくまずは生死確認が先だ。私が脚立の上から確認する」
白松の言葉に、迫水たちは頷いて脚立を水槽内部に立てかけた。その脚立を白松が慎重に降りて行き、液体につかる一歩手前で降りるのをやめて、脚立の上から遺体を確認する。
「……駄目だ、脈はない。死んでる」
「死因はどうだい?」
武美の言葉に、白松は少し観察した後で答えた。
「首の骨折だな。それと頭頂部に損傷。状況的に考えて、水槽の上からここへ真っ逆さまに落ちて首の骨を折ったと考えるのが妥当だろう。あるいは誰かに突き落とされたか、だ」
「墜死か」
前回の純子殺害に比べるとかなりシンプルな死に様だった。もっとも、両方とも死んでいる事に変わりはないのだが。
「引き上げられそうか?」
「どうだろう。液体が衣服に染み込んでかなり重くなっているし、ロープか何かで引っ張り上げるにしても液体の正体がわかるまでは下手に触れる事もできない」
と、その時赤橋はある事に気付いた。
「おい、そこが水槽の中って事は、そこから逆に北通路がどうなっているかを見られないか?」
「え?」
「昨日とは逆に、そこのガラスを割って北通路に出られないかと聞いているんだ!」
「あ、あぁ、そうか!」
白松は咄嗟に脚立の上から持っていた懐中電灯を水槽のガラスの方へ向けた。真っ暗だった北通路に久々の明かりが水槽の内部から差し込む。
「どうだ?」
「……暗い上に、ガラスで光が反射してよく見えない。ここからだと扉がどうなっているかまではわからないな」
白松は慎重にそう言う。
「とにかく、そこのガラスを割って北通路への道を開こう。昨日水槽のガラスを割った消火器を持ってきて……」
迫水がガラスを割る具体的な手段を言い始めた……まさにその時だった。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!」
突然、水槽の中にいた白松が叫び声をあげ、危うく脚立から落ちそうになった。全員の目が水槽内の白松へ向く。
「どうした!」
赤橋の問いに対し、白松が返した答えは耳を疑うようなものだった。
「だ、誰かが……誰かが北通路に倒れてる!」
「何だって?」
バックヤードにいた全員が顔を見合わせた。この場におらず、それでいて行方がわかっていないのは金島とリタの二人だけだ。稲城が代表して問いかける。
「誰ですか! 一体誰が倒れているんですか?」
それに対して、白松は緊張した声で答えた。
「あ、あれは……リタだ! ここからでも金髪が見えるし、着ている服も彼女のもので間違いない!」
「そんな……」
美柑が絶句して両手で口を押える。戸塚に続いてリタまでもが異常な状態で見つかったと聞いて、もはや思考が追い付いていないのだろう。だが、それは他の面々も同じ事だった。赤橋が必死に叫ぶ。
「おい! 彼女は死んでいるのか?」
「わからない。ここからじゃよく見えなくて……ただ、ピクリとも動く様子がない」
状況は最悪だった。と、真凛が青ざめた表情で迫水にすがりつきながら叫ぶように言う。
「ね、ねぇ! 死んでいるのかわからないんだったら、とにかく助けに行かないと! まだ生きているかもしれないんだし!」
「そ、そうだな! 白松、予定通りそこの窓をぶち破って北通路に出て、リタの様子を確認してくれ! ぶち破るものは俺が探してくるから!」
「わかった」
白松がそう返事をし、迫水が手近な棚に何に使ったものなのか鉄パイプがあるのを見つけてそれを水槽の底の白松に渡す。白松はそれを受け取ると、脚立の真ん中に器用に立ちながら鉄パイプを思いっきり振り上げた。
「やるぞ!」
全員が固唾をのんで見守る中、白松は鉄パイプを水槽のガラスに叩きつけた。やがて、何度か叩きつけているうちに、激しい音共にガラスが廊下の方へ目がけて派手に割れる。
「よし、これで北通路に……」
白松がホッとしたように言った……その直後だった。
「グッ……?」
