第四章 七月二十七日~別荘の死体
さて、時間をさかのぼる事半日前……すなわち、七月二十七日日曜日の午後八時頃。台風の接近に伴い激しい風が吹き荒れる中、志摩半島南部の志摩市の海沿いにある金島所有の別荘に向かって二台の車が走っていた。一台は黒い乗用車で、その運転席には東京の波ノ内中学校社会科教師・綿野英美里の姿が見える。また、その助手席には彼女と一緒に乗りたいとせがんだ元教え子の女子高生・深町瑞穂の姿があった。
そのすぐ後ろにぴったり張り付くようにして、黒の乗用車とは対照的な白黒のパトカーが走っていた。運転しているのは先程警察署で紹介された三重県警刑事部捜査一課の定野正純警部で、助手席には定野を紹介した元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一の姿がある。
パトカーの中で何かを話している定野と榊原の二人をバックミラー越しに見ながら、英美里は慎重に車を別荘へ向けて進めていた。油断しているとすぐに風にあおられてしまいそうで、車内には何とも言えない緊張感が漂っている。
「でも、びっくりしました。エミリー先生って、早応大学の出身だったんですね」
と、助手席にいた瑞穂が緊張を紛らわせるためかそんな事を聞いてきた。
「別に自慢して言う事じゃないわ」
「でも凄いです。ちなみに、何学部だったんですか?」
「……法学部よ。あの頃は弁護士になりたいって思っていたのよ。もっとも結局諦めて、こうして先生をしているわけだけど」
英美里は少し苦い思いで告白した。
「へぇー。あ、そう言えば少し気になってることがあるんですけど、東京に住んでる先生が何で自家用車で三重まで来たんですか? 私たちみたいに電車とかを使うのが普通だと思うんですけど」
急に話題を変えられて英美里は戸惑ったが、素直に質問に答える。
「それなら簡単。私、出身が名古屋なのよ」
「え、そうだったんですか?」
「そう。で、ここに来る前に名古屋の実家に顔を出してね。台風の接近でもしかしたら電車が運休するかもと思ったから、実家で自動車を借りて走って来たのよ。納得できた?」
「はーい」
そう言う瑞穂に、今度は英美里が問いかけた。
「それより、私こそ聞きたい事があるわ。深町さんは、どうしてあの榊原って探偵さんを先生って呼んでるの? しかも助手だなんて……高校に入学した後に何があったの?」
その問いに、瑞穂は少し真剣な表情になると、おもむろにこう問いかけた。
「……エミリー先生は、私が卒業してから少しして起こった事件を覚えていますか?」
「事件?」
「はい。去年の六月に、私の通う立山高校で起こった事件です。当時、かなりニュースになっていたから、多分知ってると思うんですけど……」
そう言われて、英美里の頭に何か光るものがあった。
「そう言えば……都内のどこかの高校で生徒が殺される『殺人事件』があったって聞いた覚えがあるわ。確かあれは……」
「校舎内の別々の場所にいた四人の生徒が、同時刻にほぼ同時に殺害されるという前代未聞の同時多発殺人事件でした。現場は立山高校の敷地内。そしてその事件で殺されたのは、全員立山高校ミステリー研究会のメンバーでした」
「ミステリー研究会……って事は、まさか……」
思わず瑞穂の顔を見た英美里に対し、瑞穂は小さく頷きながら答えた。
「はい。部員だった私は、他のメンバーと一緒にこの事件の容疑者になったんです」
まさかそんな事が起こっていたとは想像もしていなかった。その間にも瑞穂は話を続けていく。
「別々の場所にいた四人の人間が同時に殺害された不可能犯罪に警察は苦戦を強いられていて、私も何が起こったのかわかりませんでした。でも、そんな中でこの事件に介入して、そしてこの前代未聞の不可能犯罪のトリックを解き明かした人がいたんです。表向きは警察が解決した事になっていますから、名前が出てくる事はありませんけど」
「それがまさか……」
「はい、先生です。私は、実際に先生が圧倒的な推理で犯人を徹底的に追い詰める現場に立ち会いました。その推理を見ている中で、私は学校では教わらないような社会の色々な側面や考え方を先生から学びたいと思ったんです。だから、私は先生の助手になりました」