突然、脚立の上で白松の顔が歪んだ。何が起こったのかわからず赤橋がどうしたのか呼びかけようとした瞬間……
「ガ……ガァァァァァァッ!」
突然、脚立の上で白松がのけぞるような形で絶叫し、そのまま白い泡を吹いて水槽の底の戸塚の死体の上へ落下した。そのままピクリと何度か痙攣をし、しかしすぐに動かなくなる。いきなりの事態にどうする事もできずに絶句する赤橋たちだったが、しかし、この状況にいち早く反応したのは武美だった。
「これは……まずい!」
そう叫ぶや否や、武美は即座に全員に叫んだ。
「ここから逃げろ!」
「え?」
「早くこのバックヤードから出るんだ!」
「逃げろって、でも、白松はどうするんだ! 助けないと……」
「無駄だよ! もうどうしようもない! とにかく、早く!」
その剣幕に、真凛と美柑は今にも泣きそうになりながらバックヤードから飛び出していく。赤橋と迫水と稲城もそれに続き、最後に武美がバックヤードから出て扉を閉めた。全員が純子の遺体があるのにもかかわらず、大水槽の脇のスペースに座り込む。
「おい、どういう事だよ! 白松を放っていくなんて……」
迫水がそう言って武美に詰め寄るが、武美は悔しそうに叫ぶ。
「うかつだった! まさかここまでするなんて……」
「一体、何だったんですか! なぜ白松君は急に……」
稲城の言葉に、武美は少し顔を青ざめさせながらとんでもない事を答えた。
「多分……あれは毒ガスだよ」
「ど、毒ガス?」
とんでもない単語に全員がギョッとする中、武美は沈痛な面持ちで説明する。
「前に訓練で患者の映像を見た事があるんだ。多分、塩素系の毒ガスだよ。それが、密閉された北通路に充満していたんだ。ガラスを割った事でそのガスが水槽の中に入って来て、白松君はそれを吸って倒れた。今頃バックヤードの中はガスで充満しているはずだよ。助けに戻ったら今度は私たちも道連れになってしまう」
思わぬ凶器に誰もが何も言えないでいた。
「毒ガスって……そんなものがどうして……」
「予想だけど、多分トイレに残されていた洗剤を混ぜ合わせて発生させたんだと思う。一階と二階のトイレにあったものを全部使えば充分な量になったはずだし、もしかしたら館内のどこかに他にも備蓄されたままのものがあるのかもしれない」
「洗剤……よく『混ぜるな危険』って書かれているあれか!」
迫水が顔を歪ませて言う。
「二、三セット混ぜ合わせたら、北通路全体を汚染するくらいのガスは発生するはずだよ。死ぬ前の白松君が言ったように本当に北通路にリタが倒れていたなら、多分その原因もこの毒ガスのはずだ」
「何て事だ……」
稲城が絶句する。一方、赤橋はそれによって生じた問題を指摘した。
「もし北通路に毒ガスが充満しているなら、厄介な事になったぞ。少なくともこれで、北通路を強行突破して脱出するという手段は封じられたわけだ。この状況だと北バックヤードに入るわけにもいかないし、さらに言えばバックヤードに置きっぱなしにしたから脚立も二度と使えなくなった。それどころか……」
「もしこれが誰かの仕業なら、寝ている時に北通路の扉を開けるだけで私たち全員を殺す事ができる、って事だね」
その言葉に、美柑と真凛が小さな悲鳴を上げる。その場を、重苦しい沈黙が支配した。
「……ひとまず、一階へ戻りましょう。ここにいても仕方がありません」
しばらくして稲城がポツリと呟く。その提案を否定する人間は、もはやこの場には誰もいなかった。
階段で一階に戻ると、赤橋たちは少し相談した上で自ら東通路と南通路を隔てる扉を閉鎖する事にした。万が一誰かの手で東通路と北通路を隔てる扉が解放されて毒ガスが放たれたとしても、これでひとまず全員がなす術もなく即死という事態は避けられるはずである。トイレにも簡単に行けなくなるが、もうこうなってはそんな事を言っている場合ではないというのが全員の判断だった。
現在時刻は二十九日午前四時。一行は水槽前のビニールシートの即席ランタンの前で円になって座り込んでいた。誰も何も話す事もなく、その暗さもあって重々しい雰囲気がただよう。
「……こんな時に何だが、状況を確認しておきたい」
と、不意に迫水がそんな事を言い、全員の視線がそちらへ向いた。
「まず、戸塚と白松が死んだことに異論はないはずだ。戸塚は遺体を直接この目で見たし、白松に至っては目の前で死ぬ所まで見た。あれが演技だとは俺には思えない」
「えぇ、それは僕も同感です」
稲城が疲れたように同意する。
「そして、その白松の言葉だと、リタもガスで充満した北通路で倒れていたらしい。直接見たわけじゃないし、こうなっては確認なんかできないが、もしそれが本当ならガスで充満した通路にいたリタの命は絶望的だろう。それに、直後に死んだ白松があの場面で嘘を言うとも思えない」
「三人が一気に死んだわけだ。これで……残るは六人。さすがに台風はもうすぐ通り過ぎると思うが、救助が来るまでにこれ以上死ぬわけにはいかない」
赤橋の言葉に、全員が緊張した表情を浮かべる。
「というより、その救助の方が危ないかもしれない。ガスが充満していたって事は、多分北通路と西通路の間にある扉の方も閉じているって事なんだろう。開いていたらさすがにガスが充満するって事はないはずだからな。となれば、入口から入ってきた救助隊が下手に北通路に通じる扉を開けたら、彼らの方がガスでやられかねない。そうなれば危険だからという事で救助がさらに遅れる可能性さえある。そうならないためにも、何とかしてここから脱出する必要があるわけだが……」
迫水は忌々しげにシャッターで閉じられた南通路と西通路を繋ぐ西の扉を見やった。脱出するとなればもうあそこしかないが、今の状況であのシャッターを開けるだけの力は自分たちにはない。
「……なぜ、あの二人は見張りを放棄して勝手に行動したんでしょうか?」
稲城がそんな問いを発した。赤橋が考え込む。
「それも謎だな。というより、リタがもし本当に北通路で倒れていたなら、あいつは何らかの方法で閉鎖されていた北通路に侵入した事になる。問題はいつ、どうやって、だ」
と、ここで美柑がおずおずと手を上げる。
「あの、少なくとも二人は私と白松さんが見張りを交代した時は生きていました。午前零時ちょうどの事ですけど……」
「あぁ、そうか。あの二人の前の見張りは君だったな。つまり、少なくとも午前零時まであの二人は間違いなく生きていた事になる」
「そして、俺たちが遺体を見つけたのは午前三時過ぎ。死亡推定時刻はこの三時間の間だな。もっとも、検視の技術を持つ白松が死んで、肝心の遺体もガスの中に隔離されてしまった今となってはそれ以上死亡推定時間を縮める事は出来ない。まぁ、今回は肝心の見張りがいなかったわけだから、山中の時と違ってアリバイも何もないわけだが」
迫水のその言葉に反論する人間は誰もいない。本来人の出入りを証言するはずの見張り自身が殺されてしまっているわけだから、それもやむを得ない話だろう。
「何にしても、問題はリタがどうやって北通路に入ったのかだ。可能性として考えられるのは、扉を閉めたのが犯人である以上、犯人自身が扉を開けておいたという可能性だ」
「で、中に入った瞬間に扉を閉めて、後は毒ガスでゆっくり殺す、か?」
迫水が慎重にそう言う。
「不満か?」
「不満というか、疑問がある。状況的に、リタと戸塚は二人行動していたはずだ。なのに、何であの二人は別々の場所で殺されているんだ? 仮にリタが北通路に閉じ込められてガスで殺されたとして、一緒にいたはずの戸塚は何でそれを黙って見ていたんだ? 扉を閉める犯人に何もしなかったっていうのか?」
「それは……」
確かにそれは難しい疑問だった。
「二人別々に行動していたとかじゃダメなんですか?」
美柑がおずおずと言うが、迫水は納得しなかった。
「すでに殺人が起こっているこの状況で、危険を冒して単独行動すると思うか? どうもあいつらの行動がよくわからないんだよ。山中の事件の時にはアリバイを中心に考えればよかったが、正直、この事件に至っては何を問題にしたらいいのかもわからない。こう言ったら何だが……気持ち悪い事件だ」