瑞穂はそう言って小さく微笑んだ。想像以上に壮絶な過去に、英美里は何と言っていいのかわからなかった。
「だから、何かあっても大丈夫です! 一度ちゃんと依頼を受けたからには、先生は何があっても真相を解決してくれますから。それは実際に助けてもらった私が保証します!」
「……尊敬しているのね」
「もちろんです!」
と、そんな会話をしているうちに、車は別荘の前に到着した。先程同様に別荘の明かりはついておらず、人気は全くない。自分が警察を呼んでいる間に誰かが帰って来てくれるのではないかという淡い期待はものの見事に打ち砕かれたようだ。
二台の車が玄関の前に停まると、英美里たちは車の外に出た。激しい風で傘などあまり役に立たず、急いで玄関の前に走り込む。そして英美里は玄関のベルを鳴らしたが、相変わらず中から反応はなかった。
「確かに、誰もいないようですね」
榊原はそう言って玄関をじっと観察し、ドアノブをひねったりするが、鍵はかかった状態だった。と、定野が風雨に負けないような大声で英美里に質問する。
「全員でどこかに出かけている可能性はないんですか?」
「それも考えましたけど、私が来る事がわかっているのに遠くまで行くとは思えないんです。それに、さっき通り過ぎた駐車場にもみんなの車が置きっぱなしでしたし……」
と、そこで榊原が不意に口を挟んだ。
「失礼。綿野先生、最初にここに来た時、確認したのはこのドアだけですか?」
「そうですけど……」
「この別荘、裏口のようなものはないんですかね?」
その問いに、英美里は戸惑ったような表情を浮かべた。
「わかりません。私、ここに来るのは今回が初めてですし」
「……少し周りを調べてみましょう」
そう言うと、榊原は傘を差し直して壁に沿って移動し始めた。他のメンバーは慌ててその後についていく。そのまま家を半周した頃、不意に榊原の足が止まった。
「やっぱりあったか」
そこには、いかにも勝手口という風なドアがあった、そして、榊原が試しにドアノブをひねると、ドアは何の抵抗もなくするりと内側へ向かって開いた。全員が顔を見合わせる。
「留守にしても鍵をかけていないというのはおかしいですね」
「入ってみましょう。綿野先生、構いませんか?」
榊原の言葉に英美里は頷き、それを確認すると全員が勝手口から中へと慎重に入っていった。どうやらキッチンのようではあるが、中は真っ暗で物音一つしない。
「すみません! 誰かいますか?」
榊原が叫ぶが、返事はない。不気味な静けさだけが別荘内を支配している。館内は基本的に土足らしかったので、榊原たちはそのまま部屋の奥へと足を進めた。奥のドアを開けるとその先は廊下になっていて、左右には複数の部屋。一番奥に玄関と思しき扉があり、その手前に二階へ続く階段がある。
「二手に分かれて調べよう。私と瑞穂ちゃんが二階。定野警部は綿野先生と一階を頼みます」
「わかりました。気を付けてください」
定野がそう答えると、榊原と瑞穂は頷いてそのまま慎重な足取りで奥の階段の方へと向かって行った。それから少し遅れて定野と英美里が一階の部屋を調べていく。だが、これと言って不審な点はなく、同時にメンバーの姿もない。
「しかし、随分広い別荘だ」
定野が独り言のように呟き、一際大きなドアを開ける。そこはリビングルームだったようで、中央のテーブルに何も乗っていない汚れた皿やグラスが雑多に置かれているのがわかった。ここで立食式の食事をしていたらしい。
「どうやら、最近までここに人がいたのは間違いなさそうだ」
定野が難しい表情で言う。さらに探してみると、リビングからはここにいた人間のものと思しきバックなどの荷物もいくつか見つかった。それらを調べると、英美里に見覚えのある名前が書かれたものが確認できた。
「例のメンバーのものですか?」
定野の問いに英美里は黙って頷いた。つまり、金島達がこの別荘にいたこと自体は間違いないのである。問題は、彼らが荷物を置いたままでどこへ行ったのかという事だった。
と、その時だった。
「定野警部!」
不意に二階から大声が響いた。慌てて二人が部屋を出て階段の前に行くと、階段の上から榊原が手招きをしていた。
「何か見つけましたか?」
「見つけはしましたが……ちょっと厄介な事になりました。とにかく来てください」
その言葉に階段を上がると、そこは宿泊用の個室がたくさん並んでいるようだった。そして、その一番奥の部屋の前で瑞穂が少し青ざめた表情で立っているのが見えた。榊原が黙って二人を促す。
定野は訝しげな表情を浮かべて後に続いたが、しかしそれは一番奥の部屋の中を見るまでだった。そして、続けて部屋の中を見た英美里は、思わず悲鳴を上げそうになった。
「これは……」
定野が険しい顔で部屋の中を見やる。その視線の先……
そこには、大量の血飛沫がそこら中に飛び散った部屋の中央で、全身血塗れになって床に突っ伏して倒れている、英美里が見た事もない女性の姿があったのだった……。
……それから一時間後の午後九時頃、台風が吹き荒れる別荘の前に何台もの警察車両が集結し、別荘内は三重県警の捜査員たちでいっぱいになっていた。特に遺体の見つかった別荘二階の一室では、定野率いる刑事部の刑事たちや鑑識が捜査を進めていた。
「どうだ?」
定野が遺体を調べている検視官に尋ねる。検視官はしばらく黙って遺体を見続けていたが、やがてこう結論付けた。
「解剖してみないと正確なところはわからないが、角膜の混濁や死斑、死後硬直後の具合などから考えると、死亡推定時刻は六時間前から五時間前といったところだな」
「今が午後九時だから……今日の午後三時から午後四時くらいか。それで死因は? これだけの出血となると、まともな死に様じゃなさそうだが……」
ところが、その問いに対して検視官は首を振った。
「それが、確認をしてみたんだが、死因につながるような目立った外傷らしいものはない。出血にしても、ほとんどが口から出ているようだ。恐らく体内からの出血だろう」
「口からって……これだけの血を一人で吐血したっていうのか?」
定野は少しギョッとしたように血飛沫で染まっている部屋を見回した。
「そうとしか考えられんな。外傷がないところから考えて、死因は毒物による中毒と考えるのが妥当だろう。もっとも、何の毒なのかはさっきも言ったように解剖してみないとわからないが……少なくとも青酸カリみたいなありふれた毒物じゃなさそうだ」
そう言いながら検視官は黙って被害者の両手を示した。見るとその周辺の床にひっかいたような傷が多数存在し、手の爪も剥がれて別の意味で血まみれになっていた。
「相当苦しかったんだろう。いきなりショックが襲ってきて、血を吐き、周囲をひっかき、のたうち回りながら短時間で死に至ったらしい。ひどい死に様だ」
「これだけの毒性となると、即効性のはず。一体、どこから摂取したんだ?」
「わからんが、注射痕みたいなものは確認されなかったから、恐らく経口摂取だ。一応、部屋の隅にそれが落ちていたがな」
検視官の言葉に遺体の脇を見ると、そこには小さなピンクの水筒と、食べかけのサンドイッチ、それにチョコレートの包み紙が何枚か落ちていた。どうやら軽食をとっていたようだが、毒死となればまずこの辺から疑う必要があるだろう。すでに、鑑識が回収作業を行いつつあるようだった。
と、志摩署から駆け付けてきた初動捜査班の刑事が定野の所に駆け寄ってきた。
「警部、所持品に財布が。中から運転免許証を発見しました」
「被害者の身元は?」
英美里の言っていた別荘にいるはずのメンバーと一致するかと定野は思ったが、読み上げられたのは全く別人の名前だった。
「えー、成海洋子、二十九歳。本籍地は茨城県土浦市になっています」
「ここへきて第三者の登場か……。財布の中には他に何か?」
「現金が約五万円と、いくつかのポイントカード。それにこの名刺が入っていました」
刑事はそう言ってビニール袋に入れられた名刺を差し出す。そこに書かれていた文字を見て定野は眉をひそめた。
『週刊「アクション・フォト」専属ライター 成海洋子』
「ルポライターか」
確かに、短く切りそろえた髪に動きやすそうなズボンという服装は、ルポライターという職業にマッチしたものである。だが、それならそれでなぜルポライターがこんな場所で死んでいるのかが全くわからない。