その言葉に、誰も何も言えなかった。皆が同じような印象を抱いていたのかもしれないし、実際、犯人以前に被害者たちの行動が意味不明過ぎて何も考えを進める事ができないのである。そのまましばらく、誰もが無言のまま考え込む時間が過ぎていく。
「……なぁ」
と、不意に迫水が低い声を出すと、続けて誰もが言い出せずにいた事を告げた。
「誰がやったと思う?」
瞬間、その場に別の意味での緊張が走る。そして、赤橋が険しい表情でそれに応じる。
「どういう意味だ?」
「ごまかすのはよそう。昨日の時点ではうやむやになってしまったが、こうなった以上、誰が犯人なのかを一刻も早く突き止めないと危険なのは明白だ。これは明らかに人為的な殺人事件だ。殺人事件である以上、そこには必ず犯人がいる。そしてその犯人は……」
「俺たちの中にいるかもしれない。そう言いたいのか?」
改めて発せられたその言葉に、生き残ったメンバーはそれぞれの反応を示した。表向き冷静な表情を浮かべている者、動揺して疑心暗鬼の表情を浮かべている者……
「だが、昨日の時点でその可能性は否定されたはずだ。他でもない、山中殺しの際には全員にアリバイがあったんだからな。だからこそ俺たちは他の人間を疑わずに一致団結できたはずだ」
「だが、その結果は新たな殺人だ。もちろん俺も昨日結論したような第三者の犯行の可能性を捨てたわけじゃないが……この際聞くが、お前らはその結論で本当に納得しているのか? こんな廃墟の水族館に俺ら以外の第三者がいると、本気でそれを信じているのか?」
再び誰も答えられなかった。実際、昨日は自分たちの中に犯人がいると思いたくないがゆえに全員にアリバイがあるとわかった時点でその結論に飛びついたものの、正直な所、こんな絶海の孤島の廃墟に第三者がいるなどとはとても思えないのも確かだった。そして、事態はもはやそんな希望的な願望にしがみついていられるほど生易しいものでなくなっているのも事実である。それはすなわち、昨日はうやむやに終わってしまった「自分たちの中に犯人がいる可能性」について本気で考えなければならないという事を示していた。
「駄目元で聞いてみるが……この中に自分がやったと自白する奴はいないか?」
迫水の問いに全員がギョッと表情を浮かべたが、しかし誰も手を上げない。もっとも、迫水自身も誰かが手を上げる事は期待していなかったようで、どちらかと言えば全員の反応を見るのが目的のようだった。
「……ま、そんなに簡単に自白するなら、こんなに演出過剰な事件なんか起こさないか」
と、ここで真凛が絶叫した。
「な、何よ! この中に犯人がいる事を決めつけたみたいに……」
「じゃあ、他に誰がやったっていうんだよ! さっきも言ったが、第三者が犯人である可能性は限りなく低い! まさか、五年前に死んだ宮森博士の怨念が犯人だとか馬鹿げた事を言うんじゃないだろうな?」
迫水が少し声を荒げながら言う。さすがに精神的にかなり追い詰められているようで、赤橋は少し声を押し殺した上で迫水を注意した。
「迫水、少し落ち着け。闇雲に疑っても疑心暗鬼になるだけだ。そうなったら逆に犯人の思うつぼだぞ」
「しかし……」
「そもそも俺たちの中に犯人がいたのなら、問題になるのは昨日の山中殺害時のアリバイだ。どれだけ怪しかろうが、アリバイがある以上はただの机上の空論に過ぎない。お前もさすがに山中殺しの犯人と今日の三人の殺害が別人の犯行だとは思っていないだろう」
「それは……その通りだが」
いくらなんでも、この島に殺人犯が二人もいるなどと考えたくもない。第一、あくまでも直感ではあるが、この演出過剰な一連の犯行は同一人物によるものと考えた方が自然なのも確かだった。
「もし、この中に犯人がいるなら、昨日のアリバイは偽装されたものであるという事になりますね」
稲城が思案気に言う。だが、これには美柑が反論した。
「で、でも……昨日、私が水槽の前で絵を描いていたのは偶然です。私が二時過ぎから朝までずっと水槽の前で絵を描くなんて誰も予想できませんし、その予想できない事を前提にアリバイの偽造なんてできるんでしょうか……」
「一応聞くけど、昨日の午前二時過ぎから絵を描き始めた事に何か意味はあったのかい?」
武美の問いに、美柑は首を振った。
「いえ、単に目が覚めたのが二時くらいで、眠れなくなったから気まぐれでいかだから出て絵を描き始めただけなんです。だから、誰にも私の行動は予想できなかったはずです」
と、ここで迫水がこう反論した。
「逆に言えば、このアリバイをコントロールできるのは夏沢、お前だけという事だな」
「確かにそうだが……この場合、真っ先に疑われるのは当の夏沢だ。彼女が犯人なら、そんな自分を追い込むような事をするとは思えないんだが」
赤橋が即座に反論を重ねる。議論は平行線で、しかも犯人がメンバーにいるとしても、肝心のアリバイを偽造した手段の糸口さえわからない状態だ。
と、ここで武美が意見を述べる。
「昨日は否定されていたけど……いなくなった金島君がやったという可能性は考えなくてもいいのかな? 犯人が私たちの中にいないなら、それくらいしか考えられないんだけど」
「……確かに、ここまでくるとその可能性についても真剣に考える必要はあるかもしれないな。何しろ、俺らをクルージングに誘った張本人なわけだからな」
迫水が考え込む。と、ここで稲城が少し難しい表情で告げた。
「いえ、怪しい人間はもう一人いますよ」
「誰だ?」
「リタです。何しろ、我々は直接彼女の遺体を見たわけではないんですから。あくまで白松君が北通路に彼女が倒れていると言っただけで、しかもその白松君も死んでしまっているんです。彼が本当にリタの遺体を見たのか、それを確認する術が存在しない以上、我々は本当にリタが死んでいるのかどうかも疑う必要があります」
「白松が嘘をついたと? だが、さっきも言ったがあの様子はとても嘘をついているようには見えなかったが」
「いえ、白松君が嘘をついたのではなく、リタの遺体に見える何かを見たとすればどうでしょうか。あの時白松君は、あくまで『金髪でリタが生前着ていた服を着た何かが倒れているのを見た』と言ったにすぎません。それが本当にリタだったのかは、毒ガスのせいで今も確認はできていないんです」
確かに、考えてみれば生き残ったメンバーの中でリタの遺体をまともに確認した人間は誰もいないのである。
「そして、仮にこれが正しいなら、毒ガスを使った今回の殺人が行われた理由にも説明がつきます。すなわち、誰か一人にリタの『遺体』を確認させたうえでその目撃者を殺害し、他の人間に遺体を確認させないまま『リタの死』を演出できるわけですからね」
意外に説得力のある推察だった。全員がしばし考え込む。
「……一理あるが、だとすると山中殺しのアリバイはどうなるんだ? 確か、リタは死亡推定時刻に一度もいかだから出ていないはずだったよな」
「は、はい、そうです。昨日の問題の時間に、私はリタさんを一度も見ていません。そして、山中さんの遺体が水槽に飛び込んできたとき、確かにリタさんはいかだから顔を出していました」
美柑がはっきりと証言する。赤橋は考えながら言葉を紡いだ。
「つまり、彼女は山中の死亡推定時刻にずっといかだの中にいた……犯行は不可能に近い」
「だが、稲城の話が無視できないのも事実だ。少なくともリタの遺体を実際に確認できるまでは、頭の片隅に置いておく価値はあると思う」
迫水の言葉に、赤橋も頷かざるを得なかった。
「でも、金島君やリタが犯人だったとして、いったいどこに隠れているんですか? 私たちが閉じ込められているという事は、犯人も外から中に入れないと思うんですけど……」
美柑が遠慮がちに問いかける。確かに、それは問題だった。