と、ここで鑑識が部屋に入ってきて現状を報告した。
「別荘内については問題なく鑑識作業ができるが、この台風じゃ別荘周辺の鑑識は無理だな。下手に強行すれば二次災害が発生する可能性がある。もちろんやれる限りのことはやるつもりだが、台風が通り過ぎた後でやっても痕跡はすっかり洗い流されている可能性が高い。別荘外からの証拠採取は絶望的と思ってくれて結構だ」
「やむを得ないか」
定野は忌々しげに窓から外を見やった。台風の接近に伴って風雨はますます激しさを増している。足跡などの痕跡があったとしても、これではどうしようもない。
「引き続き、室内の捜索を頼む」
「わかりました」
定野はいったん現場を出ると、階段近くにある部屋へと向かった。そこが臨時の捜査本部になっており、英美里、榊原、瑞穂の三人はここで待機をしている。中に入ると、三人が一斉に定野の方へ顔を向けた。
「被害者の身元が分かりました。成海洋子という二十九歳のルポライターです。綿野さん、この名前に心当たりはありますか?」
定野の問いに、英美里は顔を青くしながらも首を振った。
「いいえ、初めて聞く名前です。全く知りません」
「そうですか……。ちなみに、今日の午後三時から四時の間、あなたはどこにいましたか?」
その問いに英美里は顔を上げる。
「それって、私が疑われているんですか?」
「いえ、形式的な質問です。どうですか?」
「……その時間なら、ちょうど名古屋の実家を出たところです。実家に確認を取ってもらえればわかります。家族の証言は信用できないというなら、実家を出るときにちょうどお隣の家の人がやって来て挨拶したから、それで家にいた事は証明できます」
「名古屋の実家を出たのは正確には何時ですか?」
「多分……午後三時半過ぎだったと思います。ここに到着したのは午後六時頃で、その後すぐに違和感を覚えて伊勢署に行きました」
その話が本当なら、名古屋を出発してから三十分で志摩半島にある別荘に到着するなど物理的に不可能である。英美里のアリバイは成立しそうだった。
「ところで、被害者の死因は?」
榊原が厳しい表情で尋ねる。確かに、あの惨状を見ればそれが気になる話だろう。
「検視官の話だと、外傷がない事と血の大半が口から吐かれている事から、強力な毒物による毒物服用の可能性が高いという事です」
「毒殺って事ですか?」
思わぬ死因に瑞穂が目を丸くする。
「殺人かどうかはまだわかりませんが、状況から考えて自殺の線は薄いと思います。こうなると別荘のメンバーがどこに消えたのかという事が本格的に問題になってくるわけですが……」
定野が難しい表情を浮かべる。あの後、徹底的に別荘内を捜索したが、結局この死体以外に別荘内に人がいない事が確認されただけだった。メンバーの行方は未だに不明である。
「状況的に考えて、一番考えられるのはここにいた十一人全員が共犯で彼女を殺害し、犯行後にそのまま全員で逃亡したというケースですね」
「そんな……」
定野の推理に英美里が絶句する。だが、ここで不意に榊原がどこか鋭い口調で言葉を挟んだ。
「その結論を出す前にいくつか確認しておかなければならない事がありますね」
「何ですか?」
「別荘内の状況を見るに、綿野先生の友人たちがこの別荘に一度来てから出て行った事については間違いないでしょう。問題は『どうやって出て行ったのか』です」
「どうやってって……車じゃないんですか?」
定野の答えに榊原は首を振った。
「さっき駐車場にあった車の数を確認しました。全部で三台。この別荘にいたと思われるメンバーについては綿野先生から今さっき詳細を聞きましたが、それによるとメンバーの大半は東京在住で、車でここに来る可能性があるのは、綿野先生を除けば別荘の所有者である金島頼経自身と、新聞記者として取材のためにほぼ毎日自動車を乗り回している迫水真太、そして奈良の駐屯地在住で実家も奈良県内にある佐伯武美の三人だけだそうです。つまり、駐車される可能性のある車の数も三台。駐車場にその三台の自動車がある以上、彼らは自動車を使っていないと考えるべきでしょう。もちろん、後でナンバーからそれぞれの車が誰の所有なのかは確認しなくてはなりませんが」