「毒ガスが充満した北通路や北バックヤード、それにあの異臭が漂う冷凍室に隠れるのは不可能だ。だが、それ以外の場所はさっき一通り調べたが、誰もいなかったのはここにいる全員が知っている事だ」
実は、二階からここに戻る前に二階の東側エリアは全員で一通り調べていた。が、南バックヤードや調餌室、トイレも含めて人影らしいものはなく、さらに降りた後で一階のトイレなども調べたのだが、少なくとも現段階で赤橋たちが行ける範囲内に第三者が隠れているような痕跡は一切確認できなかったのである。
だが、これに対して迫水が難しい表情で言った。
「いや、一ヶ所だけ調べていない場所がある」
「それは?」
「言うまでもない。二階の大水槽の上のキャットウォークの向こう側……二階西エリアだ。今まではキャットウォークが見るからに錆びついていたから渡るに渡れないでいたが、もしあのキャットウォークがまだ使えたとすれば……」
全員が重苦しい表情をする。確かに、その可能性は考えなければならなかった。
「実際の所、どうなんだ? 今にも落ちそうなあのキャットウォーク、渡っても大丈夫なのか?」
「こればかりは実際に試してみるしかないね。ただし、もし失敗したら腐りきった海水のたまった大水槽に落ちる事になる。あの様子じゃ水中にどんな雑菌が繁殖しているかわからないし、下手をしたら命にかかわるかもしれない」
武美が深刻そうな顔で言った。
「つまり、検証するなら命を賭けろって事か。どうする、それでも西側に行ってみるか?」
迫水の問いに、答える者はいなかった。正直、あまりにもリスクが高すぎる。だが、放っておくわけにもいかないのも事実だった。
「議論の余地はないでしょう。万が一あっちに本当に犯人がいるなら、このまま手をこまねいているわけにはいきません」
「決まり、だな」
稲城の言葉に、赤橋が重苦しく告げた。とはいえ、全員で行く必要がないのも事実であり、結局色々話し合った末に、赤橋と迫水、武美の三人が実際の探索に向かい、稲城、真凛、美柑が南通路に残る事となった。
「気を付けてください」
「あぁ、油断するつもりはねぇよ」
稲城の激励に迫水がそう答えると同時に、武美が先程閉じたばかりの東通路に通じる扉をゆっくりと開ける。東通路に異常はなく、三人は懐中電灯を持った武美を先頭に慎重な足取りで先程撤退したばかりの二階へ向けて歩き始めた。誰も何も語らないまま階段室に到着し、階段を上って二階の東側エリアのキャットウォークの前に到着する。武美が懐中電灯の光を反対側に向けると、暗闇の中に薄ぼんやりといくつかのドアがあるのが見えるだけだった。
「さて……誰が最初に行く?」
迫水が問いかけるが、誰も答えない。正直、誰も最初に行きたくないのは同じなのだが、だからといってこのままでいるわけにもいかない。しばらくして、迫水がため息をついてこう提案した。
「仕方ない。ここは公平にジャンケンで決めよう」
「この状況でジャンケンとは、シュールにも程があるね」
武美が珍しく少し自嘲気味にそう言ったが反対する気はないようであり、残る赤橋もあえて否定する気にはならなかった。結局、傍らに虚ろな視線の純子の死体が転がっている前で三人はジャンケンをし、その結果、赤橋が最初にキャットウォークを渡る事が決まった。赤橋に懐中電灯を渡しながら、武美が忠告する。
「危ないと思ったら、すぐに引き返すようにね。真ん中で落ちたら助けられないかもしれないから」
「御親切にどうも」
やや皮肉気にそう答えると、赤橋は一度軽く深呼吸をし、覚悟を決めたようにキャットウォークに足を踏み入れた。武美に言われるまでもなく、少しでも崩れそうな気配がしたら即座に足を引っ込める気でいたが、いざ歩いてみると予想以上にキャットウォークはしっかりとしており、このまま充分向こうに渡れそうではあった。とはいえ、それは一人しか渡っていないから言える話なのかもしれず、実際二人くらいまでならまだしも、さすがに三人一緒にこのキャットウォークを渡るのは厳しいかもしれないと赤橋は感じた。
「大丈夫か?」
「あぁ、強度は問題ない。一人ずつ渡れば何とかなりそうだ」
そのままなるべく速足で対岸に渡る。それを見て安心したのか、迫水と武美も慎重な足取りながらキャットウォークを渡り、三人は今まで誰も足を踏み入れた事がなかった二階西エリアに到着する事に成功した。
「……見た限り、人の気配はないな」
迫水が油断なく周囲を見ながらそんな感想を漏らす。西側エリアの構造は東側エリアの構造を左右逆にしたような形になっていて、壁に沿うような形で北西に一室、西側に二室、南西側に一室の合計四室が確認できる。それぞれの部屋のドアには東側同様にプレートがはめ込まれており、北西の部屋には『飼育員室』、西側の二室は北が『ポンプ室』、南が『仮眠室』となっており、南西の部屋は『館長室』という表記が見えた。また、南北のバックヤードに通じる扉もあったが、南側のバックヤードに通じる扉の前にはいくつもの灯油缶やドラム缶が積み上げられて開ける事ができなくなっている。北側のバックヤードに通じる扉の前には魚を入れるのに使うであろうプラスチック製の大型の青い桶が無造作に放置されている以外何もなかったが、北バックヤード内に毒ガスが充満しているため、こちらも開けようという気にはなれなかった。
「おいおい、これ、ほとんどの缶にまだ灯油やガソリンが入ったままだぞ」
と、南バックヤード前に積み上げられた灯油缶やドラム缶を調べていた迫水が呻くようにそんな事を言った。
「多分、機械のために備蓄していた物なんだろうね。閉館時に処分できずに置きっぱなしにしたってところかな」
「にしたって不用心な話だな」
そんな事を言いながら、三人は一部屋ずつ確認していく事にする。まず気になったのは、やはり館長室だった。試しにドアノブをひねると、思ったよりあっさりと開く。
「行くぞ」
迫水の合図で、三人は館長室へと足を踏み入れる。そこは今までの部屋とは違い、館長だった宮森海次郎の私室とも言える場所だった。床にはカーペットが敷かれており、周囲の壁には本棚が所狭しと設置されていて、その本棚に古びた書籍や業務用と思しきファイルが並んでいる。部屋の中央には来客用と思しきソファとテーブル。そしてその奥に宮森の物と思しき机が置かれており、埃がたまった机の上に電気スタンドと固定電話が置かれているのが見えた。
「まさかな」
そう言いながら赤橋は固定電話に近づき、受話器を手にとって耳に当てる。が、すぐに黙って首を振ると、受話器を元あった場所へと戻した。
「駄目だ。通じていない」
「だろうな。むしろ、通じていたらそっちの方がちょっとした怪談だ」
迫水はそう言って肩をすくめる。一方、武美は周囲の本棚を確認しているようだった。
「ほとんどは研究関連の書籍とか論文、それに経営関係の書類とかだね」
「何か役に立ちそうなものはあるか?」
「そうだね……今のところこれといったものは……」
武美はそう言いながらも、諦めきれないのか作業をしばらく続ける。手持無沙汰になった赤橋も何気なく近くにあったファイルを確認してみるが、中身はこの水族館の水設備に関する解説書のようなもので、文系の赤橋からしてみればよくわからないものも多かった。例えば今赤橋が読んでいるページにはこんな事が書かれていた。
『当館は近隣の海の水をポンプ操作で直接汲み入れており、なるべく生き物たちが従来の環境のまま生活できるように尽力しています。また、排水に関しては一度地中に埋設されたろ過設備に送り、そこで一度汚れなどをろ過した上で再び海に返す、環境に優しいシステムを採用しています(大水槽の場合、概ね三十分で作業が完了します)。以下、具体的な装置の説明ですが……』
……こんな調子で書かれている退屈な文章をしばらく流し読みしていた赤橋だったが、結局この状況を打開できるようなものは確認できず、また当然のことながら室内に自分たち以外の人間がいるような痕跡も確認できなかった。だが、宮森の机を調べていた迫水だけは、少し気になるものを見つけたようだった。