「しかし、レンタカーでも借りれば……」
「わざわざ車を持っている人間がいるのにレンタカーを借りるような事は普通しません。正確なところはこの付近のレンタカーの営業所を調べる必要はあるでしょうが、恐らく空振りになると思います」
「しかし、ここは志摩市街地からも離れた海沿いの森林地帯です。ここ以外に付近に人家はないし、どこに行くにしても徒歩というのはまず考えられません」
定野が渋い顔をしながら言うと、榊原は頷いた。
「確かにその通りです。だとするなら、方法は一つしかありません」
「それは?」
「この別荘の所有者が金持ちで、しかも別荘を建てるなら他にも候補地があったにもかかわらずわざわざ海沿いに造っている点……その事実を考えれば、ある程度は推測できます」
そう言うと、榊原は定野にこう告げた。
「至急、調べてほしい事があります。この別荘の近くに桟橋のようなものがないかという点と、もしあればその桟橋に今現在一隻でも何らかの船舶が係留されているか否かという点です」
結果は三十分もかからずに出た。部下の刑事から報告を受け、定野が少し興奮した様子で駆け込んでくる。
「榊原さんの言った通りでした。この別荘のすぐ近くに海に突き出た桟橋があります。今は台風の荒波で近づく事すらできなさそうですが、遠目で確認した限り、船は一隻も係留されていません」
「そうですか」
榊原は冷静にその結果を聞いていた。
「榊原さんは彼らが船でここから出て行ったと考えているんですか?」
「自動車や徒歩の可能性が消えた以上、残る可能性はそれしかないでしょう。これだけ立派な別荘に桟橋まであるのに一隻も船が係留されていないというならなおさらです」
「では、彼らは事件が発生した後、船で逃亡したと?」
だが、定野のその言葉に榊原は頷かなかった。
「それをはっきりさせるためにもう一つ調べる必要があるものがあります」
「何ですか?」
「言うまでもなく、彼らの携帯です。携帯は位置情報が記録されるから、そこから彼らの行動を推察できるでしょう」
榊原は断言した。だが、定野は気まずそうにこう反論する。
「えっと、榊原さんに言われるまでもなくそれはもう調べてあります。殺人事件になりましたから、裁判所からの令状が下りて電話会社から記録が提出されたんです。ですが、電源が切られているのか現在の所全員の携帯が所在不明になっていて、後を追う手掛かりにはなりそうもありません」
しかし、榊原はその答えに対してさらにこう再反論をした。
「もちろん、それで現在の居場所がわかるとは私も思っていません。問題は、彼らがいつこの別荘を出たかという事です」
「いつ、ですか?」
「先程の推理で、彼らが船でここから出て行った事がわかりました。携帯の位置情報は数ある電波送信所のどのエリアにいるかを識別するものだから、そのエリア範囲外である海上では位置情報を記録できない。よって、携帯の位置情報はある程度海岸から離れた時点で消失するはずです。という事は、全員の携帯の位置情報が一斉に消えた時間が特定できれば……」
そこまで聞いて、瑞穂が何かに気付いたように声を上げた。
「そっか! 位置情報が消えた時間が、みんなが船で出港した時間だって特定できる!」
「そういう事だ」
榊原は、そのまま定野を見やる。
「それで、結果はどうなんですか?」
「え、えぇ……それなんですが……」
定野は言いにくそうに答えた。
「確かに榊原さんの言うように、ある時間を境に全員の携帯の位置情報が消滅しています。その直前にいたエリアはこの別荘のあるエリアでしたから、船で出て行ったという推理は間違っていないんでしょう。ただ、問題はその時間が午後一時になっているという点です」
榊原は目を細めた。
「午後一時……先程の聞き方だと、成海洋子の死亡推定時刻は本日の午後三時から四時という事ですね?」
「はい。つまり、榊原さんの推理が正しいなら、成海洋子が死んだのはここにいたメンバーが船で出港して以降の話という事になるんです。もっとも被害者の死因は毒死ですから、仮にこれが殺人だったとしても、あらかじめ毒を仕込んでおけば別荘にいなくても犯行は可能ですが……」