「これ、どう思う?」
迫水が取り出したのは小さな金属製のケースで、そこには「キーボックス」の文字が書かれていた。どうやらこの水族館の鍵を補完していたケースのようだが、残念ながら開けてみても中には鍵一本入っていないようだった。
「さすがに、ここが閉館した時に処分したんだろうな。一本でも入っていたら御の字だったんだが、そんなにうまくはいかないか」
ひとまず、館長室の探索はその程度にして、赤橋たちは次の『仮眠室』に移る。どうやら宮森館長や宿直する飼育員が仮眠をする場所だったようで、いくつかの簡易ベッドの残骸の他、奥にはシャワー室や更衣室と思しき空間もあるようだった。ただ、この部屋は他の部屋以上に備品などの残骸が多く詰め込まれているようで、足場がなくて中を探索する事は不可能だった。もちろん、人がいる痕跡など全くない。
その隣のポンプ室はもっと悲惨な状況だった。その名の通り、大水槽の水の吸入・排出を管理する部屋のようなのだが、長年放置されていたせいなのかポンプ装置そのものがひどく破損しており、一般的な廃墟に放置されている機械類のようにほとんど破壊された状態となっていた。先程館長室で赤橋が見た資料によれば、この大水槽には二つのポンプと排水口が設置されているらしく、実際にポンプ室内の機械の残骸の傍には『北ポンプ』『南ポンプ』と書かれた張り紙がしてあり、ポンプ装置も二台あったようなのだが、今となってはその区別さえつかない状況であった。近くにある燃料式の自家発電装置も同じ有様であるのがなお物悲しく感じられたが、いずれにせよここにも人影らしい物はなく、赤橋たちは早々に探索を打ち切って最後の部屋である『飼育員室』の確認へと向かう事にした。
「どうでもいい話だが、大水槽はこの部屋で水の管理をするとして、北と南の水槽の水の管理はどうなっていたんだろうな。それらしい装置はさっきの部屋にはなかったが……」
赤橋の素朴な疑問に答えたのは武美である。
「多分だけど、それぞれのバックヤードにポンプを管理する装置があるんだと思うよ。大水槽と違って、一つ一つの水槽を個別に管理する必要があるからね」
「なるほど」
そんな事を話しているうちに、三人は『飼育員室』の前に到着する。
「ここが最後だ。もしこれだけ探して誰もいなかったら……いよいよ本格的に最悪の可能性を考えなければならなくなるかもしれないな」
迫水がそんな事を言うが、赤橋も武美も何も言い返す事ができない。個人差があるとはいえ、何人もの人間が殺されているこの状況で、皆が皆、精神的に限界なのも事実なのだ。それがわかっているのかいないのか、迫水は特に返事を期待した様子もなく、最後に残った『飼育員室』のドアを無造作に開け、懐中電灯で中を照らした。
部屋の中は、本当に飼育員の控室といった風だった。館長室とは違ってタイル張りで、中央に長机とパイプ椅子。部屋の壁沿いにはいくつかの個人ロッカーや作業用の合羽が数着かけられたままのハンガーラックが置かれており、隅の方に湯飲みや給湯器が置かれたままの洗面台と冷蔵庫があるのが印象的だった。
三人は互いに頷き合い、部屋の中を調べていく。だが、個人ロッカーの中にはほとんど物らしい物が入っておらず、冷蔵庫も当然ながら電源が入るわけもなく、中には賞味期限が五年前のまま未開封になっている缶ジュースがいくつかあるだけだった。もちろん、飲んでみる気など起こるわけがない。
「……何もないな」
「あぁ」
「そうだね」
すべてを調べ終えた後、三人が発した言葉はシンプルだった。二階の西エリアにも誰もいない。それが意味する事を、誰もまだ認めたくはなかったのである。
「……戻ろうか。俺はもう疲れた」
迫水はただそれだけ言った。そして赤橋や武美は無言で頷く事しかできなかった。ここに至り、事態はもう赤橋たちにとって手詰まりになりつつあったのだった……。