定野の言葉に榊原は少し何か考えるようなそぶりを見せたが、すぐにこう答えた。
「いいでしょう。ひとまずその点について置いておく事にして……もう一つの大きな問題についても一通り考えておく事にしましょう」
「大きな問題、ですか?」
「被害者がいつ、どうやってこの別荘にやって来たのか……具体的にはメンバーが別荘にいた午後一時前からいたのか、それとも彼らが船を出した午後一時以降に来たのかです。それによって事件の状況が大きく変わってくるはずです」
そう言われて、定野が息を飲んだ。確かに、その点は大きな問題になってくる。
「言った通り、ここに来るには車か船が必須ですが、桟橋に他に船がない以上被害者が自分で船を操舵してきた可能性は低いし、それは車でも同じ事です。例の駐車場にメンバー以外の車らしきものはなかったし、駐車場以外にそれらしき車が周囲に駐車してある様子もない。そうなってくると、彼女がこの別荘に侵入する方法は三つしか思いつきません」
「み、三つもあるんですか」
瑞穂が驚いて尋ねると、榊原は指を立てながら答えた。
「一つは、疲労困憊する事を覚悟で街から別荘まで山道を徒歩で歩いてきた場合。一つは、タクシーなりを使ってここへやって来た場合。そしてもう一つは……誰かの自動車に乗せてもらってここまで来た場合だ」
その場の全員の顔に緊張が浮かぶ。それを知ってか知らずか、榊原は自身の「推理」を淡々と続けた。
「まず、台風が近づいてきているこの状況で徒歩の可能性は除外してもいいでしょう。次に、タクシーの可能性については駅周辺のタクシーを実際に調べる必要があるから今はひとまず置いておく事にします。問題は、仮に三つ目のケースだった場合、彼女がいつ誰の車に乗ってこの別荘に侵入したのか、という事です」
「確か、エミリー先生の話だと駐車場にある車は三台だけでしたよね」
瑞穂の言葉に榊原は頷く。
「持ち主は金島、迫水、佐伯の三人。単純に考えれば、被害者はこの三人の誰かの車に乗ってここまでやって来たことになる。綿野先生、少し聞いてもいいですか?」
「な、何ですか?」
急に尋ねられて英美里は肩を震わせる。
「遅刻したとはいえ、あなたも今回の集まりのスケジュール自体は聞いているはずです。今回の集まり、本来の予定はどのようなものだったのですか?」
「え、えーっと……」
英美里は慌てて送られてきていた携帯のメールを確認する。
「集合時刻は午前十時で、車で来られる人は直接この別荘に、電車で来る人は最寄りの志摩駅まで金島君が迎えに来てくれることになっていました。その後はずっと別荘で過ごして、明後日の昼過ぎに解散する予定だったんですけど……」
とはいえ、具体的な事に関しては英美里もよく知らなかった。だが、榊原が気にしたのはそこではなかった。
「つまり、二泊の予定だったという事ですね?」
「え、あ、はい」
「宿泊する、となればこの二階の部屋に泊まらせるつもりだったと考えるべきでしょう。一階にそれらしい部屋はありませんし。しかし、それにしては少し妙な事があります」
「妙って、何がですか?」
瑞穂が興味津々といった風に尋ねた言葉に、榊原はあっさり答えた。
「荷物だ。宿泊が前提なら、普通荷物は到着と同時に各々の部屋に置いてもらうのが筋だろう。だが実際は全員の荷物が一階のリビングルームにあった。そもそも、二階の部屋は問題の遺体発見現場以外使用された形跡すらなく、人の出入り自体なかった可能性が高い」
英美里は一階にあった荷物の存在を思い出す。言われてみれば、確かに変な話だった。
「一人二人ならまだしも、全員分となればこれはもうホスト役の人間がそもそも二階への案内をしなかったという事になるだろう。だが、宿泊を前提にした集まりにもかかわらずホストが到着直後に宿泊部屋への案内をしないというのは、ありえないとまでは言わないがやや異常だ。そこには必ず理由が存在するはず」
「一体どんな理由が?」
英美里の問いに、榊原はあっさり答えた。
「考えられる可能性としては……二階に客に見られたくないものがあったというような場合ですね。例えば、ホストが勝手に連れ込んだ招かれざる客といったような」
「それって……」
「ホスト役……つまりこの別荘の持ち主である金島頼経が一枚噛んでいた可能性が高いと私は考えます」
榊原は断言するように言った。英美里は動揺して思わず言葉を漏らす。
「か、金島君が何で……」
「それはわかりません。ですが、根本的な話として被害者がこの別荘に潜伏しようと思った場合、別荘の持ち主の協力なしでは難しいのも事実です。状況的に、集合時刻である十時以前に車で彼女を迎えに行き、現場となったあの部屋に隠れさせたと考えるのが現実的でしょう。そして、午後一時頃に金島はメンバー全員を船に乗せて出港した。その理由は、全員が別荘を離れている隙に、誰もいない別荘に残された被害者がメンバーの持ち物を調べるためだったとすれば納得がいきます」
榊原は英美里に対して淡々と自説を披露する。だが、それに対して定野が異を唱えた。
「しかし、なぜそんな事をする必要が? 被害者の目的は何ですか?」
「今の時点でそこまではわかりません。ですが、職業がルポライターである事から考えて、何かを調べていたと考えるのが妥当でしょう。実際、今回参加したメンバーを見てみると、取材しがいのある人間が多そうですしね」
確かに、IT会社の若手社長である金島も相当だが、それ以外にもプロテニスプレーヤーや歌手、文科省の役人や名門大学の助教授と付属大学病院の外科医、女性自衛官といった色々ネタになりそうな人間が何人もいるのである。それ以外の人間も表になっていない何かがあるのかもしれず、それだけの人間が多く集まるとなれば取材を試みるのも当然と言えるかもしれない。
「そうなると、調べるべきは被害者と金島の関係ですね。それと、船で出港したメンバーが今どこにいるのか。彼ら本人に話を聞かないとどうにもなりませんから。ただ……」
「えぇ、この状況で帰ってきていないとなれば、何かアクシデントがあったと考えるべきでしょう。台風の接近を受けてどこかの港に入っていればいいんだが……」
榊原の言葉に、しかし定野は黙って首を振った。
「彼らが船で出港している可能性が浮上した時点で、県警から三重県下の港に彼らと思しき人間を乗せた船が入港していないかの確認要請は出してあります。ですが、今のところどの港からもそれらしい船が入港したという情報は入っていません。念のため、愛知県警にも照会をしているところですが……」
「出港したのは一時。荷物は別荘に置きっぱなしだったし、台風も接近していた。何より、夜になったら綿野さんが来る事は知っていたはずです。それらの事を考慮すれば、そう遠くまで行けるはずがない。せいぜい伊勢湾か熊野灘沿岸にある港と別荘を往復するのが関の山のはずです。にもかかわらずどこにもいないとなれば……」
「途中で遭難した、という事ですか?」
定野の言葉に、その場の空気が重くなる。
「少なくとも、自力で港に入港できないような事態に陥ったのは間違いなさそうですね。この台風では、今海の上にいたら命の保証はできません」
「そんな……」
口に手を当てて絶句する英美里だったが、彼女が何かを言う前に榊原はさらにこう付け加えた。
「もっとも、台風が突っ込んでくる前にどこかの島にでも避難していれば話は別です。この辺の海には島も多いと聞いているから、そのうちの一つにでも退避している可能性も捨てきれません。確率は五分五分ですが」
だが、それでも定野の表情は晴れなかった。
「だったとしても、どこの島に退避したのかがわかりません。三重県下にある有人島の港に避難していれば報告があるはずですから、それがないという事は避難していたとしても無人島です。それに、百歩譲ってどの島なのかわかっても、この状況ではすぐに救助に行く事は不可能です」
何しろすでに夜になろうとしている上に、台風の直撃コースで海も大荒れなのである。この状況で海に出るなど、はっきり言って自殺行為以外の何物でもない。
「歯がゆい話だが、台風が通り過ぎるのを待つしかないようだ。それまで、何事もなければいいんだが……」
榊原がそう言って窓の外を見やると、暗闇の中、強烈な暴風雨が窓に打ち付ける音が聞こえてきたのだった……。